猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

波除け地蔵祭り(佐渡真野新町太日堂)文弥人形 盛久

2014年07月28日 13時22分32秒 | 調査・研究・紀行

「主馬判官盛久」という浄瑠璃を、私は知りませんでした。調べてみると、近松34歳、貞享三年(1686年)の作品でした。この人形芝居を、真野の地蔵祭りで、真明座が演ずるというので、勉強に行ってきました。因みに、この波除けとは、津波封じのことだそうです。

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主馬判官盛久 あらすじ

第一

一の谷の合戦で敗走し、海上に逃れた平家の船団を追いかけて来たのは、平家譜代の侍大将、主馬の判官盛久でした。盛久は、主君である薩摩の守忠度卿が、岡部六弥太忠澄に討たれた今、妻の床夜の前と最期の名残を惜しむ為に、戻って来たのでした。それと言うのも盛久は、小松殿(平重盛)から女房をいただいておきながら、とうとう現世においては、迎えることができなかったからでした。しかし無念にも、床夜の前は、どの御座船には乗っていませんでした。

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(先陣を離れた盛久と、船上の能登の守)

盛久は、最早、討ち死に以外に道は無いと、須磨へ取って返しましたが、流れ矢に当たって馬が倒れ、盛久も岩角に胸を打ち付け悶絶してしまうのでした。そこに現れたのは、漁師の娘、曙でした。曙の看病により、意識を取り戻した盛久でしたが、今度は、曙から言い寄られて辟易とします。命の恩があるので、とうとう盛久は、夫婦の約束をさせられてしまうのでした。

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(盛久を介抱する曙)           (宗重と戦う、妻の床夜の前)

敵が迫って来たので、盛久は、傷ついた馬の介抱を曙に頼むと、再会の約束をして別れました。ところが、敵と戦っていたのは、鎧姿の妻、床夜の前でした。源氏方の小山の太郎武者宗重は、床夜の前を組み伏せると、にやにやしながら、「盛久は死んだから、俺の女房になれ」と迫ります。

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(床夜の前に言い寄る宗重)        (再会を果たす盛久と床夜の前)

危うい所を盛久が蹴散らし、晴れて夫婦の対面が叶うのでした。二人は、平家一門と合流して一緒に死にましょうということになりますが、盛久は、先ほどの曙との約束を思い出ます。一瞬、逡巡しましたが、最早どうすることもできません。時は元暦二年三月二十四日、壇ノ浦での総攻撃が始まっていました。二人は、御座船を目指しましたが、とうとう堀の弥太郎近経に取り押さえられてしまいます。弥太郎は、床夜の前が、女であることを知ると、逃がしましたが、それを見ていた先程の宗重は、「敵を助けるとは二心あり」と叫んで、頼朝への告げ口に走るのでした。

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(弥太郎は床夜の前を逃がします)      (宗重が弥太郎を見咎めます)


一方、盛久は、妻を助けた弥太郎に恩を感じて、首を差出します。高名を焦っていた弥太郎でしたが、後日、宗重の讒言を覆すための証人となるように頼み、盛久を生け捕りにするのでした。

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(首を差し出す盛久と、生け捕りを乞う弥太郎)  (以上真明座)
 

第二 

堀の弥太郎に生け捕られた盛久は、土屋の三郎に預けられ、鎌倉まで護送される手筈ですが、弥太郎は、盛久を丁重に扱う様に命じたのでした。その為、盛久が乗る馬を手配することになりました。ところが貸し馬を曳いて来たのは曙です。曙は、盛久は自分の夫だから会わせて欲しいと懇願しますが、許されません。今度は、床夜の前がやってきて、自分は盛久の妻なので会わせてくれと涙をながすので、門番は呆れて、門をピシャリと閉じてしまいます。床屋の前が、曙を問い正して、女の戦い一触即発です。曙が、「私は盛久殿を助けたのに、あんたは、弥太郎に生け捕らせたではないか、それで夫婦と言えるか。口惜しかったら、早く弥太郎を討ち取れ」と食い付きます。互いに、今夜にでも弥太郎を討ってみせると、喧嘩別れになるのでした。その日の夕刻、床夜の前が忍び込もうとうろうろしていると、逆に弥太郎にみつかってしまいます。弥太郎は、床夜の前が盛久の妻であることは知っていましたので、陣屋に呼び入れ、是までの経緯を話すのでした。盛久が、恩情を受けている事を知った床夜の前は、弥太郎を討つことができなくなりました。しかし、やがて曙が、弥太郎を討つためにやってくるでしょう。どうしたものかと、思い悩んだ末に、床夜の前は、書き置きをすると、黒髪をふっつと切り落として、弥太郎の直垂を被って、床に着いたのでした。明け方に、弥太郎を討つために、曙が忍び込んで来ました。しかし、曙が掻き落した首は、床夜の前の首だったのです。陣屋は大騒ぎになりますが、一通の書き置きに皆、涙するのでした。『討てば情けの恩を知らず、討たでは人の義理立たず、恩にも恋は替えられず、恋にも恩は捨てられず、二つの道が心の責め、露の命を捨て筆に、言い残し置く、我が心』
 

第三 

鎌倉に戻った小山の太郎武者宗重は、堀弥太郎が、盛久を優遇して、謀反を企てていると讒言をします。頼朝は盛久を問い詰めますが、盛久は源氏のことなど知らないと取り合いません。頼朝は、宗重に弥太郎の捕縛を命じ、盛久を川越重房に預けるのでした。 

 一方、曙は、罪も無い床夜の前を殺してしまったことを後悔して、出家をするために京都大原の辺りをさまよっていました。とある庵に辿り着きますが、そこは、盛久の主であった忠度卿の妻、菊の前と、無官の太夫敦盛の妻(法正覚)が尼となって隠れ住んでいる庵でした。曙の話しに涙している所に、今度は法師となった熊谷直実(蓮生坊)が闖入して来ます。蓮生坊は敦盛を殺した後悔の念に苛まれますが、逆に、法正覚に励まされるのでした。やがて蓮生坊は寝入ってしまいますが、女三人は、いつまでも身の上話しが尽きませんでした。 

 そこへやってきたのは、弥太郎の行方を捜す宗重です。曙が居ることを知ると、宗重は、無理矢理に曙を奪い取りました。騒ぎに目覚めた蓮生坊が、飛んで出ますが、宗重はさっさと逃げてしまいます。曙を奪い取られた蓮生坊は、地団駄を踏んで悔しがるのでした。
 

第四 

その頃、弥太郎は清水寺に隠れて、世情を窺っておりました。夜半に念仏していると、大男が現れました。それは、蓮生坊でした。蓮生坊は、弥太郎と知ると、曙を宗重に奪われた事等を悔しさ紛れにぶちまけるのでした。弥太郎は、宗重にはめられた悔しさと、自らの不甲斐なさを嘆きつつも、涙に暮れる外はありませんでした。そこで、蓮生坊は、大原の二人の比丘尼と鎌倉に行き、頼朝公を説得しようと決意するのでした。 

蓮生坊は二人の比丘尼を先行させて、鎌倉を目指しました。しかし、関の厳しい東海道は下らずに、長野経由で、群馬県の安中、板鼻の宿までやってきたのでした。ところが、ここに臨時の関が設けられて、厳しい詮議がされているようです。役人は、弥太郎詮議のため通行は出来ないと言います。二人が、熊野比丘尼を何故通さないのかと粘りますと、本当の熊野比丘尼なら、六道の絵図を見せて見ろと、突っ込むのでした。しめたと二人は、幸い持っていた九品十戒の絵を出して、関の柱に掛けると、滔々と説法を始めるのでした。お前達の様に往来を妨げる関守は、地獄行きだと言われて、役人達は慌てて喜捨すると、震えながら二人を通すのでした。ところが、菊の前を見知った者がいたので、せっかくの大芝居も無駄になって、二人は取り押さえられてしまうのでした。絶体絶命の所に、ようやく蓮生坊が現れます。蓮生坊の一暴れで、二人を救い出しただけで無く、若侍に二人の尼を背負わせて、さらに鎌倉を目指すのでした。
 

第五 

ここは、鎌倉桐が谷(きりがやつ)にある川越重房の座敷牢。盛久は、法華経を読誦する毎日です。友といえば、寝起きを共にする鸚鵡(おうむ)だけですが、この鸚鵡は、毎日のお経を口真似し、とうとう、盛久と一緒に読誦するようになったのでした。盛久処刑の命令が出され、川越重房が知らせに来た時の事です、なんと鸚鵡が重房に飛び掛かって、左の頬を傷つけたのでした。重房が、鸚鵡を捻り殺そうとする所を盛久は、黄金の守り本尊(清水の観音様)と引き替えに、鸚鵡の命を助けるのでした。 

さて頼朝公が諸大名を引き連れて、鶴岡八幡宮に参拝されますと、神木の銀杏に怪しい鳥が留まって、こう鳴きました。「ねんぴかんのんりき、とうじんだんだえ」(念彼観音力刀尋段段壊)頼朝を初め、皆々不思議に思っていると、宗重がしゃしゃり出ます。この鳥を射落としたと思いきや、鳥は黄金の千手観音となって光を放ち、矢を放った宗重は悶絶し、痙攣してしまうのでした。するとそこへ、川越の重房が盛久を連れて駆け込んできました。重房は、「首を討とうとしましたが、盛久の体が光り輝き、これこのように、太刀が段々に折れ、処刑できません。」と言上するのでした。頼朝は、はったと手を打ち、「信あれば徳あり。仏が助けた者を、頼朝が討つわけには行かぬ。」と、盛久を助命するのでした。しかし、盛久は源氏の恩は受け無いと、助命をはねつけます。そこへ、ようやく蓮生坊、法正覚、菊の前が到着しました。蓮生は、堀、土屋に科は無く、すべては宗重の讒言であると告発します。更に、宗重に捕らえられていた曙も逃れ来て、宗清の悪行を暴露するのでした。頼朝公はお怒りになり、その場で宗重を縛り上げると、蓮生に引き渡しました。頼朝公は「神の前で、佞人は暴かれたな。この御本尊様は、頼朝が預かる。」と感じ入り、盛久に源氏の姓と領地をお与えになったのでした。
 

おわり

 


猿八座 8月公演 御案内

2014年07月16日 13時15分00秒 | お知らせ

 

関東地方は、毎日、真夏日が続いてます。梅雨が明けてしまったかと思うくらいです。皆さんも、熱中症に十分ご注意下さい。さて、8月は、二公演を勤めさせていただきます。

①8月3日(日) 村上公演 山椒太夫三段組み

既にご案内いたしました。以下のページをご覧下さい。

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20140527 

②8月30日(土) 愛知県豊田市 琉球Cafeてぃーだかんかん公演(第2回)


詳細はこちらをご覧下さい。
 

http://blogs.yahoo.co.jp/cafe_teida/folder/1197352.html

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「源氏烏帽子折 」は、近松門左衛門の比較的初期の作品です。(元禄三年:1690年)文弥節は、「烏帽子折」に始まり「烏帽子折」に終わると、言っても良いかと思われます。つまり、この外題には、文弥節の基本的な節回しが、ほとんど含まれているのです。そこで、文弥節習得の為、この「源氏烏帽子折」では、残されている音源をなるべく忠実に採譜することにしました。残されている音源は、段毎に太夫が、北村宗演、中川閑楽、池田宗玄、梶原宗楽、各氏という様に、様々ですので、三味線の手も、節回しも、それぞれですが、基本の手は、北村宗演に合わせたつもりです。というわけで、今回の「源氏烏帽子折」は、猿八節ではなく、文弥節として演奏します。但し、以前にも触れたことがあるのですが、調子は二上がりのままです。
今回は、初段の「竹馬の場」と二段目「伏見の里の場」を上演しますが、これから外の段も手がけ、通し狂言ができるようにしたいと考えています。


「むじな」とあるのは、小泉八雲の「貉」MUJINAのことです。今後、子供達の為の人形ワークショップに使える短編の外題が必要になるだろうということで、新たに作詞節付けしたのもです。原文通りでは、節に乗らないので、章句としては、かなりアレンジしました。また節としても、いろいろな節をまぜこぜにしてますので、これこそ猿八節と言うべきものでしょう。10分程度の短編です。

さて、二つの外題とも、猿八座としては、初演となりますので、宜しくご堪能下さい。

尚、「源氏烏帽子折」は、9月15日に新発田の稽古場で、公開稽古に掛ける予定もありますので、新潟の方は、そちらもお楽しみに。

 

 

 


柏崎古浄瑠璃を楽しむ会 信太妻

2014年07月08日 18時38分32秒 | 公演記録

七夕の前夜、蒸し暑い曇天でしたが、柏崎市長崎の伽羅陀山金泉寺(からださんこんせんじ)には、150名もの皆様にご来場いただき、猿八座の人形を楽しんでいただきました。会場をお貸しいただいたご住職の小林様、主催を戴いた古浄瑠璃を楽しむ会の皆々様、大変ありがとうございました。観劇していただいお子さんが、「もう、あの子(童子丸)はお母さんと会えないの。」と、悲しんでいたという話しを伺いました。1時間を超える一幕ですが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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ご住職挨拶(金泉寺の特設舞台)

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狐の正体を見られた葛の葉は、「恋しくば、尋ね来てみよ 和泉なる 信太の森の 恨み葛の葉」の一首を残して、信太の森へ帰ります。森では、恐ろしい狩人が、狐罠を掛けて、待ち受けていましたが、逆に狩人を罠に陥れます。

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狐は保名と童子に最後の別れをするために再び姿を見せるのでした。母に泣きすがる童子を引き離して、保名は山を下りました。余りの悲しさに、母は狐に戻り、そこら中を飛び跳ねるのでした。右の写真は、引き抜きをして躍り狂う狐葛の葉。

毎度、感じることですが、お寺は人形浄瑠璃をやるのには、もってこいの雰囲気があります。また、来年も是非お呼び下さい。

関連記事:柏崎日報  http://www.kisnet.or.jp/nippo/nippo-2014-07-08-2.html