ごすいでん⑥
祇園精舎に立ち帰った智賢上人と弟子達は、王子をいたわり、養育されましたが、王子の成長は、誠に宵に生えた「たかんな」(竹の子)のように、夜中の露に育まれて一晩で一尺も伸るようなものでした。学問をすれば、一を聞いて十を知り、経論の奥義を極め、一年に三千の観法を身に付け、八万諸小経(阿弥陀経)を皆読み尽くし
たちまち並み居る弟子を追い抜かし、生知安行(せいちあんこう)の碩学と誉め讃えられました。
ところが、ある夜の夢に、母ごすいでんが現れて、昔から今に至る全てをお話になってからというもの、母の姿が脳裏から消えず、食事もせずに寝込んでしまいました。心配した上人が、尋ねると、王子は、
「はい、母上を夢に見てより、お懐かしさが忘れられません。我が母とはどのような方だったのですか。」
と、泣きつきました。上人も涙ながらに、母ごすいでんと山中で生き延びた王子の顛末を事細かに語りますと、
「上人様のお話と夢のお告げは、まったく同じです。それに、夢で母上は、御首を入れた器物が御殿の下に埋められているので、供養してくれと言っていました。一刻も早く、大王に見参して、この事を奏聞して、母上の御髪(おぐし)を救い出したいと思います。」
と、跳ね起きるところを、上人がまあまあとなだめていると、ちょうどその時、御門よりの勅使がやってきました。
「さても、当年はごすいでんの十三年に当たるので、その法要のため、寺を建て堂塔を建立するに当たり、結縁(けちえん)のため、供養の導師は智賢上人なるべしとの勅諚なり、急ぎ参内仕れ。」
という大王の命令でした。これは、渡りに舟と、早速に用意をすると、王子を連れてごすいでん指して出発しました。王子が喜び、元気を取り戻したのは言うまでもありません。
ごすいでんに到着すると、既に大王も御幸あって、多くの公卿、殿上人、が弔問に参列していました。さて、智賢上人が高座に上がると、開闢の鉦がなり、いよいよ説法が始まりました。
「それ、つらつらとおもんみるに
仏一代の説法は、
華厳、阿言、方等、般若、法華、涅槃
まず、華厳経は、十万浄土の相を顕し、三界唯一の神を説き
阿言は、小乗の法、故に三蔵の実りを説き
終わり八年に、法華経を説法し、取り分け、女人成仏は
五の巻、提婆達多品(だいばだったぼん)に至極せり
女は、
一に梵天王の位に至ること叶わず
二には帝釈天
三には魔王
四には天輪聖王(てんりんじょうおう)
五には仏身を得ることあたわず
しかれども、
法華経の一句一偈なりとも読誦すれば
即身成仏疑いなし
さてまた、阿弥陀経三十五の巻きに曰く
十方仏土の中に女あり
我が名号を聴聞し
阿弥陀仏と唱えるならば
必ず女子を男子に転じて
九山蓮華の上に座せしめ
仏の大恵に入りしめん
されば、阿弥陀の三文字を
阿難は、釈して曰く
「阿」は則ち「空」なり
「弥」は則ち「假」なり
「陀」は則ち「中」なり
諸々の法門は、皆ことごとく
阿弥陀の三字に接するなり」
と、高らかにご回向なされると、有り難い説法に、大王はじめ、臣下大臣、一度に随喜して感激の涙を流しました。小久見の中将が、上人の労をねぎらい、布施の望みを尋ねますと、智賢上人は、
「それがしは出家の身なれば、何の望みもありませんが、ここに控えます稚児に望みがありますので、聞き届けていただければ幸いです。」
と答えました。大王より、なんでもかなえるとの宣旨がありましたので、王子は、いきなり、
「ごすいでんの御髪を、一目拝み申したく候」
と答えました。農美の大臣は、困って
「いや、これは叶わぬ望み、ごすいでんは、十三年以前より、行方知れず。外の事を望まれよ。」
と、言いましたが、王子は引き下がらずに、
「いえ、ごすいでんの一生涯、とりわけ御髪のありかについては、それがしがよっく存じてあり、一目見せて給われや」
と声を荒げました。大臣が困っていると、智賢上人が進み出て、これまでのすべてのことを語り出しました。
「申し上げます。この稚児こそ、大王の御太子でございます。さて、ごすいでん様がご懐妊された時、九百九十九人の后達は、深く妬み、密かに兵に命令して、稚児山の麓に連れ出して、首をはねました。しかし、お亡くなりになる前に、不思議にも王子をお産みになりました。捨て置かれた太子は、神仏のご加護にて、虎狼野干に守られて七歳まで育てられましたが、ある日、仏の霊夢があり、太子の事を知りました。そこで、かの山に分け入り、太子を捜し出し、これまで祇園精舎において養育して参りましたが、この度、太子の夢に、ごすいでん様が現れて、お首がこの御殿の下に埋められているので、供養するようにとのお告げがありました。」
大王は、これを聞くより、思わず御簾を飛び出し、太子に抱きつくと、これはこれはと涙を流し、居並ぶ殿上人達も、はっと頭を垂れました。真実を知った大王の嘆きと無念はひとしおでしたが、ようやく我に返ると、太子を抱いて御簾に戻り、
「ごすいでんの御髪を尋ねよ。」
とご宣旨がありました。
御殿の下を掘り返してみると、お告げの通り器物がみつかり、やがて御前に差し上げられました。太子が、蓋を取りますと、その首は、まるでまだ生きているように色も変わらず、やや恨めしげなごすいでんの顔でした。
「母上様あ」
と、太子は御髪を抱きしめて、
「后達の讒言(ざんげん)で、罪も無き母上がこのようになったのも、すべて恨めしいのは、大王様」
と、声を上げて泣き叫びました。大王も、ごすいでんの御髪に向かって、無念の涙の流し、
「さぞや、最期のその時は、麻呂を恨んだことであろうが、夢にも知らないことであった。許せよ、ごすいでん。ここに、太子が戻ったことが、せめて嘆きの中の喜びぞ。」
と、親子三人涙のご対面をされましたが、やがて、大王は、九百九十九人の后達を、御前に引き据えると、憤りをあらわにして、
「恨めしき后どもめ、ごすいでんの供養に、ひとりひとり首を切れ。」
とありましたが、さすが生知安行の太子です。大王を押しとどめて、
「九百九十九人の首を落としても、母上は蘇りません。今日の母の供養であれば、九百九十九人の命を助けるのが仏法。」
と、助命を嘆願しました。
さて、その後、マガタ国王の位は、太子に譲られ、大王は、法王となられました
が、このような、悲しい思い出が残る浅ましい国にいつまでいても、また、同じようなことが起こるかもしれない。どこか、めでたい国を探して、衆生済度のためにこの身を献げようと発心されました。
法王は、飛車(ひしゃ)という千里を駆ける車を造らせると、大王太子、ごすいでんの首、智賢上人、近習を乗せて、東を指して飛び立ちました。命を許された九百九十九人の后達も、その後を追いましたが、梵天・帝釈天が現れて立ちはだかり、大岩を投げつけたので、木っ端微塵になってしまいました。しかし、その時紫雲がたなびき、その微塵は蟻という虫になったということです。
さて、法王の飛車は、やがて日本にまでやって来て、紀伊の国は音無川の上流に着きました。この土地が良いと考え、法王はゆや権現(熊野権現)となり、ごすいでんは結ぶの宮(熊野速玉大社)、大王太子は若一王子、智賢上人は証誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)、一万の大臣、十万の殿上人はそれぞれ末社となり、衆生済度を行いました。これこそ、熊野権現の由来なりと、貴賤上下を問わず、感ぜぬ者はありません。
おわり
うろこ形や孫兵衛新版(寛永年間)より