猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 2 説経熊野之御本地 ごすいでん⑥終

2011年10月30日 11時58分21秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ごすいでん⑥

 祇園精舎に立ち帰った智賢上人と弟子達は、王子をいたわり、養育されましたが、王子の成長は、誠に宵に生えた「たかんな」(竹の子)のように、夜中の露に育まれて一晩で一尺も伸るようなものでした。学問をすれば、一を聞いて十を知り、経論の奥義を極め、一年に三千の観法を身に付け、八万諸小経(阿弥陀経)を皆読み尽くし

たちまち並み居る弟子を追い抜かし、生知安行(せいちあんこう)の碩学と誉め讃えられました。

 ところが、ある夜の夢に、母ごすいでんが現れて、昔から今に至る全てをお話になってからというもの、母の姿が脳裏から消えず、食事もせずに寝込んでしまいました。心配した上人が、尋ねると、王子は、

「はい、母上を夢に見てより、お懐かしさが忘れられません。我が母とはどのような方だったのですか。」

と、泣きつきました。上人も涙ながらに、母ごすいでんと山中で生き延びた王子の顛末を事細かに語りますと、

「上人様のお話と夢のお告げは、まったく同じです。それに、夢で母上は、御首を入れた器物が御殿の下に埋められているので、供養してくれと言っていました。一刻も早く、大王に見参して、この事を奏聞して、母上の御髪(おぐし)を救い出したいと思います。」

と、跳ね起きるところを、上人がまあまあとなだめていると、ちょうどその時、御門よりの勅使がやってきました。

「さても、当年はごすいでんの十三年に当たるので、その法要のため、寺を建て堂塔を建立するに当たり、結縁(けちえん)のため、供養の導師は智賢上人なるべしとの勅諚なり、急ぎ参内仕れ。」

という大王の命令でした。これは、渡りに舟と、早速に用意をすると、王子を連れてごすいでん指して出発しました。王子が喜び、元気を取り戻したのは言うまでもありません。

 ごすいでんに到着すると、既に大王も御幸あって、多くの公卿、殿上人、が弔問に参列していました。さて、智賢上人が高座に上がると、開闢の鉦がなり、いよいよ説法が始まりました。

 「それ、つらつらとおもんみるに

  仏一代の説法は、

  華厳、阿言、方等、般若、法華、涅槃

  まず、華厳経は、十万浄土の相を顕し、三界唯一の神を説き

  阿言は、小乗の法、故に三蔵の実りを説き

  終わり八年に、法華経を説法し、取り分け、女人成仏は

  五の巻、提婆達多品(だいばだったぼん)に至極せり

  女は、

  一に梵天王の位に至ること叶わず

  二には帝釈天

  三には魔王

  四には天輪聖王(てんりんじょうおう)

  五には仏身を得ることあたわず

  しかれども、

  法華経の一句一偈なりとも読誦すれば 

  即身成仏疑いなし

  さてまた、阿弥陀経三十五の巻きに曰く

  十方仏土の中に女あり

  我が名号を聴聞し

  阿弥陀仏と唱えるならば

  必ず女子を男子に転じて

  九山蓮華の上に座せしめ

  仏の大恵に入りしめん

  されば、阿弥陀の三文字を

  阿難は、釈して曰く

  「阿」は則ち「空」なり

  「弥」は則ち「假」なり

  「陀」は則ち「中」なり

  諸々の法門は、皆ことごとく

  阿弥陀の三字に接するなり」

 と、高らかにご回向なされると、有り難い説法に、大王はじめ、臣下大臣、一度に随喜して感激の涙を流しました。小久見の中将が、上人の労をねぎらい、布施の望みを尋ねますと、智賢上人は、

「それがしは出家の身なれば、何の望みもありませんが、ここに控えます稚児に望みがありますので、聞き届けていただければ幸いです。」

と答えました。大王より、なんでもかなえるとの宣旨がありましたので、王子は、いきなり、

「ごすいでんの御髪を、一目拝み申したく候」

と答えました。農美の大臣は、困って

「いや、これは叶わぬ望み、ごすいでんは、十三年以前より、行方知れず。外の事を望まれよ。」

と、言いましたが、王子は引き下がらずに、

「いえ、ごすいでんの一生涯、とりわけ御髪のありかについては、それがしがよっく存じてあり、一目見せて給われや」

と声を荒げました。大臣が困っていると、智賢上人が進み出て、これまでのすべてのことを語り出しました。

 「申し上げます。この稚児こそ、大王の御太子でございます。さて、ごすいでん様がご懐妊された時、九百九十九人の后達は、深く妬み、密かに兵に命令して、稚児山の麓に連れ出して、首をはねました。しかし、お亡くなりになる前に、不思議にも王子をお産みになりました。捨て置かれた太子は、神仏のご加護にて、虎狼野干に守られて七歳まで育てられましたが、ある日、仏の霊夢があり、太子の事を知りました。そこで、かの山に分け入り、太子を捜し出し、これまで祇園精舎において養育して参りましたが、この度、太子の夢に、ごすいでん様が現れて、お首がこの御殿の下に埋められているので、供養するようにとのお告げがありました。」

 大王は、これを聞くより、思わず御簾を飛び出し、太子に抱きつくと、これはこれはと涙を流し、居並ぶ殿上人達も、はっと頭を垂れました。真実を知った大王の嘆きと無念はひとしおでしたが、ようやく我に返ると、太子を抱いて御簾に戻り、

「ごすいでんの御髪を尋ねよ。」

とご宣旨がありました。

 御殿の下を掘り返してみると、お告げの通り器物がみつかり、やがて御前に差し上げられました。太子が、蓋を取りますと、その首は、まるでまだ生きているように色も変わらず、やや恨めしげなごすいでんの顔でした。

「母上様あ」

と、太子は御髪を抱きしめて、

「后達の讒言(ざんげん)で、罪も無き母上がこのようになったのも、すべて恨めしいのは、大王様」

と、声を上げて泣き叫びました。大王も、ごすいでんの御髪に向かって、無念の涙の流し、

「さぞや、最期のその時は、麻呂を恨んだことであろうが、夢にも知らないことであった。許せよ、ごすいでん。ここに、太子が戻ったことが、せめて嘆きの中の喜びぞ。」

と、親子三人涙のご対面をされましたが、やがて、大王は、九百九十九人の后達を、御前に引き据えると、憤りをあらわにして、

「恨めしき后どもめ、ごすいでんの供養に、ひとりひとり首を切れ。」

とありましたが、さすが生知安行の太子です。大王を押しとどめて、

「九百九十九人の首を落としても、母上は蘇りません。今日の母の供養であれば、九百九十九人の命を助けるのが仏法。」

と、助命を嘆願しました。

 さて、その後、マガタ国王の位は、太子に譲られ、大王は、法王となられました

が、このような、悲しい思い出が残る浅ましい国にいつまでいても、また、同じようなことが起こるかもしれない。どこか、めでたい国を探して、衆生済度のためにこの身を献げようと発心されました。

 法王は、飛車(ひしゃ)という千里を駆ける車を造らせると、大王太子、ごすいでんの首、智賢上人、近習を乗せて、東を指して飛び立ちました。命を許された九百九十九人の后達も、その後を追いましたが、梵天・帝釈天が現れて立ちはだかり、大岩を投げつけたので、木っ端微塵になってしまいました。しかし、その時紫雲がたなびき、その微塵は蟻という虫になったということです。

 さて、法王の飛車は、やがて日本にまでやって来て、紀伊の国は音無川の上流に着きました。この土地が良いと考え、法王はゆや権現(熊野権現)となり、ごすいでんは結ぶの宮(熊野速玉大社)、大王太子は若一王子、智賢上人は証誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)、一万の大臣、十万の殿上人はそれぞれ末社となり、衆生済度を行いました。これこそ、熊野権現の由来なりと、貴賤上下を問わず、感ぜぬ者はありません。

おわり

うろこ形や孫兵衛新版(寛永年間)より


忘れ去られた物語たち 2 説経熊野之御本地 ごすいでん ⑤

2011年10月30日 11時56分32秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ごすいでん その5

 ごすいでんの首が、内裏に届けられると、九百九十九人の后達は、我も我もと首実検をし、ようやく、精々したと喜び合って大騒ぎです。蓮華夫人は、武士達に恩賞を授けると、

「この首を、ごすいでんの下に埋めてしまいなさい。」

と命じました。

 さて、生まれたばかりの王子は、哀れにも、人も通わぬ山中に捨て置かれたままでしたが、観世音菩薩のご加護が現れ、ごすいでんの死骸は、少しも腐りませんでした。それどころか、乳房より、溢れんばかりに乳が出たので、王子は、死骸に抱きつき、その乳を吸いながら、生き延びていました。さらに、山中の虎狼狐狸たちは、王子を餌食にするかと思いきや、反対にかしずき、王子を守り、木の実を運び、水を汲み、明け暮れ世話をしたので、虎の岩屋ですくすくと成長し、早や、七年の時が過ぎました。

 その頃、シャエ国の祇園精舎の聖、智賢上人(ちけんしょうにん)は、ある夜、不思議な夢を見た話を弟子達にしました。

「今宵、不思議の夢を見る。これより南の稚児山のあたりを歩いていると、幼い子供が狐たちの中に交じって、けらけらと楽しそうに遊んでおった。すると一人の老人が現れ、子細を問うと、こう言った。

『これこそ、中天竺、マガタ国の主、千ざい王の太子なり。ごすいでんと申す后の孕み給うを、九百九十九人の后達が深く妬み、この山で害したが、臨終以前に、この太子を産み置き、今は、虎狼野干に育てられ、既に七年が経った。御僧、ごすいでんの菩提を弔え。我はこの山の主なり』

と言い捨て、そのまま虚空に飛び去った。」

 智賢上人と弟子達は、急いで稚児山を目指すことになりました。麓にやってきますと、あちらこちらを探し回り、ようやく虎狼野干と戯れる子供を見つけ出しました。しかし、王子は、これまで、人というものを見たことがないので、人の一群を恐れて逃げ回り、なかなか近づけませんでしたが、智賢上人が前に出て、

「けっして怪しい者ではない、仏のお告げにより、遙々お迎えに上がった者。野干どもも恐れることはないぞよ。」

と言うと、不思議にも王子は、これまで人間の言葉を聞いたこともないはずなのに、上人の言葉を聞き留めて、やがて、野干とともにしずしずと、上人の前に来て座りました。

上人は、これは、ただびとではないと思いながら、王子を抱き上げると

「これは、さてさて、王子様、浅ましい有様じゃ。例えば、鳥の翼が落ち、魚が水を離れ、舟が波間に漂うように年月を送り、七歳まで成長なされるとは、不思議ながらもいたわしい限り。」

と、涙を流しておりましたが、やがて、弟子達に王子を抱かせると立ち上がり、回りに集まった山中の虎狼狐狸に向かって、

「いかに、なんじら、畜生とはいえ、太子を養育いたせし志、あっぱれ。今よりは、この聖が預かり、育てるので安心いたせよ。」

というと、一向は出発しましたが、野干たちは、尾を振り振り、いつまでも付いて来て、王子との別れを惜しみました。上人はこれを見て、

「やれ、なんじらが、志の切なるは良く分かったが、王子がこれより、世に立つことを喜びとして、最早、帰れ。」

というと、野干たちは、地にひれ伏して、畜生ながらも涙を流し、振り返り振り返りして、やがて山へと帰っていきました。稚児山の虎狼狐狸野干の優しさを誉めない者はありませんでした。

づづく


忘れ去られた物語たち 2 説経熊野之御本地 ごすいでん ④

2011年10月30日 11時50分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ごすいでん その4

 稚児山の麓に連れて来られたごすいでんは、静かに、敷き皮に座り直すと、肌の守りの観世音菩薩を取り出しました。岩の上に安置されると、懐から御経を取り出して、観音経を美しくも高らかに読誦されました。

 「私の身はこのようになりましたが、胎内に宿る王子が人と成るまで、守ってください。」

と、祈念して、ご本尊を守り袋に納めると、首に掛けて

「さあ、武士(もののふ)ども、早くやりなさい。」

と、合掌して目を閉じました。さすがの武士たちも、涙に暮れていましたが、時刻が移ればいよいよ仕方なく、剣を抜いて、ごすいでんの後ろに回り、

「今こそ最期、お念仏申されよ。」

と、えいとばかりに、剣を振り上げると、なんと不思議なことに、御剣は、バラバラと砕け散って、折れ落ちてしまいました。

 驚く武士はへたへたと腰を抜かし、かっと目を開いたごすいでんは、

「南無観世音、私の胎内には、十全(じゅうぜん)の君を宿らせているので、王子が誕生しない内は、賤しき武士の剣で、切ろうが、突こうが、その甲斐が無いのも当然のことです。おまえ達も私も、過去の業因はつたなく、善悪の区別はありますが、上下の差別無く、皆これ仏体であるのです。さあ、人間の出生する初めを、詳しく聞かせますから、よく聞きなさい。母の胎内に宿る初めの月は、不動菩薩、ひとつの幼いが力を重ねると書き、そのため、その形は独古(どっこ)のような形です。二ヶ月目は、如意宝珠(にょいほうじゅ)則ち釈迦如来であり、錫杖の形となります。三ヶ月目は文殊菩薩、三鈷(さんこ)の形となり、四ヶ月目は普賢菩薩、頭と左右の手足が出て来ます。五ヶ月目は地蔵菩薩、六根が全て備わり、六ヶ月目は弥勒菩薩、五輪五体が整い、七ヶ月目は薬師如来、母の胎内を浄瑠璃世界と言い、八ヶ月目は観世音菩薩、十五夜の月のごとく、平等に光りを照らし、九ヶ月目は勢至菩薩、人はこれを、丸が力に生まれると書き,十ヶ月目は阿弥陀如来。仏の慈悲とは、こういうものです。私の胎内は、今八月ですから、観世音菩薩の身体です。そしてまた、マガタ王の太子ですから、これほどの奇特が現れたのです。王子が誕生なさるまで、静かに待っていなさい。」

 兵達は、恐れ入って、ひれ伏しておりましたが、

「あら、有り難い霊験。この上は、一度、都へ戻り、大王様に奏聞いたしましょう。」

と、帰京を勧めました。しかし、ごすいでんは、

「いや、何の面目もなく、都へ帰ることはできません。この事を奏聞したら、残る九百九十九人の后達は、罪を問われて命を失うでしょう。私一人が生きて、九百九十九人の命を奪うことは望みません。私はもう、思い定めました。」

と、一命を献じて、九百九十九の命を助ける発心した途端に、おぎゃあとばかりに、赤子が飛び出しました。まったく驚く外ありません。

 武士達は、慌てて谷に下り、水を汲み、産湯を遣い、抱き上げてみると、千ざい王にそっくりな玉のようなる王子です。ごすいでんは、王子をうやうやしく抱き上げると

「はかなや、この太子を捨ておいて、死なねばならないとは、せめて生まれぬ前に死ぬならば、これほどに思いはつのらないだろうに。ほんとは、錦の布団に包まれるべきなのに、つたなき腹に宿ったばっかりに、どことも知らぬこんな山奥で生まれるとは、みなしごを伏せ置く山の麓の嵐や木枯らしも心して吹けよ。返す返すも、口惜しい。どうか、生き延びて、いつか大王に会い、私に供養をしてください。」

と、肌の守りを、涙ながらに太子の首にしっかりと掛けました。

「南無観世音菩薩、お願いです。王子の行く末を安穏に守ってください。」

と、ひっしと王子抱きしめ、万感の別れを済ませると、涙を払って敷き皮に座り直し、西を向き、

「最早、これまでなり、南無極楽教主の弥陀仏すぐに引摂(いんじょう)し給え、南無阿弥陀仏。」

高らかに十回唱え、左の手で、王子を抱いて乳房を含ませ、右の手で岩角をしっかりとつかみました。

 武士達は、いよいよと、意を決してごすいでんの後ろに回ると、ばっさりと、太刀を振り下ろしました。ごすいでんの首は、あへなく前に落ちました。武士達が、ふるえる手で、ごすいでんの首を器物に押し込めると、首の無い死骸から声がしました。

「みなしごの 住める深山の たつた姫 荒雲秋の 木の葉散らすな」

 驚いた武士達は、恐ろしくなって、王子もそのままに、ごすいでんの首を抱えて、一目散に都に逃げかえりました。

 ごすいでんの最期、哀れともなかなか、感ぜぬ者もありません。

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つづく


忘れ去られた物語たち 2 説経熊野之御本地 ごすいでん ③

2011年10月29日 22時36分59秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ごすいでん その3

 九百九十九人の后達は、自分たちの計略が成功し、大王が内裏にお戻りになられたので、やっと溜飲を下げ、九百九十九人の后達が集まって喜び合っておりますと、またまた蓮華夫人がしゃしゃり出て、

「まだ終わったわけではありません。王子が誕生して、悪の験(しるし)が無ければ、ごすいでんが第一の后になってしまうことには変わりはありません。大王様が、ごすいでんを去られている間に、兵を使ってごすいでんを山中に連れ去り、殺さなくては安心できませんぞ。」

 この恐ろしい企てに、異を唱える后も無く、そうだそうだと、密かに兵を集めると、蓮華夫人は、

「いかに、なんじら、ごすいでんの孕ませたるは悪王子であるので、ごすいでん諸共に殺してしまえという宣旨が下った。これより、稚児山の麓、鬼畜の谷、虎の岩屋に、ごすいでんを連れ行き、大王様から給わった、この剣で、殺害せよ。」

と、盗み出してきた秘蔵の御剣(ぎょけん)を手渡しました。驚いた兵達でしたが、宣旨とあれば、どうしようもなく、急ぎごすいでんに向いました。

 さて、ごすいでんでは、大王が去った後、またあのような鬼神がやって来たらかなわないと、上下三万人という召使い達も、我先にと逃げ去ったので、今では、野干が住み着くような有様となってしまします。一人取り残されたごすいでんは

「これは、なんという有様、こんな広い御殿に、我を一人捨て置くとは、局もない。」と涙ながらに、肌の守りの観世音を取り出すと、

「我が身のことはともかくも、胎内にある王子の誕生、行く末を守ってください。」と深く祈っておりました。

 かかるところに、兵達は、ごすいでんに乱れ入り、

「ごすいでん、悪王子孕みし故、成敗せよとの綸言なり、急ぎお出ましなされい。」

と、声高らかに呼ばわりました。ごすいでんはこれを聞いて、

「なんと情けない、わらわを成敗とは、情けない大王様。」

と、その落胆の程は、例えるものもありません。

「心無き武士(もののふ)も、ものの哀れを知りなさい。しかし、おまえ達を恨んでも仕方ない、恨んでも飽き足らないのは大王の心。今朝、東雲(しののめ)のしとねで、又の逢瀬を誓ったのに、偽りの約束になりました。因果の巡る小車の、先の世の報いと思えば、恨むべきことでもない。現在の果は、過去の因、また、未来も又同じ事。」

と、白装束に改めると、真紅の袴を着けられて、しずしずと一間を出られました。御年十九才、辺りも輝くばかりの美しさです。

 密かに連れ出されたごすいでんは、兵士達によって、稚児山の麓、鬼畜谷の虎の岩屋まで連れて来られました。昨日までの栄華を思うと、そのいたわしくも美しい姿は、涙無しに語ることはできません。

つづく


忘れ去られた物語たち 2 説経熊野之御本地 ごすいでん ②

2011年10月29日 13時16分29秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ごすいでん その2

 喜んだ九百九十九人の后達は、博士を担いで、大挙してごすいでんに押しかけます。驚いた大王に、蓮華夫人は、

「この度は、ごすいでん様のご懐妊、誠におめでとうございます。后九百九十九人、そろってお祝いに参りました。王子様の誕生を願って、隣国「ケイホウ国」より未来八十年の間を見通せる陰陽の博士を連れて参りましたので、この博士に、王子か姫宮かを占わせみてはいかがでしょうか。」

大王は、后達の恐ろしい計略とも知らずに、博士に占わせました。博士は、占方を開いて長い間考えていましたが、やがて、

「王子様であることは確実です。」

と、申しあげました。これを聞いて、大王を初め公卿、殿上人皆、喜びの笑みを浮かべて安心しましたが、后達は、作り笑いをしながらも、目は恐ろしいばかりに博士を睨みつけ、博士の次ぎの言葉を、じりじりとして待っていました。いよいよ、堪忍した博士は、蓮華夫人の命令通り、やや震え声で、

「さりながら、太子ではありますが、悪王子にてあられます。御手には、悪という字を握り、誕生より百年間、世の中は乱れ、三歳の御時、鬼神が来て人々の種を断ち、七歳の御時、大王の首を切り、母御、大臣、公卿を刺し殺し、十歳の御年には、唐の王に国を奪われ、その時、王子も滅びるという占いが出ております。」

と奏聞しました。后達は一斉に、わっとばかりに顔を伏せ、含み笑いを噛みしめました。一転して、座はしらけ、ざわめきましたが、さすがは大王です。

「目出度くも占ったり、天竺の中でもこのマガタ国の主になる身は、普通ではすまされまい。その上、未だ生まれぬ前に死んだり、生まれても育たぬうちに死ぬこともあるのに、七歳まで王子と共に生きられることは、誠に仏の果報である。」

と、喜び、博士に沢山の褒美を与えました。

 さて、博士は、ほっとしながらも、ほうほうの程で、ごすいでんを逃げ出しましたが、門を出た途端に、血を吐き、目玉が飛び出て、口が裂け、狂い死にしてしまいました。

大王はこれを見て、

「目出度き王子を、そしった天罰。堅牢地神(けんろうじしん)に蹴り殺されたのも当然。」

と、いよいよご機嫌よく、御簾内に帰られたので、九百九十九人の后達は、がっかりとうなだれて、内裏に戻りました。

Photo

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<imagedata o:title="天罰" src="file:///C:/DOCUME~1/渡部 ~1/LOCALS~1/Temp/msoclip1/01/clip_image001.jpg"></imagedata><wrap type="square"></wrap>

</shape> 内裏に戻った九百九十九人の后達の憤りは頂点に達し、一間に群衆した形相は凄まじく、髪を逆立てた有様は、最早、鬼という外はありませんが、その日の夜半、真っ赤な着物を着て、顔も真っ赤に塗り上げて、腰に太鼓を結びつけると、暗闇の中を、金輪の燭台に火を灯して、しずしずとごすいでんに押し寄せる有様の不気味さは、例えようもありません。やがて、鬼のような一群はごすいでんを取り囲み、御殿を崩すばかりに九百九十九の太鼓を打ち鳴らし、天地を響かせると、一陣の風が吹き、小雨も混じっておどろおどろしいばかりです。九百九十九人の后達の声もいつのまにかしわがれて、口々にわめきたてるには、

「ごすいでんの孕み(はらみ)たる悪王子、誕生ならば大王殺す

 四方山(よもやま)火炎となり神仏去る

 国は野干(やかん)の住み家とならん

 早や、早や、閑居いたされよ

 去らねば、禁裏の人々を

 三日の内に取り殺し

 大王の髻(たぶさ)つかんで虚空に昇らん

 王子誕生無き先に

 ごすいでん諸共に殺すべし

 さもないと、今生後生のたたりあり

 我こそ、堅牢地神なり」

 鬼神が現れたと、ごすいでんは大混乱となり、臣下達も、このような不思議なことがある以上は、早く内裏に戻った方が良いと進言したので、大王もつくづくとお考えになり、とうとう、仕方なく、

「さてさて、縁の無い王子の過去の因果はいかなるものか。名残惜しや。」

と、心ならぬ、ごすいでんとの別れを嘆き、最後の夜を過ごすと、暁の鐘とともに、大王は禁裏へと戻りました。

 引き別れさせられたごすいでんは、哀れにも、空しい床に一人残されて

「ああ、浅ましいことになった。最早、大王に逢うことも叶わない。恨めし浮き世やな。」と、絹のしとねに伏して、泣き崩れる有様は、言いようも無く、いたわしい限りです。

つづく


忘れ去られた物語たち 2 説経熊野之御本地 ごすいでん ①

2011年10月29日 00時51分49秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ごすいでん その1

 世界の中心である須弥山(しゅみせん)の南には、南閻浮提(なんえんぶだい)があり、その海岸に補陀落山(ふだらくせん)という観音の住む聖地がある。

 これを地理的に言うなら、ヒマラヤ山脈に南には、インド大陸があって、その南端には観音様が住むという補陀落山があるということになるだろうか。四百年前の説経師達は、この地理的な関係を、この物語の書き出しとして、日本においては、帝都より南に紀伊の国があり、その聖地熊野権現の由来を、インドの話に置き換えて語ろうとする。いったい、説経師達の意図はなんであったのだろうか?

 紀伊の国の熊野権現は、あまねく利生をほどこし、すべての人々の願いを聞き入れてくれるという、そのいにしえを尋ねれば、元々は中天竺(インドの中部)にあったマガタ国の大王でありました。

 現世での名前を、「千ざい王」といいました。玉を磨き、甍を並べた御殿に、一万の臣下、十万の殿上人が仕え、美しい都を統治されていました。さてまた、千ざい王は、千人の后を持ち、昼夜に御遊覧して、喜見城(楽園の例え)の楽しみとは、このことであると思われる程でした。

 しかし、大王は、楽園に暮らしながらも、世継ぎの王子が無いことが、唯一の嘆きでした。大王は、千人の后の中でも特に美しかった、末のお后「千王女」を特に寵愛しました。千王女は、容姿が美しいだけでなく、八歳の春より観世音菩薩に帰依して、三十三巻の普門品を毎日怠らずに読誦しました。その霊験が現れたのでしょうか、やがてご懐妊されたので、大王の寵愛はますます深くなりました。

 大王は、内裏から一里ばかり離れた千丈松原という山麓に、新たな御殿を建立すると、千王女を移し、「ごすいでん」と名付けました。大王は、ごすいでんに御幸されたまま、内裏に戻らなくなりました。

 内裏では、残り九百九十九人の后達が、集まって、嫉妬して憤り、

「大王様は私たちを疎んじて、すっかり顧みられない。まして、王子誕生ならば、我々が内裏の住まいは、有り甲斐もない。生まれる前に、ごすいでんを殺してしまえ。」

と、口々に叫ぶ有様は、浅ましい限りです。中にも蓮華夫人(れんげぶにん)という后の悪知恵には、

「隣の国に、四十年、八十年先を占う相人がいるので、占わせて、その上で、相人に頼んで、呪詛させましょう。」と小賢しくも計略をし、さっそく、その博士を、内裏に呼びつけました。

 陰陽の博士が、内裏に上がるやいなや、蓮華夫人は、

「まず、ごすいでんの懐妊は、王子か姫君かを占いなさい。」

と言いました。博士は、占方を開いて、しばらく考えると

「大変、目出度い事です。王子がご誕生されます。「米」と「宝」という字を左右の手に握り、ご誕生のその日から、百年間、世界は安堵し、三歳の年には悟りをひらかれ、七歳で東宮へお上がりになり、十歳の年には、唐、天竺を掌に納められるでしょう。さてさて、類稀なる王子様であられます。」

と占いました。これを聞いた九百九十九人の后達が、いよいよ、憎しみをつのらせたことは言うまでもありません。蓮華夫人は、

「この上は、ごすいでん、王子諸共に、呪詛して、呪い殺しなさい。」

と、言いますが、博士は、

「愚かなことを、かの太子は、未だ胎内にあるとはいえ、母子諸共に、百日の間、法華経を読誦して、毎日三巻づつの観音経も怠らずに読んでおられるのですから、どのような呪詛も効きません。法華経普門品には、還著於本人(げんじゃく おほんにん)とあるように、返って、ご自分に災いしますぞ。外に洩れ聞かれぬ内に、思い留まってくだされませ。」

と、道理を尽くして説得をしましたが、

「ごすいでんが、王子を生んだなら、一番末だった后が、第一の后となってしまう。そんなことは、見たくも無い。これから、大王の前で占い、太子を悪王子と奏聞して、九百九十九人の后の憤りを静めるのです。」

「とんでもない。」

と、博士は席を立ちますが、たちまち九百九十九人の后に取り囲まれ、押し倒され、

「博士、よく聞きなさい。九百九十九人の心は一つ。思い変えることはありませんぞよ。生きながら九百九十九人の鬼となる。ごすいでんに乱れ入り、太子諸共、ごすいでんを引き裂いて、それから、おまえの子孫、末孫まで取り殺してやるぞ。」

と、九百九十九人の后達は、たちまち顔色が変え、髪の毛を逆立てて、襲いかかってきます。その凄まじさに怖じけ付いた博士は、

「ああ、仕方ない、仏神、許してください。」

と、とうとう、嘘の奏聞を承諾してしまうのでした。

つづく


だんぎく(段菊) 蘭菊 籬の菊

2011年10月25日 13時28分28秒 | 調査・研究・紀行

Dscn8934 だんぎく:多年草

「信太妻」の一節に、次ぎのような記述がある。

『頃しも今は、秋の風、梟(ふくろう)松桂(しょうけい)の枝に鳴きつれ、

狐、蘭菊(らんぎく)の花に、蔵れ(かくれ)棲むむとは、古人(いにしえびと)の伝えしごとく、

この女房、庭前なる、籬(まがき)の菊に、心寄せしが、咲き乱れたる、色香に賞でて(めでて)

ながめ入り、仮の姿をうち忘れ、あらぬ形と、変じつつ、しばし時をぞ移しける』東洋文庫説経節P286

 古典が残す言葉から、現代人がイメージを勝手に創って行くと、(私がということだが)時としてどんでもない勘違いをすることがある。というか、しょっちゅうある。

 先日、八郎兵衛師匠から、この一節の「蘭菊」は、「菊」じゃないって知ってた?と言われて、びっくりした。「らんぎく」という音と、「咲き乱れ」からして、「乱菊」(長い花びらが入り乱れて咲いている菊の花。写真下)をイメージしていたからである。舞台道具としては、いわゆる野菊といった風情のものを使っているが、これも勘違いの原因。

20070118160648 乱菊

しかし、よくよく考えてみれば、手間隙かけて作る「乱菊」が野山にある訳がないし、山賤(やまがつ)の埴生の小屋(みすぼらしい小屋)の籬に「乱菊」が鎮座しているのも奇妙な想像である。まあ、野菊が群生している程度の想像はおかしくはないかも知れないが、恥ずかしい限りである。

蘭菊とは、段菊とも言われるクマツヅラ科(シソ科とも)の多年草の草のことであるという。そこらあたりに生えていないかと、しばらく探し回ったが、近辺の野山には、狐が隠れ棲むような所はないようである。狸は結構見かけるのだが・・・。そこで、花屋に行ってみると、なんと「だんぎく」が売っているではないか。その草は、なるほど、名前の通り、段々に紫の小さな花をつけている。しかし、もう花の盛りは残念ながら過ぎたという。多年草なら、来年また可憐な花を付けるだろうと、玄関脇の日当たりのよい所に植えてみた。(写真上)

さて、この蘭菊の「色香」であるが、確かに菊の様なほのかな香があり、ほんのりと甘い感じがする。なるほど、狐葛の葉は、この香に慣れ親しんでおり。狐が好む香なのかと納得した。色は、ピンクの物もあるようだが(突然変異の系統らしい)、やはり狐が目にしたのは「紫」だったろう。蘭菊の群生の中を狐が、うっとりと彷徨う姿を思い浮かべた。

さて、籬の菊は、舞台道具に使われている一般的が野菊なのだろうか?それとも蘭菊なのだろうか?注意深く記述に則して読むと、狐の棲みかが蘭菊の中にあるのであって、この埴生の小屋に蘭菊があるとは書いていない。狐葛は、籬の「菊」の香に誘われて、懐かしい棲みかの甘い香りを思い起こしたために、本性を現してしまったのだと解釈して良いのだろう。であるので、舞台道具の籬の菊は、一般的な野菊で良いのだと思った。実物に当たって調べてみることの大切さを改めて痛感したことである。

ところで、段菊の科目である「クマツヅラ」は「熊葛」と書く。「つづら」あるいは「かずら」は「つる」にかかわる総称でもあるが、漢字は「葛」である。これは偶然なのか?説経語りは、そこまで考えて「葛の葉」の話を創ったのだろうか?説経節にはこうした不思議な符合が隠されており、奥深いと感ずる。まだまだ、知らないことが沢山ある。説経節探検は続く。


吉例秋の秩父萩平歌舞伎公演

2011年10月24日 01時12分07秒 | 調査・研究・紀行

10月23日(日)、前日の雨も上がり、日の光ものぞく好天となったが、思った以上に蒸し暑い中、久しぶりに秩父に足を運んだ。在勤中は毎週ゴルフに通った東都秩父CCのすぐ近くに萩平の農村舞台がある。写真のように大変素晴らしい由緒ある舞台で、回り舞台もある。ここで、秩父正和会が絵本太功記十段目を演じた。光秀役の三代目関竹寿郎さんと、十次郎役の栗原寿起さんは実の親子。竹寿郎さんの名演技に舌を巻きつつも、子供の演技に、内心気が気でなかろうと、妙なことに気をまわしつつ、久しぶりの太十を満喫した。秩父の演出は、狭い屋台で演じるため足の動きが少ないが、手の表現が素晴らしく大きく見応えがある。一歩だけなのに大きく動くように感じるのである。正和会の中でも、竹寿郎さんの演技は群を抜いて素晴らしい。ゆったりとしていて間延びせず、どっしりと大きい。かといって鈍い訳でもない。しっくりと間がいいし、目線や眉の動きひとつひとつに細心の注意を払っている。発声も絶品で、この調子を菅生の面々にも身に付けてもらいたいものだ。光秀が目に焼き付いた一幕であった。写真は、特に菅生の所作と違うので、参考にすべき部分である。

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忘れ去られた物語たち 1 説経阿弥陀胸割④終

2011年10月24日 00時24分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あみだのむねわり その4

 別時念仏も終わった暁方。大萬長者は、

「もう、時分は良かろう、姫の生き肝を取って参れ。」

と、屈強の武士(もののふ)三人を阿弥陀堂に使わしました。

 天寿は、少しも騒がず、麓の野原まで出ると、敷き皮を敷かせ、西向きに座り直しました。すると、御経の転読を始めました。法華経の五の巻きを転読しては、

「これは、一切衆生のため。」

阿弥陀経を転読しては、

「これは、弟ていれいが身の祈祷。」

さらに、西に手を合わせて、

「南無西方極楽教主の阿弥陀仏、本願誤り給わずして、父母一仏乗の機縁に導き給え。」

と、回向すると、天寿は三人の武士に向かってこう言いました。

「さて、人の生き肝を取るには、刀を五分に巻き、左の脇を切り立てて、右回りにきりりと引き回せば、肝に子細はないと聞きます。浮き世にあれば、思いが増します。さあ、早くやりなさい。」

 いかに武士どもとはいえ、目もくらみ、手をわなわなと震わせ、消え入るばかりの心持ちであったが、意を決すると、刀を五分に巻いて、左の脇に切り立てて、どうにかこうにか右に引き回して、ようやく生き肝を取り出した。

 武士どもが、この生き肝を持って、長者の館に帰ると、待ち構えていた陰陽の博士が、延命酒の酒で七十五度洗い清めた後、いよいよ松若にこれを与えた。松若は、この生き肝を押し頂き、万感の思いを込めて服すると、忽ちに三病瘡(さんびょうかさ)が皆、ことごとく消え失せて、一時(いっとき)のうちに以前のような、美しい若に、すっかりと蘇った。大萬長者を初め人々は、その霊験に驚き喜んだが、三人の武士は、

「申し上げます。只今、姫君を害し申しましたが、不思議なことに、異香が薫り立ち、花が降り、紫雲がたなびき、音楽が聞こえて参りました。いまだ、死骸を放置してあれば、せめて包み、弔いたいと存じます。」

大萬長者の人々は、そうじゃそうじゃと、松明を振り立てて、急いで麓の野原に来ましたが、まだ、一時ぐらいしか経っていないのに、死骸が見あたりません。野犬や虎狼野干の仕業でも無いようです。ところが、よくよく見てみると、したたる血の跡が、点々と続いています。

「この、血の跡を辿れ。」

と、血の跡を辿って行きますと、そこは、黄金造りの阿弥陀堂でした。驚いて中にどっと躍り込むと、姉は弟に打ち掛かり、弟は姉の膝を枕として、ぐっすりと寝入る姉弟の姿がありました。武士は腰を抜かすばかりに驚いて

「いかに、姫君、我らは御身を害せしが、弟に名残が惜しくて、亡魂ここに残ったか。」と叫べば、天寿は目を覚まし、はっと驚き、二の息をほーと付きました。

「ああ、夢の内か?生き肝を取られると思うその刹那、仏壇の黄金阿弥陀様の丹花(たんか)の唇より、妙えなる御声が聞こえ、由々しくも『親に孝行なる姉弟かな、我、汝の身代わりに立ちて、姉弟の者どもの命を全うさせ、富貴の家を守るべし。』と仰いました。」

 驚いた、人々が、仏壇を開いてみると、中にましますご本尊様の胸の間が、ぱっかりと切れて、未だ生血がぽたぽたとこぼれているのでした。

 人々が驚き騒ぐ中、大萬長者はこれを見て、こう言いました。

「ややや、げにげに誠、親に孝行有る姉弟なれば、三世の諸仏も不憫と思い、身代わりに立ったのも道理。このように、神仏のご加護に預かる姫であれば、松若の嫁に迎えよう。」

 そうして天寿は松若の御台となり、ますます栄え、ていれいは、出家となり阿弥陀堂でいよいよ親の菩提を弔いましたが、黄金阿弥陀の胸の傷は、末代まで生血をしたたらせたので、大変有名な名仏となりました。その後、この阿弥陀仏は唐の国に移されましたが、その頃、善導和尚という方が、この由来をつぶさに書き記し、日本へ伝えました。今も、胸から生血を流すこの阿弥陀仏は、胸割阿弥陀と言われ、親に孝ある者は、必ず幸になるとの有り難い教えを、後世に知らせる仏様として、人々から深く信仰され続けています。

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おしまい


忘れ去られた物語たち 1 説経阿弥陀胸割③

2011年10月21日 23時27分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あみだのむねわり その3

 大萬長者の館に着いた兄弟が案内を乞うと、館の人々は、身なりはみすぼらしいが、なにやら世の常の人ではないように感じられ、丁寧に招き入れ、三日の間、さまざまのご馳走でもてなしました。人々が、ほんとに身を売るつもりなのかどうかを確かめると天寿は、

「もちろんです。これまで遙々と尋ねてきたのも、我が身を売るためです。しかし、このことは、弟には秘密にしてください。私だけお買いください。」

と答えました。大萬長者は、これを聞いて、陰陽師を呼んで天寿の年を占わせました。すると、天寿は、ぴたりと、辰の年辰の月辰の日の辰の一点に生まれた姫であることが分かりました。

 長者は、これまで三世の諸仏を信心して祈誓を怠らなかったから、三宝仏陀も哀れと思し召して薬の姫をお与え下されたと喜びますが、御台は、父母が存命であれば、何不自由無く暮らしていたであろうに、このように流浪の身となり、それだけでもいたわしいのに、その上我が身を売って親の菩提を弔うために、遙々ここまで来るとは尋常なことではないと涙を流します。

「我が子、松若が不憫とはいえ、押さえて生き肝を取るなどということはできません。真に発心して命を捧げるというのなら是非もありませんが、命を惜しく思うならば、早くどこへでも行きなさい。」

天寿は言葉もなく泣き崩れていましたが、やがて顔を上げてこう言いました。

「みなさん、聞いてください。私が嘆くのは、命が惜しいからではありません。あそこにいる弟をご覧下さい。親と離れてより、あの弟は、私を父とも母とも頼み、山に登れば後に付き、里へ下れば先に立ち過ごしてきましたが、私が死んだ後、誰が弟を哀れみ如何なる人を姉と頼むのでしょう。心残りは、唯あの弟のことだけです。」

この言葉を聞いて、大萬長者を初め御台も館の人々も、皆感涙を禁じ得ませんでした。

大萬長者が、涙を流しながら、

「もし、真に発心されるなら、あの弟は養子とし松若の弟とし、我が宝の半分を譲ろう。その気があるのなら、今ここで、親子兄弟の契約を交わそう。」と言えば、天寿は、こう答えました。

「うれしゅうございます。最早、浮き世に思い置くことはありません。それでは、私の望みを申します。父母の供養の為に三間四方の光堂を建て、黄金阿弥陀を三体、三尺五寸に鋳造して、仏壇に安じ、尊き法師によって二十一日間の別時念仏(べちじねんぶつ)法要を行ってください。別時が過ぎた暁には、難なく生き肝を献じます。」

 

 それは、たやすい事と、長者は直ちに光堂を建立し、別時念仏の法要を行いました。やがて別時が過ぎると、本堂のほのかな灯明の光の中で、兄弟二人、親の位牌に向い焼香礼拝し、安らかに念仏を唱えていましたが、ていれいは、姉の顔をきっと見上げると、

「姉ご様、私は、故郷で身を売ろうと申しましたが、買う人も無く、この長者に来てからも、私は身を売ろうとは申しておりませんが、どうしてこのように親の菩提を供養できたのですか。もしかしたら、私に隠して、身を売ったのですか。どうして、私も売ってくださらなかったのですか。」

と詰め寄った。

 天寿は、自分が身を売って、今夜の暁には、生き肝を取られると言うのなら、驚いて大騒ぎをするだろうから、少しの間でもなんとか隠し通そうと思い、

「いやいや、ていれいや、身を売ったのではない。あの大萬長者の子息松若は、三病人であるので、お嫁に来る者もいない。私は、今は流浪の身ではあるが、元々長者の娘でもあり、あのような方の御台には丁度よいと言われるので、親の菩提を供養していただけるのなら御台になりましょうと約束したのです。おまえは、これより髪を剃り、出家をして、この寺で長く父母の菩提を供養するのです。」

これを聞いて、安心したていれいは、姉の膝を枕として、すやすやと眠ります。

 弟の後れ髪を掻き撫でながら、天寿は溢れる涙を止めることもできず、最後の別れをします。

「深き恨みと思うなよ。父母故にかくなり果てたのだから、命は惜しくない。皆、人の親子兄弟は、八十九十まで共にあっても、別れの想いは同じ事。この世の機縁は薄くても、来世では、必ずひとつの蓮(はちす)蓮台(れんだい)に長き契りは疑いもない。

さてさて、この黒髪を明日からは、だれが結ってくれるのだろうか。」

天寿は、また弟に打ち掛かって、涙を噛んで嗚咽を堪え、やがて、夜は白々と明けたのでした。

  つづく 


忘れ去られた物語たち 1 説経阿弥陀胸割②

2011年10月21日 21時30分22秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あみだのむねわり その2

 

 天寿、ていれい、兄弟は、お釈迦様のお慈悲により命を助けられましたが、親を失い、七つの宝も無く、頼む者も無いままに、流浪の身となってしまいました。姉は弟の手を引き、弟は姉にすがりつつ、諸袖乞い(もろそでこい:乞食)になり果てた姿は、誠に哀れという外はありません。

 その上、里の人々は、兄弟の姿を見ると、「あの慳貪長者の子ども達だ、忌々しい。」と助ける者も居なかったので、兄弟は、野原の根芹(ねぜり)を摘み、畑の落ち穂を拾い、河原に寝起きし、あちらこちらを彷徨い歩き、露の命を繋いでおりましたが、ある日、弟のていれいは、姉に向かってこう言いました。

「姉様、早、父母の一周忌の命日。生きていても甲斐もありません。この身を売って、父母の菩提を供養いたしましょう。」

二人は、あっちの里、こっちの里を回り、

「我が身売らん。」

「我が身召せ。」

と、呼ばわりますが買ってくれる人はいません。ビシャリ国内では叶わないと、南隣の「ハラナイ国」「アララ村」まで行き、声を涸らして呼ばわりますが、とうとう、買ってくれる人はありませんでした。

 疲れ切った兄弟は、アララ村の阿弥陀堂を一夜の宿としました。兄弟は、清い滝でみを清めると、本尊の前に参り

「南無西方極楽教主の阿弥陀如来、我々兄弟の福徳を願えばこそ、この命を与えてくれたのではないのですか。父母の供養のために身を売ろうと思っても、買ってくれる人すらおりません。どんな人でもいいですから、この身が買われるようにお願いいたします。」

と、深く祈念して泪ながらに一首に歌を詠みました。

「朝顔の いつしか花は散り果てて 葉に消え残る露ぞもの憂き」

 やがて兄弟は、泣き疲れて、眠りに落ちました。すると、その夢に阿弥陀如来が現れ、ビシャリ国の北隣の山中、「おきの郷ゆめの庄」というところに、大萬長者という長者が居るので、そこを尋ねて、身を売りなさいと告げます。

 はっと目覚めた兄弟は、さっそく御堂を出ると、おきの郷ゆめの庄を目指して歩き始めました。野を越え川越え、七日の後に兄弟は、ようやく大萬長者の館に辿り付きました。

 さて、大萬長者という人は、四方に四万の蔵を建て、何一つ不自由なく暮らしていましたが、ひとつだけ、どうにもならない苦労がありました。大萬長者の一子「松若」が、七歳の年から不治の病となり、いろいろと手を尽くして看病をしても治らず、既に5年の時が空しく経ったのでした。長者は、最後の頼みと、陰陽師に頼み、占ったところ、若の病は、「三病」(癩病)であり、薬も祈祷も効き目がありませんが、ひとつだけ、薬があると言います。

「この若君は、壬辰(みずのえたつ)の年の辰の月、辰の日に辰の一点に生まれた若

であるので、同じ辰の年辰の月辰の日に生まれた姫を値を値切らずに買い取って、その生き肝を取り、延命酒で七十五度洗い清めてから与えれば、たちまち病は平癒するであろう。」

 天寿、ていれい兄弟がこの里を尋ねようとする頃、長者は、辰の年辰の月辰の日に生まれた姫を買い取るという高札を、辻々に立てました。すると、近国他国より、大勢の姫が押しかけましたが、年が合っても月が合わず、月があっても日が合わず、日が合っても時があわず、ついに薬の姫は見つかりませんでした。そんなこととも知らずに、天寿、ていれいの兄弟は、みすぼらしい姿で、ようやく大萬長者の館に辿り着いたのでした。

 つづく


忘れ去られた物語たち 1 説経阿弥陀胸割

2011年10月20日 09時55分29秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あみだのむねわり その1 

 昔から今に至るまで、天竺には、「胸割阿弥陀」という、それはそれは尊い仏様がいらっしゃいます。この仏様の由来を、詳しく尋ねてみますと、誠に哀れを誘うお話が伝わっております。

 天竺には十六の大国、五百の中国、十千の小国があり、それより小さい国々は、粟を散らしたように数えきれません。その中でも一番大きな国は、ビシャリ国という国でした。このビシャリ国のエンラ郡カタヒンラ村には、大変豊かな「かんし兵衛」という長者がおりました。この長者の栄華を支えていたのは、七つの宝でした。

 一番目の宝には、黄金の山が九つ。二番目には白銀の湧く山が七つ。三つには、悪魔を祓う二振りの剣、四つには音羽の松。数々の宝の中でも、この音羽の松は、大変不思議な松で、この松の松風に吹かれると、八十九十の老人も、たちまち若返ってしまうという、不老不死の松であったので、長者はこの松を秘宝として大切にしていた。またその外、夢が叶うという、邯鄲(かんたん)の枕、泉の壺、麝香(じゃこう)の犬といった宝も持っていました。

 この長者は、子宝にも恵まれました。姉が「天寿」の姫といい、七歳になるそれは美しい姫でした。弟は「ていれい」といい、五歳になる賢い若でした。長者は、何不自由なく、欠ける物もなく暮らしておりましたが、ある日、妻に向かって、こんなことを言いました。

「人々が、来世の幸せを願うというのも、転生して弥勒菩薩の出現に出合うことを願ってのことだが、我々は、あの音羽の松さえあれば、年をとったら吹かれては若返り、末代末世に至まで、死ぬということは無い。しかし、死なないというのも退屈なものだ。この世の思い出に、悪を尽くして遊ぼうではないか。」

 それからというもの、長者の人々は、堂塔伽藍に火をかけて焼き払ったり、大河小河の橋を引き倒しては面白がり、船を沈めては喜んだりと、悪行の限りを尽くしたので、人々は、かんし兵衛のことを、慳貪(けんどん)長者と呼ぶようになりました。

 その頃、お釈迦様は、霊鷲山(りょうじゅせん)において、尊い仏法を説いておられましたが、かんし兵衛の悪行をご覧になり、

「浅ましいことである。人は皆、善といえば遠のき、悪といえば近づくのに、この国にかんし兵衛を放置しておけば、国中の人々が皆、魔道に落ちてしまう。かんし兵衛を退治しなけばならない。」

とお思いになり、第六天の魔王達呼び出し、かんし兵衛成敗に向かわせました。

 第六天の魔王達は、直ちに長者の館に乱れ入りますが、長者の軍勢が、悪魔を祓う剣をぶんぶんと振り回すので、さすがの魔王達も手も足も出ずに逃げ帰りました。そこで、お釈迦様は、九万八千の厄神達にも応援を頼みましたが、厄神といえども、例の剣に敵うものではありません。そこで、とうとう、冥途に応援を頼むこととなり、冥途から牛頭(ごづ)、馬頭(めづ)、阿傍羅刹(あぼうらせつ)を呼び出し、大挙して再び長者の館に攻め入りました。長者の軍勢は、再び悪魔を祓う剣を振り回すので、魔王も厄神達も遠巻きにするところ、無間地獄の鍾馗(しょうき)という阿傍羅刹が飛び出し、悪魔を祓う剣に向かって火炎をゴウゴウと吹きかけました。さすがはあらゆる物を焼き尽くす無間地獄の火炎です。たちまちに例の剣を溶かしてしまいました。悪魔を祓う剣が無ければ、向かうところ敵無し、長者の軍勢・下人に至まで三千七百余人は、あっという間にことごとく成敗されてしまいました。最後に、長者夫婦は、簡単には殺さないとばかりに、熱鉄を湯のごとくに沸かしました。その熱鉄を長者夫婦の口の中に流し込み、五臓六腑を焼き払らいました。悪行を尽くした長者夫婦が地獄へと落ちたことは言うまでもありません。

 成敗を終えた魔王・厄神達は、お釈迦様にこう報告しました。

「長者夫婦をは難なく退治仕って候、されども、兄弟の子供をば、未だ助け置きしが如何か?」

お釈迦様は、これを聞いて、

「この兄弟をば助けおけ。」とおっしゃいました。

つづく

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説経節新たな挑戦③

2011年10月17日 14時17分34秒 | 調査・研究・紀行

猿八座がこれまで取り組んだ説経節に「弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」という外題がある。江戸孫四郎の正本であり、説経正本集第3に収録されている紛れもない「説経節」である。この「説経節」は、新潟の義太夫語りで越後角太夫と言う方が、義太夫を活用して節付けされている。BSTBSで放映もされたので、ご覧になった方もおられるかも知れない。角太夫さんは、現在、猿八座を去られているので、その後釜が私というわけである。

第4の仕事として、「弘知法印御伝記」の再演を考えているところである。10月の心萃房での稽古の帰りに、「弘智法印」様に会いに行って、この仕事にとりかかってもよいかどうかお尋ねしてきた。

これも長大な話であるが、即身成仏された「弘智法印」の奇想天外な物語である。新潟県長岡市寺泊野積、弥彦山の西山麓、日本海を望む中腹、西生寺に「弘智法印」は即身成仏として御座しておられた。(弘智堂内部写真の奥の御簾の中)

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Dscn8746 これは木像で本物ではありません。(宝物殿内)

「弘智法印」様のお許しがあれば、やがて形になることでしょう。


説経節新たな挑戦② 

2011年10月17日 12時46分31秒 | 調査・研究・紀行

この新しい挑戦は、実は現在の「越佐猿八座」との関わりの中で、与えられたと言っても過言では無い。10年以前に、西橋八郎兵衛師匠と「信太妻」をやったことがあるが、その時は、浄瑠璃である「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」を「説経祭文」にした薩摩派の台本のままに無理矢理踊ってもらった。多少「説経節」を交えた記憶もあるが、当時の私の実力では、「説経節」の章句をそのまま扱う力は無かったように思う。

しかし、西橋八郎兵衛師匠は、あくまでも「説経節」にこだわった。多分踊りにくかっただろうと、今になれば思うが、私は、薩摩派の台本の範囲、即ち「説経祭文」しか知らなかった。

今年の4月に、太夫として独立した途端に、「猿八座」の太夫に迎えられた顛末は、また別項に譲るが、初仕事がそんなにすぐに、舞い込んで来るとは予想もしていないことであった。ところが、注文は、「をくり御物絵巻」(東洋文庫に収録)の第12から第13にまたがる「車曳き」の部分であった。プロになった以上は、「それは、薩摩派にはありません。」などど言うこともできない。なんとか、初仕事を物にしなければならない。

期間は二週間しかなかった。つまり、ピンチヒッターとしての起用だったのである。

思えば、この仕事が、200年前の「説経祭文」から、400年前の「説経節」へと、視野を広げる第一歩だった。取りあえず、できることは、「祭文」の節で、「説経」を組み立てることであった。前述の通り、これはなかなか手強い仕事で、「祭文」の節に、五七調ではない文句を当てはめていくと、必ず、字余りや字足らずが発生する。「説経」の章句をできるだけ忠実に再現するためには、「節」を改造しなけらばならない。

いままでは、「説経祭文」の節に忠実で、当てはまらない文句を多少なりとも加工し、同様の内容を表現しようと試み、苦労ばかり多く、駄作に落ちていたことがあったが、この仕事は、「説経節」の章句に忠実で、「節」を工夫することを強要した。しかし、発想を変えただけで、道は開けた。既存の「節」にこだわることをやめた。手元の材料である「祭文」を活用しつつ、「祭文」の節を、途中で切ったり、逆に繋げたり、また、多少の作曲を交えて、自己において、初めての「説経節」を作りあげることができた。一週間で仕上げ、次ぎの一週間は、舞台稽古という慌ただしさではあったが、平成23年4月10日新潟五頭温泉郷 村杉温泉 環翠楼で
無事、「説経節をぐり」が演じられた。

次ぎの仕事は、「しのだづまつりぎつね 付あべノ清明出生」であった。これは、説経正本集には収録されず、古浄瑠璃正本集第4(角川書店)に収録された。伊藤出羽掾という浄瑠璃太夫の正本と言われているからである。残念ながら、説経正本が伝わっていないが、当時は、説経も浄瑠璃も明確な棲み分けはなかったようで、どちらの太夫も、それぞれの「節」で、説経も浄瑠璃も演じていた記録が残っている。難しい話は置いておいて、説経正本が残っていないが「信田妻」は歴とした「説経節」として認められている。

話を戻すと、2番目の仕事は、「しのだづまつりぎつね」のうち、第3を、まるごかしで「説経節」として語れるようにすることであった。この場面は、いわゆる母である狐と童子(阿倍晴明)との「子別れ」の段である。ここでも、さらに「節」の改造を試み、1時間5分というこれまでで最長の「説経節」を作り上げた。この「説経節」は今年、すでに、サハリン公演、豊田市公演で演じたことは、9月のに記事に載せてある。

これらの二つ試みが、薩摩派の台本を離れて、初めて書いた「説経節」の作品ということになったことに気が付いたのは、夏に、鳥越文庫に籠もって勉強をしてからである。

しかし、「説経祭文」の「節」の制約は、いかんともし難い。限界がある。「言葉」本意に語りたいが、「祭文」の節が邪魔をすると感じることもある。

そうした、中で、耳に届いたのは、「文弥節」であった。これまで、何度も聞いた筈の「文弥節」であったが、求める心が変わると、こうも響き方が違うものだろうか。古い「語り物」の形式を残す、いわば「化石」とも言える「文弥節」であるが、これは、「使える」と得心した。やがて西橋八郎兵衛師匠から、佐渡文弥節の録音データを収録したCDがごそっと届いた。8月の佐渡における「文弥節修業」は、「文弥節」をやるためではなく「説経節」を語るための「節」の研究であった。

現在、第3番目の「説経節」の仕事の取り組んでいる。、「阿弥陀胸割(あみだのむねわり)」という「説経節」である。この、「胸割阿弥陀」は、天満八太夫正本が、「説経節正本集」第3に収録されている。しかし、八郎兵衛師匠の注文は、国文研で最近公開した最古本で、慶長年間の古活字本を使用したいという。ところが、この本は、翻刻されていないので、自分たちで翻刻しなければならない。変体仮名と格闘しつつ、荒読みから始めて五ヶ月が経って、何カ所かの不明箇所を残しながらも、ようやくこの10月になって、テキストを確定し、一応の作曲が終わった。この仕事は、「祭文」と「文弥」の節を交えて、これまでの既成概念を捨てて、新たな「説経節」として構成することになった。まだ、公開の見通しどころか、演出方法も未定であるが、来年には公開できるように準備を進めているところである。かいつまんで、次ぎのような話である。

天寿、ていれい兄弟は、家の没落で袖乞いとなるが、親の供養のために、身を売ることを発心したところ、とある長者の息子松若の病気を治すために、その「生き肝」を買われるという話である。なんとも、説経ならではのグロなストーリーであるが、最後は、阿弥陀如来が身代わりとなり、生き肝をえぐられた天寿は蘇生し、松若と結ばれ、ハッピーエンドとなる。実に説経らしい「説経節」である。この演目が400年前に演じられている「絵」が残っている。このような説経節を人形操りとして、現代に蘇らせることが、「説経節」に賭けた、私の後半生の仕事になるのだなと、自分の仕事がようやく、はっきりと見えて来た気がする。


説経節新たな挑戦①

2011年10月16日 22時06分33秒 | 調査・研究・紀行

説経節と一口に言ってしまった場合、何を指しているのか困ることがある。私は長い間、そのことにすら気が付かないでいた。

私が伝承した「薩摩派説経節」は、初代薩摩若太夫から約200年の歴史があるが、これは、学者が、「後期説経節」と呼ぶように、江戸時代の後期(寛成・享和・文化頃)に、新たに作曲された説経節である。元祖の説経節は、約400年前の寛永から亨保の約百年間に、人形操りとして人気を得ていた。「説経節」(東洋文庫)や「説経正本集」(角川書店)に収録されている「説経節」は皆、この時代に出版された木版本を翻刻した資料である。但し、正本化される以前にも長い「説経節」の歴史があったであろうと推測される。

この元祖「説経節」の時代には、大阪与七郎、佐渡七太夫、天満八太夫、日暮小太夫と言った太夫達がいて、人気を博していた。しかし、この元祖「説経節」は、近松門左衛門の義太夫浄瑠璃に駆逐・吸収されて消えてしまう。「説経」は、文字としては残ったが、「節」としては全く失われた。

実は「薩摩派説経」は、正確には説経「節」ではない。初代若太夫の正本には「説経祭文」と書いてあるからである。これまで、薩摩派をどういうわけか説経節と言い習わしてはきたが、よくよく考えて見ると、やはり「説経祭文」と呼ぶべきであろうと思う。初代若太夫は、「説経節」に関する知識は当然あったと思われ、「説経節」の正本にも目を通していたと思われるが、それが、どんな「節」で語られたのかは分からなかった。彼にとっても百年も前に廃れた芸能である。そこで、初代若太夫は「祭文」もしくは「歌祭文」の「節」を流用させて、京屋五鶴に新たに三味線音楽を作曲させた。それが、現在「薩摩派説経節」と呼ばれているものである。祭文の節は七五調であるから、当然、章句も若太夫によって新たに作られた。「説経祭文」は、内容は「説経節」を下敷きにしているが、章句はかなり異なる。また、「説経節」を下敷きにしないで、浄瑠璃化された説経節を下敷きにしているものもある。

薩摩派の章句と節しか知らない者(かつての私のことであるが)からすると、元祖「説経節」の章句は大変扱いづらい。「説経祭文」の「節」には乗らないのである。つまり、「説経節」では、語る「言葉」が重要であり、「節」は「言葉」に従属してつけられたのだろうと思われるが、「説経祭文」では、「節」があって、「言葉」が従属したと感じる。「祭文」しか知らなかった私は、長いこと「古い説経は、やっぱり、ササラとか鉦とかをたたいて、お話調に語っていたんだろう。」と勝手に思っていた。

ずいぶん長いこと、そういう誤解のままに過ごしたと思う。それは、「薩摩派説経節」という言葉の使い方に原因がある。「祭文」ということが強調されていれば、「説経節」とは別物なのだという意識が持てたであろうが、やっている本人がよく理解できていなかった。

400年前の「説経節」には、既に三味線も用いられて、人形操りの興業を盛んに行っている。確かに「節」があったはずだ。元祖「説経節」の章句を語った「節」はどんな「節」だったのだろうか?初代若太夫は、「説経節」語るために「節」を付けたのではなく、「祭文」の節で説経を語れるように章句を改作、あるいは改竄し、「説経祭文」を作ったが、古い「説経節」のままに語れるように「節」を工夫することが、ほんとの「説経節」ではないだろうか。

このことは、最近、調査した名古屋甚目寺の「説教源氏節」でも同じである。これも「説教祭文」とあり、しかも「清元」という新浄瑠璃の「節」を流用して、その章句も、独特に改変している。

説経節と同時代の浄瑠璃を「古浄瑠璃」と呼んで、近松門左衛門・義太夫浄瑠璃の「浄瑠璃」と区別しているが、この古浄瑠璃も古曲として豊後節などが辛くも残っているが、その外はどのような「節」だったかを知るすべはない。また、「説経節」を語っていた各太夫達が、同じ「節」を語ったわけではない。当時の正本には、「せっきょう」とは書いてあるが、「説経節」とは書いてない。「節」は太夫本人の固有のものであり、例えば、天満八太夫であれば、「天満節」と呼ばれた。

そこで、私は、こう気が付いた。

現在、「説経祭文」を語る者は、日本全国に、私も含めて十数人は数えることができそうであるが、「説経節」を語る者は一人もいない。(ささら語りを除き、三味線で「節」を語るもののみを数える)

「節」は太夫に固有のものであるはずだから、「説経節正本」の章句をそのままに使い「節」をつければ、即ち、それこそが「説経節」である。

新しい仕事が見えてきた。