「中将姫」は、説経正本集第3の(45)に収められている。巻末の(46)は既に読ん
だ百合若大臣(27)の八太夫版であるので、この外題が、古説経正本シリーズの最後の物
語ということになる。丁度25番で切りが良い。
佐渡猿八の鳥越文庫に入って直ぐの展示ケースの中に「中将姫」が居ます。以前から、こ
の姫は気になっていましたが、この長身の美しい姫が誰なのか、実はあまり知らないでいま
した。西橋八郎兵衛師匠に尋ねた所、文弥節では無く、折口信夫の小説「死者の書」を元に
した「蓮曼荼羅」という公演で遣ったとのことでした。文弥節でやるとすると、「当麻中将姫」
という近松の浄瑠璃になるのでしょうか。
説経では、中将姫の本地とありますが、語られるのは、奈良の当麻寺に伝わる「当麻曼荼羅」
の由来です。毎年5月14日に行われるという、練り供養では、ご来迎が再現されると
聞きます。死ぬまでには、参詣したい寺がまた増えました。
説経正本集第3(45)中将姫本地:刊期所属不明:鱗形屋孫兵衛新板
中将姫 ①
さて、大和の国の当麻(たいま)曼荼羅の由来を詳しく尋ねてみることにいたしましょう。
神武天皇より四十七代の廃帝天皇(淳仁天皇758年~764年)の頃のことです。大職冠
鎌足の四代後の孫で、横佩(よこはぎ)の右大臣、藤原豊成(とよなり)とい方は、又の名
を、難波の大臣と申します。藤原の豊成には、子供が一人おりました。名前は、中将姫と
言いました。十三歳になった中将姫の姿はの美しさは、秋の月と言いましょうか。お顔は、
露が降りた春の花。翡翠の黒髪は、背丈ほど。眦(まなじり)は愛嬌があり、丹花の唇は
鮮やかです。微笑む歯茎は健康で、細い眉は、優しげです。辺りも輝くそのお姿の話を聞い
ただけでも、恋に落ちない男は居ませんでした。
しかし、可哀想な事に、中将姫は既に母を亡くしていたのでした。父豊成は、これを不憫と思
って、後添えを貰ったのでした。中将姫は、素直に継母を受け入れて、良く従って、親孝行
をしましたので、心の奥底は分かりませんが、継母も表面的には、中将姫を可愛がったので
した。こうして、表面的には、平穏な日々が流れ、豊成も喜んだのでした。
ところで、中将姫のことを、内々に聞いた御門は、難波の大臣豊成を、内裏に呼ぶと、
中将姫を皇后に迎える由の宣旨を下したのでした。
「年の暮れか、来年の春には、秋の宮に迎えよう。」
これを聞いた豊成は、畏まって退出し、喜び勇んで館へと戻るのでした。天皇家への輿入れ
に、一人を除いて、皆大喜びです。昔から、継子と継母が仲良しだった例しはありません。
この事を聞いた継母は、自分の子供の出世の機会が奪われると感じて、その心は、忽ちに曇りました。
そして、何とかして、姫を殺してしまおうと、恐ろしい計画を立てるのでした。
御台所は、親近の若者を選ぶと、こう命じたのでした。
とても勉強になります。
ただ後半の一部が表示されてないようです。
タイトルにも挙げておりますが、文末の矢印以降をどうしたら読めるのでしょうか?