猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

梅若塚(木母寺)芸道成就祈願

2013年03月15日 21時44分53秒 | 調査・研究・紀行

 前回、角田川を訳出していて、梅若丸の忌日が、3月15日であるとい

ことが分かりましたので、木母寺の行 事を調べた所、梅若供養は、4月

15日になっていました。旧暦で行うのでしょう。(因みに、今年の旧暦3

15日は4月24日)しかし、4月のその頃は忙しいので、急遽、思い立

って、3月15日(金)に、梅若塚へお参りをして来ました。

 木母寺に到着したのは、丁度お昼頃で、人影もまばら。本堂に声を掛

けても反応もありません。のんびりとした春の日を浴びた梅若塚には、

梅の花が丁度咲いておりました。梅若が遺言したという印の柳は、枝

打ちをされてまだ冬の様相でした。 Dscf2814

1時過ぎに、再び大声を掛けた所、お昼が終わったのでしょうか。ようやく

芸道成就の絵馬を手に入れることができました。700円也。4月15日の

梅若祭りでは、梅若音頭を踊るとのことでした。

Dscf2826

梅若塚の裏手には、様々な石碑が納められていますが、その中でも、浄瑠璃塚が目を引きました。

竹本紋太夫・倉太夫と併記してあるのは、江戸中期の1750年代に活躍した

二代目竹本紋太夫のことのようです。

Dscf2821


忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ⑥ 終

2013年03月06日 21時48分20秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ⑥

 一方、もう一人梅若殿を捜し続けていた粟津の二郎利光は、四国九国と尋ね巡りまし

たが、とうとう梅若殿の行方を知ることはできませんでした。ある時、利光は、大津の

辺りを捜そうと考えて、江州(滋賀県)へと向かう途中、四宮河原(京都市山科区四宮)

を通りかかりました。すると、松井定景に組みした山田の三郎が、小鳥狩りをしている

ではありませんか。利光は、

「これは、天よりの授かりもの。」

と喜ぶと、猛然と谷に駆け下り、山田の細首をあっという間に切り落としました。

ところが、大勢の山田の家来達に追い詰められてしまい、最早これまでと思った時のこ

とです。どこからとも無く、山伏が一人現れたかと思うと、利光を引っ掴んで、虚空に

舞い上がったのでした。山伏は、飛ぶに飛んで、相模の国の大山不動まで来ると、利光

を降ろしました。(神奈川県伊勢原市)山伏は、

「我は四国よりの使者であるぞ。この神に祈誓を懸けよ。」

と言うと、煙のように消え失せました。利光は、ありがたやとその跡を伏し拝むと、

大山不動に向かいました。

「梅若殿の生死を、教えて下さい。教えて下さらないのなら、この利光の命を取って

下さい。」

初めの七日間は、その場を少しも動かずに立ち行をし、次の七日間は水行をしました。

更に、七日間の断食行をして、渾身を籠めて祈り続けました。すると、二十一日目の明

け方に、山も草木も振動を始め、愛宕山の太郎坊(京都市右京区:太郎坊は天狗)、讃

岐の金比羅、大峯山の前鬼(奈良県吉野郡下北山村:前鬼は役小角の従者で天狗となる)の一党

等の大天狗、小天狗が現れ、かつて行方知れずになった松若殿を連れてきたのでした。

「如何に、利光。お前は、主君に孝ある者であるので、松若を返すことにする。母も梅

若も武蔵と下総の境にある隅田川で、既に亡くなった。お前はこれから、松若の行く末

を、守護するのだ。」

天狗は、そう告げると、再び虚空に飛び去りました。松若殿は、利光から事の子細を聞

いて、大変悲しみました。利光は、

「先ず、これより都へ上り、日行阿闍梨を頼みとして、帝へ参内いたしましょう。松井

源五の仇討ちを果たし、それから、母上、梅若殿の菩提を弔うことにいたしましょう。」

と諭したのでした。こうして、松若殿と粟津利光の二人は、都を指して急ぎました。

 都に着くと、早速に日行阿闍梨の所へと行きました。日行も阿闍梨も事の次第を聞くと

涙を流して嘆かれました。

 さて、日行阿闍梨の計らいで、参内が叶うと、帝はこのような宣旨を与えました。

「この度の浪人は、さぞや無念であったろう。褒美として、四位の大将是定に任じ、下

総の国を与える。又、松井の源五は成敗いたせ。」

そして、屈強の兵、約五百名まで下されたのでした。

 松若殿は、早速に、利光を大将として、北白川に押し寄せて、鬨の声を上げました。

突然のことに驚いた松井は、戦いもせずに逃げ出しましたが、やがて捕縛されて、首を

斬られました。

 さて、松若殿はそれから、多くの家来を従えて、下総の国に入りました。そして、父

母の為、梅若殿の為に、篤く菩提を弔ったのでした。それから数々の館を建て並べた松

若殿は、栄華に栄えたということです。なんとも目出度いとも、なかなか申すばかりは

ありません。

おわり

Photo_2


忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ⑤

2013年03月06日 13時33分50秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ⑤

 御台様は、梅若殿の行方を探しながら、とうとう隅田川の辺りまで辿り着いたのでした。

ここに、渡し船がありました。御台様は、

「のう、舟人。私を舟に乗せてください。」

と頼みました。舟人は、

「言葉を聞くところは、都人そうじゃが、姿を見れば狂人。それでは、面白く狂って

見せよ。そうでなければ、舟には乗せぬ。」

と言いました。御台はこれを聞いて、

「のう、如何に、渡し守。例え東の果ての国であっても、名所に住む者ならば、心もあ

るでしょうに。水面に映る月を見てごらんなさい。風が吹いて波が立てば、見えなくな

りますが、本物の月は決して曇ることはありませんよ。姿だけを見て、狂えとはなんと

物憂いことでしょう。馬にも乗らないで歩いて来たこの狂女は、もう疲れ果てているのです。

ここは、名所の渡し場。もう日も暮れようとしているのに、舟に乗れとは言わずに、狂

えと言う田舎人の心は、なんと辛いことでしょうか。狭くはなるかもしれませんが、ど

うか舟に乗せてくだされや。」

と更に頼みました。これを聞いた舟人は、

「おお、これは、誤った。狂女には似合わぬ上品さよ。さあ、乗り給え。」

と、舟を寄せると御台様を舟に乗せてくれたのでした。

 さて、舟に乗ってしばらくすると、向かいの川岸では、木の回りに沢山の人々が集まって

いるのが見えてきました。御台様は、これを見て、

「のう、渡し守。あれに、大勢の人々が集まっているのは、私を待ち受けて、狂わせよ

うとしているのですか。」

と聞きました。舟人は、

「いやいや、あれは、大念仏をしているのです。外のお客さんも、知らない人が多いこ

とだろうから、この舟が向かいの岸に着くまでに、あの大念仏の由来を聞かせてあげま

しょう。よく聞きなさい。皆さん。昨年の三月十五日。ちょうど一年前の今日のことです。

歳の頃は、十二三歳の幼い者が、重病となってこの岸辺に倒れて居た所を、近所の人々

が助けて、様々に看病しましたが、とうとう亡くなってしまいました。今際の際に何処

のどういう者かと聞いてみると、その幼き者は、苦しい息をつきながら、

『私は、都北白川の吉田何某の嫡男、梅若丸です。人商人に拐かされ、こんな姿となりました。

都に母が一人で居りますが、私のことを捜しに来る者があれば、このことを伝えてください。

その為に、どうか、道野辺に塚を築いて、印に柳を植え、高札を立ててください。』

と、大人しく念仏を唱えて亡くなったということです。さて、船中にも都人がおります。

逆縁とはなりますが、皆々念仏を唱えください。」

と、言うのでした。対岸に着くと人々は、

「さてさて不憫なことじゃ、逆縁ながら、念仏をいたしましょう。」

と舟から降りて行きましたが、労しいことに御台様は、船端にしがみついて泣き崩れて

います。舟人はこれを見て、

「心の優しい狂女じゃな。今の物語にそれ程、涙を流すのか。さあさあ、もう着いたか

ら、舟より降りなさい。」

と言いますが、御台様は、顔を上げて、

「舟人よ。今の話しは、いつ頃の話しで、名をなんと言いましたか。」

と聞き直しました。舟人は、

「吉田の何某、梅若丸。さあさあ、あなたも都の者ならば、岸に上がって念仏しなさい。」

と答えました。御台様は、

「のう、舟人よ。これまで、親類も親も尋ねて来なかったのも当たり前のこと。その子

の母は、私なのですから。」

と、又泣き崩れるのでした。これを聞いた舟人も人々も、それはそれはと、袖を濡らさ

ない人はいませんでした。舟人は涙ながらに、

「今までは、他所の嘆きと思っていたが、あなた様の身の上のことだったのでか。さあさあ、

今はもう、帰らぬことですから、弔いをなされなさい。」

と勧めるのでした。御台様は、泣く泣く舟より上がると、塚の前に平伏して、哀れに口

説くばかりです。

「梅若よ。お前に会う為に、此処まで遙々と下って来たのに、今はもうその姿もこの世

に無く、その印だけを見なければならないとは、なんと無惨なことでしょうか。前世

からの因縁とは言え、死んで東路の土となり、この塚の下に我が子が居るのですね。

どうかもう一度、この世の姿を、この母に見せてくだされや。ああ、なんと儚い浮き世

なのでしょうか。」

と、声をあげて泣きました。人々はこれを聞き、

「とにかく、念仏を唱えなさい。死者も喜んでくれるでしょう。」

と言うと、御台様に鉦鼓(しょうご)を持たせて、念仏を勧めました。御台様は、よう

やく起きあがると、

「逆縁ながら、我が子の為に。」

と、鉦鼓を鳴らして、声を上げ、南無阿弥陀仏と唱えれば、人々も共に唱和するのでした。

御台様は、鉦鼓を止めると、

「のう、皆様。幼い声の念仏が、この塚の中から聞こえます。もっと、念仏してください。」

と言えば、人々は、

「いやいや、我々は遠慮して、母上だけが念仏なされなさい。」

と言うのでした。御台様はその言葉に従って、更に鉦鼓を打ち鳴らして南無阿弥陀仏

と唱え続けました。すると、また塚の中から、幼い声の念仏が聞こえ、やがて、柳の木

の陰から、梅若殿が姿を現したのでした。御台様は、あまりの嬉しさに、鉦鼓も撞木(しゅもく)

も放り出して、抱きつこうとしました。しかし、抱きつこうとすると消え失せ、また現

れます。

「おお、我が子か。」

「母上様。」

と、声は交わしますが、まるで、陽炎か稲妻、水の月の様に、捕まえようとすれば消え

去り、又現れ、見えつ隠れつしている内に、夜は明けて、そこには、柳の木だけが立っ

ているのでした。御台様は、柳の木に抱きついて、

「この世の名残に、今一度、姿を見せなさい。梅若よ。梅若よ。私も一緒に連れていきなさい。」

と叫ぶと、塚の上に倒れ伏して号泣するのでした。そこに、一人の僧が近付き、

「お嘆きは、もっともですが、菩提をお弔いなされませ。」

と、御台様を慰めます。御台様は、涙を堪えて、

「お坊様の教化は、大変有り難いことです。今はもう嘆いても、仕方有りません。梅若

の後世を弔う為に、どうか私を出家させてください。」

と頼みました。僧は、願いを引き受けました。御台様は、その場で髪を剃り落とすと、

妙亀比丘尼(みょうきびくに)となり、浅茅が原(東京都台東区花川戸)に庵を結んで

梅若の菩提を弔ったのでした。妙亀比丘尼は、花を摘み、香を焚いて、念仏を唱える毎

日を過ごしておられましたが、ある日、浅茅が原の池水にお姿が映るのをご覧になると、

「これこそ、明鏡円噸(えんどん)の悟りである。」

と、只一筋に思い切られて、西の空に傾く月を見ながら、

「いざや、私も連れて行ってください。」

と言うと、鏡の池にその身を投じたのでした。かの母上様の最期は、哀れともなかなか、

申すばかりはありません。

つづく

Photo


忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ④

2013年03月05日 18時52分16秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ④

 さて、梅若殿が亡くなった後、在所の人々は、遺言の通りに、道野辺に塚を築き、

柳の木を植えて、大念仏を行い、梅若殿の菩提を篤く弔ったのでした。今でも、三月十

五日には、沢山の人々がお参りにやって来るということです。(東京都墨田区堤通:木母寺)

 ところでまた邪見な者といえば、御台所が落ちた先の権の大夫です。権の大夫

は、粟津利兼の叔父に当たり、利兼の頼みによって、御台様を匿っていたのですが、こ

んなことを考えていたのでした。

「さてさて、吉田是定殿へのご恩は深いものがあるが、春は花、秋は紅葉と遊んで暮ら

す我が身にとっては、頼りにもならぬ御台所じゃ。この際、追い出してしまおう。」

と思って、御台様に向かって、

「如何に、御台様。そのうちにきっと、白川から追っ手がやってくるにちがいありません。

この家に御台様が匿われていることが知れ渡っては、恐ろしい事になる。今夜の内に

闇に紛れて、どこへでもお行きくだされ。」

と言って、情けなくも、御台様を追い出したのでした。頼む木の下に雨も堪らぬとは、

このことです。(諺:当てがはずれる事:正しくは、「雨漏る」)

御台様は、泣く泣く館を後にしました。権の大夫の女房は、余りに労しいので、御台様

の後を、逢坂の関まで追い掛けました。女房は、

「のう、御台様。こんなことになってしまいましたが、私の心は変わりません。」

と泣いて縋るのでした。御台様も、お前の心は分かっていますよと、さめざめ泣く

外ありません。それから、女房は、御台所の手を引いて、逢坂の関から山科を過ぎて、

日の岡峠(京都市山科区日ノ岡)までお供をしたのでした。ここで女房は、

「ここより、都はもうすぐです。若君の行方をお探し下さい。」

と言うと、名残惜しげに戻って行ったのでした。

 それからというもの、御台様は、都の中を彷徨い、梅若殿の行方を捜したのでした。

醍醐(伏見区醍醐)、高雄(右京区高雄山付近)、八瀬(左京区八瀬)、大原(左京区北東部)、

嵯峨(右京区嵯峨野)、仁和寺(右京区御室)まで、くまなく捜し回りましたが、分かりません。

そうこうしていると、五人の旅の僧と出合いました。御台様が、

「我が子、梅若の行方をご存じありませんか。」

と尋ねると、旅の僧達は、

「それは、いつ頃のことですか。」

と聞きました。御台様が、

「昨年の二月の末頃に、行方知れずになりました。」

と答えると、旅の僧達は、

「おお、それなら、その頃、大津三井寺の辺りで、東国の人買いらしい者が、子供を

連れていた。その子供を捜すのなら、東の方を捜しなさい。」

と教えて通り過ぎて行きました。これを聞いた御台様は、

「ええ、まさか、東の国に売られたのか。なんという情けない事になったのか。」

と、倒れ伏して号泣するのでした。涙ながらの口説き事も哀れです。

「それ、誰でも、何人子供が居ようとも、分け隔てをする親は居ない。まして、私は、

たった二人しか居ない可愛い息子に、二人とも生き別れ、母親として、助けてあげるこ

とが何も出来ないとは、情けない。ええ、もう年を取った身ではあるが、女であること

には変わりは無い。これより先は、狂女に扮して、東路の旅に出ることにしよう。」

と、決心すると、髪を四方へ振り乱して、笹の葉に四手(しで)を下げて、これを肩に

振り上げて、旅の仕度をしたのでした。

「真如の月は 曇らねど 狂女とや 人の言うらん。それも、これも、我が子の為と思

えば、何の恨みもありません。」

と独り言を言うと、御台様は、東国を指して歩き始めました。

(以下道行き)

八重一重(※桜:春)、八重九重(※都のこと)を立ち出で

四条五条の橋の上

王城の鬼門(※北東)に当たり、比叡山

これなる林は、祇園殿(東山区八坂神社)

祇園囃子の群烏

浮かれ心か、うば玉の(※黒い:祇園祭と関連づける)

早、立ち出ずる峰の雲

実りの花も開くらん

やがて、我が子に、粟田口(京都市左京区:※逢うた)

聞くさえ、ここに頼もしや

逢坂の関の明神、伏し拝み(滋賀県大津市)

打出の浜に、誘わるる

三井寺辺を尋ねんと

初夜より後夜の一天まで

御経の声は、有り難や

鐘楼堂(しゅろうどう)を打ち見上げ

この鐘、つくづくと(※鐘を撞く)

浪に響きて、磯千鳥

誰を松本(※待つ)を早や過ぎて(大津市松本)

尚も思いは、瀬田の唐橋を

とんどろ、とどろと、打ち渡り

大江の野に、鳴く鶴は(大津市大江)

子を思うかと、哀れなり

この下、露に袖濡れて(?)

裾に玉散る、篠原や(滋賀県野洲市)

見てこそ通れ、鏡山(野洲市・竜王町)

御代は目出度き、武佐の宿(滋賀県近江八幡市)

愛知川、渡れば千鳥立つ

小野の宿とよ(滋賀県彦根市小野)摺り針峠の細道

涙と共に急がるる

寝ぬ夜の夢は、醒ヶ井の寝物語(滋賀県米原市)

早や過ぎて、美濃の国に聞こえたる

野上の宿に着き給う(岐阜県不破郡関ヶ原町)

 美濃の国は、御台様の生まれ故郷であり、夫の吉田の少将と出合った土地でありました。

労しいことに、御台様は、とあるお寺に立ち寄って、

「人は、故郷へは、錦を着て帰るというのに、私は、子故に闇に迷い、このような浅ま

しい姿で、故郷を見ることになるとは、なんとも情けない。いったい、三千世界の仏様

や、八相を悟られたお釈迦様も、子を持つ親としての迷いの闇があったと聞く。又、

訶梨帝母(かりていぼ:※鬼子母神)と言う方は、千人の子をお持ちでしたが、一人の

子供と別れる時に、皆の子供と別れるのと同じく悲しまれました。人間というものは、

沢山の子供を持ったとしても、何れに分け隔ての心は無いもの。私は、たった二人の可

愛い子供と生き別れ、どうして行ったらよいのでしょうか。この世の中には、神や仏は、

無いのですか。今生で、もう一度、我が子梅若に巡り会わせてください。」

と、深く祈誓をすると、四方を何度も礼拝して、やがて泣き崩れるのでした。

(以下道行き)

美濃ならば(※実のらば)花も咲きなん杭瀬川(くいせがわ:岐阜県揖斐川支流)

夏は、熱田の宮とかや(※暑い)

涙の露は、岡崎の(愛知県岡崎市:※置く)

ようよう今は、浪の鼓(※浪の音が聞こえる)

竹のささら、ざざんざ(※波音の擬音)、浜松(静岡県浜松市)

風は袋井の(静岡県袋井市:※ふくらませる)

神に祈りを金谷の宿(静岡県島田市:※叶う)

憂き目を流せ、大井川

島田(静岡県島田市)、藤枝(静岡県焼津市)早や過ぎて

尋ねて聞けば、丸子川(まりこがわ:安倍川水系:※?)

三保の松原(静岡県清水区)細見し

のう、我が子の梅若を

夢になりとも、三嶋の宿(静岡県三島市:※見る)

足柄(静岡神奈川県境)、箱根、打ち過ぎて

恥ずかしながら、姿をば、

相模の国に聞こえたる(※さがみ:かがみ?)

大磯(おいそ)と聞けばよしなやな(※おいそ:老蘇森=不如帰=冥途の鳥なので良くない)

早や、藤沢に着き給う(神奈川県藤沢市)

片平宿(神奈川県横浜市保土ヶ谷区)を来てみれば

今は、夏かと覚えたり

秋には、やがて、保土ヶ谷の(※程もなく秋)

渡りかねたる、金川宿(神奈川宿:横浜市神奈川区:※「かね」の音を重ねるカ)

川崎に六郷の橋

世の中の悪しき事をも、品川や(※しない)

遠離(えんり)、江戸の

武蔵と下総の境なる

隅田川に着き給い

此処や彼処に佇み給う

御台所の御有様

儚かりともなかなか

申すばかりはなかりけり

つづく

Photo_2


忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ③

2013年03月05日 15時46分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ③

 無惨にも粟津利兼は、がんじがらめに縛り上げられて、松井の前に引き出されました。松井が、

「やあ、利兼。俺の味方に付けば、こんなことにはならなかったものを。さて、梅若は、

どうした。自害したか。落ち延びたか。正直に申せ。」

と言えば、粟津利兼は、

「ええ、定景。おのれは、主君の恩も忘れ、このような悪逆をするなら、因果は忽ちに

報うぞ。」

と言い放ちました。腹を立てた松井は、

「ふん、そんなに早く死にたいか。」

と言うと、白川の河原に引き出して、首を刎ね、晒し首にしたのでした。その上、高札

に、『この者、悪心を企むにより、斯くの如く行うものなり』と書かせたのは、まった

く情けないことです。

 松井が、首実検にやって来ました。すると、なんとも不思議なことに、粟津利兼の首は、

目を開いて、こう言いました。

「如何に定景。私に悪心など微塵も無いのに、よくもこんな高札を立てたな。三年の内

には必ず、お前達も晒し首にしてやるから覚悟せよ。」

そうして、粟津利兼の首は、天高くに飛び上がって行ったのでした。これを見た松井は、腰

を抜かし、ぶるぶると震えながら館へ逃げ帰ったのでした。

 これはさておき、落ち延びた梅若殿は、粟津の二郎利光に連れられて、坂本へと山道

を歩いていましたが、闇夜のことで道に迷ってしまいました。だんだんと夜が明けてきました。

しかし突然、粟津利光の具合が悪くなり、木の根本に倒れ伏してしまったのでした。驚

いた梅若殿は、

「どうしたのだ。利光。お前の父、利兼は、現人神と言われた人ぞ。その子ともあろ

う者が、どうしてこんなところで倒れてしまうのだ。母上のいらっしゃる所まで、何と

してでも連れて行けよ。お前が。ここで死んでしまったら、私はどうすればよいのだ。」

と、流涕焦がれて泣くばかりです。もう既に夜も明けてしまいました。梅若殿は、谷に

下ると、袂を清水に濡らして、利兼に与えようとしました。しかし、今度は帰り道を失

ってしまいました。獣道に迷ってしまったのです。あちらこちらと踏み迷って、どうし

ても粟津利光の元に帰ることができません。そうこうしている所に、奥州の人買いが通

りかかりました。人買いは、梅若殿を見つけると、

「おやおや、若殿。どうされましたか。私が助けてあげましょう。」

と言い、東国へと、梅若殿を連れ去ってしまったのでした。

 さて、粟津利光は、長いこと倒れていましたが、やがてかっぱと起きあがると、梅若殿

が見あたりません。

「さては、お一人で坂本へお行きになったか。」

と思い、急いで坂本へ走りました。しかし、坂本に着いてみると、御台様は、

「どうして、梅若丸は居ないのか。」

と言うではありませんか。粟津利光は、

「はっ、白川より御供をいたして、山を越えて参りましたが、途中、私の具合が悪くな

り、道端で倒れてしまいました。気が付いてみると、既に若君の姿がありませんでした。

お一人でこちらに向かわれたとばかり思っておりましたが、きっと獣道に迷われたに違

いありません。探しに行って参ります。」

と、そのまま立ち上がると、山々谷々を尋ね回りましたが、梅若殿の行方は、分かりませんでした。

粟津利光は、

「このまま、手ぶらで帰るのなら、御台様はさぞかし私を恨むことだろう。この上は、

どこまでも探し続ける外はない。」

と考えて、諸国修行をしながら、梅若殿を探すことにしたのでした。

 さて、特に哀れであったのは梅若殿でした。梅若殿を連れた商人は、大津の打出の浜

から、瀬田の唐橋を打ち渡り(滋賀県大津市)、東の方向へと足早に進みました。さす

がの梅若殿も、これはおかしいと思い、

「いったい、何処へ連れて行こうというのですか。私は、山中に家来を残して来ています。

坂本へ連れて行って下さるのでは無いのですか。」

と問い質しました。ところが、商人は、

「何、小賢しいこと小僧め。つべこべ言わずに早く歩け。」

と、引っ張ります。梅若殿は、

「さては、お前は、人拐かし(かどわかし)だな。とんでもないことになった。」

と、やっと事態に気が付くと、腰の刀に手を掛けましたが、あっという間に商人に取り

伏せられてしまいました。商人は、刀を奪い取って、梅若殿を散々に打ち打擲しました。

梅若殿は、

「お願いです。私は都の者ですよ。平にご容赦して、都に連れて帰って下さい。」

と泣きながら懇願しましたが、商人は、

「口のうまい小僧だ。」

と言って、更に打ち叩き、引きずって、歩け歩けと責め立てました。その有様は、まる

で、阿傍羅刹(あぼうらせつ)が、罪人を引っ立てて、懲らしめるが如くです。そうし

て、梅若殿は、隅田川の辺まで連れて来られたのでした。

 可哀相に梅若殿は、馴れぬ旅に重ねて、杖で強く叩かれ、足は切れて血潮に染まり、

もう一歩も歩けない状態です。川岸にどっと倒れ伏すと、もう立ち上がれませんでした。

商人はこれを見て、

「何で歩かぬか。急げ、急げ。」

と、引きずりますが、労しいことに梅若殿は、叫び声も出ずに、横たわったままです。

商人はいよいよ腹を立てて、死んでしまえとばかりに、杖で打ち叩き、やがて一人で東

国へと去って行ったのでした。まったく情けも無い次第です。

 そこに、在所の人々が集まって来て、声を掛けました。

「どうやら、由緒のある方とお見受けしますが、どちらからいらっしゃたのですか。

お名前は何と言うのです。」

梅若殿は、これを聞くと、苦しい息の下より、こう答えました。

「おお、情け深い人達ですね。私は、都、北白川、吉田の少将、是定の嫡子で、梅若

丸と申します。人商人に拐かされ、こんなことになってしまいました。都にいらっしゃ

る母上様が、さぞかしお嘆きになっていることでしょう。ああ、もうこうなっては、仕

方ない。私が、ここで死んだなら、道の辺に塚を築いて、印に柳を植えて下さい。そうして、

事の次第を高札に書いて立てて下さい。御願いします。ああ、お懐かしい母上様。」

梅若殿は、これを最期の言葉として、御歳は十三歳、三月十五日に、お亡くなりになっ

てしまったのでした。梅若丸の御最期は、なんとも哀れな次第です。

つづく

Photo


忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ②

2013年03月04日 13時15分19秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ②

 それから、3年が過ぎました。梅若殿は十三歳となり、明け暮れに父是定の菩提を弔

う殊勝さです。ところが、梅若が元服するまで、吉田家を任された叔父の松井源五定景

は、この頃こんなことを考えていたのでした。

「梅若が、十五歳になったら家督相続の為に参内しなければならないが、このまま、梅

若の下で仕えるだけというのも口惜しいことだ。いっそのこと、梅若を殺してしまい。

この俺が、吉田の家を継いでやろう。」

と、世にも恐ろしい企みを企てたのでした。松井は、山田の三郎を呼んでこう言いました。

「安親殿よ。お前に頼みたい事があるのじゃが、引き受けてくれるならば、話してやろう。」

山田三郎安親は、

「何でもお聞きいたしましょう。」

と言うので、松井は喜んで、恐ろしい計画を話したのでした。

「話しと言うのは、別でもない。実は、梅若を殺して吉田の家を俺が継ぐならば、山田殿

にも、過分の恩賞を取らせるという話しじゃ。どうじゃな。山田殿。」

山田はこれを聞くと、

「しぃ。声が高い。私が一味すれば、対する敵もありませんな。粟津の六郎利兼をなん

とかせねばなりませんが、奴は、元より大酒飲み。沢山酒を飲ませておいて、何とか

話しを付けましょう。もし、うんと言わなければ、その場でばっさりやってしまえば良

いでしょう。」

と話しに乗ったのでした。松井は、

「よしよし、それなら、お前は一旦戻っておれ。俺は、これから利兼を呼び出す手筈を

調えよう。」

と言うと、様々な肴を用意して、粟津六郎利兼に急ぎの使いを送ったのでした。何事か

と利兼は、急いで駆けつけて来ましたが、酒宴が準備されていて、ただ酒を勧められる

ばかりです。やがて、松井は人払いをすると、梅若殺害計画を切り出しました。

「かようかようの企てじゃが、おぬしも乗らぬか。」

粟津は、これを聞いてはっとしましたが、さらぬ体に聞き流して、

「おや、これはお恥ずかしいことを。私の心を引き計ろうとされるのですか。」

と答えました。松井は更に、

「いやいや、これは偽り事ではないぞ。山田殿も既に一味に加わっておる。おぬしもこ

の計画に加わらぬか。」

と誘いました。粟津は、座り直すと、

「のう、松井殿。梅若殿は、あなたの甥ではありませんか。この粟津六郎利兼は、その

ようなことに聞く耳はもちませんぞ。」

と、言うなり太刀を抜いて松井に斬りかかりました。松井は、危うい所をかわすと、飛

んで逃げ出しました。粟津は、追っかけて討ち殺そうとしましたが、

「いや待てよ。うかうかしていると、一味した山田が、梅若殿を殺しに向かうかもしれぬ。

ここは先ず、御台様や梅若殿に事を知らせ、お守りせねば。」

と思い直して、館に急行したのでした。粟津は、御台様の前で、涙ながらに報告をしました。

「松井源五、山田三郎の両名は、結託して、若君を殺して吉田の家を乗っ取ろうと企て

ております。私にも、一味せよとありましたので、座敷を蹴ってここに急行いたしました。

きっと、連中はこれより夜討ちに押し掛けて来ると思われます。さあさあ、直ぐにここ

から落ちますぞ。ご用意を。」

粟津が、大息ついで申し上げると、御台様も梅若殿もどうして良いか分からずに、ただ

泣くばかりです。粟津は、

「そのように、心が弱くてはいけません。とにかく先ず、御台様をお助けいたします。」

と言うと、御台様を坂本(滋賀県大津市坂本)の叔父、権の太夫の館に匿いました。

(※原文では、「西坂本」とあるが、西坂本は比叡山の西側地域修学院付近を指し、北

白川に近接しており、又後段の記述に照らしても地理的な矛盾を生じる。従って本稿で

は、これを比叡山の東側の「東坂本」に読み替えることとする。)

それから、粟津は東白川へ取って返し、約百人程の侍、中間(ちゅうげん)を集めると、

松井の夜襲に備えて、館の守りを固めたのでした。

 一方、松井は、粟津に切り掛けられて、ほうほうの体で逃げ延びましたが、足の震え

はまだ納まりません。山田を呼び出して、事の次第を語ると、山田は、

「時刻を移してはなりませんぞ。」

と、約三百の軍勢を揃えると、一気に北白川へと押し寄せ、鬨の声を上げたのでした。

待ち受けていた粟津は、櫓の上に駆け上ると、

「寄せ来たるは、松井の軍勢と覚えたり。無用の戦はやめ、その陣を退け。」

と言いましたが、一人の武者が進み出て、大音声に名乗りました。

「只今、ここに進み出た者を誰と思うか。松井源五定景の郎等に、兵五の介とは俺のことだ。

侍の身分は、渡り者だ。そっちこそ、今の内に降参せよ。」

これを聞いた粟津は、

「おのれ、三代相恩の主君を忘れ、主に弓引くとは、野干というより外はない。」

と言うなり、ぐっと弓を引き絞ると、びゅんとばかりに弓を放ちました。無惨にも矢は、

兵五の胸板にはっしと突き立ち、ばったりと事切れました。これを戦の初めとして、

敵味方が入り乱れての合戦となりました。しかし、多勢に無勢。やがて、粟津の勢は、

悉く討ち殺されてしまいます。粟津は、梅若殿に急いで、落ち延びるようにと勧めました。

梅若殿は、

「絶対に自害するなよ。お前も落ち延びて、早く合流せよ。」

と言い残すと、粟津の二郎を供として裏門から脱出しました。それから、粟津六郎利兼

は、櫓に上り、

「やあやあ、寄せ手の奴輩。鳴りを沈めて、よっく聞け。梅若殿は自害なされた。ここ

で、剛なる者が腹を切る所を見せてやるから、手本にしろ。」

と言うなり、鎧の上帯を切って捨てると、腹を切る振りをして、裏門へと脱出を計りましたが、

敵勢が大勢打ち寄せて、無念にも絡め取られてしまったのでした。

つづく

Photo_2


忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ①

2013年03月04日 10時49分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

「角田川」は、能の題材でもあり、古説経時代の五説経にも数えられる程、有名な話し

である。歌舞伎にも大きな影響を与えた題材であり、東京都墨田区の木母寺では現在も

3月15日から一ヶ月の間、主人公「梅若」の供養や芸道成就の祈願が行われている。

従って、『忘れられた物語』とは言えないかもしれない。しかし、残念なことに、説経

の古い正本が残っていない。歌舞伎では、「隅田川物」が高名だが、説経としての「角

田川」は忘れ去られているようである。

説経正本集第3(36)角川書店

元禄頃と推定 太夫不明 鱗形屋孫兵衛

すみだ川 ①

 本朝七十三代堀川天皇の御世(在位1087年~1107年)の頃のことです。都の

北白川(京都市左京区東部)に吉田の少将是定(これさだ)という位の高い方がいらし

ゃいました。この是定という方は、自らは五戒を守り、人には仁義をもって接し、詩歌、

管弦、七芸六能(※六芸四能カ:六芸=礼楽射書御(馬)数:四能=琴棋書画)に秀で、

都にその人ありと知られておりました。是定には、二人の子供がありました。嫡男は、

十一歳になる梅若丸。二男は九つになる松若殿と申します。お二人とも、そのお姿は、

花のように美しく、お話になるその幼気なお言葉は、まるで露を散らすように可憐でしたので、

父母から受ける御寵愛も限りがありませんでした。

 ある時、是定は、北の方を近付けて、こう言いました。

「妻よ。聞きなさい。つくづくと思うことは、人の一生は、風前の雲と同じ。命は石の

火の様にあっという間のことだ。二人の子供の内、一人を出家にして、我等が死した後

の菩提を弔わせようではないか。どうじゃ。」

これを聞いた御台は、こう答えました。

「それは、もっともな仰せではありますが、梅若は惣領ですから、吉田の家を継がせな

くてはなりません。松若は、まだ幼少ではありますが、松若を出家させて、我々の菩提

を祈ってもらえば、こんな嬉しいことはありません。」

夫婦揃って菩提心を起こした、その心の内は殊勝なことです。夫婦は松若に、

「お前は、まだ幼いけれども、学問をさせるために、山寺へ登らせることにした。栴檀(せんだん)

は、双葉より芳しい。(※諺:大成する人は幼少より優れる)学問を究めて、吉田の家

の名を天下に示せよ。」

と言うと、山田の三郎安親(やすちか)を供として、東谷の妙法院(京都市東山区)

に入り、日行阿闍梨(にちぎょうあじゃり:不明)の弟子となったのでした。日夜、学

問に精を出したので、その年の暮れ頃には、もう内外すべてのことに精通してしまいました。

人々は、弘法大師の化身だと、羨ましがらない者は無かったということです。しかし、

諸学を修めたことで、松若には高慢な心が芽生えていました。仏神の天罰でしょうか。

ある日、どこからとも無く、山伏が一人現れると、

「松若殿、昼夜の学問に、さぞやお疲れのことではありませんか。私の住み家へいらっ

しゃり、どうぞお疲れの心を癒してください。」

と、言うなり、松若殿を掴み上げて、あっという間に、虚空へと消えたのでした。人々

は驚いて、あちらこちらと探し回りましたが、なにしろ天狗の仕業でしたから、その行

方が分かるはずもありません。お供の安親は、ひとまず北白川に帰り、事の次第を報告

することになりました。

 この事態を聞いた吉田の少将夫妻は、わっと叫んで泣くしかありません。是定は、

「何事も業の定めとは言うものの、こんな事になると知っていたのなら、寺などに入れ

なかったものを。愛おしい松若よ。なんとも恨めしい世の中であるなあ。」

と、口説きました。このことがあってから、是定殿は、俄に体調を崩されて、食事も満

足に取れない状態となってしまいました。御台や梅若丸が、看病を尽くしますが、病は

さらに重くなる一方でした。最期を悟った是定は、舎弟の松井源五定景(さだかげ)や

家来の粟津六郎利兼(としかね)、山田三郎安親を、枕元に呼び寄せると、

「如何に皆の者。私の娑婆での縁も、最早、尽き果てて、これより冥途に向かうであろう。

梅若は、未だ幼少であるから、十五の歳になったなら、参内させて、吉田の家を継がせ

てくれ。それまでの間のことは、定景に頼み置く。利兼、安親は、定景と心を合わせて、

若を盛り立ててくれよ。

 梅若よ。父が死んだ後も、母に孝行を尽くし、立派に吉田の家を継ぐのだぞ。それでは、

さらばじゃ、北の方。名残惜しい梅若よ。」

と言い終えると、念仏を唱えながら亡くなったのでした。御台所も梅若も、おろおろと

泣き崩れる外はありません。御台様の嘆き事も哀れです。

「ああ、なんと儚いことでしょうか。このお殿様と、美濃の国の野上(岐阜県不破郡関ヶ原町)

で出合ってからというもの、片時も離れたことは無かったのに、冥途の旅といって、さ

っさと行ってしまうなんて、あなたは寂しくは無いのですか。私も一緒に、連れて行っ

て下さい。」

と、遺体に縋り付いて泣くのでした。しかし、どうしようも無いことなので、涙ながら

に、野辺送りをし、無常の煙としたのでした。松若は行方知れずとなり、今度は夫を失

った御台様の嘆き悲しみは、一方ならぬものでした。御台様と梅若殿の心の内は、哀れ

ともなかなか、申すばかりもありません。

つづく

Photo