すみだ川 ⑤
御台様は、梅若殿の行方を探しながら、とうとう隅田川の辺りまで辿り着いたのでした。
ここに、渡し船がありました。御台様は、
「のう、舟人。私を舟に乗せてください。」
と頼みました。舟人は、
「言葉を聞くところは、都人そうじゃが、姿を見れば狂人。それでは、面白く狂って
見せよ。そうでなければ、舟には乗せぬ。」
と言いました。御台はこれを聞いて、
「のう、如何に、渡し守。例え東の果ての国であっても、名所に住む者ならば、心もあ
るでしょうに。水面に映る月を見てごらんなさい。風が吹いて波が立てば、見えなくな
りますが、本物の月は決して曇ることはありませんよ。姿だけを見て、狂えとはなんと
物憂いことでしょう。馬にも乗らないで歩いて来たこの狂女は、もう疲れ果てているのです。
ここは、名所の渡し場。もう日も暮れようとしているのに、舟に乗れとは言わずに、狂
えと言う田舎人の心は、なんと辛いことでしょうか。狭くはなるかもしれませんが、ど
うか舟に乗せてくだされや。」
と更に頼みました。これを聞いた舟人は、
「おお、これは、誤った。狂女には似合わぬ上品さよ。さあ、乗り給え。」
と、舟を寄せると御台様を舟に乗せてくれたのでした。
さて、舟に乗ってしばらくすると、向かいの川岸では、木の回りに沢山の人々が集まって
いるのが見えてきました。御台様は、これを見て、
「のう、渡し守。あれに、大勢の人々が集まっているのは、私を待ち受けて、狂わせよ
うとしているのですか。」
と聞きました。舟人は、
「いやいや、あれは、大念仏をしているのです。外のお客さんも、知らない人が多いこ
とだろうから、この舟が向かいの岸に着くまでに、あの大念仏の由来を聞かせてあげま
しょう。よく聞きなさい。皆さん。昨年の三月十五日。ちょうど一年前の今日のことです。
歳の頃は、十二三歳の幼い者が、重病となってこの岸辺に倒れて居た所を、近所の人々
が助けて、様々に看病しましたが、とうとう亡くなってしまいました。今際の際に何処
のどういう者かと聞いてみると、その幼き者は、苦しい息をつきながら、
『私は、都北白川の吉田何某の嫡男、梅若丸です。人商人に拐かされ、こんな姿となりました。
都に母が一人で居りますが、私のことを捜しに来る者があれば、このことを伝えてください。
その為に、どうか、道野辺に塚を築いて、印に柳を植え、高札を立ててください。』
と、大人しく念仏を唱えて亡くなったということです。さて、船中にも都人がおります。
逆縁とはなりますが、皆々念仏を唱えください。」
と、言うのでした。対岸に着くと人々は、
「さてさて不憫なことじゃ、逆縁ながら、念仏をいたしましょう。」
と舟から降りて行きましたが、労しいことに御台様は、船端にしがみついて泣き崩れて
います。舟人はこれを見て、
「心の優しい狂女じゃな。今の物語にそれ程、涙を流すのか。さあさあ、もう着いたか
ら、舟より降りなさい。」
と言いますが、御台様は、顔を上げて、
「舟人よ。今の話しは、いつ頃の話しで、名をなんと言いましたか。」
と聞き直しました。舟人は、
「吉田の何某、梅若丸。さあさあ、あなたも都の者ならば、岸に上がって念仏しなさい。」
と答えました。御台様は、
「のう、舟人よ。これまで、親類も親も尋ねて来なかったのも当たり前のこと。その子
の母は、私なのですから。」
と、又泣き崩れるのでした。これを聞いた舟人も人々も、それはそれはと、袖を濡らさ
ない人はいませんでした。舟人は涙ながらに、
「今までは、他所の嘆きと思っていたが、あなた様の身の上のことだったのでか。さあさあ、
今はもう、帰らぬことですから、弔いをなされなさい。」
と勧めるのでした。御台様は、泣く泣く舟より上がると、塚の前に平伏して、哀れに口
説くばかりです。
「梅若よ。お前に会う為に、此処まで遙々と下って来たのに、今はもうその姿もこの世
に無く、その印だけを見なければならないとは、なんと無惨なことでしょうか。前世
からの因縁とは言え、死んで東路の土となり、この塚の下に我が子が居るのですね。
どうかもう一度、この世の姿を、この母に見せてくだされや。ああ、なんと儚い浮き世
なのでしょうか。」
と、声をあげて泣きました。人々はこれを聞き、
「とにかく、念仏を唱えなさい。死者も喜んでくれるでしょう。」
と言うと、御台様に鉦鼓(しょうご)を持たせて、念仏を勧めました。御台様は、よう
やく起きあがると、
「逆縁ながら、我が子の為に。」
と、鉦鼓を鳴らして、声を上げ、南無阿弥陀仏と唱えれば、人々も共に唱和するのでした。
御台様は、鉦鼓を止めると、
「のう、皆様。幼い声の念仏が、この塚の中から聞こえます。もっと、念仏してください。」
と言えば、人々は、
「いやいや、我々は遠慮して、母上だけが念仏なされなさい。」
と言うのでした。御台様はその言葉に従って、更に鉦鼓を打ち鳴らして南無阿弥陀仏
と唱え続けました。すると、また塚の中から、幼い声の念仏が聞こえ、やがて、柳の木
の陰から、梅若殿が姿を現したのでした。御台様は、あまりの嬉しさに、鉦鼓も撞木(しゅもく)
も放り出して、抱きつこうとしました。しかし、抱きつこうとすると消え失せ、また現
れます。
「おお、我が子か。」
「母上様。」
と、声は交わしますが、まるで、陽炎か稲妻、水の月の様に、捕まえようとすれば消え
去り、又現れ、見えつ隠れつしている内に、夜は明けて、そこには、柳の木だけが立っ
ているのでした。御台様は、柳の木に抱きついて、
「この世の名残に、今一度、姿を見せなさい。梅若よ。梅若よ。私も一緒に連れていきなさい。」
と叫ぶと、塚の上に倒れ伏して号泣するのでした。そこに、一人の僧が近付き、
「お嘆きは、もっともですが、菩提をお弔いなされませ。」
と、御台様を慰めます。御台様は、涙を堪えて、
「お坊様の教化は、大変有り難いことです。今はもう嘆いても、仕方有りません。梅若
の後世を弔う為に、どうか私を出家させてください。」
と頼みました。僧は、願いを引き受けました。御台様は、その場で髪を剃り落とすと、
妙亀比丘尼(みょうきびくに)となり、浅茅が原(東京都台東区花川戸)に庵を結んで
梅若の菩提を弔ったのでした。妙亀比丘尼は、花を摘み、香を焚いて、念仏を唱える毎
日を過ごしておられましたが、ある日、浅茅が原の池水にお姿が映るのをご覧になると、
「これこそ、明鏡円噸(えんどん)の悟りである。」
と、只一筋に思い切られて、西の空に傾く月を見ながら、
「いざや、私も連れて行ってください。」
と言うと、鏡の池にその身を投じたのでした。かの母上様の最期は、哀れともなかなか、
申すばかりはありません。
つづく