※「吉岡刑事物語・49,50」からの続きです。
どうしてあんな処にいたのだろう。
いやそれより、いったいどうやって
あのような処から生きて還れたのだろう。
―ダンテ
2001年 1月
夜更けの空を覆った厚い雲は午後にはみぞれを降らせるだろうと、
低音に絞ったカーラジオから天気予報が流れていた。
三島敬一は後部車窓から視線を伸ばし、重く湿った空を見た。
「勝訴間違いなしですよ。やりましたね」
三島は視線を前方に移した。革張りのヘッドレストの先から、
ハンドルを握る新人弁護士の後頭部が見えている。寝坊でもしたのだろう、
右側頭部の髪が纏まりのない曲線を描いていた。
「世論は間違いなくこちらに勝利の風を吹かせていますよ。
今朝の各社新聞記事も引き続き検察側の決定的な落ち度を叩いているし、
救う会へのサポート数は日ごとに増えている。世間は谷原を救う方向に
正義を見いだしているんですよ。やりましたね」
やりましたね、と三島の助手を勉めているこの若い弁護士は、同じ言葉を
二度繰り返して会話を括った。三島は奇妙なものでも眺めるような目つきで
目の前の寝癖に視線を止めていた。勘違いしないでほしい。それからそう思った。
自分は谷原を救おうなんて思ったことは一度もないし、実際にそんなことはしていない。
人を救うなんて神であろうと出来やしないことだ。神という存在が
この世にあればの話だが。人生にかかった梯子を昇るのも堕ちるのも、
自分の意思にかかっている。自分の意志が宇宙であり、人の数だけ宇宙が存在する。
互いの宇宙は決して混ざり合う事はない。自分はただ谷原の表面に浮き上がった
罪量の間違いを法で修正しただけだ。そう新米の弁護士に向けて言おうかと思ったが、
しかし敢えて話さなければならない理由も義理も見つからず、三島は車窓へ視線を戻した。
黒塗りのマジェスタは東京高裁へと滑らかに自分の身体を運んでいる。
砂色に垂れ込める雲はやがて自分の重みに耐えきれず陰気な雨を降らせるだろう。
天気予報は当たるかもしれない。ばかにしたものじゃないな。三島はそう思いながら、
車が赤信号で止まった先の横断歩道に視線を渡した。小さな子の両手を取った老夫婦が
ゆっくりと道を横断していく姿が視野に入ってきた。子供の母親らしき笑顔の女性が
数歩下がったあとからついていく。
敬ちゃんは賢い子だねぇ。
ふと目にした情景は、ふいに遠く懐かしい記憶を喚起させた。
やっぱり三島さんちの子は他の子とは違う。
あの子は神童だよ。
きっと将来は一角の人物になるに違いないから。
物心ついたときからずっと聞き続けてきた周囲からの言葉の数々。
成長するにつれ形容の仕方こそ変わったが、自分に向けられる言葉の内容は
普遍的に変わることはなかった。
三島にはかなわない。
そう言われるのが当たり前だった。当たり前の褒称だった。
不意に、三島の視線が舗道の先に伸びた。眉根が寄り、瞳に険が走っていく。
目線の先に見慣れた背中が見えていた。華奢ともいえる身体つきに、
意外なほど広くしっかりとした肩幅の片側をかすかに下げて、
寒空の下を独り歩いている。
三島は、その背中をじっと見つめた。記憶の中の賞賛がまた耳の奥に戻ってくる。
三島にはかなわない・・・。
そう、自分はいつもトップだった。
誰にも何も負けたことはなかった。
前を行く背中の先に、公判の待つ高裁の建物が見えている。信号が青に変わった。
マジェスタは発進し、舗道を歩く吉岡の横を通り過ぎていった。
「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」
証言台から宣誓文を読み上げた関口耕介は、義理の両親殺しの被告人である
谷原信也の犯行に至るまでの経過を知る重要証人として、
検事からの主尋問に言葉少なに受け答えしたあと、
続いて反対尋問に立ち上がった弁護人へと背筋をまっすぐに整え直した。
着慣れないスーツの襟が首すじに当たって、居心地が悪かった。
「証人は、被告人と第一の事件前から顔見知りだったそうですね?」
満席の傍聴人で埋まる法廷内に、弁護人である三島敬一の第一声が低く響き渡った。
「知っていました」
関口耕介は答えたあと、軽くつばを呑み込んだ。喉の奥が乾いていた。
「どういう経緯で知り合ったのか話してください」
「私のよく通っていたスナックで、アルバイトをしていたのが谷原・・
谷原君でした」
「それはどのようなスナックですか?」
「どのような・・・といいますと?」
「柄、と言ったらいいのかな」
関口は軽く眉根を寄せた。
「とても雰囲気のよい店でした。勤め先と駅の間にある小さな町のスナックで、
頼めば軽い夕食も出してくれるので、仕事帰りの人たちがよく立ち寄っていました」
「その店の従業員は何人くらいいましたか?」
「ママ・・オーナーと手伝いの女性一人と谷原くんの三人でした」
「あまり広くない店内という印象を受けますが、客が5,6人も入れば
すぐにいっぱいになってしまうくらいの広さですか?」
「ええ、そんな感じです」
「ならば客同士の会話は互いに筒抜けですね。あなたはそのスナックに、
週どのくらいの頻度で通っていましたか?」
「週末だけです。金曜日と・・それからごくたまに木曜日に」
「通っていたのはそのスナックだけですか?」
関口はつと返答に詰まって、検事の方を窺い見た。視線の先で、
検事は苦味切った表情を浮かべながら手元の調書に目を走らせている。
「そのスナックだけに通っていたのですか?」
関口は三島へ視線を戻した。
「他の飲み屋には行かなかった?」
「・・・はい」
関口は呟くように返答をした。
「それはどうして?」
関口は言葉に詰まって戸惑い、証言台の上へ視線を落とした。
「どうして他のスナックに行こうとは思わなかったのですか?」
「・・・」
「どうしてなのかな?」
淡々と質問を繰り返す三島に関口は顔を上げられなかった。
関口の気持ちは傍聴席に向かっていく。どうしても裁判に行くといって着いてきた息子が、
その中に混じっていた。
「答えていただきたい」
俯く関口の瞳の中に、さきほど読み上げた宣誓文の文字が映っていた。
「そこで働いていた人に・・・会うためです・・・」
ためらいの秒針に押し出されるように、関口はやっと口を開いた。
「従業員の女性ですか?」
「・・・はい」
「恋人、ということ?」
「異議を申し立てます」
検事が立ち上がった。
「弁護人の質問は、証人の個人生活に関するもので、主尋問とは何ら関連のないものであり、
適当ではないと思われます」
検事の言葉を受けた裁判長は、証言台にじっと視線を落としている関口の表情を、
掬い取るような目つきで暫く見つめた後、
「異議を認めます。弁護人は質問を変えてください」
と静かに言ったあと、視線を検事、三島の順に移していった。
三島は余裕の表情で質問の内容を変えていく。
「奥さんが他界したとき、あなたはまだ二十代後半でしたね。
やり直そうとすれば新しい生活を他の誰かとやり直せたはずなのに、
しかしあなたは義理のご両親との同居を選んだ。それは何故ですか?」
俯いたままの関口の身体が強ばった。
「何の理由での選択ですか?」
ぐっと瞳を閉じた関口の様子を、三島は冷ややかに見据えている。
「答えられませんか?」
関口は、傍聴人の全視線が皮膚に刺さってくるのを痛いほど感じていた。
息子の視線がその中にはある。
「・・・当時・・・失業中で収入がなく・・・」
目を閉じたまま、関口はやっと言葉を押し出した。
「それで行く当てがなく止むなく同居をした?」
「止むなくだなんて思ったことはありません」
咄嗟に目を開き、語気を強めて反論した関口の顔を、
三島はたっぷりと5秒ほど見つめたあと、
「なるほど」
と皮肉にもとれる口調で受け流してから尋問を再開した。
「あなたは奥さんと死別してから何年か後に再就職先を見つけましたね」
「・・・ええ」
「それで生活に少しだけ余裕ができた」
質問の意図を計りかね、関口は三島の目を怪訝そうに見つめ直した。
感情がどこにあるのかわからない瞳が冷静に自分を見つめ返してくる。
薄く引き締まった三島の唇が、再び開いた。
「自由になる金、つまり自分の小遣いも出来ましたね?」
「・・・ほんの・・・少しだけなら・・・」
「それで行きつけのスナックをつくった?」
すかさず椅子から立ち上がりかけた検事を裁判長は目で制した。三島は続ける。
「あなたは自由になる金で行きつけのスナックを作り、
そこで出会った女性従業員と恋仲になった。そうですね?」
関口は否定も肯定もせずじっと三島を黙視している。
三島はそんな関口の目を捉えながら微かに鼻で笑った。
笑ったような仕草を見せた。
「その女性とは遊びの付き合いでしたか?」
関口の目に反発の光が走った。
「遊びではありません。結婚は視野に入れていました」
検事が異議を唱える前に関口は憤然と返答した。
三島の口の端に、今度ははっきりと薄い笑みが浮かんでいった。
「そうですか。第一、そして第二の事件の起こった日、
あなたはどこにいましたか?」
「え?」
関口の口から思わず意外な声が出た。
「両事件とも平日の昼間に発生したものですが、あなたはそのとき、
どこで何をしていましたか?」
「仕事をしていました・・・」
仕事?と三島は間髪入れずに問い質し、そして暫く間を置いた。
法廷内は息をひそめたように静まり返っている。
「おかしいな」
やがて三島の声が静寂を破った。
「不思議と誰もその裏付け証言をしていないですね。それは真の証言ですか?」
関口は固く俯いたまま拳を握りしめ、上目がちの視線を傍聴席に流した。
息子の両横に、同伴してきてくれた勤め先の社長夫婦が見守ってくれている。
「正直に答えてもらわないと困りますよ」
三島の追求はやまない。関口は強ばった身体の底へと震える息を吸い込んだ。
開いた唇も凍えたように震えている。
「恋人と・・・会っていました。いつもではなかった、その日に限って・・・」
「おかしいな」
三島はまた言った。調書を手に取り、メージをめくっていく。
「その恋人の裏付け調書には、その日その時刻に被告人と会っていたことになっている」
関口は弾かれたように顔を上げた。大きく見開いた目が、そんなはずはないと訴えている。
「あなたの恋人の証言は、あなたの証言とはかなり食い違っていますね」
「異議があります!」
検事が席を立った。
「弁護人の言う恋人の証言は、本人自らが出廷して証言されるべきものであり、
本法廷において適当ではありません!」
「異議を認めます。弁護人は尋問を変えて下さい」
裁判長の言葉に、三島はゆっくりと調書から顔を上げた。
「あなたは被告人が以前何度か傷害事件を起こしていたことを知っていましたね?」
呆然とした思いを引きずったままの関口は、絶句したまま三島を眺めている。
「さきほどあなたは証言しましたが、行きつけのスナック店の中はとても狭い。
客同士の会話も筒抜けだ。あなたはそこの常連客だった。
他の客たちが酒のつまみにしていた話は、あなたの耳にも当然入っていたはずだ。
本人のいない所でされていた被告人の多額の借金の話も、あなたは当然知っていた。
金の為なら何でもやりかねない奴だと話していたことも。実際、
被告人が過去に起こした傷害事件はみな金銭絡みの事件が因を発していた。
だから常連客たちはいつもオーナーに忠告していた。気をつけろと」
関口は三島の機械的によく動く薄い口元をじっと見つめていた。
「何故なのかな。あなたは店でよく、義理の両親さえいなければ
その従業員の女性と晴れて結婚できるのにと冗談まじりに話していましたね。
それは数人の客たちの証言で調書にも提出されている。あなたは他の客たちがいる店内で、
わざと聴こえるようにそんな話をしていた。それは何故ですか?二人が亡くなれば
彼らの資産は全て自分のものになるとも、他の客たちの前で吹聴していましたね。
どうしてわざわざそんなことを被告人の前で声高に話していたのですか、
関口さん?」
不意に名前で呼ばれて、関口は顔を上げて三島を見た。
無機質なコンクリートの質感を思い起こさせる目が、じっと自分の目を捉えて離さない。
「邪魔な二人は消えてしまえばいい、と」
三島は一語一語確かめるように発音しながら言った。
「そう思っていたからではないですか?」
茫然と三島の顔を眺めていた関口の瞳に、三島の放った言葉の意味が徐々に沈み込んでいき、
やがてその瞳の奥底から、はっきりと蔑みの色が滲み上がってきた。
「そんなことはありません」
関口は初めて正面切って三島の顔を睨みつけた。
「そんなことはない?」
三島は首を軽く傾げ、ぐっと睨み返してくる関口の顔をしげしげと眺めた。
「そんなことはない?」
「異議を申し立てます! これはあきらかに誘導尋問で-」
「異議を却下します」
裁判長は検事の異議申し立てを静かに遮った。
「もう少し話を聞いてみたいと思います。弁護人、続けてください」
検事はやり場のない怒りを込めて三島を睨んだ。
憎しみの篭った検事の視線は三島の横顔に掠りもしない。
傍聴人の全視線は関口と三島の二点だけに交互に集中している。
しかし三島が意識するのはただ一つの視線だけだった。
ただ一つの視線だけが自分に理由を与えるものだった。
最後部の傍聴席から事の成り行きを見つめている、
三島の人生に長く濃い陰を落とし続けてきた、
あの物静かな吉岡の瞳だけが自分に取って意味を持つものだった。
三島は背中に向けられたその視線を意識しながら尋問を続けた。
「そんなことはなかったとあなたは言いましたね。それはどういうことですか?
無職だった自分を厭うことなく、衣食住、子育ての手伝いまでしながら
長年一緒に生活をしてくれていた義理の両親のことを、新しい女性ができたからと、
いともあっさりと切り捨てることなんてできやしなかった。そういうことですか?
ならば何故、被告人のいる前で二人がいなくなればいいなんて話をしていた?
あなたの中では矛盾しませんか?彼女とは結婚したい、けれど長年世話になった
義理の両親のことは簡単に捨てられない、第一世間が許さない、恋人は若くて
とても魅力的だ、時間は待ってくれない、死んだ妻の両親の存在さえなかったら、
あの二人さえいなかったら、そう思った事は、なかったと? けれども、」
そこで三島は言葉を区切り、強ばった顔で睨みつけてくる関口の顔を
まじまじと見つめ直した。
「ピュロスの勝利。そう考えた事は?」
関口の顔に、不可解そうな表情が過っていった。それを逃さず捉えた三島の口元に、
再び薄い笑みが浮かんでいく。
「どうですか?」
三島は聞き返し、
「答えていただきたい」
そして促した。拳を握りしめている関口の身体が小刻みに震えだしていく。
「簡単ですよ。イエスかノーで答えればいい」
三島はそう付け足しながら、押し黙ったままでいる関口の視線を誘導するように
ゆっくりと証言台の上に置かれている宣誓書へと視線を移していった。
「二人がいなくなればいいと、そう考えた事はなかった?」
視線を関口に戻し、三島は問い直した。
法廷内に、静けさが深まっていく。
「答えられませんか?」
関口は言葉を繰り出せない。
「終わります」
三島は椅子に腰を下ろした。
つづく
どうしてあんな処にいたのだろう。
いやそれより、いったいどうやって
あのような処から生きて還れたのだろう。
―ダンテ
2001年 1月
夜更けの空を覆った厚い雲は午後にはみぞれを降らせるだろうと、
低音に絞ったカーラジオから天気予報が流れていた。
三島敬一は後部車窓から視線を伸ばし、重く湿った空を見た。
「勝訴間違いなしですよ。やりましたね」
三島は視線を前方に移した。革張りのヘッドレストの先から、
ハンドルを握る新人弁護士の後頭部が見えている。寝坊でもしたのだろう、
右側頭部の髪が纏まりのない曲線を描いていた。
「世論は間違いなくこちらに勝利の風を吹かせていますよ。
今朝の各社新聞記事も引き続き検察側の決定的な落ち度を叩いているし、
救う会へのサポート数は日ごとに増えている。世間は谷原を救う方向に
正義を見いだしているんですよ。やりましたね」
やりましたね、と三島の助手を勉めているこの若い弁護士は、同じ言葉を
二度繰り返して会話を括った。三島は奇妙なものでも眺めるような目つきで
目の前の寝癖に視線を止めていた。勘違いしないでほしい。それからそう思った。
自分は谷原を救おうなんて思ったことは一度もないし、実際にそんなことはしていない。
人を救うなんて神であろうと出来やしないことだ。神という存在が
この世にあればの話だが。人生にかかった梯子を昇るのも堕ちるのも、
自分の意思にかかっている。自分の意志が宇宙であり、人の数だけ宇宙が存在する。
互いの宇宙は決して混ざり合う事はない。自分はただ谷原の表面に浮き上がった
罪量の間違いを法で修正しただけだ。そう新米の弁護士に向けて言おうかと思ったが、
しかし敢えて話さなければならない理由も義理も見つからず、三島は車窓へ視線を戻した。
黒塗りのマジェスタは東京高裁へと滑らかに自分の身体を運んでいる。
砂色に垂れ込める雲はやがて自分の重みに耐えきれず陰気な雨を降らせるだろう。
天気予報は当たるかもしれない。ばかにしたものじゃないな。三島はそう思いながら、
車が赤信号で止まった先の横断歩道に視線を渡した。小さな子の両手を取った老夫婦が
ゆっくりと道を横断していく姿が視野に入ってきた。子供の母親らしき笑顔の女性が
数歩下がったあとからついていく。
敬ちゃんは賢い子だねぇ。
ふと目にした情景は、ふいに遠く懐かしい記憶を喚起させた。
やっぱり三島さんちの子は他の子とは違う。
あの子は神童だよ。
きっと将来は一角の人物になるに違いないから。
物心ついたときからずっと聞き続けてきた周囲からの言葉の数々。
成長するにつれ形容の仕方こそ変わったが、自分に向けられる言葉の内容は
普遍的に変わることはなかった。
三島にはかなわない。
そう言われるのが当たり前だった。当たり前の褒称だった。
不意に、三島の視線が舗道の先に伸びた。眉根が寄り、瞳に険が走っていく。
目線の先に見慣れた背中が見えていた。華奢ともいえる身体つきに、
意外なほど広くしっかりとした肩幅の片側をかすかに下げて、
寒空の下を独り歩いている。
三島は、その背中をじっと見つめた。記憶の中の賞賛がまた耳の奥に戻ってくる。
三島にはかなわない・・・。
そう、自分はいつもトップだった。
誰にも何も負けたことはなかった。
前を行く背中の先に、公判の待つ高裁の建物が見えている。信号が青に変わった。
マジェスタは発進し、舗道を歩く吉岡の横を通り過ぎていった。
「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」
証言台から宣誓文を読み上げた関口耕介は、義理の両親殺しの被告人である
谷原信也の犯行に至るまでの経過を知る重要証人として、
検事からの主尋問に言葉少なに受け答えしたあと、
続いて反対尋問に立ち上がった弁護人へと背筋をまっすぐに整え直した。
着慣れないスーツの襟が首すじに当たって、居心地が悪かった。
「証人は、被告人と第一の事件前から顔見知りだったそうですね?」
満席の傍聴人で埋まる法廷内に、弁護人である三島敬一の第一声が低く響き渡った。
「知っていました」
関口耕介は答えたあと、軽くつばを呑み込んだ。喉の奥が乾いていた。
「どういう経緯で知り合ったのか話してください」
「私のよく通っていたスナックで、アルバイトをしていたのが谷原・・
谷原君でした」
「それはどのようなスナックですか?」
「どのような・・・といいますと?」
「柄、と言ったらいいのかな」
関口は軽く眉根を寄せた。
「とても雰囲気のよい店でした。勤め先と駅の間にある小さな町のスナックで、
頼めば軽い夕食も出してくれるので、仕事帰りの人たちがよく立ち寄っていました」
「その店の従業員は何人くらいいましたか?」
「ママ・・オーナーと手伝いの女性一人と谷原くんの三人でした」
「あまり広くない店内という印象を受けますが、客が5,6人も入れば
すぐにいっぱいになってしまうくらいの広さですか?」
「ええ、そんな感じです」
「ならば客同士の会話は互いに筒抜けですね。あなたはそのスナックに、
週どのくらいの頻度で通っていましたか?」
「週末だけです。金曜日と・・それからごくたまに木曜日に」
「通っていたのはそのスナックだけですか?」
関口はつと返答に詰まって、検事の方を窺い見た。視線の先で、
検事は苦味切った表情を浮かべながら手元の調書に目を走らせている。
「そのスナックだけに通っていたのですか?」
関口は三島へ視線を戻した。
「他の飲み屋には行かなかった?」
「・・・はい」
関口は呟くように返答をした。
「それはどうして?」
関口は言葉に詰まって戸惑い、証言台の上へ視線を落とした。
「どうして他のスナックに行こうとは思わなかったのですか?」
「・・・」
「どうしてなのかな?」
淡々と質問を繰り返す三島に関口は顔を上げられなかった。
関口の気持ちは傍聴席に向かっていく。どうしても裁判に行くといって着いてきた息子が、
その中に混じっていた。
「答えていただきたい」
俯く関口の瞳の中に、さきほど読み上げた宣誓文の文字が映っていた。
「そこで働いていた人に・・・会うためです・・・」
ためらいの秒針に押し出されるように、関口はやっと口を開いた。
「従業員の女性ですか?」
「・・・はい」
「恋人、ということ?」
「異議を申し立てます」
検事が立ち上がった。
「弁護人の質問は、証人の個人生活に関するもので、主尋問とは何ら関連のないものであり、
適当ではないと思われます」
検事の言葉を受けた裁判長は、証言台にじっと視線を落としている関口の表情を、
掬い取るような目つきで暫く見つめた後、
「異議を認めます。弁護人は質問を変えてください」
と静かに言ったあと、視線を検事、三島の順に移していった。
三島は余裕の表情で質問の内容を変えていく。
「奥さんが他界したとき、あなたはまだ二十代後半でしたね。
やり直そうとすれば新しい生活を他の誰かとやり直せたはずなのに、
しかしあなたは義理のご両親との同居を選んだ。それは何故ですか?」
俯いたままの関口の身体が強ばった。
「何の理由での選択ですか?」
ぐっと瞳を閉じた関口の様子を、三島は冷ややかに見据えている。
「答えられませんか?」
関口は、傍聴人の全視線が皮膚に刺さってくるのを痛いほど感じていた。
息子の視線がその中にはある。
「・・・当時・・・失業中で収入がなく・・・」
目を閉じたまま、関口はやっと言葉を押し出した。
「それで行く当てがなく止むなく同居をした?」
「止むなくだなんて思ったことはありません」
咄嗟に目を開き、語気を強めて反論した関口の顔を、
三島はたっぷりと5秒ほど見つめたあと、
「なるほど」
と皮肉にもとれる口調で受け流してから尋問を再開した。
「あなたは奥さんと死別してから何年か後に再就職先を見つけましたね」
「・・・ええ」
「それで生活に少しだけ余裕ができた」
質問の意図を計りかね、関口は三島の目を怪訝そうに見つめ直した。
感情がどこにあるのかわからない瞳が冷静に自分を見つめ返してくる。
薄く引き締まった三島の唇が、再び開いた。
「自由になる金、つまり自分の小遣いも出来ましたね?」
「・・・ほんの・・・少しだけなら・・・」
「それで行きつけのスナックをつくった?」
すかさず椅子から立ち上がりかけた検事を裁判長は目で制した。三島は続ける。
「あなたは自由になる金で行きつけのスナックを作り、
そこで出会った女性従業員と恋仲になった。そうですね?」
関口は否定も肯定もせずじっと三島を黙視している。
三島はそんな関口の目を捉えながら微かに鼻で笑った。
笑ったような仕草を見せた。
「その女性とは遊びの付き合いでしたか?」
関口の目に反発の光が走った。
「遊びではありません。結婚は視野に入れていました」
検事が異議を唱える前に関口は憤然と返答した。
三島の口の端に、今度ははっきりと薄い笑みが浮かんでいった。
「そうですか。第一、そして第二の事件の起こった日、
あなたはどこにいましたか?」
「え?」
関口の口から思わず意外な声が出た。
「両事件とも平日の昼間に発生したものですが、あなたはそのとき、
どこで何をしていましたか?」
「仕事をしていました・・・」
仕事?と三島は間髪入れずに問い質し、そして暫く間を置いた。
法廷内は息をひそめたように静まり返っている。
「おかしいな」
やがて三島の声が静寂を破った。
「不思議と誰もその裏付け証言をしていないですね。それは真の証言ですか?」
関口は固く俯いたまま拳を握りしめ、上目がちの視線を傍聴席に流した。
息子の両横に、同伴してきてくれた勤め先の社長夫婦が見守ってくれている。
「正直に答えてもらわないと困りますよ」
三島の追求はやまない。関口は強ばった身体の底へと震える息を吸い込んだ。
開いた唇も凍えたように震えている。
「恋人と・・・会っていました。いつもではなかった、その日に限って・・・」
「おかしいな」
三島はまた言った。調書を手に取り、メージをめくっていく。
「その恋人の裏付け調書には、その日その時刻に被告人と会っていたことになっている」
関口は弾かれたように顔を上げた。大きく見開いた目が、そんなはずはないと訴えている。
「あなたの恋人の証言は、あなたの証言とはかなり食い違っていますね」
「異議があります!」
検事が席を立った。
「弁護人の言う恋人の証言は、本人自らが出廷して証言されるべきものであり、
本法廷において適当ではありません!」
「異議を認めます。弁護人は尋問を変えて下さい」
裁判長の言葉に、三島はゆっくりと調書から顔を上げた。
「あなたは被告人が以前何度か傷害事件を起こしていたことを知っていましたね?」
呆然とした思いを引きずったままの関口は、絶句したまま三島を眺めている。
「さきほどあなたは証言しましたが、行きつけのスナック店の中はとても狭い。
客同士の会話も筒抜けだ。あなたはそこの常連客だった。
他の客たちが酒のつまみにしていた話は、あなたの耳にも当然入っていたはずだ。
本人のいない所でされていた被告人の多額の借金の話も、あなたは当然知っていた。
金の為なら何でもやりかねない奴だと話していたことも。実際、
被告人が過去に起こした傷害事件はみな金銭絡みの事件が因を発していた。
だから常連客たちはいつもオーナーに忠告していた。気をつけろと」
関口は三島の機械的によく動く薄い口元をじっと見つめていた。
「何故なのかな。あなたは店でよく、義理の両親さえいなければ
その従業員の女性と晴れて結婚できるのにと冗談まじりに話していましたね。
それは数人の客たちの証言で調書にも提出されている。あなたは他の客たちがいる店内で、
わざと聴こえるようにそんな話をしていた。それは何故ですか?二人が亡くなれば
彼らの資産は全て自分のものになるとも、他の客たちの前で吹聴していましたね。
どうしてわざわざそんなことを被告人の前で声高に話していたのですか、
関口さん?」
不意に名前で呼ばれて、関口は顔を上げて三島を見た。
無機質なコンクリートの質感を思い起こさせる目が、じっと自分の目を捉えて離さない。
「邪魔な二人は消えてしまえばいい、と」
三島は一語一語確かめるように発音しながら言った。
「そう思っていたからではないですか?」
茫然と三島の顔を眺めていた関口の瞳に、三島の放った言葉の意味が徐々に沈み込んでいき、
やがてその瞳の奥底から、はっきりと蔑みの色が滲み上がってきた。
「そんなことはありません」
関口は初めて正面切って三島の顔を睨みつけた。
「そんなことはない?」
三島は首を軽く傾げ、ぐっと睨み返してくる関口の顔をしげしげと眺めた。
「そんなことはない?」
「異議を申し立てます! これはあきらかに誘導尋問で-」
「異議を却下します」
裁判長は検事の異議申し立てを静かに遮った。
「もう少し話を聞いてみたいと思います。弁護人、続けてください」
検事はやり場のない怒りを込めて三島を睨んだ。
憎しみの篭った検事の視線は三島の横顔に掠りもしない。
傍聴人の全視線は関口と三島の二点だけに交互に集中している。
しかし三島が意識するのはただ一つの視線だけだった。
ただ一つの視線だけが自分に理由を与えるものだった。
最後部の傍聴席から事の成り行きを見つめている、
三島の人生に長く濃い陰を落とし続けてきた、
あの物静かな吉岡の瞳だけが自分に取って意味を持つものだった。
三島は背中に向けられたその視線を意識しながら尋問を続けた。
「そんなことはなかったとあなたは言いましたね。それはどういうことですか?
無職だった自分を厭うことなく、衣食住、子育ての手伝いまでしながら
長年一緒に生活をしてくれていた義理の両親のことを、新しい女性ができたからと、
いともあっさりと切り捨てることなんてできやしなかった。そういうことですか?
ならば何故、被告人のいる前で二人がいなくなればいいなんて話をしていた?
あなたの中では矛盾しませんか?彼女とは結婚したい、けれど長年世話になった
義理の両親のことは簡単に捨てられない、第一世間が許さない、恋人は若くて
とても魅力的だ、時間は待ってくれない、死んだ妻の両親の存在さえなかったら、
あの二人さえいなかったら、そう思った事は、なかったと? けれども、」
そこで三島は言葉を区切り、強ばった顔で睨みつけてくる関口の顔を
まじまじと見つめ直した。
「ピュロスの勝利。そう考えた事は?」
関口の顔に、不可解そうな表情が過っていった。それを逃さず捉えた三島の口元に、
再び薄い笑みが浮かんでいく。
「どうですか?」
三島は聞き返し、
「答えていただきたい」
そして促した。拳を握りしめている関口の身体が小刻みに震えだしていく。
「簡単ですよ。イエスかノーで答えればいい」
三島はそう付け足しながら、押し黙ったままでいる関口の視線を誘導するように
ゆっくりと証言台の上に置かれている宣誓書へと視線を移していった。
「二人がいなくなればいいと、そう考えた事はなかった?」
視線を関口に戻し、三島は問い直した。
法廷内に、静けさが深まっていく。
「答えられませんか?」
関口は言葉を繰り出せない。
「終わります」
三島は椅子に腰を下ろした。
つづく
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