「もう5年以上も前の話になるんだけど・・・」
座卓の上に置かれたコップの縁をひとさし指で丸く辿りながら、
えり子はゆっくりと話し出した。
「ハギちゃんがさっきもちょっと言ったけど、あたし昔、
女子プロレスラーしてたのよ。っていってもTVに出るような人気者じゃなくて、
前座のそのまた前座レスラーってやつだったんだけどね。ヒモみたいな、
っていうか実際にヒモだったんだけど、クソがつくくらいにだめ男の
マネージャーと二人して全国行脚しながら日銭を稼いでて。
だけどそんなこといつまでもしてられるわけないじゃない?
身体がついていかなくなっちゃうしね、気持ちに。
だから稼いだお金をちょっとずつちょっとずつ貯めていって、
それでやっと、文字通り場末だったけど、小さなスナックを開いたの。
開店してから最初の数年はお客がつかなくてほんとに大変だったけど、
それでもなんとかやっているうちに少しずつ常連のお客さんが
ついてくれるようになってね、そのうち大繁盛とまではいかないけど、
商売が軌道に乗ってくれるようになって」
えり子はそこで話を区切ると、手元にあった瓶を手にとって、
合い向かいに座っている筒井と萩原にビールを注いだ。
「だけど一つ穴が埋まったら、別の穴の深みが増していったっていうのかしらね、
商売が上手くいくようになったら、今度は情夫の博打癖が悪化しちゃってね、
もう笑い種なのよ。実際には笑えることじゃなかったんだけど、全然。
あっちこっちに博打で借金しこたまこさえて、気付いた時にはもう
火の車状態だったってわけ。そんなになるまで全然気付かなかったあたしも
大バカだったんだけど。それでも店の上がりがあったからなんとか借金を返してね、
でもある日あたし見つけちゃって、生命保険の明細書っていうの、あれ。
そこにあたしに対してすごい額が掛けてあったのよね。
お客さんから噂にはきいてたから、その筋の人が債務者に無理矢理保険金を
掛けさせるって話。だからもうすごく怖くなっちゃったんだけど、
でもせっかく軌道に乗ったお店をほっぽっていきなり逃げるわけにもいかないし、
それにどうしようもなく気が小さくてクズだったけど、情夫のことも
捨てるに捨てられなくてね・・・」
「愛だったんすね」
「愛?」
ふいに言葉を割り込ませてきた萩原に、えり子は顔を上げた。
「そうじゃないすか。愛がなかったらそんな男のことなんか
とっくに見捨ててたでしょう?」
萩原はだんだんと呂律がまわらなくなってきている。
「それは立派な愛だったんですよ、愛」
えり子はまるで母親が息子を見つめるような眼差しを萩原に向けると、
「まぁ呑みなさいよ、ハギちゃん」
と言って萩原のコップにビールを注ぎ足した。
「愛に立派も何も上も下も横も縦もないわよ。あたしとあの男の場合はね、
ただ一方通行に吸着して足引っ張リ合ってただけなのよ。
とにかくね、生命保険のことがわかってからはもう怖くて怖くて、
そのうちおちおち眠れなくちゃってね。だから思い切ってある日
警察に助けを求めにいったんだけど、全然相手にしてもらえなくて。
“そんなこといったら日本中の夫婦が殺人予備軍ですよ”なんて
鼻であしらわれちゃって。その言い分も分からなくなかったけど、
でも不安と恐怖は消えないわよね、そんなこと言われても。
だからもう藁をも掴む思いで新聞社にまで出向いていったの。
もしかして報道関係の人たちなら何とかしてくれるかもしれないって思って。
それでその時たまたまオフィスにいてあたしに対応してくれたのが
ハギちゃんだったってわけ。一部始終のいきさつを詳しく説明したあたしに、
それなら刑事をしてる友人が僕にいるからそいつを訪ねていったらいいって
メモを渡してくれたのよね。でもそのメモ書きを見たらその友達っていう人は
警視庁本部の刑事だっていうし、とてもじゃないけどあたしのことなんて
相手にしてもらえるわけないって最初から諦めてそのまままっすぐ家に戻ったの。
そしたらその晩、お店に来てくれたのよ、秀君が。こんばんはって」
えり子は手元にある自分のコップに目を落とし、そこに昇る泡を
しばらくぼんやりと見つめたあと、また話を続けた。
「その時お店に入ってきた時の姿が余りにも爽やかだったもんだから、
友達から連絡をもらって立ち寄ってみたんです、ってそのあと説明されてもね、
刑事だなんて到底信じられなかったわ。まぁ刑事じゃなくても、
あんなに物腰のやわらかい人ってなかなかいるもんじゃないけど・・・。
なんていうか、雨上がりの新緑みたいな、そんな感じがしたの、その時の秀君。
その印象はその後もずっと変わることはなかったけど」
えり子は筒井と萩原に顔を上げなおして、ちょっと微笑んだ。
「それでその晩店を閉めてから、秀君があたしの話を一言一言、
すごく親身になって聞いてくれたの。心を丸ごと傾けてくれたっていうか、
心の全てを寄せてくれたっていうか、そんな感じだったわ、ほんとに。
あんなふうに話を聞いてもらえたことって、生まれて初めてだった・・・」
「よくわかりますよ」
筒井は頷いて腕を伸ばし、空になったえり子のコップにビールを注いだ。
立ち昇る泡が消えていくのを見つめながら、えり子は言葉を継いでいく。
「その日を境にして秀君、時々お店に顔を出してくれるようになってね。
ハギちゃんも飲みにきてくれるようになったのよね、同僚と一緒に時々。
秀君は飲みにくることはなかったけど、でも開店前の時間とかにね、
さらっと来るの」
(こんばんは、えり子さん)
そう挨拶しながらいつも顔を覗かせていた吉岡のやわらかな笑顔が、
ふわりとえり子の脳裏に浮かび上がってくる。
「何を聞くわけでもなくね、ただひょっこりと顔を出してくれるだけなんだけど、
でも何より心強かったわ」
えり子はコップを手にとって、ビールを一口飲んだ。
言葉が途切れていくたびに、雨音が部屋に満ちていく。
「それでそんな日が暫く続いたあとに、あの事件が起きたの」
えり子は半分空いた筒井と萩原のコップにビールを注ぎ足した。
「その日、開店準備中に情夫が切羽詰った顔してやってきてね、
それでいつものように喧嘩になって、そしたらそのうちあいつの
ひょんな言葉から、借金の形にあたしの店を抵当に入れてたってことが
わかったの。あたしもう怒りを通り越してやっとそのとき愛想が尽き果ててね、
だからあいつに、この店はくれてやるからどうにでもしていいけど、
その代わり金輪際あんたとの縁は切るって三行半を投げつけて
店から出て行こうとしたの。そしたらあいついきなり泣き出して、
店を売っても借金は払いきれないし、取立てのやつらに殺される前に
死んでくれってとり縋ってきてね。ふざけないでよって突き放して
逃げようとしたんだけど、でも勝手口のドアにも入り口のドアににも、
あいつが先回りして立ち塞がっちゃって、凄い顔しながら果物ナイフを手に持って、
死んでくれよ、死んでくれって、今にもあたしに飛びかかろうとしてて。
あたし怖くて怖くて全身の力が抜けてしまってね、足が竦んで
あやうく床に座り込みそうになった時、ドアの向こうで声がしたの」
(えり子さん?)
「もう必死で助けてって秀君に向かって叫んでたの、あたし。
そしたらあいつあたしに向かって誰だよってビビりながら聞いてきて、
だから知り合いの刑事なんだって言ってやったら、裏切ったなって叫んで
もの凄い形相でナイフを振りかざしてきたのよ。
後ろに逃げれば鍵のかかっていない勝手口があったんだけど、
でもあたし金縛りにあったみたいにその場から足が動かなくてね、
それでもうダメだって観念して目をつぶった瞬間に、ふわって
身体ごと力強く誰かに引き寄せられてて。びっくりして目を開けたら、
秀君の背中があたしの盾になってくれてたの。
床の上にはあいつが腰をぬかしたみたいにへたりこんでて、
あいつの手にあったナイフは秀君の手からカウンターへ静かに置き戻されてね・・・」
(えり子さんの命ですよね)
何が起きたのかわからず途方に暮れたように見上げた情夫に、
威圧するでもなく、なだめるわけでもなく、
ただ心の真ん中からまっすぐに相手に向けてきた吉岡の静かな声。
後ろから見つめたその背中は意外なほど広くて大きく、
しっかりと引き寄せて守ってくれたその手は、 とても強くて、
そして切ないくらいにやさしかった。
えり子は物思いへと沈んでいきそうになる瞳を、
窓際の旅行バッグに向けた。
一つ、二つ、三つ・・・。
数えるバッグは三つ。
今目の前に座っているのは、
二人。
えり子さんの 命ですよね。
「・・・その時は気が動顛してて気付かなかったんだけど」
えり子は筒井と萩原に顔を向け戻し、静かに話を続けた。
「騒ぎに気付いた近所の人の通報でお巡りさんが駆けつけてきて、
あいつはそのあと派出所まで連行されて行ったんだけど、
あたしは動顛したままずっと店の外に突っ立ったままでいて。
店の中に入るのが怖くて、一人になるのが怖くて、どこにも行きたくなくて。
そんなあたしの横に秀君はずっと見守るようについていてくれてね。
ただ隣にいてくれていただけなのに、すごく温かくて。
それでようやく気持ちが落ち着いてきてね、それで横にいる秀君を見たら
右の掌を怪我してて」
えり子は伏せた視線を座卓へと落とした。
「めちゃくちゃに飛びかかってきたあいつからあたしを庇ってくれた時に、
切りつけてきたナイフを咄嗟に素手で受け止めたみたいなのね。
掌が横にざっくり一文字に切れちゃってて・・・。
あたしその傷を見たらまたすごく動顛しちゃって。そしたら秀君、
着ていたシャツをさっと脱いでね、その日はすごく肌寒かったんだけど、
白いTシャツ一枚になって、その脱いだシャツでくるくるって怪我した掌を巻いて・・・」
ごめんなさい、ごめんなさい、
怪我なんかさせちゃってごめんなさい、
と動顛したまま頭を下げて謝るえり子の前に、
吉岡は両膝に手を当てて腰を屈め、
泣いたまま項垂れているえり子の顔を、
下からちょっと覗き上げるような仕草をして、
(大丈夫ですよ)
と言ってにっこりと微笑んだ。
「すぐに手当てをしなくちゃいけなかったのに、
でもあたしその言葉を聞いた途端に堰を切ったように
涙が零れてきて止まらなくなっちゃって。
他人でいようと思えばずっと他人のままだったはずのあたしのせいで、
あんなことに巻き込んでしまった自分が嫌で嫌でどうしようもなくて、
もう秀君に申し訳なくて申し訳なくてどうしようもなくて、
涙で化粧はぐじゃぐじゃになっちゃって化け物みたいになっちゃって、
でも秀君は隣でそっとあたしを泣かせるままにしておいてくれて・・・」
えり子はそこで言葉を切り、その先を見通すような視線を障子窓へと向けた。
筒井と萩原はただ黙って、えり子の次の言葉を待っている。
ビールの泡が、チリチリと、3人のコップの中で
心細げな蛇行線を昇らせながらやがては消えていき、
海からの風は重く厚く、波をたてるようなリズムで硝子窓を叩いていく。
「それでね、」
雨音を鳴らす窓を見つめながら、えり子はぽつんと言葉の接ぎ穂を落とした。
「思いっきり泣いちゃった後にね、秀君がふっと、ほんとにさり気ない感じで、」
(えり子さん、)
「やんわりと呼びかけてきて。それで顔を上げたあたしに、」
(ラーメン食べに行きましょうか)
「そう言って明るく笑ったの・・・。その時また泣いちゃったわ、あたし。
笑いながら」
そう言ってえり子は二人に顔を向け、少し微笑んだ。
「あの事件があった後にあたし破産宣告をしてね、
どうにか店は手放さなくても済んだんだけど、
でも18の頃からずっと一緒にいた男が急にいなくなったら、
ぽっかり心に穴が開いちゃってね。
でもいなくなったあの男の空白が恋しかったわけじゃないのよ、
そうじゃなくて、何十年も頑張って過してきたあの生活が、
あんな形で終わってしまったことが哀しくて、悔しくて・・・
情けなかったのよね。それまでの人生が全部否定されてしまった気がして、
すごく孤独だった。だからついついあの事件の後も秀君を頼ってしまって。
わがままだってことは充分わかってたけど、でも忙しい間を縫って、
呼べばいつも笑顔で会いに来てくれたから・・・」
(こんばんは、えり子さん)
えり子は頬杖をついて、ぼんやりとコップの縁を指でなぞった。
「孤独の穴って、他人の同情で埋め合わせてもらえるものじゃないじゃない?
心にぽっかりと開いたほら穴に正面きって立ち向かっていくのは、
結局は自分の意志しかないし、孤独を肩代わりしてくれる人なんて
誰もいないのよね・・・。でもそういったことを秀君は、
きちんと心で理解できている人でしょう。
孤独の意味を充分に承知して、覚悟して、受け入れて、そのうえでね、
秀君は私の孤独に触れてきてくれたのよね。
孤独をうち消してやろうなんて自我はそこにはまったくなくて、
ただ静かにね、私の心の淵に一緒になって佇んでくれて、
ぽつんと独りぼっちでいた私の気持ちにね、
彼の孤独でそっと寄り添ってくれたのよ。
とても勇気のあることじゃない、そんなこと実際に出来ちゃうなんて。
なんて強い人なんだろうって、そう思うのよ。
真の優しさは真の強さの中にあるっていう言葉の意味が
すんなりと理解できるのよね、秀君のとる行動から。
いつだって闘えるんだって思いながら暮らしている人と、
いつどんなときにも闘っている人の間には、
そこに天と地ほどの差があるじゃない、存在の逞しさの」
えり子は見つめていたコップから目を上げて筒井と萩原に微笑むと、
再び障子窓へと顔を向けた。
風は夜空に吹き止まず、
雨は地面に降りしきっている。
ガラス窓を叩く雨音が、閉めたカーテンの向こうで詩っていた。
暗闇の落ちた病室にはベッドが白く浮き上がり、
透明な呼吸がその上で静かに繰り返されている。
吉岡は窓辺に向けていた視線を天井へそっと戻し、
寝静まった病棟の廊下へと耳を澄ましていった。
ゴム底を蹴る靴音がいくつか、静まり返った廊下に足早に響いてくる。
だんだんに近づいてきたその足音は隣の個室へと吸い込まれていき、
やがて頭の先にある壁を通して、低く抑えたいくつかの声が、
ベッドに横たわる吉岡の枕元へと伝わってきた。
看護士らしい女性の声の後に続いて、医師らしい男性の言葉が耳に届いてくる。
「もうダメだな。今すぐ家族に連絡して」
誰かの足音が、隣室のドアから廊下へと滑り出していく。
吉岡は、そっと静かに瞼を閉じた。
雨音は風に飛び、
いつまでも、鳴り止まない。
筒井は見つめていた障子窓から目を離し、
合い向かいのえり子へと顔を向けなおした。
座卓の上にはビールの空瓶が5本と、
半分空いた日本酒の中瓶が一本置いてある。
いくら飲んでもえり子はしらふのままで、
飲み続けているはずの筒井も酔いは全く感じなかった。
筒井の隣に、萩原が畳みの上で酔い潰れている。
「珍しいわね、ハギちゃんがこんなくらいで酔っ払っちゃうなんて」
ええ・・・と頷きながら筒井は立ちあがり、押入れに入った
掛け布団を一枚取り出してきて、萩原の上へ掛けた。
「長い付き合いなんでしょう、三人とも?」
深く寝に入っている萩原の姿を眺めながら、
えり子は座卓を挟んだ合い向かいに座りなおした筒井に訊いた。
「そうですね。高1の時からの付き合いだから」
「入学した時からみんな同じクラスだったの?」
「俺とハギは一緒でしたけど、ヒデは一年の時は別のクラスでした。
野球部で一緒だったんですよ、ヒデとは。
二年と三年の時は三人とも一緒のクラスでしたけど」
そう・・・と言いながらえり子は互いのコップに酒を注いだ。
「ハギちゃんも野球部だったの?」
「いや、ハギは汗臭い体育会系は嫌いだから。帰宅部でしたね」
「でも報道新聞記者って、いってみれば体育会系よね?」
「ペンを持った体育会系のノリは好きなんじゃないんすかね、きっと」
そう・・・とえり子はまた頷いて、コップの酒を一口すすった。
「いいわね・・・。あたし16で家飛び出しちゃってからそれきり
高校へは行かなくなっちゃたから、学生時代の友達っていないのよね。
地元を離れちゃったから中学時代の友達ともずっと音信不通だし・・・。
三人はいつも一緒なんでしょ?」
「いえ・・・学生時代は環境的にそうでしたけど、でも働き出してからは
年がら年中一緒にいるってわけじゃないですよ。ふいに会うっていうか、
会おうぜって約束していなくても安心できる関係っていうか、なんか
そんな感じですよね」
「筒井君、」
「はい?」
軽い寝息をたてて眠っている萩原の様子を確認するような目で見つめてから
えり子は筒井に顔を向け直した。
「大丈夫なのよね?」
「え?」
「秀君、今病院にいるんでしょう?」
突然に切り出してきたえり子の言葉に筒井は不意打ちを食らって言葉を失くし、
そんな筒井の顔をえり子はまっすぐに見つめ返した。
つづく
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