月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その49

2010年11月11日 | 小説 吉岡刑事物語






少しだけ無造作に伸びてしまった前髪が、
壁を背に眠る吉岡の額にさらりと流れ落ちている。
まどろみのみなもとに寄り添う横顔は、
白陶のようなその膚に、
すすき色を帯びた夕日が淡く透き通っている。
ハーフコートを着込んだままの、
しなやかに伸びたその長い手足は、
すとん、とそこに崩れ落ちたかのように、
ベージュの絨毯の上にすらりと横たえられ、
透明な吐息は、
わずかに開かれた唇から肩先へと、
ゆっくりと、微かな動きで、
呼吸の営みを繰り返している。
その姿はまるで、
暗い森の中でそっと羽を休めている鳥のようだった。
疲れ果て、けれども飛ぶ意志を決して捨てない翼を、
ひっそりと独り守り抜いている、
そんな姿だった。
黄昏を深める部屋の窓辺には塵の粒子が漂い、
家路を追われる子供たちの遊び声が、
遠景から切り取られた懐かしい響きを伴いながら、
はるか彼方から聞こえてきていた。
それ以外の世界は遠ざかり、
無音に清められたまどろみだけが、
眠りに落ちる吉岡の髪を、瞼を、頬を、指先を、
安らぎのふもとへ誘うことを許している。
ふと、
やわらかに伏せられていた吉岡の睫毛がかすかに動き、
やがてゆっくりと天幕を上げていくように、
瞼がそっと開いていった。
傾いだ横顔を上げ、
ふっと前を見つめた瞳が、
夕日を通した雀茶色のやわらぎに透いていく。

「やぁ」

ふわっと目元に浮かんだ微笑みと同時に、
吉岡の口から微かに掠れた声が出た。
向かい合った壁を背にして、
大学時代の朋輩三島敬一が床に座っていた。
黒いタートルネックのセーターに黒のスラックス姿で、
いつからそうしていたのか、
天然水のラベルが付いたペットボトルが一つ、
その傍らに置いてあった。

「君という人は、自己防衛能力が著しく欠損しているんだね」

低くよく通る三島の声が、部屋の空気に響いていく。
目じりに深まった笑みをそのままに、
吉岡は上半身を整えながら床の上に座りなおした。
身体全体がだるくて、
力が上手く入っていかなかった。

「玄関に鍵がかかっていなかった。無用心にもほどがあるな」

三島は締まった頬をさらに引き締めて言うと、
改めて、といった仕草で部屋の中を見渡した。

「異動が出たのか? 休職中だと聞いていたが」

「辞めたんだ。手帳とバッジは返納してある」

さらり、と何のひっかかりもなく返答した吉岡に三島は視線を戻した。

「辞めたと思っているのは君だけだよ」

人懐こい笑みを浮かべたままでいる吉岡に、

「上はそんなに容易く君を手放したりはしない。
 必ず君を追奪しに来るさ」

三島はそう言葉を繋いでがら、それにしても、
と言い加えながら再度周囲を見渡した。
吉岡のアパートの部屋は、がらんどうだった。
家具もカーテンも一切がきれいに取り払われ、
何も残されていない。あるのは、
壁に寄りかかった吉岡と、
使い古されたバックパックが一つだけだった。
三島はゆっくりと、
疑点を問いただすような視線を吉岡に向けた。
目と目が合い、
そして三島は動かし難い思いを確信していく。
吉岡は、
桜田門にはもう戻らないのだろう。

どうしてなんだ? 

続けて言おうとした言葉が、三島の喉の奥でくぐもった。

どうするつもりなんだ?

三島は黙ったまま、
地位も長年住み慣れた場所も、
あっさりと捨てようとしている吉岡を見つめ直した。

これからどこに行こうというんだ?
自ら路頭に迷う気なのか?
黙ったままでいないで、
なんとか言えよ。

 
「お粗末だな」

三島は自分の放った言葉から逃れるように窓の外へと視線を逸らした。
夕刻を告げる区役所のチャイムが街の通りへと響き渡っていた。
立ち並ぶ高層ビルの灯りがチラチラと夕闇に浮かび上がってきている。
薄暮の空に、藍色の雲がなぞるように東へと流れていた。
夜を奪われて久しい天の星たちは、輝く姿を見せてこない。
三島は黙ったまま、徐々に姿を現してくるコンクリートの星に視線を留めていた。
吉岡も静寂の中に身を寄せている。
物静かに三島に空間を譲っている。
煩わすことなく柔かな沈黙を保ちながら、
そっと三島に空間を渡していた。
それは吉岡が与えてくれる心の余白だった。
変わらずに差し伸べてくれる、
やさしさの余白だった。

「司君が訪ねてきたよ」

やがて三島は低く落とした声で言った。
そう・・・、と少し間をおいて、
吉岡の返事が静かに返ってきた。
夕闇が部屋の底に沈んでいき、
どこかで救急車のサイレンが鳴っていた。
三島は呼吸を一つ深めて夜空を仰ぎ、
それからゆっくりと次の言葉を繋いだ。

「僕のためにではなく、君のために」

宵の明星が、かすかに姿を見せていた。
くすんだ夜空に瞬くその星を、
三島はじっと見つめつづけた。
あの事件以来、10年近くの月日を経て、
何の前触れもなくふいに突然三島の前に姿を現した、
関口司の姿をそこに見出していくように・・・。



1991年 春

三島敬一が弁護士になろうと決めたのは、
大学四年に進級してすぐの春だった。
畑違いな理系専門大学に籍を置きながら司法試験を目指す。
それは傍から見たら、突拍子もない横紙破りな行為に映ったことだろう。
しかし三島本人にとってのそれは、別に奇異でも突飛なことでもなかった。
青春時代特有の微熱のような、正義感の情熱に駆られたわけでも決してない。
別に大したことではなかった。
ただ選択を変えただけだ。

「ヒデが来年公務員試験を受けるんだってさ」

「国1の?」

「なんで急に?」

「らしくないよな、そんなの」

「もう決めたらしいよ」

「そっかヒデ・・・警視庁に入るのか」


大学の研究室である日、
ふと切れ切れに耳にした会話。
きっかけは、
それだけだった。



1999年 秋

小春日和の日差しが溢れる窓辺に、コスモスの花が咲いていた。

「おじいちゃんが死んでる」

子供の泣き声で110番通報されてきた現場は、
所轄の刑事や検察官や鑑識員たちの立ち回りで慌しくごった返していた。
怒声やパトカーのサイレンがひっきりなしに飛び交う中、
立ち入り禁止の黄色いテープがぐるりと張り巡らされた家の玄関先に、
ぽつんと独り、男の子が立ちつくしていた。
その場に取り残された小さな背中を小刻みに震わせながら、
まるで吸い寄せられたかのように、ほの暗い廊下の先へと、
その視線をじっと凝らしている。
お父さんは急いでこっちに向かっているからねと告げたお巡りさんは、
誰かに呼ばれたまま姿を消してしまった。
やっと到着した救急車は、おじいちゃんを乗せずにすぐに帰っていってしまった。
廊下の真ん中の床の上に、真っ赤な水溜りが広がっている。
そこにおじいちゃんがうつぶせになって倒れている。
春休みの最後の日に、おばあちゃんが倒れていたのと同じ場所だ。
同じ場所に、今度はおじいちゃんが倒れている。行っておいでと、
今日の朝、学校に送り出してくれたおじいちゃんが・・・
ふわり、と後方から両肩を包まれて、少年は顔を上げた。
茫然として見上げた顔が、くしゃっと泣き顔に崩れていく。
司くん、と静かに呼びかけられて、途端にまた涙が零れ出した。
司は、目の前にそっと屈みこんだ相手の広い胸に黙ってしがみついた。
しっかりと両手でしがみつきながら声を立てずに泣いた。
何が起こっているのかよく理解できないまま、不安と、怖さと、心細さと、
悲しさと、怒りと、その全ての感情がごっちゃになって行き場を失い、
司の心の中で渦を巻いていた。
背中越しに、パトカーの警光灯が赤くぐるぐると回っている。
カメラのフラッシュを焚く音がひっきりなしに耳に入ってくる。
大勢の人たちの足音が慌てながら行ったり来たりしている。
テレビ局のレポーターの人と刑事さんが何か言い争っている。
おじいちゃんは赤い水たまりの中に倒れたままだ。
おじいちゃんは死んじゃってるのに。
なのに誰もおじいちゃんをあそこから引き起こしてくれない。
おじいちゃんも死んじゃったのに。
だけどお父さんはまだ来ない。
司は、しがみついた両手にぎゅっと力を込めた。
司の背中を包み込んでいる大きな手が、そっと優しく、
けれども確かな力強さで心ごと抱きかえしてくる。
おばあちゃんが急にいなくなってしまってから、
悲しくなった時にすぐに駆けつけてくれていたその人の胸は、
いつものように温かかった。
だけとおじいちゃんは冷たくなってしまった。
もう目を開けない。笑わない。もう会えない。
おじいちゃんは戻ってこない。
おばあちゃんも帰ってこない。
おばあちゃんの好きなコスモスは咲いているのに、
だけどおばあちゃんはどこにいるの?
押さえ込んでいたものが急に崩れたように、司は声を上げて泣きだした。
声の出る限りに叫んで泣いて泣いて泣いて泣いて泣き続けながら、
相手の胸を拳で叩きつづけた。力一杯に叩いて叩いて叩いて叩きまくった。
そして何かに気付いたように、ふと顔を上げて相手の顔を見た。その人は、
司と一緒に泣いていた。
しっかりと司を両腕に包み込んだまま、その全身で涙を流していた。
吉岡!と他の偉い担当刑事さんに何度怒鳴られても叱られても、
ずっとずっと守るように司を抱きしめていてくれた。



2001年 冬 

三島先生、こんにちは。
これで今月は何度目の手紙になるでしょう。
この前はフリースの差し入れありがとうございました。
拘置所の独房の中はヒーターがないから、すごくたすかります。
昨日は田辺牧師が来て、イエス様についてたくさん話しました。
イエス様は最初は大工だったそうです。けれどいろいろよいことをして、
最後には神さまになったそうです。その話をきいて、
ぼくも晴れて釈放されたら、イエス様のようにたくさんよいことをして、
これからもっとよい人間になろうと、また心から思いました。
救う会のみなさんからも、今週もたくさんの手紙をもらいました。
みんなぼくの味方だと思うと、いっそうやる気がでます。
来週の月曜日は、いよいよ控訴審の最終弁論です。
先生、どうぞぼくのえん罪を晴らして下さい。
いつもなんども手紙に書いているけれど、
ぼくはあの老夫婦を殺してなんていません。
先生がいっているように、あの父親がみんなやったんです。
警察の取り調べでごう問されて、ぼくは全部ウソの自白をさせられたんです。
ぼくは無実です。
このまま死刑になったら、ぼくはうかばれません。
この世でずっとうらみが残るだけです。
ぼくがどうかまた自由の身になれるようにしてください。
先生だけがぼくの頼みのつなです。


平成15年1月16日 
谷原 信也




つづく

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