この手紙を今、姉さんは何処で読んでくれているのだろう?
軋む廊下の先の薄暗い台所の椅子に座りながら、とか、
やわらかな陽だまりの中の縁側に腰掛けながら、とか、
もしかしたらどこか別の場所へ向かうバスの中なのかもしれない。
なんて、
いずれにしても、
封を開けてくれて、ありがとう。
可南子は足を止めて、軽く一つ、深呼吸をした。
どれくらい登ってきたのだろう?
なだらかに伸びる坂の後方を振り返ると、
銀色に照り返されたビル群や住宅街が眼下に広がっている。
その隙間を埋めるかのように、
木々のパッチワークが窮屈そうに点在しているのが目に入ってくる。
実はこの手紙は、書き直したものなんだ。
だいぶ前に書いたものが別にあったのだけれど、
でもどうしても投函できずにいて。
その理由を、しばらくずっと考えていたんだ。
可南子は視線を上空に移した。頬に、九月の風が渡っていく。
頑固な夏の暑さは、依然として立ち去ることを拒んでいるが、
それでも秋の気配は、水面にそっと落ちる滴のように、
静かにその色を深めていく。
長い手紙だったんだよ、前に書いたのは。
読み返してみてね、なんか笑ってしまったんだ。
笑ってしまうつながりなんだけど、ごめん、
書いている字が時々乱れてしまうかもしれない。
今いるのは筒井の車の中で、
海に向かっている途中なんだ。
可南子は視線を遠方に戻した。
弟が見たであろう海が、
広がる街並みの先に更に遥かに広がっている。
今まで沢山の人たちと関わってきた人生の中で、
自分は何を望んでいるのか、本当は何を望んでいるのか、
分かっていたつもりだったんだ。
分かった気がしたまま、
そうやってずっと生きてきたのだけれど、
でもある時ふとね、
海に行きたいと思ったんだ。
海を見たいと、そう強く思ったんだよ。
可南子の瞳は遥か彼方に広がる海を見つめつづける。
微かに金色を帯び始めた波光が、キラキラと、キラキラと、
揺れている。やわらかに。
そう思った時に、
自分がいかに周りの人達の人生に対して、
そして自分自身に対して、無責任で身勝手だったのか、
どれだけ自分が愚かで傲慢であったのか、
やっと気がつくことができたんだ。
ようやく自分自身と対峙することができたんだ。
覚悟とは、何なのか。
可南子は、再び空を見上げた。色を薄めた水色の空に、
淡い緑のインクが溶け込んでいる。
綺麗な色だな、と可南子は思う。
なんていう色の名だったかしら?
宝石の名前にもある呼び方。
頭の隅に引っかかっている記憶を呼び戻そうとして、
可南子はふと気づく。
そんな事どうでもいいじゃないか、姉さん。
と、弟ならきっと笑って言うだろう。
感情と意志を取り違えてはいないだろうか?
そう自問し続けて、やっぱり様々な感情と向き合ったけれど、
思い至ったのは、自分自身を裏切りたくない、ということ。
持ち得る生命力に誠実でありたい、ということ。
それを信じていきたい、ということ。
自分の命は自分だけのものではないという、普遍的な美しさ。
そこに誠実さは宿るのだと。
なんて、なんか大袈裟になってしまったけれど、
そんなことをずっと考えていたんだ。
そうだ、ターコイズだわ。ターコイズブルー。
諦めかけて急に戻ってきた言葉の記憶に可南子は笑った。
傾きかけたターコイズブルーの空を染める陽の光は、
夕陽と名を変えるまでにはまだもう少し時間があるようだ。
生きていれば、否が応でも辛いことや悲しいことが起こってくるけれど、
それでも自分であることを放棄しない。
自分であるという覚悟。
そこに喜びは根付くのかもしれない。
そしてそれは、
とても単純なことなのかもしれないよね。
可南子は視線を前方に戻した。
緩やかな勾配が先へと続いている。
喜びはどこにあるのか、
なんて探す必要はないのだと、僕は思う。
人は、多分、みんな本当は知っているのだと思うから。
可南子はもう一度息を整え、
坂の上で、長い間ずっと自分の帰りを待っていた人へと、
再び一歩を踏み出した。
捨てようと思っても、捨てられないものが、
人の心の底にはあるのだということ。
それは、
希望なんだよね、姉さん。
希望なんだ。
完
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