月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語 最終章

2023年09月09日 | 小説 吉岡刑事物語




この手紙を今、姉さんは何処で読んでくれているのだろう?
軋む廊下の先の薄暗い台所の椅子に座りながら、とか、
やわらかな陽だまりの中の縁側に腰掛けながら、とか、
もしかしたらどこか別の場所へ向かうバスの中なのかもしれない。
なんて、
いずれにしても、
封を開けてくれて、ありがとう。




可南子は足を止めて、軽く一つ、深呼吸をした。
どれくらい登ってきたのだろう?
なだらかに伸びる坂の後方を振り返ると、
銀色に照り返されたビル群や住宅街が眼下に広がっている。
その隙間を埋めるかのように、
木々のパッチワークが窮屈そうに点在しているのが目に入ってくる。



実はこの手紙は、書き直したものなんだ。
だいぶ前に書いたものが別にあったのだけれど、
でもどうしても投函できずにいて。
その理由を、しばらくずっと考えていたんだ。




可南子は視線を上空に移した。頬に、九月の風が渡っていく。
頑固な夏の暑さは、依然として立ち去ることを拒んでいるが、
それでも秋の気配は、水面にそっと落ちる滴のように、
静かにその色を深めていく。



長い手紙だったんだよ、前に書いたのは。
読み返してみてね、なんか笑ってしまったんだ。
笑ってしまうつながりなんだけど、ごめん、
書いている字が時々乱れてしまうかもしれない。
今いるのは筒井の車の中で、
海に向かっている途中なんだ。




可南子は視線を遠方に戻した。
弟が見たであろう海が、
広がる街並みの先に更に遥かに広がっている。



今まで沢山の人たちと関わってきた人生の中で、
自分は何を望んでいるのか、本当は何を望んでいるのか、
分かっていたつもりだったんだ。
分かった気がしたまま、
そうやってずっと生きてきたのだけれど、
でもある時ふとね、
海に行きたいと思ったんだ。
海を見たいと、そう強く思ったんだよ。




可南子の瞳は遥か彼方に広がる海を見つめつづける。
微かに金色を帯び始めた波光が、キラキラと、キラキラと、
揺れている。やわらかに。



そう思った時に、
自分がいかに周りの人達の人生に対して、
そして自分自身に対して、無責任で身勝手だったのか、
どれだけ自分が愚かで傲慢であったのか、
やっと気がつくことができたんだ。
ようやく自分自身と対峙することができたんだ。
覚悟とは、何なのか。




可南子は、再び空を見上げた。色を薄めた水色の空に、
淡い緑のインクが溶け込んでいる。
綺麗な色だな、と可南子は思う。
なんていう色の名だったかしら?
宝石の名前にもある呼び方。
頭の隅に引っかかっている記憶を呼び戻そうとして、
可南子はふと気づく。
そんな事どうでもいいじゃないか、姉さん。
と、弟ならきっと笑って言うだろう。



感情と意志を取り違えてはいないだろうか?
そう自問し続けて、やっぱり様々な感情と向き合ったけれど、
思い至ったのは、自分自身を裏切りたくない、ということ。
持ち得る生命力に誠実でありたい、ということ。
それを信じていきたい、ということ。
自分の命は自分だけのものではないという、普遍的な美しさ。
そこに誠実さは宿るのだと。
なんて、なんか大袈裟になってしまったけれど、
そんなことをずっと考えていたんだ。




そうだ、ターコイズだわ。ターコイズブルー。
諦めかけて急に戻ってきた言葉の記憶に可南子は笑った。
傾きかけたターコイズブルーの空を染める陽の光は、
夕陽と名を変えるまでにはまだもう少し時間があるようだ。




生きていれば、否が応でも辛いことや悲しいことが起こってくるけれど、
それでも自分であることを放棄しない。
自分であるという覚悟。
そこに喜びは根付くのかもしれない。
そしてそれは、
とても単純なことなのかもしれないよね。




可南子は視線を前方に戻した。
緩やかな勾配が先へと続いている。



喜びはどこにあるのか、
なんて探す必要はないのだと、僕は思う。
人は、多分、みんな本当は知っているのだと思うから。




可南子はもう一度息を整え、
坂の上で、長い間ずっと自分の帰りを待っていた人へと、
再び一歩を踏み出した。



捨てようと思っても、捨てられないものが、
人の心の底にはあるのだということ。
それは、
希望なんだよね、姉さん。
希望なんだ。






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