※吉岡刑事物語・49からの続きです。
けれども僕には
果たすべき約束がある
眠りに就く前に行くべき道の
眠りに就く前に行くべき道が
ーロバート・フロスト
水道の蛇口から、
水の粒が滴り落ちていて、
眠たげなメトロノームから打ち出されるような、
退屈で単調なリズムを、
薄暗いアパートの片隅に刻んでいた。
畳に敷かれた布団から身体を起こし、
名ばかりの手狭な台所の空間へと足を運んで、
三島敬一は蛇口をきつく締めなおした。
玄関木戸を見遣り、横に掛かった壁時計を確認する。
時刻は、午前四時半。
三島は時計から視線を逸らし、
六畳一間の部屋に戻って、
布団の中に身体を包みなおした。
眠りにつこうとして閉じた目が、
すぐにまた開かれていく。
三島はゆっくりと布団の上に半身を起こして、
横壁に沿って置かれた部屋の唯一の家具である文机の上から、
一束の新聞を手に取った。空いたもう片方の手で、
枕元に置きっぱなしにしておいたビール缶を掴み、
残っていた中身を一気に飲み干した。
部屋の空気で中途半端に冷やされていた液体が、
刺激も味気もなく喉元を下りていく。
三島は手元に視線を落とし、
捲り癖のついている紙面を一枚開いた。
表情の無い乾いた土のような二つの瞳が、
記事の一つへと迷いなく注がれていく。
法務省は23日、老夫婦とその義理の息子を殺害した谷原信也(32)
=東京拘置所、死刑囚に対する刑を執行したと発表した。
容易に見落とされる程の小さな記事が、
三面版の片隅に紛れ込んでいる。
繰り返し何度も目を通してきた短い文面に、
三島はじっと視線を当て続けた。その横顔に、
天井の漆喰に、壁のシミに、色褪せた畳の上に、
閉じたカーテンから透き届く町のネオンが、
原色に浮き染まりながらせわしなく点滅している。
始発電車の走行音が近づいてきて、
冬の白息に凍るガラス窓をかすかに揺らしていった。
薄い壁を隔てた隣の住人の部屋から、
今朝は早番の仕事で出かけていくのか、
食器を重ね合わせる音が漏れ聞こえていた。
三島は左手に掴んでいた空き缶をぐっと握りつぶして
無表情のまま布団から立ち上がった。
僅かに開いたカーテンの隙間を閉め直し、
今日という長い一日を対処するための作業服へと
着替え始めた。
洗い清めた墓石の前に腰を落とし、三島は合掌して目を閉じた。
祈りを唱えようとするけれど、たぐり寄せる言葉は拾いだせない。
亡くなった人たちの為にただ冥福を祈ればよいと寺の住職は三島を諭すが、
心は枯渇した川底に転がる石のように黙り込んだまま、
結局今日も何も浮かばないままだった。三島は目を開けて、
横に建つ法名碑へと視線を向けた。
自分の人生の中ですれ違う事もなくどこかで生き、
そして亡くなっていった故人たちの名前が御影石に彫られている。
ふと三島は、谷原は今どこに瞑っているのだろうかと思った。
多くの死刑囚がそうであるように、
谷原も何かの宗教に帰依していたと三島は人づてに聞いていた。
もしかしたらどこかの大学病院に献体を申し入れていたかもしれない。
無言のまま見つめつづける法名碑に、己の顔が反映していた。
無表情な顔がじっとこちら側を見つめ返している。
香炉から立つ線香の煙がそれをゆっくりとなぞるように、
重く湿った冬空へとか細い蛇行線を昇らせていた。
三島は、じっと見つめてくる自分の顔から視線を逸らした。
落とした視線の先が、花入れの中の真新しい中菊の姿を捉えていく。
煤色に垂れ込める空に一点の鮮やかな色を差しているその花の姿を、
三島は見るともなしにぼんやりと見つめ続けた。
いつの間にか周囲を淡くしっとりと包み始めた霧雨が、
中菊の花びら一枚一枚をカナリア色に深めていた。三島は立ち上がり、
作業着の黒いジャンパーポケットからデジタルカメラを取り出して、
清掃して献花と焼香をすませた墓地の写真を何枚か撮った。
代行供養を依頼した家族に送るためのものだ。それから墓碑に背を向け、
苔に汚れたタオルが掛かる清掃バケツを両手に持ち上げようとしてふと
靴の汚れが目に入り、ズボンのポケットからハンカチを取り出して
つま先にこびりついた泥を拭こうと腰を屈めたとき、
その存在に気が付いた。
少年が一人、
霧雨の中に立っていた。
着ている防寒具の上からも細身だとわかる身体に、
登山にでも行くようなリュックを背負って、
驚くほど透明に清み研がれた眼差しを、
三島との距離の間に、
すっと切り込むように向けていた。
誰かに似ている、
と三島は瞬時に思った。
僅かに生き残った野生の狼の美を内包した、
端然と静まり返った森の深さを彷彿とさせる、
三島がとてもよく知る人物に。
「関口司です」
視線が合うと、はっきりとした声で自分を名乗った少年に、
三島は自分でも滑稽になるくらい緩慢な動作で身体を立て直した。
「ああ」
三島の喉からは、そう頷くような、呻くような声しか出てこなかった。
他に何と応えればいいのか三島にはわからなかった。
最後にこの少年の姿を見かけたのは、
三島がまだ弁護士を名乗っていた頃のことだった。
それは谷原の控訴審の判決が出た時で、
少年はあの時まだ小学生の低学年だったはずだ。
いま目の先に立っている関口司は、子どもとしての成長をとうに終え、
青年期へと入りかけている形貌に少年の篝火を残している。
「三島敬一さんですよね」
ああ、と三島の喉から再び同じ声が出た。
アーモンド型に目尻の切れ込んだ司の瞳が、
半ば放心したように見つめ返す三島の視線をしっかりと受け止めている。
誰かに似ている、
と三島は再び思った。
「突然にすみません。一度お会いしておきたくて」
そういって頭を下げた司の姿を、
三島はただ黙って見つめることしかできなかった。
「刑が執行されたのは、ご存知ですよね」
谷原のことを言っているのだと理解するのに、数秒かかった。
三島は頷き、片手に握ったままでいたハンカチを、
上着のポケットに入れ直した。
「君には、申し訳ないことしてしまった」
気持ちが形となる前に、そう口から言葉が出てきていた。
「すまないと思っている」
あのあとで事務所を自主退職させられて、と言いかけた顔を上げ、
出かかった言葉を嚥下した。
「谷原も十分に苦しんだと思う」
何でこんな事を喋っているのか、三島は解らなかった。
ただ、言葉が必要だった。
二人の間に横たわる沈黙の重さに耐えきる言葉が。
「刑が確定してからの谷原はどこかの宗教に帰依して、
毎日一心に自分のおかした罪に対して懺悔していたと伝え聞いていた。
お迎えが来た時には落ち着いてー」
「だからどうだというんですか?」
ふと弾かれたように三島の顔が正面に上がった。
司の毅然とした眼差しが、三島の瞳を真っ直ぐに捉えている。
「だからそれが一体なんだというんですか?」
驚くほど冷静な口調で、司は繰り返した。
「どれだけ過去に苦しみ、どれだけ自分のおかした罪に懺悔し、
どれだけ奪った命の冥福を祈ったとしても、
それは谷原の中でだけ生まれ育った気持ちなのではないですか?
僕は、そんな谷原の気持ちのことは今まで何も知らなかった。
全く知らなかった。それは即ち僕の中には存在しなかったということなんです。
僕の生活には関係することのない、僕の人生にはまるで入り込むことのない
他人事だったんだ」
斜めの風が吹いて、
三島と司の間に横たわる空気を揺らしていった。
「こう思う僕を狭量な奴だと軽蔑しても、
それは別にかまわないと思っています。
軽蔑してくるその気持ちは、僕のものじゃない。
それはそう思う相手の心から生まれてくる感情であるから」
そこまで言って司は、ふっと押し黙った。
思わず放ってしまった自分の言葉の強さに、
自分で還り戻って傷ついたように。
「すみません」
やがて司は、静かに口を開いた。
降りしきる細かな霧雨の粒が、
司の髪を銀色のベールに包みこんでいた。
「こんなことを言う為に会いにきたわけではないんです。
谷原が処刑されて良かったと言っているわけではないんです。
刑が執行されたからといって、僕の中の問題が解決したわけじゃない。
まだ・・・あなたに正面きって会える時期じゃなかったのかもしれません・・・」
司はそこで言葉を一旦区切って、呼吸を一つ、静かに深めた。
「でも僕は・・・お兄ちゃんが元気なうちに、
あなたに一度会っておきたくて、お兄ちゃんはきっと僕に・・・」
そこまで言いかけた司の口元が、ふいに止まった。
不可解そうな表情を浮かべている三島の顔を、
司はまじまじと見つめ直してくる。その瞳の奥に、
一瞬意外そうな表情が浮かび上がり、
しかしそれはすぐに了承の色へと移り変わって、
やがてやるせない切なさの深みへと染まっていく。
「それ、僕半分持ちます」
突然、新しい頁を捲るような口調で聞こえてきた司の言葉に、
三島の顔がつと上がった。司の視線の行き先を辿っていって、
それは自分の足下に置いてある清掃バケツのことを言っているのだと、
三島はやっと理解した。いやいいんだ、と断る前にはもう、
司はバケツを片手に持ち上げていた。
周囲には、宵闇がやわらかな土に触れそうなくらいに舞い降りている。
三島は残ったもう一つのバケツを持ち上げて、
墓地の出入り口へ向かって歩き出した。司がその横に並ぶ。
「元気な姿が見れて、良かったよ・・・」
ありがとう、とまでは言葉を出せずに、三島は呟くように言った。
薄い墨汁のように周囲を湿らせ続けていた霧雨は、
煤色を増した空の重みを含んだ雨粒へと変わり始めていた。
「三島さんは・・・どうですか?」
「え?」
「幸せですか?」
空気を揺らさずに訊ねてきた司の言葉を横顔に受けて三島は、
しばらく黙って歩き続けた。
バケツに入った水が歩くたびに跳ね返って、
しもやけにささくれた指先が凍てつくように痛かった。
「どうかな・・・」
暫くしてから三島はそう答えて、自嘲的に笑った。
「君は? どうなのかな・・・」
司は、黙ったまま進ませていた歩みを、つと止めた。
二、三歩行った後で三島も立ち止まり、司に向き直った。
「僕は・・・」
と司は、心に浮かぶ思いを確かめるような表情で言ってから、
三島を改めて見つめ直してきた。
意志の強そうな口元が、再び開いていく。
「僕は、僕としてこの世に生まれてきたことに、
責任を持って生きていきたいと思っています。
何が起ころうとも、周りがどう思おうとも、
僕として産まれて生きているという、
その確かな事実に、感謝しながら生きていきたい。
周りの人たちに感謝しながら生きていきたい。
それが幸せなのだと、それは大きな幸せなのだと、
僕はそう信じているから」
司はそう言って、再び門扉に向かって歩き出した。
三島は何故なのか、急激な郷愁にも似た思いが、
心の奥底に沸き上がってくるのを感じて、
その場に立ち尽くしたままでいた。
前方を見つめる三島の目線の先に、
華奢な司の背中に背負われた重そうなリュックが、
しっかりとした足取りで踏み出していく歩みに運ばれている。
ああ・・・そうか・・・
夕闇を行く司の背中を見つめながら、
三島は心の中で呟いた。
そうだったんだな・・・
「またいつか、会いに来てもいいですか?」
振り返ってそう言った司の顔に浮かんだ笑みを見て、
三島は思った。
吉岡に、
似ていると。
それは吉岡の持つ笑顔の光に、
そっくりだと。
つづく
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