月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その56

2011年11月01日 | 小説 吉岡刑事物語




死んでしまおうと思ったことが、
三島には一度だけあった。
逆転無罪判決を勝ち取った日から僅か数週間後に起きた、
谷原信也の三度目の犯罪が白日の元に晒されたあと、
ほどなくして三島は長年勤めていた大手法律事務所から独立を打診された。
それは要するに、自主退職を婉曲に促されたという意味だった。
事務所を辞めたと告げてから三日目後に、
婚約者が同居先のマンションから出て行った。
その朝起きると、ボストンバックを脇に置いた玄関先で、
ハイヒールを履いている彼女の後ろ姿が目に入った。
 
 仕事はすぐにみつけるよ、弁護士をやめたわけじゃない。
 
彼女は何も答えずに、ヒールを片足に入れていた。

 何も変わらないよ。これからもずっと。

玄関ホールに敷き詰められた大理石の上で、
滑らないように身体全体でバランスをとりながら、
細く尖ったハイヒールに片足を入れている彼女の足先は、
ひどく窮屈そうに見えた。
  
 そういうことじゃないのよ。

彼女の細い背中が言った。

 ではこれはどういうこと?

彼女は再び黙り込んで、
もう片方のヒールに足を入れていた。

 行かないでほしい。君を愛している。

両のハイヒールを履き終えた彼女は、
ワンピースにできた屈み皺をすり落とすように背を伸ばし、
ひと呼吸おいてから三島へと向き直った。
それから言った。
言葉ではなく、その眼差しで。

 何を言っているの?
 一体何を言っているの?
 あなたは、誰?


つまらないショーウィンドを見るような目つきだった。

 私名義のクレジットカードは解約しておいたから。

見たこともないほど鮮やかなピンク色の口紅をつけた彼女の薄い唇が、
スローモーションのテレビ画面を見ているような速度で無機質に動いていた。
ボストンバックを手にした彼女はそうやって三島の元から離れていった。
実のなくなった木から実のなる木へと移っていく気ままな鳥のように。
それから後の三島は独立事務所の設立を頓挫し、
イソ弁としての復職も不可能だと知って、マンションを引き払い、
海に向かった。
絶壁に立って、三島はこれまでの自分の人生を思い返してみた。
勝つこと。
それだけだった。
それだけが自分の人生に重ね合わさる言葉として心に浮かんできた。
その一つの結果にだけ固執しつづけながら生きてきた。
勝利の喜びはそのつどあった。確かにあったけれど、
それはトロフィーを棚に並べる喜びと同じことだった。
ふいに携帯電話のメール着信音が鳴って、開いて見ると
請求額を知らせるメールが受信箱に一通だけ入っていた。
つい数ヶ月前までは毎日チェックしきれないほどのメールが届いていて、
携帯電話を片時も手放せない状態であったはずなのに、
それは全て仕事絡みのメールだったと気付いた今はただの空箱だった。
三島は沖合へと視線を渡した。
見渡す海は、あまりにも、壮絶なくらいに、紺碧色だった。
沖から吹く強い風にしばらく身を委ねているうちに、
ふいに何もかもがバカらしくなった。
これから崖下へと飛び込むことすらくだらないことに思えてきた。
己の人生はそんな大げさなことを選ぶほどのものじゃない。
そんな思いに行き着いたとき、三島は手にしていた携帯電話を海に捨てた。
それから都内に戻り、日雇いの仕事を始めた。
ここ数年の間は山谷にいたが、以前は弁護士だったと口を滑らしたあとで、
仲間だと思っていた連中から袋だたきに遭い、その地を離れた。
それから数日後、打撲に痛む足を引きずりながら舗道を歩いていた三島の横を、
黒塗りのマジェスタが通り過ぎていった。かつて三島の助手兼運転手を勤めていた
後輩の弁護士が、その後部座席に身を委ねている姿が一瞬視界に入ってきた。

 替わりはいくらでもいる

走り去っていくマジェスタに向かって三島は吐くように呟いた。
特別なのはその椅子であって、そこに座っている人物ではない。

 替わりは腐るほど出てくる。

そう心の中で繰り返し呟いた瞬間、気持ちが押し潰されそうになるくらいに
苦しくなって、三島はその場に踞りそうになった。ふと渡した視線の先に
公衆電話ボックスが立っていた。導かれるように、三島は力なくそこまで
歩いていき、ドアを引いて中に入った。ズポンのポケットから小銭を取り出し、
受話器を取って、番号を一つ一つ確かめるようにプッシュした。
呼び出し音が一回鳴って、すぐに相手が出た。用件を短く伝えると、
保留音のないまま数秒の時間が永遠の時の中を泳ぐかのように過ぎていった。

 はい、代わりました、吉岡です。

受話器を握りしめている三島の右手にぎゅっと力が入った。
言葉のかわりに喉の奥から嗚咽がもれてきた。
三島は、電話機に置いた左拳に額を押し付けた。
言葉は何一つ出てこなかった。
最初から何も言うことなんてなかったのかもしれなかった。
受話器の向こうから、やわらかな沈黙が伝わってきていた。
辛抱強い穏やかさで、相手の気持ちを抱きとめていく懐の広さで、
静かに凪いだまま沈黙していた。
その静けさの後方から、荒く飛び交う男たちの怒声が、
まるで別世界から届く雑音のように聞こえていた。

 三島だけれど・・・。

うん、と吉岡は応えて、それからまた黙った。
そうしながら三島に呼吸する空間を静かに渡していた。
三島は顔を上げた。電話ボックスのガラス越しに、
小さな古い児童公園が見えていた。
赤いペンキの剥げかけたベンチに老人が一人、
食べかけの菓子パンを片手にしたまま、
夏の名残を連れ去っていく秋雲にぼんやりと瞳を向けていた。
三島は、
涙にぬれた顔を左手で拭き下ろした。

 話が・・・したい・・・。会いにいっても・・・いいかな。

絞り出すように言った三島の言葉に、
やさしい笑みを浮かべたような気配が、
受話器の向こうからそっと伝わってきた。

 玄関の鍵を、開けておくよ。




晩冬の空の下に立って、三島は公団住宅の一角を見上げた。
刑事部屋へ突然掛けた電話口で会いにいくと言ったまま、
しかし三島は吉岡を実際に訪ねることはしなかった。
あれからもう二つの季節が過ぎ去ろうとしている。
三島は縦横に並ぶアパートの部屋の一つを改めて見つめ直した。
西日は緩やかに午後の町並みにのびて、
ゆっくりとした速度で夕日に染める準備をしている。
突然アパートの出入り口が勢いよく開いて子どもが数人飛び出てきた。
小道を挟んだ向こうにある公共広場へとそのままの勢いで駆けていく。
キィ、キィ、と軋んだ音をたてながら、
出入り口のガラスドアが余力で開閉していた。
三島は暫くじっとその様子を眺めていたが、
やがて思い立ったように歩きだして出入り口のドアを抜けた。
直線上に位置したコンクリートの階段を三階まで上がっていき、
渡り廊下を西側の最奥にある部屋のドアまで歩いていって、
あえて期待を抱かぬようにしながらドアノブに手を置いた。
カチャ、と音がして、
ドアが開いた。
鍵は、開いていた。
玄関先に、紺色のスニーカーが一組置いてある。
三島は、中に入って、後ろ手にドアを閉めた。
森に入り込んだような静けさが、
すっと身体全体を包んでいく。
奥の部屋へと続く短い廊下が、
リビングから届く淡い光の色に染まっていた。
三島はゆっくりと靴を脱いで部屋へ上がり、
廊下を抜けてリビングへと入っていった。
そこに、吉岡はいた。
やわらかく舞い降りる冬の陽光の中に、
溶け込みながら眠っていた。 
ふわりと壁に寄りかかったまま、
翼から抜け落ちた羽のように。
アパートの中は、
薄い金色に揺らめく木漏れ日と、
無音に包まれた空間と、
眠りに落ちている吉岡と、
使い込まれたリュックが一つ。
それ以外には、
何もなかった。
三島は、玄関のドアを開けた時から消えない驚きの表情を
膚下に硬く沈めたままアパートの中全体を改めて見渡し、
片手に500mlのペットボトルを持っていたことを不意に思い出して
それを足下の絨毯の上に置き、それからゆっくりと、
壁にあてた背中を伝い降ろすようにしながら床へと腰を下ろした。
前方に向け直した三島の視線の先で、
吉岡は静かに眠りつづけている。
安易に触れるとふいに壊れてしまう、
びぃどろ細工のような薄く繊細な透明感を漂わせながら。
そんな吉岡の姿を見つめている三島の心の裡に、
学生時代の遠い記憶が、ゆっくりと、鮮明に蘇ってきた。
あの頃、どうして周りのやつはみな吉岡のことが好きなのか、
三島には理解できなかった。
成績は常にトップで、ヨット部の主将で、
自治会の役員もしていた自分に比べて、
吉岡は成績がずば抜けて良い訳でもなく、
スポーツで優秀なわけでも、
英雄的な行動を起こしたことなども一度もない、
平凡で、どこにでもいるタイプの、
決してキャンパスで目立つ存在ではなかった。
けれども、みんな吉岡のことが好きだった。
それがどうしても理解できなくて、
何がそんなに吉岡のことを好きにさせるんだと訊くと、
みな一瞬もどかしそうに言葉に詰まった。
それから決まって、
何がではなく吉岡だから好きなんだとみな明確に答えて、
一体何を訊いているんだと言わんばかりの、
憐れむような、蔑むような表情を三島に向けた。
お前には到底わからないさといった目で。
けれど今ならわかる。
人と人との出会いは、
友情は、
手段ではない。
踏み石ではないということ。
それは人生を照らし合う光だということ。
そうした想いを、
吉岡は毎日の暮らしの中に自然と体現していた。
大袈裟なことなどなくても、
ささやかなふれあいの中で、
みなその吉岡の誠実で忠実な想いと行動を、
本能的に感じ取っていた。
安心して笑える場所、
安心して語れる場所、
安心して自分でいられる場所を、
みな吉岡の大きな器の中に見つけ出していた。
人の魅力は、
目立った出来事を数え上げて羅列することではない。
それは日々の生活の中から自然と生じてくるものだ。
小さな出来事の重なりが、
言葉の限界を越えてしまうほどの大きな魅力となっていく。
本当は、わかっていたことだった。
あの頃から当にそれは理解していたのだと、三島は思った。
ただ自分がその事実を吉岡の中に認めなかっただけだ。
ずっと、悔しかった。
それは絶対に自分には持ち得ないものだと、
わかっていたから。
それは勝ちとるものではないのだと、
嫌というほど心は理解していたからだ。
三島は、吉岡の寝顔に改めて視線を当て直した。
大学時代に、夜更けの研究室でふいに垣間みた、
あの時の寝顔とそれは少しも変わっていない。
黄金色の光が静かに深まっていく空っぽな部屋の片隅で、
そっと寄せては、そっと引いていく、
湖面に揺れるさざ波のような呼吸を繰り返している吉岡の姿を見つめているうちに、
荒れた砂地に途方も無く散らばりきっていたかのような三島の心の綻びが、
内省した静かな思いとなってすっと一つに纏まっていった。
生きていくこと、
その本質的な美しさに、
人はどれだけ正面から向き合って生活しているのだろうかと。
鎧を全て剥がされたあとで、
自分の素手には何が残っているのか。
それでも自分であるのだと、
前へ進んでいく強さを持ち得ているのだろうかと。
それから三島は、
二日前に突然自分の前に姿を現した関口司のことを思った。
あの子はきっと大丈夫だ。
これからもずっと。
吉岡の姿を見つめながら、三島はそう思った。
顎から落ちていった水滴を感じて、
自分は泣いていたのだと初めて気付いた。
葡萄色のインクに染まった夕闇が、
静まり返った部屋にひっそりと染み込んでいく。
ふと、空気がかすかに揺れて、
閉じられていた吉岡の瞼がゆっくりと開いていった。

「やぁ」

三島の姿に気付くと、吉岡はそう言って、
うれしそうに笑った。
懐かしく穏やかな、三島の求めていた笑顔だった。



話したいことはたくさんあったはずだったのに、
具体的なことは、三島は吉岡に何も言わなかった。
吉岡の笑顔をみたら、それは重要なことではなくなってしまっていた。
駅まで歩く帰り道、送っていくよと言った吉岡が三島の隣を歩いている。
言いたいことはもう心になかったけれど、
訊きたいことが三島の喉にずっとひっかかっていた。

これからどうするんだ?

三島は吉岡の横顔を見た。
元々白い皮膚が、月の光に青白く透かされている。
風邪でも引いているのか、
時々吉岡は押さえ込むような咳を繰り返していた。
不意に心の底に捉えどころのない不安が掠めていき、
三島は戸惑った。このあと吉岡はまた、
あの暖房器具も布団もない寒いアパートに戻るのだろうか。
小道の底を這う風は肌を突き刺すくらいに冷たく乾いていて、
昨日までの二日間、しっとりと降り続けながら早春の匂いを運んでいた長雨は、
今夜はその気配をどこにも残していなかった。
 
どうするんだ、これから?

駅の明かりが間近になってくる。
三島は、焦りにも似た問いの気持ちに一つ呼吸を入れ、
前方を見つめながら口を開きかけた。

「会えてうれしかったよ」

ふと耳に届いてきた声へと顔を向けると、
吉岡の穏やかな眼差しに包まれた。
中途半端に口を開いたままでいる三島に向かって吉岡は、
会えて良かったと繰り返し言って、それからやさしく笑った。
疲れた空気が洗い流され、ふわりと周囲が和らいでいく。
三島は出しかけた言葉を胸の奥にしまい込んだ。
大丈夫だ。
時間はある。
これからゆっくりと話していけばいい。
幹線道路を跨ぐ交差点で二人は赤信号に足を止め、
ここでいいからと三島は吉岡に告げた。

「見送られるのは苦手なんだ」

うん、とその言葉に吉岡は頷いて、それから、三島の顔を見つめてきた。
誰の目にも見たことがないくらいにその瞳は優しく穏やかに澄んでいて、
そしてその姿は、すぐ眼の前に立っているのに何故かとても、
どこか遠く手の届かない場所に佇んでいるような感覚がした。

「じゃあ」

吉岡は右手を差し出してきた。
払拭できない不穏な気持ちに戸惑いながら、
三島はその手を取った。
吉岡はしっかりと握り返してくる。
微熱を持ったような温かな手だった。
また、と言って握手を解いた三島の顔を、
吉岡は静かに見つめ返し、
それからジーンズの前ポケットに両手を軽く入れて、
戸惑いの表情を浮かべたままでいる三島に、
にこりと微笑んだ。
相手を大きく包みながら肯定してくれるあのいつもの笑顔で、
微笑んだだけだった。
信号が青になって人の波が動き出し、
三島も吉岡に背を向けて歩き出した。
混雑している駅へと向かいながら、
何かとても大切な事を言い忘れているのではないかという
妙な思いが心を捉えたまま離れず、
横断歩道を渡りきったところで、三島は後方を振り返った。
行き交う大勢の人の姿に阻まれて、
三島はそこに再び吉岡の姿を見つけることができなかった。


 
夕闇の深みが落ちきった町角に風巻が渡っていて、
公団住宅の小道脇に停めた車体の上を、
横殴りの風が時折吹きすぎていった。

「なぁ筒井、知ってるか?」

「知らねぇな」

「本題に入る前に話を打ち切るなよ」

夜空に伸ばしていた視線をフロントガラスへと向けながら、
萩原は運転席に身体を預けている筒井に向けて言葉を投げた。
エンジンの切ってある車内には、氷切るような寒さが沈殿している。
助手席のシートに身を沈め直して、萩原は言葉を続けた。

「その昔に、大真面目に魂の重さを量った科学者がいてさ、その科学者曰く、
この世に存在するもの全ては実体として形になるべきものであるのだから、
だからもし魂というものが存在するならば、それは質量、
重さを持つべきものであるはずなんだってことを力説していてさ、
その自説を立証する為にその科学者は何度も何度も実験を繰り返していたんだけど、
実際に人が亡くなる瞬間に僅かばかりの体重が確かに減っていくっていう臨床結果を、
その科学者は確かなデーターとして記録に残していて、」

そこで萩原は一旦言葉を止め、助手席の窓へと視線を向けた。

「そんなことが書かれた本をこの前ちょっと読んだんだけど、
そこには質量と重さは別ものなんだってことも説明してあってさ、
質量は物体それ自体の性質であって、重さは物体がそこに置かれた場所に
下向きにかかってくる力の量であるから、依然同じ質量を持つ物体からは
実質的には無視できるものなんだ云々うんちくかれこれそうですかはいはい
なるほど、みたいな事が書いてあって、」

車窓から覗く木々の梢は夜風にしなり、
ざわめく葉掠れの先には、
凍った月がひっそりと静まっていた。

「だからなんだよ、ってことになるだろ、実際にはでもさ」

萩原は視線を前方に向け直して言った。

「例えばさ、青信号は実は緑色なんだよね、諸君、とか
お偉いさんに言われたとして、そうかあれは緑なんだな、
なるほど、とか一応頭では了解するだろ、でも咄嗟に信号を渡るときには、
あっ、青だっ!って思うわけなんだよ、心ではさ。
それは緑だぜとか言われても心で理解しているのは青色なんだよな。
即ちさ、だから人は、感情という名の粒が入った砂時計を、
自分だけの理解の範疇に落としながら、己の世界という砂場の中で、
己だけの時を食いつぶしながら生きている生物なんだぜ」

「理屈にもならねぇな」

筒井は運転席のシートに身を深く凭らせたまま、
ネクタイの結び目を無造作に緩めながら言った。

「理屈じゃねぇよ」

萩原が言い返す。

「じゃあ屁だろ」

「お前さ、なんで俺がいつも真面目な話をしようとする・・・」

会話がふと途切れ、二人の視線が遠方の一点を捉えていった。
駅方面からこちら側へと、徐々に姿を現してくるその人影を、
二人の視線は捉え続けていく。
ジーンズの前ポケットに軽く両手を入れて、俯きがちに、
それが癖のように少し右肩を下げた姿が、逆風の中を歩いてくる。
筒井も萩原も、二人とも黙っていた。
ただ黙ってその姿を見つめ続けていた。
安堵と紙一重の薄さで揺れている、互いの哀しみに触れないように。

「じゃ、俺仕事に戻るわ」

やがて萩原は誇張するような口調でさっぱりとそう言うと、
助手席のドアをさっと開けて駅とは逆方向の夜道を駆け抜けていった。
バックミラーに小さくなっていく萩原の背中を見送ったあと、
筒井はフロントガラスの先へと視線を戻した。見つめるそこに現れた現実を、
一つ一つ確認していく視線が、ふと力なく沈んでいきそうになる。
強い北風が、車の窓を叩いていた。
筒井は、憂いを蹴散らす勢いで運転席のドアを開けて夜空の下へ出た。
驚いた顔をゆっくりと笑顔に変えた吉岡が、筒井の前で足を止めた。

「ハギから預かってきた」

筒井はスーツの上着ポケットから取り出したものを吉岡に投げ渡した。
軽くキャッチした吉岡の掌に収まったそれは、家の鍵だった。
二重かんに、針金で繋いだ小さな一枚のメモ書きがついている。

部屋の掃除を頼んだよ、秀隆君。

癖のある懐かしい萩原の文字が吉岡の視界に入ってきた。
顔を上げると、筒井はすでに運転席に乗り込んでいて、

「寒いんだよ、早く乗れ」

下げた助手席の窓からいつも通りの口調で言葉を飛ばしてきた。
吉岡は頷いて、助手席へと身体を滑り込ませた。同時にエンジンがかかり、
ヒーターのスイッチが入る。
吉岡は、掌に乗せた萩原の部屋鍵を見つめなおした。
ふと、何かに気付いてメモを裏返し、その瞳がクスっと笑う。

「筒井、」

裏書きされた右上がりの文字を見つめながら、
吉岡は運転席に呼びかけた。

「ハギが・・」

「ヒデ、」

筒井は吉岡の言葉を遮断して押し黙った。
その後に続けるべく言葉を車内の沈黙へと引き渡していく。
吉岡は、微かに睫毛を伏せ、遠く耳を澄ましていくような眼差しで、
やわらかに口角の上がった唇を開いた。

「ちょっと・・・」

「ちょっとなんだよ」

「くたばってた」

筒井はシフトレバーをぐっとドライブに引き落としてボルボを発進させた。
ふいの沈黙が重みを増し、舞い降りていく雪のように二人の間に積っていく。
左折を告げるウィンカー音が車内に刻まれ、フロントガラス越しの風景が、
狭い夜道からぽっかりと口を開いた空洞のような大通りへと広がっていった。
吉岡は、助手席の窓にそっとこめかみを寄せて、車窓の先へと視線を向けた。

「ヒデ、」

「ん?」

後方へ流れいく町並みを見つめながら吉岡は返事をする。

「ハギが何だって?」

「萩原常例が出たよ」

「何の?」

「カツ丼禁止の」

「またかよ」

「うん」

「おい、」

「ん?」

「今夜はカツ丼だからな、吐いても食えよ」

「わかった」

頷いて応えた吉岡の笑みを横顔に受け止めながら、
筒井は徐々にアクセルを踏み込んでいく。
吉岡は、心細げに立ち並ぶ落葉樹が一本、そしてまた一本と、
後方へと流れ去っては消えていく様子を静かに眺め続けていた。
凍えた舗道のアスファルトは月の光を孤独に吸い込んでいて、
街灯の橙色が、輪郭のともなわない光を宵闇に滲ませていた。
ボリュームを最小限に落としたFMラジオから、誰かの歌声が流れている。
吉岡は寄せていたこめかみを助手席の窓ガラスからそっと離して、
微熱にかすむ瞳をゆっくりとフロントガラスへ向け直した。
しっかりとハンドルを握りながら前方を見据えている筒井の目線の先に、
ヘッドライトの光が二本、暗い街路の中心を貫くような強さで、
真っ直ぐに行く先を照らし出している。
吉岡は、萩原から渡された部屋の鍵をそっと掌の中に握り直した。
ヒーターの温風が、冷えきった躯全体に染み渡って、心地よかった。

「なんだよ」

無意識の裡に呼びかけていたのか、筒井が聞き返してくる。

「温かいな・・・」

僅かに開いた唇から零れ落ちた言葉を追うように、
吉岡の瞼が静かに閉じられていった。
車窓の外には、吹き荒れる風が唸りをあげている。



つづく

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