別に山に憧れていたわけではなかった。
特別な思い入れがあったわけでもない。
学校で催される秋の遠足さえあれば、
土と接する機会はそれで十分足りていたし、
山の存在を心の深くに意識することなど、
それまで一度もなかった。
司はアイゼンが登山靴にしっかりと装着しているか確かめ、
凍てついた空気に強ばる顔を前方へと向けた。
頂上は、まだ見えてこなかった。
立ち上がり、大きく息を吸い込んで薄い空気を肺に入れた。
行く手には白馬の背に似た雪線が、
天の陽射しを白と銀に反射させながら緩やかに伸びていた。
大学入試準備の自宅学習期間の平日に来たせいなのか、
他に登山客の姿は見当たらなかった。
ラッセルするほどの深さではないけれど、
前日の降雪のためにトレースもついていない。
司は振り返って、メインザックをデポしてきた辺りをもう一度確かめた。
単独行は、これが初めてだった。
下方に、超えてきた森林限界が広がっている。
白銀に輝くダケカンバの霧氷林が、
永遠の純潔を告白するかのような煌めきで、
結晶の花びらを一面に咲かせていた。
上空を仰ぐと、群青の空に風はやわらかく収まっている。
大丈夫。
行ける。
司はピッケルを右手に握り直し、雪の斜面を再び登り始めた。
積雪に隠れた浮き石を誤って踏まないよう、
慎重に一歩一歩アイゼンの爪を斜面に平行に食い込ませていく。
緩やかなアップダウンを繰り返していく雪面には、
厳冬期の終わりを告げる早春の陽射しがまばゆいほどの光を照り返していた。
徐々に高度を上げていく斜面に合わせて、司の呼吸が弾んでくる。
踏み出す一歩も次第に重みを増してくる。
ヤッケの下に着込んでいるベースレイヤーに、やがて汗が滲み出してきた。
気付くといつの間にか右手の尾根伝いに小ピークが姿を現していて、
野獣の牙のような尖頂を抱く絶景が肩越しに並んだが、
司はただ高度を確かめるだけの一瞥をそこに与えると、
すぐに前方へと視線も意識も戻した。覚悟はしていたけれど、
予想以上の早さで消耗していく体力に、
司は戸惑いと焦りを感じずにはいられなかった。
近づいているはずの目的の頂上は、まだその片鱗さえも見せてこない。
何度か登っている登山道のはずなのに、
無雪期に登るときよりも遥かに長い道のりに思えた。
一人で踏み出していくアイゼンも重たい。
乱れがちになるリズムで呼吸を繰り返しながら、
司は前方に長く伸びつづける稜線に目線をあて直した。
いつもだったら・・・
今までだったらすぐ前方にー
「司君、」
ふいに吉岡の呼び声が耳の奥に聴こえてきて、
前方を見つめる司の瞳が宙にぼやけていった。
すぐに意識をアイゼンの爪に戻そうとした心の隅から、
呼び戻された記憶の断片はその全容を素早く広げていく。
一週間前に約束の場所に現れた吉岡の姿が、
暮れ合い色に染まる残像の中に立っていた。
呼びかけられて振り向くと、
いつもの笑顔で立っていた。
久しぶりに会えたお兄ちゃんは、
とても痩せて見えた。
司は力いっぱい雪面を踏み込んだ。
登高することだけに意識を集中ようと、
浮かび上がってしまった残像を気持ちから引き剥がした。
吸う息と、
吐く息。
一歩踏み出し、
一歩蹴りだしていく、
山靴の音。
秒速で繰り返していく、
鼓動のリズム。
もう少し。
あともう少し。
頂上まで、
あともうちょっと。
勾配が更に斜度を増してきて、
呼吸が上がり気味になってくる。
頑張れ、
頑張れ、
前に進めと、
自分を叱咤しながら司はクラストした雪面を蹴り続けた。
早く、一分でも早く、頂上に辿り着きたかった。
自分の足で、独りで、そこに立ってみたかった。
いつの間にかペースを保つことも忘れて、司はがむしゃらに登りつづけていた。
絹のように薄く張り詰めた空気が吸い込む肺の中で悲鳴をあげていて、
息苦しさが細胞全体をじわじわと蝕ばんでいくようで、
今にも膝が崩れ落ちてしまいそうだった。
やがて苦しさで密閉された心の中に、
(悲しんでばかりいたらだめだ)
別の記憶が蓋を開いて喋りだした。
無造作に傷口を開かれたような感覚に、
司はぎゅっと眉根を寄せた。
(家族がいなくなってしまって悲しい気持ちは、
よくわかる)
それは身内の命を一人残らず奪われてしまった
司の生い立ちを知った人たちから、
幾度となく繰り出されてきた言葉だった。
心の底に堆積しているその言の葉たちは、
谷間に沸き上がってくるガスのようにゆっくりと、
出口を塞がれた司の心の密室に押し広がっていく。
(寂しいという気持ちは、よくわかる。
けれどもいつまでもそうやって泣いてばかりいたら、
天国にいるお父さんとお母さん、
おじいちゃん、おばあちゃんだって悲しんでしまう。
だから亡くなってしまった家族の分も、
しっかりと生きていかなければだめだ)
どうしてみんな同じ事を言うのだろう?
司は蹴りだしていくアイゼンの爪先に目線を落とした。
自分の理解しえない生活圏外の事柄を、
異質という思考の枠にはめこんで、
それで解決しようとしているみたいだ。
把捉しようとする前に、
選び取った言葉の中に答えを急いでしまうように。
人は納得したい生き物だから、
そうしてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
けれども選択したその答えの中に、
いつも真実があるとは限らない。
慰めようとしてくれるその気持ちはありがたいけれど、
だけど・・・、
司は斜面を踏み出していく足下を見つめ続けた。
だけど・・・、
しっかり生きていかなければいけないなんて、
そんなのは当たり前のことじゃないか。
僕に限って言う事じゃない。
お兄ちゃんはそんなやわな気休めなんか、
一度だって僕に言わなかった。
司はアイゼンを思い切り蹴り込んだ。
正面を見据える顔が、切れ切れに吐き出す白息に煙っている。
ぎりぎりの薄さで吸い込む乾いた空気が喉の奥に張り付いてきて、
限界かと思うくらいに息苦しかった。
-息を吸い込むことより、
吐き出すことに気持ちを集中してみようか。
吉岡の声が再び司の心の中に戻ってきた。
司は歩速を緩めながら、吐きだしていく息に意識を集中させた。
一回吸って二回吐く。
小学生最後の夏休みに初めて軽登山を体験した丹沢で、
体力が限界だったのにもかかわらず意地になって登り続けようとした司に、
ゆったりと歩みを止めて吉岡は、
四囲の緑に溶け込むようなおおらかさで、
そう手解きをした。
-ゆっくりでいいんだよ。
一回吸って、二回吐く。
-自分の心の音を聴いてごらん。
少しずつ息遣いが落ち着いてきて、ペースが徐々に戻ってくる。
司はゆっくりと呼吸の速度を整えながら、
前方に見え隠れしだした主稜線に視線を上げた。
風が少し動きだして、
薄氷のような吐息をそっと頬に吹きかけていった。
轟音を立てたジェット機が、
遥か頭上を切り割くような速さで飛んでいく。
司は立ち止まって、空を仰いだ。
-司くん、ほら見て、飛行機が飛んでいるよ。
-ほんとだ、ジャンボかな?
-かもしれないねぇ。
-雲が出来ているよ、飛行機の飛んだあとに。
-飛行機雲だね。
-どうして雲が出来るの?
-それはね、排気ガスの中にある塵や水蒸気が大気中で急激に冷やされると、
雲の粒になるんだ。空気が湿っていたりすると雲ができやすくなるんだね。
-でもすぐに消えちゃったよ。
-すぐ消えちゃうと晴れの天気がつづくって言われているんだよ。
-そうなの?
-うん。逆にずっと残っていると他の雲も出てきて天気が崩れちゃうんだ。
長い入院生活から解放されたあと、山登りがしたいと急に言い出した司に、
吉岡はまず空を見ることから教えた。
それが観天望気に繋がることなのだと司が知るのは
だいぶ後になってのことだったが、それまで知らなかった、
様々な雲の種類について知識を増やしていけることが、
当時の司にはただそれだけで嬉しくて、楽しかった。
急な天気の変わりやすさを告げにくる真っ白な鰯雲、
カール状に伸びるすじ雲は乾いていれば晴れ巻雲、
湿っていれば雨巻雲・・・
近くの町をのんびりと歩きながら、
ふと見上げた空に浮かぶ雲について話す時の吉岡は、
いつもよりずっと自由な空気に包まれているように司には見えた。
灰色に陽を透かしながら数時間後に雨を呼ぶのはおぼろ雲、
暗灰色に重く垂れ込んでしっとりとした長雨長雪を降らせるのが乱層雲、
畑の畝みたいにどんよりと曇っている畝雲は低い高度に浮かぶ下層雲、
霧で薄く低くたちこめてくるのが層雲と呼ばれるもの、
ソフトクリームみたいに青空に浮かぶのは積雲、
それが大きくなると夕立や雷を呼び起こす入道雲・・・
色々な雲を浮かべながら、
空はいつも僕たちに語りかけてくれているんだね。
教えてもらった言葉の一つ一つを想い辿るように、
司は空を見つめた。
天空は、どこまでも広がり上がるように高く青く澄み渡っている。
視線を前方に戻し、司は再び登高に取りかかった。
急斜面の上部をトラバースするように回り込むと再び広い雪稜に出て、
なだらかなルートをしばらく進みつづけると、やがて分岐に出くわした。
稜線が二手に分かれていて、司の目にはそのどちらもが主稜線に見えた。
足を止めて、ヤッケの内側から首に下げた紐を手繰り上げて、
ベースプレートコンパスを取り出した。続けてサブバックの中から出した
山岳地形図のルート線上にコンパスの左辺を合わせ、
回転盤矢印を磁北線に平行に合わせてから身体の前に据え、
矢印と磁針が重なる位置まで身体を回転させた。顔を上げて、
向かう頂上への方角を確認していく。主稜線は右手側だった。
司はコンパスと地図をしまい戻し、進むべく道にアイゼンの音を鳴らしていった。
斜登は再びきつくなり、すぐに息が上がってくる。
暫く進んだ先で左下方に視線を落とすと、支稜線だと思った先ほどの別れ道は、
沢筋へと深く切り込んでいく枝尾根だったことが見てとれた。
知らずに間違って降りてしまっていたら、
間違いなく道迷いに遭遇していたルートだった。
-道に迷っても決して沢に降りてはいけないよ。
疲労にもたつく足下と心を底から抱え上げるように、
やさしく力強い吉岡の声が響いてくる。
-おかしいなと思った時点で始点へ戻っていけば大丈夫。
司は辛抱強い粘りで登高を続けた。
二十歩登っては休むというインターバルを繰り返していく足下の勾配は、
慈悲のない傾斜度で疲弊の痛みに切り込んでくる。
永遠に続くかのような長く辛い急斜面の先に、
頂上はまだその気配さえ見せてこない。
踏み出す一歩が大げさなくらいに重くて、
司の歩みはますます途切れがちになってきた。
お兄ちゃんだったら・・・
と、司は思わずにはいられなかった。
お兄ちゃんだったら、
こんな登りはキックステップでどんどん登ってしまえるのに・・・。
前方を彷徨う視線が、無意識に吉岡の姿を探し求めていく。
守り通してくれるペースで、
蒸せる緑に差し込む陽射しの中を、
燃え立ちながら散っていく野山の紅を、
行く手を阻む北風に向かっていきながら、
司を引っ張っていった後ろ姿。
-お兄ちゃんってすごいね。どんな高い山にだって登れちゃうし。
それは中学へ上がってすぐの頃に交わした会話だった。
-警視庁捜査一課の刑事なのもすごいし。
なりたくても簡単にはなれないって聞いたよ。
お兄ちゃんって特別な人なんだね。
そんな言葉を受けて、お兄ちゃんは、
一瞬意外そうな驚きの表情をその瞳に浮かべたけれど、
けれどもすぐにそれを包み飛ばすように、
ふわっと屈託なく笑った。
-確かに特殊な仕事をしているかもしれないけれど、
でもだからといって特別な人だということにはならないよね。
それからそう言うと目尻に笑みを深めて、
そっと空を見上げた。
そこに何かの答えを求めていくように。
あの時お兄ちゃんは、
何を想っていたのだろう・・・
ふっと我に還った目線の先に、
人影一つない広大な白い斜面が寂寥として伸びていた。
自分の踏み込むたった一組のアイゼンの音だけが、
司の鼓動に届いてくる。
心細さが、はっきりとした触覚となって体全体に押し寄せてきて、
それに負けまいと足を踏み込んだ瞬間、深く食い込ませたはずの爪が雪面をかすって、
司は斜面を滑り落ちた。慌ててピッケルを雪面に突き刺して下降を止めようとしても
上手くひっかからず、一気に登りのスタート地点まで引き落とされた。
冷たい雪の上でようやく止まった俯せの身体を、やっと上半身だけ起こして、
司は滑り落ちてしまった斜面を呆然として仰ぎ見た。
かなりの距離を滑り落ちたのに、運良く打撲も擦過傷からも難を免れていた。
けれどもしこれが急峻な痩せ尾根で起きていた事だったら、
あっという間に谷底へと滑落していただろうと気付いた瞬間、
急激な恐怖が吐き気とともに胃の底から這い上がってきた。
単独で山を登るということの意味が、体力にも精神にも、
重く圧するように覆いかぶさってくる。
山で起こる事故は、その殆どが未然に防げるはずの些細な不注意から
引き起こるものなのだとしっかりと念を押していたはずの自分が、
やがて小さくなっていった恐怖心にとって変わって惨めに思えてきた。
司は今自分が、地上から切り取られた世界にかろうじて這いつくばっている、
虫螻のようだと思った。
頂上に辿り着けない焦燥感。
頼れる人のいない、圧倒的な孤独との対峙。
司は、茫洋とした表情で斜面を眺めつづけた。
-お兄ちゃんは、登山を辞めようと思ったことはある?
遠く浅く波のように揺れている無数の思い出の中から、
記憶の焦点が二年前の会話へと絞られていく。
-うん、あったよ。
お兄ちゃんはテントの中で読んでいた本を静かに脇に置いて、
まっすぐに向けた眼差しで答えた。
-なんだか登れなくなっちゃったんだよね。
-何が原因だったの?
-知らずのうちにね、よし頂上を上手く極めてやろう、
なんていうことに気持ちが向くようになってしまっていて。
-そう思っちゃいけないの?
瞳にふっとやわらかな陽だまりを浮かべてお兄ちゃんは、
-いけないことでは決してないけれど、
必要な事でもないのかなぁって思うんだ。
不可解そうな顔を向けていただろう司に向かって、
-恋しいなぁ山が、って思ったときに、
また登れるようになったんだけどね。
そう言って、ほがらかに笑った。
そよいでいく若葉のような笑顔だと、
そう思ったことを、鮮明に憶えている。
司は、遥か前方に伸びていく白い世界を見つめ直した。
ぎりぎりのペースで繰り返される呼吸が、
気持ちばかりが焦って折れてしまいそうになる心の軋みが、
斜面に木霊して、司の心にそのまま還ってくる。
そんな司に懐を広げたまま、
山は悠然として黙っている。
司は、ピッケルを支柱にして立ち上がった。
滑り落ちてしまった斜面を、もう一度登りはじめていく。
一陣の風が、標高を上げていく司を通り越していった。
稜線の上から谷の底へと吹き降りていく。
司はもう一度ゆっくりと足を止めて、
ヤッケの胸ポケットから一枚の紙を取り出した。
目の前に広げた天気図を注意深く確認していく。
中国大陸で発達した低気圧は東に温暖前線を伸ばしていて、
このまま時速30kmで東北東に進んでも、温暖前線の前面は
300km圏内で雨を降らせるから、この山岳地帯が雨域に入るには、
少なく見積もっても数時間の余白があるはずだと予測できた。
司は、自分で書き起こした天気図をじっと見つめた。
携帯電話やGPSから取り出す情報だけに寄りかからずにすむようにと、
吉岡はラジオの気象情報から作成する天気図の書き方を司に丹念に教え込んでいた。
ヤッケのポケットに天気図を戻して、司は頂上へと踏み出していく。
締まった雪面を撫で降ろすように、乾いた風がもう一陣。
-蒸発された海の水分が湿った空気となって、
風に運ばれながら山裾に行き当たると、
そこから斜面を登っていく上昇気流が発生するんだ。
高度で薄くなった空気は水蒸気の含有量が少なくなるから、
抱えきれない分の水蒸気が水滴となって雲ができるんだよ。
山の風上側の斜面で上昇気流は起こるんだね。
逆に風下側、下降気流の発生する斜面だと、
高度の下降によって圧力の増した空気は水蒸気の含有量が増えるから、
水滴が蒸発して雲は消えていくんだ。風の向きを読むことが、
山の天気を予測していく大切な鍵になるんだね。
お兄ちゃんが教えてくれたこと。
司は持ちえる力を振り絞りながら斜登を詰めていく。
お兄ちゃんが教えてくれた、
二万五千分の一の地形図の読み方、天気図の作り方、
方角の取り方、道に迷ったときの手引き、
空との対話・・・
急登の最後の一歩を踏み出すと、一気に視界が開けていた。
なだらかに伸びた主稜線の先に、目指した頂上が待ち受けていた。
司は疲れきった身体を按部の中央まで進ませてから立ち止まると、
お守りとして首から下げていたコンパスを、
ヤッケの下から再び取り出した。
手の中にすっぽりと収まる、シルバコンパス。
新しいものではなく、ずっと使っていたものが欲しいのだと、
なかば奪うようにして譲ってもらった、お兄ちゃんのコンパス。
―お兄ちゃんはいつも独りで山に登るんでしょう?
―そうだね。そういう時が多いかな。
―独りぼっちで山に登っていて辛いと思ったりはしないの?
-あるよ。数えきれないくらいあるよね。
-寂しく思ったりもする?
-いつも思うよ、なんだかすごく独りぼっちだなぁって。
-どうしてそんな孤独に耐えられるの?
お兄ちゃんは、
少しとぼけるみたいなおどけた笑みを浮かべてから、
いつもの穏やかな一途さで答えてくれた。
-押し潰されることじゃないんだよなって思うと、
それは背中を押してくれる力になるものだからかな。
お兄ちゃんが教えてくれた、
沢山のこと。
頂上に立って、パノラマに広がり渡る山並みを、
司は打たれたように見渡した。
深く深く清冽を極めたコバルトブルーの空の下に、
真っ白な雪稜が遥か彼方にまで織りなすように連なっている。
グレーの岩肌を縫うように白い尾根が幾筋も谷間へと流れ落ちている。
なだらかに優しい曲線を描く稜線の調べを断ち切るように、
峻険な青峰が天に向かって吠えている。
在るがままに厳しく、在るがままに優しく、
ゆったりと大地に広げた裾野から、
天の領域の高みへと立ち上がっていく、
孤高の山たち。
それは、大地の魂のようだった。
それは、お兄ちゃんが最も愛した山々だった。
司は、荘厳に聳える高嶺を胸の奥深くに吸い込むように見渡し続けた。
視界の端に、前人たちによって頂上に積まれたケルンが映って、
自分もそこに跡を残そうと思ったが、すぐに思い直した。
そんなことは必要のないことに思えた。来た道を振り返ると、
自分の歩いてきた足跡が斜面に長く続いていた。
明日には跡形もなく消えてしまうであろうその歩みの跡を、
瞳の中に留めるだけにして、司は山々の偉容に視界を戻した。
遠く遥か彼方に切り立つの岩峰の先から、
風に舞う雪煙が天空へと高く昇っていた。
いつの間にか、蜂蜜色に染まりつつある西空の下には、
麓の灯りが浮かび上がってきていた。
ゆっくりと地上に灯されていく小さな明かりを、
司は静かに眺めた。しばらくそうしているうちに、
自分は確かに大地に生きている一つの生命なのだという想いが、
心の裡を静かに満たしていった。不意に泣きたくなってきて、
だから素直に泣いた。そしてそのまま家々の灯りを見つめつづけた。
麓に瞬くのは、切なくて、寂しくて、温かい、
一つ一つの光を抱く惑星たち。
自分の灯火を宿す場所。
―お兄ちゃん、何の本を読んでいるの?
-山登りの本だよ。
-山が好きなの?
-うん。
-どうして好き?
-うーん・・・どうしてかなぁ・・・
お兄ちゃんがどうしてあれほど山を愛するのか、
やっといま理解できたような気がする。
どうして自分が山を登ろうと決めたのか、
ようやくわかった。
僕は、
近づきたかったんだ。
一歩でも近づいていきたかった。
僕の目指す場所へと。
「司君、」
お兄ちゃんへと・・・
「話しておきたいことがあるんだ」
追いつきたい、
追いつけない。
僕はこの先、
どこまで近づいていけるのだろう、
お兄ちゃんに・・・。
つづく
風子さんは岳人でもあったんですね。いや~~医学界の人だったり法曹界の人だったり、文人だったり本当に多才な風子さんです。
司くんは大学入試前なんですか。多感な時期の彼に吉岡刑事はとてもいいお兄ちゃんとして存在してるので最高です。
>特殊な仕事してるかも知れないけれど、でもだからといって特別な人だということにはならないよね・・これって吉岡くんが言ってるみたいで好きですねー。
恋しいなあ山が・・と思った時に又山に登れるようになったとか、一人で山登りする時の気持ちとか、山への憧れや思いは人間味溢れる吉岡刑事だからこそ若い司くんに深く影響してますね。
山登りのテクニック、ラジオの気象情報から天気図を作り天気を読む等々岳人の基本をしっかり教えてくれる吉岡刑事は理系、文系両方を持ってて本当に素敵ですね。
山好きの私にはこの章は何と言うか懐かしい気持ちです。それは昔読み漁った新田次郎の山岳小説を思い出させてくれたからです。気象庁の観測員だった頃の「芙蓉の人」を筆頭に随分読ませてもらいました。中でも「孤高の人」が大好きで三回も読みましたよ。新田次郎の本に出てくる人を吉岡くんに重ねて読んだ事もありました。いろんな思いに駆られて吉岡刑事を読み、爽やかな気持ちですが、痩せていた吉岡刑事が少し気懸かりです。
霧島さん、こんにちは♪
コメントありがとうございます
いえいえそんなそんなっ、とんでもねぃです、
自分が興味のあることだけちびっと端を齧っただけで、
苦手なものてんこ盛りのダメダメなアタスでありまして、
数字に関してなんてもう、「ハクション大魔王かっ?!」
ってなくらいで今では割り算も出来るかどうか怪しいです・・
三方をどど~んと山に囲まれた場所で生まれ育ったので、
山はほんとに生活の一部というか、なんかそんな感じです
霧島さんも山がお好きでいらっしゃるのですねっ、おおっ、
ここにも共通項があったなんてぇっ、すごく嬉しいです
そして新田次郎
「強力伝」が特に好きでした。「孤高の人」は名作中の名作ですよね~。
私も深く影響を受けた作品です。もしこの加藤文太郎を映像化するとしたら、
演じられるのは吉岡くん以外にはいないであろう!って思いますよね。
「芙蓉の人」は未読だったのでさっそく読んでみたいと思います。
ありがとうございます、霧島さん♪ お礼にと申しますか、
これは吉村昭さんの作品で山岳小説とはちょっと毛色が変わるのですが、
「高熱隧道」という作品を、もしお読みでなかったらお薦めしますです。
霧島さん、お気持ちを寄せて下さってありがとうございます。
はい、司君は高校の三年生になりました。受験生です。
心のお兄ちゃんと紡いでいった時間を、
二人で共に過ごした山を通して書こうと前から決めてはいたのですが、
いかんせんどうにも筆の力不足
全体の話が一つの流れとしてスムーズに繋げられなくて、
読み辛い部分が多かったと思うです。
そして「絵巻物かい?」というくらいの毎度の怒濤なる長文に、
最後までお付き合いくださいまして本当に感謝の思いです。
いつも吉岡刑事を見守って下さってありがとうございます。
頂いたお言葉、大切に大切に何度も読ませて頂いております。
幸せの包みです♪ 蓋を開けるとすごく元気になります
とても嬉しいです。ありがとうございます
空や雲の話をする吉岡刑事の静かな口調や温かい笑顔を想像するだけで感動します。ああこれが映像化されたらいいのにと思ったりして。
ご紹介して頂いた本、早速図書館に予約しました。
風子さんが感動された本と聞けば是非読みたいです。吉村昭の作品も多いですよね。図書館で時々借りてます。最近は生麦事件を読みました。新田次郎も吉村昭も実在とか史実とかが多いので興味深いです。
そうそう強力伝も感動しました。これも実在の人物で当然ながら彼が運んだ風景指示板が白馬山頂に現存してますよね。
この二人の作品は映像化される事が多いのでつい吉岡くんをイメージしてしまいます。強力伝はちょっと無理だけど(笑)
私は貧乏学生時代、いつも霧島連山を縦走して青春してました。えびの高原をスタートして韓国岳、新燃岳、中岳、高千穂の峰へと早朝から歩いたものです。現在は新燃岳が噴火して縦走出来ないことになって息子が残念がってます。
愛しの霧島の山々です。
ところで「はやぶさ」の撮影隊は今鹿児島ですけど、彼の人も同行してるのかしら・・・
霧島さん、こんにちは
繰り返し読んで下さってありがとうございます。
もう嬉しくて・・・気持ちがふわりと救われる思いです。
気に入って頂けて良かったです
「高熱隧道」、山好きな霧島さんに是非!と思っています
かなり重かです。ごめんなさい、前にこのことを書くべきでした。
人間が自然に切り込むということは、
双方にとってどういった意味を持つことなのだろうかと、
がつんと衝撃を受けた作品でぃした。。。
吉村昭さんの作品もすごく読み応えがありますよね。
まさに足で歩いて書く!みたいな感じというか。
吉村昭さんの作品だと「桜田門外ノ変」が一番心に残っています。
霧島さんは最近「生麦事件」を読まれたのですね。
それも未読なので「芙蓉の人」の次に読んでみようと思います♪
おおっ、霧島さんもお好きなのですね、強力伝!
すごい人ですよね。実在していた方なのだと思って読むと、
感慨も更に深まりますよね。。。そうそう確かにあの役を演じるのは、
相撲部屋かプロレス協会にでもいない限り無理かもです
吉岡君をイメージして小説を読まれるお気持ち、私も同じです~
「栄光の岩壁」は是非吉岡君主演で観たかったぁ~~~!!!
ってすごく思いました。
嗚呼観たかった・・・(←しつこい)
それからそれから霧島さんのお名前!
霧島連山に縁あってのお名前なのかな~とずっと思っていたのですが、
やはりそうだったのですね! こりですっきりしました~
霧島さん、とても素敵な学生時代をお過ごしになったのですね。
書いて頂いた文章を読んでいる途中で憧憬のため息が出たとです。
愛する山々に刻んだ青春の日々だなんて・・・
私が登っていたのはもっぱら南カリフォルニアの低山で、
えらい酷暑とサボテン針くんたちとの格闘でした・・・。
日本の山は本当に美しいです。
新燃岳の入山規制、早く解除されるといいですよね。
霧島さんの愛する山々、私もいつか登ってみたいです。
そだ、お名前つづきで思い出したのですが、先日、
赤霧島というお酒を飲んだです。ものごっつう美味でした。
ってごめんなさい、話が全然ずれてしまいました。
彼の人は、今どんな風景を心に寄せているのでせう・・・。
恋しいですよね