明大の斎藤教授に指摘されて気が付いた。
「平家物語」と「方丈記」の冒頭は同じ世界観だという。
つまり、中世の日本が発見した基本的な概念とはそういうことだったのだ。
本当にそうなのか、では、自分で振り返って見ることとしよう。
◆万物流転の理(ことわり)
「平家物語」の書き出しはこうだ。
皆案ご存じの通り「祇園精舎の鐘の音(こえ)諸行無常の響きあり盛者必衰の理(ことわり)を表わす・・・」をどう読み取るか。
鐘の音(こえ)は、物理学的に考えれば、いつも同じように響いている。
しかし、それが何故、その時々で違って聞こえてくるのか、それは人間が常に変わっているからだという。
聞く方の気分が違えば、鐘の音(こえ)はおのずと違って聞こえるということだ。
次いで「方丈記」の冒頭はたしかこうだ。
これも受験勉強した方ならご存知の通り、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」だ。
川がある。それは情報だから誰にとっても同じだけれど、川を構成している水は見るたびに変わっている。
世の中も、人と住み家もまた、かくのごとし。
人間も世界もまったく同じで、万物流転の法則を説いている。
それ(中世)以前は、多分こうだ。
自信家の藤原道長あたりは、こう言っていただろう。
「私は私だ、それは変わらぬ存在だ」。
しかし、その後の歴史を振り返って見れば一目瞭然、そうではない。
人生は万物流転といっても良いだろう。
視点を変えれば、一般的には良い意味には使わない「君子豹変」は、悪口ではない。
君子は、自らが過ちだと知れば、すぐに改め善に移るということだ。
人間は変わらない、ということを否定できていれば、それは前向きにとらえられるはずだ。
三国志からも引くことができる。
「男子三日会わざれば刮目して待つべし」という言葉がある。
これも、人は常に変わり成長し続ける存在だということを語っている。
ということだそうです。
良くわかるのですが、一番の問題はおいらが変わり続けて成長が出来るかどうかということなんでしょうね。
まったく、人生とは大変なものですわ。
「平家物語」と「方丈記」の冒頭は同じ世界観だという。
つまり、中世の日本が発見した基本的な概念とはそういうことだったのだ。
本当にそうなのか、では、自分で振り返って見ることとしよう。
◆万物流転の理(ことわり)
「平家物語」の書き出しはこうだ。
皆案ご存じの通り「祇園精舎の鐘の音(こえ)諸行無常の響きあり盛者必衰の理(ことわり)を表わす・・・」をどう読み取るか。
鐘の音(こえ)は、物理学的に考えれば、いつも同じように響いている。
しかし、それが何故、その時々で違って聞こえてくるのか、それは人間が常に変わっているからだという。
聞く方の気分が違えば、鐘の音(こえ)はおのずと違って聞こえるということだ。
次いで「方丈記」の冒頭はたしかこうだ。
これも受験勉強した方ならご存知の通り、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」だ。
川がある。それは情報だから誰にとっても同じだけれど、川を構成している水は見るたびに変わっている。
世の中も、人と住み家もまた、かくのごとし。
人間も世界もまったく同じで、万物流転の法則を説いている。
それ(中世)以前は、多分こうだ。
自信家の藤原道長あたりは、こう言っていただろう。
「私は私だ、それは変わらぬ存在だ」。
しかし、その後の歴史を振り返って見れば一目瞭然、そうではない。
人生は万物流転といっても良いだろう。
視点を変えれば、一般的には良い意味には使わない「君子豹変」は、悪口ではない。
君子は、自らが過ちだと知れば、すぐに改め善に移るということだ。
人間は変わらない、ということを否定できていれば、それは前向きにとらえられるはずだ。
三国志からも引くことができる。
「男子三日会わざれば刮目して待つべし」という言葉がある。
これも、人は常に変わり成長し続ける存在だということを語っている。
ということだそうです。
良くわかるのですが、一番の問題はおいらが変わり続けて成長が出来るかどうかということなんでしょうね。
まったく、人生とは大変なものですわ。