一般的には、誰もが長寿を願うと思う。
だが、いざ長生きしたときに幸せかどうかは保証されていない。
長生きした分、喜びも悲しみも多く味わう事となるようだ。
だから長生きとは、寂しい感情を味わう事でもあるらしい。
そしてそれはすでに、百人一首の歌で語られていた。
◆誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに 藤原興風(ふじわらのおきかぜ)
どうやら年をとりすぎてしまったようだ。
友人たちはみな死んでしまった。
この松は長寿だけど友達ではない・・・
親しい友人たちがこの世を去り、ぽつんと一人取り残されてしまったのかもしれません。
残った自分は、どうすればいいのか。
そんな孤独を、物憂げな調べで歌っている。
高砂とは兵庫県播磨のの地名で、松の名所らしい。
その松がいかに長寿であっても、友人の代わりにはなり得ないのは当然です。
もしかしたら、家族や子女は健在なのかもしれませんが、同年代の友人たちとはまた違った存在のはずです。
そこからは、寂しさが伝わってきます。
人類や国家や社会に対して、やるべき目標のある方々はいいでしょう。
いくつになっても、たとえ一人になっても、その目標に向かって進めばいい。
そこには、寂しさなど入る隙間もないのでしょう。
だがおいらのような凡人は、長生き=取り残されたという感覚を感ずるものなのかもしれません。
だったら、ほどほどのところでのお迎えが、幸せなのかもしれませんね。
だが、いざ長生きしたときに幸せかどうかは保証されていない。
長生きした分、喜びも悲しみも多く味わう事となるようだ。
だから長生きとは、寂しい感情を味わう事でもあるらしい。
そしてそれはすでに、百人一首の歌で語られていた。
◆誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに 藤原興風(ふじわらのおきかぜ)
どうやら年をとりすぎてしまったようだ。
友人たちはみな死んでしまった。
この松は長寿だけど友達ではない・・・
親しい友人たちがこの世を去り、ぽつんと一人取り残されてしまったのかもしれません。
残った自分は、どうすればいいのか。
そんな孤独を、物憂げな調べで歌っている。
高砂とは兵庫県播磨のの地名で、松の名所らしい。
その松がいかに長寿であっても、友人の代わりにはなり得ないのは当然です。
もしかしたら、家族や子女は健在なのかもしれませんが、同年代の友人たちとはまた違った存在のはずです。
そこからは、寂しさが伝わってきます。
人類や国家や社会に対して、やるべき目標のある方々はいいでしょう。
いくつになっても、たとえ一人になっても、その目標に向かって進めばいい。
そこには、寂しさなど入る隙間もないのでしょう。
だがおいらのような凡人は、長生き=取り残されたという感覚を感ずるものなのかもしれません。
だったら、ほどほどのところでのお迎えが、幸せなのかもしれませんね。