一日だけの夜勤を終えての平日休暇。
いつもはいわきに行って海鮮丼と温泉旅をしていたんだけど、
南相馬から宮城県亘理町まで浜街道が通れるようになったと聞いたので、
行ってみた。
南相馬から相馬までは何回も行っているが、
震災後松川浦の太平洋沿いを通って松川大橋を渡ったことが無い。
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津波で破壊された道路はきれいに整備されていた。
以前は松並木の中を通っていたので震災前の面影はないですね。
鵜の尾崎トンネルの入口にあるパーキングに車を停めて鵜の尾崎を散策。
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鵜の尾崎には夕顔観音様が祀られています。
その参道に沿った岩壁の窪地が祠となっていて、
昔は石碑や地蔵尊がたくさん祀られていて、
お地蔵通りと言われていたそうです。
震災前は百体を超える石地蔵が祀られていたそうですが、
大津波の激流に押し流されその姿をほとんど失ってしまったそうです。
石材店の方々が流されたお地蔵様の捜索や取り出し作業をして、
現在の姿を復元したと言うことです。
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お地蔵通りを進むと夕日観音様の鳥居があります。
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太平洋戦争末期に鵜の尾崎一帯が軍用地となり、
この地一帯が強制移転を命じられ、
夕日観音様も解体移転させられたそうです。
道路が無い戦争中は解体したものを、
若者は全て戦争に召集されているので、
残った女性や老人が船で運ぶ困難を極めた難事業だったそうです。
鵜の尾崎トンネルが開通してから、
夕日観音跡地に奥ノ院夕日観音として新築したと言うことです。
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夕日観音脇の階段を進み左に折れると展望台があります。
展望台からは相馬港が一望できます。
そこを引き換えし進むと灯台が見えてきます。
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鵜の尾崎灯台
1953年に設置され1962年までは職員が常駐して管理していたそうです。
灯台の高さは15m、標高40mの高さに建っています。
灯台としては比較的少ない四角形コンクリート構造です。
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案内板に慰霊碑と書かれていたので震災の慰霊碑かと思ったら、
海洋調査船ヘリオス遭難碑でした。
1986年6月16日悪天候の中、避難しないで航行を続けていたヘリオスは、
遭難信号を出さないままこの沖合で消息を絶ったそうです。
亡くなった乗員9名は20代から30代の若者。
石碑には
「再びも三たびも生れよ海洋の熱き抱負を遂げむ為に」
と刻まれています。
鵜の尾崎トンネルを抜け松川大橋を渡ります。
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大津波はこの橋を超えたそうです。
周辺の漁港や公園の復興は終わってきれいに整備されていました。
松島方面へ行くときにいつも通っていた、
相馬港から新地町を抜け山元町を目指します。
以前と道路の位置は変わっていても通行には問題なく復旧されています。
あの密集していた新地町の姿はありませんでした。
跡地には公園が造られているようです。
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山元町立中浜小学校
10mの大津波は校舎2階の天井まで達したそうです。
地震直後の情報で津波到達まで避難場所への移動は困難と判断し、
2階建て校舎の屋上に全員避難、
児童、教職員、保護者、地域住民、町職員総勢90名は奇跡的に生還したそうです。
周辺は壊滅状態、津波が去った後は避難は困難で孤立。
屋上の屋根裏倉庫で全員一夜を明かし、
翌日、ヘリコプターで全員救助されたそうです。
子供たちには悲惨な姿を見せない配慮がされたことは素晴らしいですね。
多くの人が犠牲になった中、一人の犠牲者も出さなかった冷静な判断に感動します。
写真パネルで当時の様子が説明されていました。
平日でも多くの人が訪れでいるようでした。
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隣には黄色いハンカチがなびく慰霊碑が建てられています。
この地に立ってみると、
8年前のあの当時のことがフラッシュバックしてきます。
山元町から最終目的地亘理町の鳥の海へ。
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鳥の海周辺もすっかり変わってましたね。
鳥の海といったら「はらこ飯」。
昼食時なので周辺で美味しい店を探すと思ったが、
見つからないので、
とりあえず「鳥の海ふれあい市場」で美味しいものがあるか物色。
農産物や海産物、お土産が販売されています。
亘理名産いちごも売ってたけど、
ビールのつまみにふぐの天ぷらと美味しそうなロールケーキを購入。
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昼食は最終目的地の「わたり温泉 鳥の海」で食べることにした。
震災前は美味しいはらこ飯が食べられたんだよね。
長くなったので、Part2へ続きます。