村爺のなんでもいいべ

南相馬市の馬事公苑を中心に活動しているディスクゴルフの話題や南相馬の出来事や思いついたことを書いていきます。

父親との別れ

2023年06月25日 11時12分08秒 | 日記

父親が88年の生涯を閉じた。

享年90歳。

多くの方々に見送られて旅立った。

今年の正月は元気に迎えたのに半年で急激に悪化するなんて信じられなかった。

数年前から咳き込むことが多くなり心配していたが、

「肺に炎症があるので仕方がない」と言っていた。

自分で通院していたのでそんなに深刻な状態になっているとは思わなかった。

今年3月に入ったころから息苦しさを訴え始めた。

4月に入り様子がおかしいので主治医に面談して病状を確認した。

病名は「突発性間質性肺炎」で治療方法が無いと言われた。

間質性肺炎とは、

人間の肺には数億個の肺胞と呼ばれる小さな袋状の構造があり、ここでガス交換(酸素と二酸化炭素の交換)を行っています。

間質性肺炎はこの肺胞の壁(間質)に何らかの原因で炎症を起こし、肺胞の壁が硬くなって肺の膨らみが悪くなる病気。

特発性間質性肺炎の病態の中でもっとも多いものは、特発性肺線維症。

加齢や喫煙、感染症や生活環境などの要因が関与していると考えられていますが、はっきりとした原因は不明。

急性増悪や肺がんなどを合併しやすく、治療が難しく、予後も極めて不良。

父はたばこを吸わない人だったので原因はわからない。

少しでも楽になるように在宅酸素療法をお願いする。

介護が必要になるので介護認定の申請をした方がいいと言われたのですぐに申請。

介護認定されるまで1か月くらいの期間がかかるので「地域包括センター」に相談してケアマネージャーを紹介していただく。

酸素療法で少し楽になったと言っていたが、

徐々に症状が悪化して苦しさから食事もとれなくなってきた。

主治医に相談し入院のできる病院を紹介していただき診察を受ける。

肺に水が溜まったいる状況なので入院して様子を見ることになった。

MRI検査の画像を見ると肺の状態はあまり変化はないように見えたが、肺全体に炎症が広がっている。

約10日間の入院。

入院している間に介護に必要ないろいろな手続きに追われた。

ディスクゴルフの日本選手権も抱えていたので身体が休まる日が無い状況が続く。

それでも父親が退院してきたら看護できるようになんとか準備を整えることが出来た。

ディスクゴルフ日本選手権アマチュア部門初日に父親が退院。

大会を抜け出して病院に迎えに行くと、

父親はもう歩けなく車いすでの移動も困難な状況になっていた。

介護タクシーをお願いし自宅に帰ってきた。

治療方法は何もない。

そこから寝たきりの父親の看護が始まった。

私が不在の時は年老いた母親が介護しなければならない。

訪問介護、訪問看護をお願いしたがすぐにはできない。

毎日苦しさを訴える父を見るのはつらかった。

退院した当初はちょっと痴呆症が進んでいると言われたが、自宅に戻ると痴呆症が改善された。

「苦しい」、「苦しいから早く殺してくれ」、「病院に連れて行ってくれ」。

何を言われても答えてやれない。

母親はもっと辛かっただろう。

私の姉と妹も毎日通って看病をしてくれた。

親子5人でこんなに話をしたのはいつ以来だろうか。

父親がそういう時間を作ってくれたんだろう。

孫やひ孫たちも全員会いに来てくれた。

その時ばかりは父親も幸せな顔をしていたような気がする。

自宅に帰っていてから3週間。

苦しくて食事や水分が全然とれない状態になったので訪問看護師に連絡。

訪問看護師から主治医に連絡し往診していただいた。

病状が悪化してきているので救急車で病院へ搬送。

MRI検査の結果は、

片方の肺が縮小し空気が漏れて心臓や食道を圧迫している状態。

素人でもわかるくらいひどい状態だった。

そのまま入院。

入院中は面会はできないく状態を知ることができない。

土曜日の入院だったので月曜日に担当医師から連絡があり、

「血圧も上下を繰り返しているのでいつ危険な状態になるかわからない状況なので、

連絡があったらすぐに来れるようにしていてください。」だった。

6月に入りコロナが5類に移行してから週1回一人に限り面会が認められた。

家内が面会に行くと話すことができ安定した状況だったので安心。

それから約1週間後だった。

病院の看護師からの電話で「危険な状態なのですぐに来てください」。

夜勤の早朝だったので仕事を引き継いで退社するのに30分位かかってしまった。

病院に到着し父親のところに行くとすでに亡くなっていた。

まさかこんなに早く亡くなるとは思ってもいなかった。

あんなに苦しんでいたのに充分なことをしてやれなかった。

申し訳ない気持ちでいっぱいで気持ちの整理ができなかった。

それでも容赦なくいろんな手続きは進んでいく。

感傷に浸っている時間もない。

短時間でいろんなことを決めなければならない。

父親の生まれ育った自宅に連れ帰って安らかに眠っていただこう。

父親の人生って何だったのだろうか?

山仕事をしていたので山菜取りは仕事のようにしていた。

魚とりが好きで釣りから投網、やなまで作り魚を取っていて孫たちからは「魚とりの先生」と言われていた。

それも12年前の原発事故で楽しみを奪われた。

力持ちで活力にあふれる爺さんだったのにそれから一気に年を取ったような気がする。

唯一の楽しみは野菜作りに変わっていた。

6人兄弟の長男に生まれ。

兄弟の面倒も見てきた。

ここ数年で4人の兄弟が亡くなり気持ちも落ち込んできていたのだろう。

子供が3人、孫が9人、ひ孫が10人。

通夜や葬儀には多くの人が集まってくれた。

多くの人に見送っていただいたので父も喜んでくれただろう。

これまで皆様から父がいただきましたご厚情に感謝申し上げます。

ありがとうございました。