<2008年10月21日に書いた以下の記事を、一部修正して復刻します>
文世光事件・陸英修女史狙撃事件
若い頃は出張が楽しみだった。もちろんキツイ仕事で大変なものもあるが、まだ行ったこともない所へ出張するのは、どんな所だろうかと胸がわくわくするものである。出張先では地元の人たちと一杯やることも楽しみだし、まだ見たことのない風景や土地柄を探訪することもできる。国内出張も良いが、これが海外出張になるともっと興味津々となる。外国を見たいという気持は、若い頃は特に強いようだ。
ところで、私の最初の海外出張は『日帰り』という無残なものであった。国内でも日帰りというのは嫌なもので、時間に追われてゆっくりできないし、地元の人たちと一杯やることもできない。仕事だからやむを得ないが、日帰り出張だけはしたくないものだ。
もう34年も前の話だが(1974年。後で触れるが、この頃はまだ北朝鮮による「拉致事件」は起きていない)、当時、テレビ局の政治部記者として首相官邸に詰めていた私は、9月に予定されている初の海外出張を楽しみにしていた。それは、田中角栄首相がメキシコ、ブラジル、カナダなどを訪問するのに同行するもので、確定ではないがほぼ内定していた。
ところがそれを前に、8月15日、とんでもない事件が起きた。それは、文世光(ぶんせいこう)という在日朝鮮人が、韓国の光復節(解放記念日)の式典で拳銃を発射し、朴正熙(ぼくせいき)大統領の夫人・陸英修(りくえいしゅう)女史を射殺したのである。文世光はもちろん朴大統領を狙ったのだが、弾がそれて陸英修夫人が犠牲になったのだ。
在日朝鮮人が韓国に潜入し大統領夫妻を狙撃した事件は、日本にも大きな衝撃を与えた。政府も黙っているわけにはいかず、4日後の19日、ソウルで行われる陸英修女史の国民葬に急きょ、田中首相自らが参列することになった。近いから日帰りである。
すると、上司のKキャップが「矢嶋君、同行してくれ」と言う。日帰りの“海外出張”だって!? 仕方がない、仕事だから行くが、9月の海外出張はどうなるのだろうかと、つい不安が胸をよぎった。その頃は、テレビ局でも海外出張は少なかったから、皆が順番で回していた。日帰りのソウル出張が1回とカウントされると、9月の“美味しい”出張は他の人に奪われるのではという不安である。しかし、そんなことは他人には言えない。
8月19日、われわれ記者団はもの凄く早い時間(早朝の5時前だったか?)に羽田空港に集合させられた。田中首相が乗る政府特別機に同乗し、午前中の早い時間にソウルに到着。よく覚えていないが、陸英修女史の国民葬を取材したり、田中首相の朴大統領弔問などを記事にしたり、ソウル支局に行って電話リポートを送ったりと大忙しだった。
途中、どこだったか忘れたが(支局の近くか?)、ある通りで私が「日本人記者」だと分かると、十数人のソウル市民が私を取り囲んで何やらしゃべり始める。韓国語は分からないから困っていると、少しハングルが分かる同行のIカメラマンが、日本に文句を言っているのだという。よく覚えていないが、逃げるのも卑怯だから、日本は韓国に対して友好の気持を持っているとかそんな趣旨のことを言って、なんとかその場は切り抜けた。
陸英修夫人は穏やかな優しい人柄で、多くの国民に慕われていたという。夫の朴大統領が苛烈で厳しい性格の人だったから、それを和らげる意味でも陸英修夫人の存在は大きかったのだ。その彼女が在日朝鮮人に殺されたということで、韓国の国民は怒り悲しんでいたのだろう。ソウルの風景をゆっくり見る暇もなく、その夜、われわれ記者団は田中首相に同行して東京に“帰国”した。
ここで、ぜひ言っておきたいことは、文世光は「朝鮮総連」の支援を全面的に受けて朴大統領暗殺を企てたのだ。彼は大阪市内の派出所で拳銃を盗み、偽造のビザやパスポートを持って韓国に潜入したのである。暗殺決行の3カ月前には、大阪湾に停泊中の北朝鮮のマンギョンボン号の中で、朝鮮労働党の工作指導員から朴暗殺の指令を受けているのだ。
文世光はその後 死刑判決を受け、その年の12月に処刑されたが、北朝鮮と朝鮮総連に操られて犯行に及んだことは間違いない。上記のサイトにも載っているが、彼は「朝鮮総連に騙された」と最期の言葉を録音に残して、あの世へ旅立っていった。
この事件が起きてから3年後、あの忌まわしい「日本人拉致事件」が始まる。1977年9月には久米裕さん(52歳)、11月には横田めぐみさん(13歳)・・・と、次々に北朝鮮による拉致事件が発生するのだ。こうして見ると、日本は当時から“スパイ天国”だったのだ。北朝鮮の工作員とその手先に好きなように蹂躙されていたのだ。好きなようにやられているから、韓国からは「日本は赤化基地」と揶揄されながら今日に至っている。
話が拉致事件に及んでしまったが、私の“日帰り海外出張”の件はその後、海外出張にカウントされずに済んだ。つまり、翌月のメキシコ、ブラジル、バミューダ、アメリカ(トランジット)、カナダという素晴らしい出張には無事、私が行くことができた。もっとも、不安になった私は内々に、デスクやキャップに“日帰り”は海外出張に当たらないですよね・・・と、低姿勢でお伺いを立てたのは事実だが。
忙しかったが、9月のグレート海外出張は“記者冥利”に尽きた。しかし、それから帰国後、田中首相の「金脈問題」が発覚、政局は一転して混迷状態に陥り、やがて田中氏は総理の座を追われることになったのである。(2008年10月21日)