ヤンマ探索記

トンボの観察記録です。

タイトルはヤンマですが、トンボなら何でも撮ります。
勿論、ヤンマが優先です。

昭和40年代前半の鉄道写真(107・加太越え⑦)

2016-12-25 | 昭和40年代の鉄道(関西線他)

加太越え 昭和46年3月(その2)

昭和40年代前半の鉄道写真は、今回が最終回。
この頃、世に言うSLブームが到来、当地にしても見識のない撮影者が殺到した。ばかばかしくて撮影を止めてしまった。
大学生になり、遠征を楽しみにしていた場所もあったが、休んでいるうちに蒸気機関車が終焉を迎えていた。
よって、さよなら運転の類は全く撮影していない。

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昭和46年3月の続編。定番の大築堤での写真で幕引きとする。

大築堤とは、加太トンネルへの加太方のルートを最大25‰の勾配とするため、谷に築かれたR300の壮大な築堤である。
地元では高堤防と呼ばれている。蒸気機関車の時代、関西線最大の難所であるとともに鉄道写真の名所であった。

大築堤は加太越えの定番で、誰が撮っても似たような写真になるが、煙は天候と気温、投炭の具合で様々に変わる。
風が吹き抜けて本務機の煙が流れることが多く、後補機を入れての撮影は後補機が煙で隠れるか否か、運に左右された。

下り荷物を屋渕川で撮影後、大築堤に向かった。次の下り貨物列車の加太発車は荷物から約20分後の10時20分。
線路伝いで約1キロ半ある距離を20分で移動しなければならなかったが、大築堤外側の丘に登ることができた。

この貨物は後補機付である。狙いを定めて間もなく、晴れ渡るなかD51が姿を見せた。 風向きはまずまず良好。

D51ー623[亀]牽引の下り貨物783レ








D51の後補機


次の下り貨物まで1時間以上待つ。大築堤の内側で撮影場所を確保できた。平日で撮影者がいなかったのかもしれない。
上り京都発鳥羽行712D急行"志摩"1号の他、上下各1本の普通気動車をやり過ごした。

撮影待ちの下り貨物は、亀山操車場から竜華操車場に行く列車で加太を11時32分に通過する。
加太越えは、関・加太間から25‰の上り勾配が始まるが、加太で停車せず通過する貨物も設定されていたのである。
この時期は荷動きがよかったのか、当時あまり見かけることのない長い編成であった。ぎりぎり後補機が収まった。

重油併燃装置付D51-832[奈]牽引の下り貨物261レ






大築堤の両側から撮影できて満足していると、思いがけず団体臨時列車が続行。5両全編成グリーン車である。
数分間で谷を抜ける風が強まり煙が暴れたが、むしろ好きなシーンであった。国道25号線の架道橋に差し掛かる。

重油併燃装置付D51-691[奈]牽引の下り臨時旅客




大築堤を回り込んで、煙が安定した。通常ダイヤを縫っての目一杯の力行、最高の煙であった。



中在家信号所で下り貨物、臨時旅客の2本と交換待ちして、正午前、上り貨物列車が峠を下ってきた。

D51牽引の上り貨物264レ


この時間帯は上り普通気動車を間に挟み、上り貨物が2本続いた。

D51牽引の上り貨物786レ


上り貨物と加太で交換待ちした下り不定期貨物列車6785レは、大築堤の手前まで行って撮影。
13時過ぎ、再び大築堤に向かうと上り荷物列車が大築堤を下ってきた。この後、大築堤の外側に下りた。

D51牽引の上り荷物44レ


上り貨物788レをやり過ごして、加太を14時22分に通過する下り貨物列車を待つ。
大築堤を見上げての撮影、なかなかの迫力であった。この後、再び大築堤手前で下り貨物787レを撮影して終了した。

D51牽引の下り貨物263レ





1971.3 加太・中在家信号所


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