陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

プア5-(2) あがく

2009-04-18 15:04:45 | Weblog
あがく、足掻く -
辞書をひいたら、
1 手足を振り動かしてもがく。じたばたする。
2 活路を見いだそうとして必死になって努力する。あくせくする。
3 馬などが前足で地面をかく。また、そのようにして進む。

とあった。
時々「あがく」のは、誰しもあること。
しかし、この「あがき」が常だと本当にしんどい。
また、大きな目標があって、それに向かっての「あがき」なら、それは当然だが、
ワタシの場合なぞ、蚊のナミダほどの目標なのにねぇ。

過日(4/03)のブログ「プア5-(1)」に対するコメント(とおりすがり氏)で、
「もっとじぶんでがんがれ」とあったが、
これもキツイお言葉でござんすなあ。今のワタシにとっては。
このトシでは、現状の努力が精一杯で、これ以上は難しい。
マラソンの後半で、ばてばてのランナーに対し「もっと手をふり、足を出せ」とハッパをかけても、
ランナー自身はもう限界、というのと同じ。
前半だったら、気力で走ることも可能だろうけど。

改めて思うのだが、
世の中、当人は一生懸命頑張っているのに、結果が出ない、出せない人がいる。
どうも、ワタシはその口らしい。

「運」を語ってもはじまらないから、それは別問題とすると、
また、このトシになって「人格」や「人徳」を持ち出してもしようがないから、それも除くと、
頑張っても成果が出ないのは、何かが欠けているから。
それは何かと自問すると、やはり「能力がない」からなんでしょうなあ。
残念ながら。
グランドデザインを描いたり、方向をキチンと見定めたり、やり方などを含めた能力。

勿論のこと、そもそも能力不足は分かっているから、
ワタシはワタシなりに、それを補う努力はしてきたつもりなのだが、
それでもダメとなると、何なんだろう?
つらつら思うに、能力の中でも、とりわけ最も基本の部分、基礎力不足に起因している様だ。
教養というと少し違う。もっとベースの部分。
加えて、それらが体系的に身についていない点。
遅まきながら、だんだんと自分が見えてきた(ような気がする)。

例えば、
子供のころ、四書五経など漢籍の素読をやっていればなあ、と思う。
ワタシ自身も、自分の子供にそうした環境を整えてやれなかったから、親には何も言えない。
もっとも、戦後は、それまでの大家族制度が崩壊したから、
爺さんから素読をならった子は、ゼロではないにしても、稀だとは思う。
父親は働くから、本来は爺さんの役割だが、
仮に同居していても、最近の爺さんは、孫が小学校にあがる前の頃はまだ働いている。
そう考えると、子供の頃の素読は、そもそもが無理な時代ではあるんだけどね。
【注】この素読は、欠けている基礎力の例。⇒ 本件、誤解を招きかねないので、次回のブログで補足する。

だからと言い訳をするわけじゃあないけれど、
ワタシはまともな日本語が、文章を書くことであれ、スピーチであれ、できない。
まして、他国の言語なんて、言うまでもない。

書いているじゃあないか、という人がいるとすれば、
仕方がないから、ヘタクソな日本語なり、英語なりを恥をさらしつつ書いているだけ。
ワタシの表現を見る人が見れば、基礎力のなさが一目瞭然。
ただ書けばいいというものではない。

これからは、小さい頃から英語なり、外国語を習う様になるらしい。
それが悪いとは思わないけど、
日本語もマトモにできない子供が、外国語を習ってどうするの、と思う。
現に、最近のテレビでは、アドリブではなく、物語やドキュメンタリーのナレーションでさえ、
つまり、事前のチェックが十分できる番組でさえ、
間違った言葉の使い方や、歴史的基礎知識が欠如している表現や解説がときどきある。
え? と思ったり、苦笑する様な説明があったりする。
例えば、最近はやりの中国歴史紀行のような番組の解説にたずさわる人間なら、
せめて史記や十八史略くらいは読んでおきなさいね、と思う。
白文でなくても、訳文でいいから。
現地で仕入れた断片的&表面をなぞっただけのハンパな知識だと恥をかくよ、と言いたくなる。
もっとも、「せめて」と書いたが、また十八史略なんて書くとバカにする人もいるけど、
本格的に読みこなすとなると一筋縄ではゆかないんだけどね。
それにしても今のテレビ局の力量も大したことはないなあ、と感じる。
基礎力不足のプアマンにそう思われるんじゃあ、もうお手あげ。
さすがにNHKでは、まだそういう場面に直面していない。

素読をやらなかった者は、オマエ一人じゃあないよ、と人は言うだろう。
勿論、素読が全てではない。基礎力の一。
素読なしで、学校教育なりを通じてそうした基礎力を身につける人はいる。
また、基礎力が不足していても、他の能力で十分カバーできる人もいる。
問題なのは、ワタシの場合、どうも、それら全てが劣ること。
その原点なり核心部分が、基礎の基礎の領域。
子供のころの、更には学童期・学生期のタイマンが、
ここまで人生全体に大きく影響するとは、想像だにしなかった。
(今の政官財のリーダのレベルをみると、基礎力不足は単にワタシだけじゃあない様だが。。)

単に努力するだけじゃあ、あるいは方向が間違った努力じゃあ、
人生どうにもならんのだよね。
ただ、ただ、あがくだけ。
あ~あ、と溜息。

一言そえると、
もし、基礎力不足のワタシに、そうではないかの様に見える部分があるとすれば、
それは単に砂上の楼閣を見ているだけ。
陽炎(かげろう)と同じ。一見、そう見えるだけ。
自分でよく分かる。

しかし、今ごろになって嘆いてもラチはあかない。
自分の人生を後悔したくはないが、
また、後悔するほど寸暇を惜しんで精励恪勤(せいれいかっきん)したわけじゃあないが、
もう少し何とかならないか、ならなかったのかと、自分に問う日々でござんすよ。
身の丈にあった生活を、人生をもう一度考えなおすべきでありましょうなあ。

=蛇足=
ところで、「身の丈にあった生活」は英語でどう表現する?
勿論、日本語でも「分をわきまえた生活」なり、いろいろな言い方ができる。
さる、おつきあいのある人が、"living within your means" (自分の資力の範囲内で生活する)と表現していた。
シンプルな表現だね。
勿論、シンプル is best.
日本語のニュアンスとは少し違うけど、言葉とはそういうもの。
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