昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

東海道五十三次、品川に着いた!

2010-03-14 17:40:32 | 東海道五十三次
予定通り
無事に
品川に着いた!

天気もよく
足の疲れも
さほどなく

のんびりと
楽しく歩いた
足をほめてやりたい

息子と待ち会わせ
久しぶり会って
大阪へ帰る

三日間
コメントや
メールで
励ましてもらった

ありがたかった
お礼を申し上げます

(品川駅で)

東海道、戸塚から神奈川宿まで歩いた。

2010-03-13 22:21:56 | 東海道五十三次
暑かった、帽子も飛ばされる強風になやまされた!

それでも戸塚宿から神奈川宿(鶴見)まで無事歩いた
約44000歩、30キロ、何度も迷った!

午後二時頃、山賊の待ち伏せにあい最後まで楽しく歩いた
生麦事件のあとも歩いた

明日の予定は品川まで
疲れがでるだろうが
自分のペースで歩こう。

(横浜にて)

東海道五十三次歩き前夜。

2010-03-12 20:33:25 | 東海道五十三次
明日からの東海道五十三次ひとり歩きにそなえて
藤沢市内のホテルにきている

今朝7時過ぎ新大阪をたち青春18切符を使って
乗り換え6回の長い旅をしてきた

藤沢に着いたら江ノ島へ行くつもりだったが
途中で富士山がちらりとみえて誘惑に負けた

懲りもせずさった峠を登って富士山の追っかけをしてきた!

これから明日の歩きにそなえて準備にかかる。

(藤沢で)

明日から東海道五十三次ひとり歩きに出発!

2010-03-11 19:39:30 | 東海道五十三次
3年計画で歩き続けている

東海道五十三次ひとり歩きも

来月の70歳の誕生日がゴール

ここまで予定通りすすんでいる

土曜日に

横浜市戸塚区(旧戸塚宿)から旧神奈川宿へ

日曜日に

いよいよお江戸、旧品川宿まで歩く予定


明日は二日間の歩きにそなえて神奈川県の藤沢で前泊

スタートの戸塚や鎌倉への入り口の大船は

手ごろな料金のホテルが満室で藤沢にした


一日かけて青春18キップで大阪から藤沢まで行く

乗換6回、約9時間の長旅・・・

うっかり居眠りもできない


藤沢に着いたら

あまり時間はないが江の島へ寄ってくるつもり

お天気も回復してきたようで問題はなさそう


3ケ月ぶりの東海道なので少し期間があいて

足がうまく動いてくれるかどうか気になるが

のんびり、ゆっくり楽しく歩いてきたい


とにかく無事生還が第一だから

事故にあわないように慎重に歩きたい

そうそう箱根駅伝の権太坂も歩く


こちらに書き込みができればいいが。

http://www.human-dy.com/tokaido-53.html


(昨日までとは一変して今日は春らしい夕陽の新大阪駅)

東海道五十三次ひとり歩き(12月23日)平塚→藤沢→戸塚

2010-01-09 16:28:19 | 東海道五十三次
東海道五十三次ひとり歩きシリーズの続編、12月22日・冬至の日に続いて23日の天皇誕生日に平塚→藤沢→戸塚を歩いた。(12月23日の記録)

[12月23日-(7)平塚→(6)藤沢→(5)戸塚]
◎距離は21.6キロ、箱根駅伝の同区間は8区(3区)21.5キロ
前夜、平塚駅前のホテルで、今日のコースの確認と見どころポイント、通過時間設定をして
◎ゴールは平塚駅手前のバスセンター前、到着予定時間は16時30分。
◎今日は帰宅するので最終時間を戸塚駅発17時40分と設定し余裕をもって歩くことにした。
ホテルを午前7時45分にスタート。コースを歩く前に平塚八幡宮へお参りして、東海道平塚駅前交差点を8時8分にスタート、お天気が良く寒くもなく国道1号線を元気よくすすむ。


最初のポイントの相模川にかかる馬入橋についた。想像していたより長い橋で、すぐ下流をJR東海道線が走っている、振り返ると富士山がきれいに見える。前にすすみたいし、富士山は見たいし・・・振り返り振り返りすすむ。


橋の名前は源頼朝がここで落馬したことでつけたといういわれがあるらしい。ここにも渡しがあった違いない。次の新田交差点あたりが平塚宿の東口にあたると思われた。

茅ヶ崎市に入り、日蓮宗の信隆寺を過ぎ、今宿を越えると新湘南バイパスの下を通過、小出川を渡るとすぐ右下に不思議な光景が眼に入ってきた。公園の真ん中の小さなプールのようなところに古い木が何本か並んで浮かぶように立っている?
近くに行って説明を読んでみると旧相模川橋脚跡が保存されているものだった。8時50分。ほぼ予定通り。ここで早めの休憩、給水。


また、1号線に戻り大きく左から右へカーブしてすすむと鳥居戸橋へ着いた、橋の左手に色鮮やか鶴峯神社の赤い鳥居が目立つ。道路脇に南湖の左富士の碑がたち、ここから左富士の見えるところ、振り向いてみると、確かに1号線の左側に見事な富士山が見えた。これが左富士、左富士が見えるのは2ケ所だけ、吉原で左富士を見ることができなかったので感動!しばらく写真を撮ってながめていたら自転車で通りがかった若い女性が自転車を止めて携帯で撮り始めた。ここは広重の絵にも描かれているところ。


千ノ川を渡り左へカーブしながら1号線に沿ってすすむと茅ヶ崎茶屋郵便局の前へ、このあたりから平塚と藤沢間の茅ヶ崎間の宿として賑わい茶屋町と呼ばれたところらしい。第六天神を過ぎると十間坂の交差点へ、右側に円蔵寺が見えてきたので寄ってみた。慶安2年に徳川家光から朱印状が与えられた真言宗高野山派のお寺で庭に弘法大師の大きな立像が立っていた。
このあたりから茅ヶ崎の中心地なのだろうか賑やかな通りになり松並木が続く。茅ヶ崎警察署、郵便局前を通り茅ヶ崎駅前交差点を過ぎる。町並みがきれいで気持ちよい歩きが続く。一里塚バス停前の一角にお江戸から14番目の茅ヶ崎一里塚が整備されて塚も昔の面影を残していた。


市立病院入口前を過ぎるとまたきれいな松並木になった、茅ヶ崎高校の前を通り松並木に沿って小桜交差点へ、10時10分、ちょうど予定時間ぴたり。


小和田を過ぎ古い佇まいの上正寺に寄ってみた、このお寺は茅ヶ崎で唯一の浄土真宗のお寺だそうで聖徳太子二歳像があるそうだが、拝観はしなかった。

東小和田を過ぎるとまた松並木が見えてきた、赤松バス停を真ん中にしてしばらく並木の下を歩く、これぞ東海道。気持ちがいい。幹は太く高くてかなり古い松だろう。この松並木が終わるところあたりから藤沢市だ。10時30分。予定通りの時間で通過、よし。

二ツ谷に入る、二ツ谷稲荷の前を通る、このあたりには大山詣帰りの信者達が江の島や鎌倉へ向かう途中に休憩所として二軒の茶屋があったためにそう呼ばれるようになったそうだ。ここにも松並木が少し続く。赤羽派出所向かいの三角地点に古い祠が見えたので寄ってみた。古い四ツ谷不動(大山道標)が立ち不動明王が安置されていた。古いはず、説明板によると延宝四年(1676)に建てられたもの。ここは東海道と大山道が交差した四辻に建てられたものでこのあたり多くの茶店が立ち並び参詣客でにぎわったらしい。


東海道はここで1号線から44号線をすすむ。しばらくすすむと左手の土塁の上に松並木が続いたが、これは昔の東海道の土塁跡が残っているものらしい。


辻堂を過ぎると好物の羊羹の幟が目の前に飛び込んできたのでつられて店に入った。おやつにと二個、県指定という大庭城最中とくり羊羹を買った、お店の人が気をつけて行ってくださいと声をかけてくれた、うれしかった、さあ、どこで食べようか・・・・とりあえずリュックの中へ。

羽鳥を過ぎる左へ大きくカーブする、メルシャンの工場が見えてきた。少し寄り道をすると重要文化財の薬師如来像があるという養命寺があるのだが、少しでも早く藤沢の中心地へ行きたいのでパスしてそのまますすむと右側の塀にそって祠が見えてきた。お参りしてとのぞくと・・・・あれっ、二人並んだ道祖神が口紅をしている。両脇にはきれいな菊の花がいけられみかんも備えられている、仔馬のような人形も置かれていてずいぶんと賑やかな道祖神さん、そばに説明文が書かれていたので読んでみたら


「女性の願い事なら、何でもかなえてくださり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする」と伝えら、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたらしい。形は道祖神だがお地蔵さんと呼ばれているようだ。でも、男の願い事は聞いてくれないようだからパス。

引地川西交差点を過ぎ引地川にかかる引地橋を渡り、5分ほどすすむと湘南高校のバス停、続いて湘南高校入口交差点へ。えっ?あのプロ野球ニユース初代キャスターの佐々木信也さんの母校で有数の進学校ではなかったか?記憶違いでなければ、佐々木さんの時代に甲子園で優勝している名門高校。そういえば佐々木さん、どうしているのやら。

しばらく緩やかな坂を上って行くと高架になって下を電車が交差している、小田急江の島線ですぐ左に駅が見えている。なるほど、ここから江の島へ行けるのだな、でも残念。高架の手前に上方見付跡があるらしいので行ったり来たりして探したが結局みつからなかった。かざり屋という古い店があったが、そこはかんざし屋だったらしい。高架で11時28分。予定到着時間が11時30分だから予定通りに来ているので安心した。


このあたりが藤沢宿の西の出入り口だったと思われるので、ここから東の出入り口にあたる遊行寺坂あたりまで80分を当てることにして自由にうろうろしてみることにした。集合場所は遊行寺で午後のスタートは12時50分。ここまで午前中は順調に来ていたが、実は、実は? 午後が・・・お楽しみ。

最初に訪ねたのが「白旗神社」、この神社の御祭神が、寒川比古命と源義経公。えっ?源義経??? 兄頼朝に追われ奥州平泉で亡くなり文治五年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきた、それを神社で祭神として奉ようになったらしい。


その首実験の後に腰越しの浜に捨てられたが、潮にのって境川をのぼりこの辺りに漂着したのを里人が救いあげ洗い清めた井戸と伝えられている義経首洗い井戸がすぐ近くにあったので訪ねてみた。弁慶の首も送られてきたという話もあるらしい。
白旗神社には立派な藤棚があり芭蕉の句碑もあった。ここで時間をとり過ぎてしまった。


それから周辺にあるお寺参りを始めた。創建が元歴元年(1184)で藤沢宿最古の寺院の一つ真言宗の荘源寺、本陣職を務めた蒔田家の墓がある日蓮宗の妙善寺、天然記念物の高さ25メートルのカヤの巨木のある浄土宗の常光寺、そして飯盛女の墓碑がたくさんある浄土真宗の永勝寺をぐるり一周した。わずかな地域に各宗派のお寺が集まっているのはめずらしい。きっと古い時代から信心深い人たちの門前、宿場町だったのだろう。

もとの東海道に戻ってきたら12時26分で完全に時間を読み違えていた。宿場の中心地であったと思われる通りを蒔田本陣跡、通りの反対側に移動して問屋場跡の碑を探しながら、いくつか宿場の雰囲気が残っている建物はあったもののそれ以外に宿場の名残を残すものはなかった。藤沢橋交差点手前を左へ境川にかかる遊行寺橋を渡りそのまま遊行寺の総門へ。参道のいろは坂の石段を上って行った。


遊行寺は一遍上人が開祖の時宗の総本山で、藤沢は鎌倉時代から遊行寺の門前町として栄え、宿場町となってさらに大きな発展を遂げてきたという。さすがに総本山、規模が大きい。銀杏の樹の下で弁当を食べているとハトに囲まれて、おにぎりを与え、のんびりとおやつに買った最中も食べているうちに13時10分を過ぎていた。


予定を20分も過ぎたのでそのままコースの遊行坂へすすめばトラブルことはなかったのに、なにを思ったのか、もう一度戻ってくるつもりで元の道に行き高札場跡を探しているうちに、方角の違う藤沢橋の交差点を直進してしまい気がついたら郵便局前だった。完全に間違っていたためにかなりの距離を引き返すことになった。もう一度遊行寺に行き、小栗半官と照手姫かりの長生院へは寄る予定にしていたのに断念してそのまま遊行寺坂へ急ぐことにした。
熊野古道に小栗半官と照手姫のゆかりのある個所があり、大阪南部から和歌山市海南あたりまでは、熊野古道を別名小栗街道と表示している道標があったことを覚えているので関心があったが、パスすることになったのは残念。

遊行寺坂へ戻ってきたのは14時7分。約1時間20分も遅れてしまった。これで設定したキロごとの予定時間の目安はたたなくなったので、これからは、少しでもゴールが遅くならないように、スピードアップする以外ないので見どころも最小限度にして本気?で歩くことにした。
ただ、最終日の午後は疲れが出るはずだからと休憩を含めて40分ほど、調整時間を設けていたので、16時30分のゴールには、実質的には40分の遅れ、これなら取り戻せると思った。昨日の平塚の最後でポカをしたのに今日もやってしまった。


とにかく進もう・・・遊行寺坂は箱根駅伝8区の難所、左に遊行寺、右に諏訪神社を眺めながら上って行く、藤沢宿の東口、江戸方見付跡、一里塚跡の碑を確認しながら一気に上って行く、上りが続く、駅伝選手にはきつい上りかもしれないが歩くのにはそんなに厳しい坂とは思わなかった。

上りきると両側は静かな住宅街、適当に遊歩道風に整備された道をどんどんすすむ、ここは気合を入れて急ぐのみ。14時半、鉄砲宿バス停を過ぎて1号線を少し上がった小道にある双体道祖神に寄った後は、また、車の通行量の激しい1号線に沿ってどんどんすすみ、戸塚第一歩道橋に来て気がついた。あっ、いつのまにか藤沢市から戸塚に来ている、横浜市戸塚区だ。


松並木の左が分離帯になり外にも道が続くきれいな松並木が500メートルは続き、原宿交差点で二本の道路は再び1号線になったが、原宿バス停で給水休憩、15時11分。少し疲れを感じてきた。三日分の荷物を背負って歩くので肩が痛む。浅間神社前を通過し江戸から11番目の原宿一里塚の前を行く、このあたりの1号線は車がまったく途絶えないほど続く、昨日から今日、ほとんど1号線に沿って歩いているので疲れてくると汚れた空気、騒音、が余計に疲れを増長させる、とにかく早く通り抜けたい一心で歩く。小田原からここまででもっとも疲れを感じた時間帯。15時26分。


陽が傾きかけてきて・・・のっぽさんになった!


吹上の信号を過ぎると道は左を膨らみながら坂道を下って行く。この坂を大坂というらしいが戸塚八幡まで大きくカーブを描きながらかなりの角度で下りが続く、約2.5キロ。


これを上って行くのは疲れるだろう。この大坂は何度もの改修してなだらかになっているらしいが当時は険しくてさびしい道であったに違いない。途中で左手眼下に市街地が見え隠れして戸塚の町が近づいていることを感じた。坂の中間あたりで戸塚警察署前を通過、戸塚見付跡が見当たらず行きつ戻りつして時間を浪費したが、それでも気合をいれて歩いた成果か16時11分に芭蕉句碑のある戸塚八幡に着いた。大幅に遅れていた時間をほぼ取り戻してゴールまでの距離もわずかになったので16時30分の予定時間には間に合うと確信した。


戸塚神社にお参りして戸塚宿の中心地を歩く、八坂神社、海蔵寺、戸塚消防署前を通り、澤邊本陣跡の碑、明治天皇戸塚行在所址に寄り、バスセンター前に着いたのが16時24分。ほぼ予定の時間にゴールした。
今日の歩数 約48,500歩
戸塚バスセンター前は、いつのまにか夕方の雰囲気につつまれて気温も下がり風が冷たかった。そこから平塚駅方面は工事中でJR平塚駅へは、人の流れに連れられて行くうちに地下にある改札へたどりついた。

予定していた最終のJRの時間には1時間も余裕があったのでゆっくりと温かいコーヒーが飲みたいと思ったが、夕方の雑踏を見ていると帰りたくなった。夕食に食べる駅弁を買って帰りの時間をチェック、予定していた最終の電車より早い電車に乗ることにした。ここから長い帰り旅が始まった。車内から携帯で初めて本家のブログに書き込みをした。


○戸塚16:59→(沼津行き青春18きっぷ)→沼津(乗換)→浜松着21:02
○浜松21:38→(新幹線ひかり)→名古屋(のぞみに乗換)→新大阪着23:05
・・・6時間6分・・・ JR交通費 2,300+9,100=11,400円
こうして天皇誕生日にとうとう横浜まで来た。あと三日で日本橋へ。ゴールが見えてきた。
次回はここからスタートする。3月を予定している。

東海道五十三次ひとり歩き(12月22日)小田原→大礒→平塚

2010-01-05 23:19:03 | 東海道五十三次
・・12月の記録を整理した・・

東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、今回は、小田原をスタートしていよいよお江戸日本橋を目指して湘南の地にコースを移して歩くことになった。京都三条大橋を旅たってここまで2年8ケ月、今日が26日目。12月に歩くのは初めてのこと。一番日照時間の短い冬至の日と天皇誕生日をあえて歩くことにした。(前日はさった峠を富士山みたくて歩いた)

◎12月22日-「小田原→大磯→平塚」
◎12月23日-「平塚→藤沢→戸塚」

[12月22日-小田原→大磯→平塚]
前泊した小田原駅前のホテルを午前7時25分に出発。前回ゴールの小田原宿の東の出入り口だった江戸口見付跡が今回のスタート、そこまで足慣らしを兼ねてゆっくり向かう。江戸口見付跡についたのが7時53分。スタート予定を40分としていたので13分ほど遅れてスタートした。曇り空だが心配していた寒さはさほど感じなくていい歩きができそうだ。


日のコース、小田原から大磯、平塚までの公式距離は18.5キロ。手持ちの資料では20キロ。実際は迷ったり道をさがしたり、史跡めぐりをするので23-25キロくらいと想定して1キロごとの通過時間の目安を前夜、地図に書き込んでおいた。なにしろ一年でもっとも日照時間の短い冬至、午後4時までにゴールしないとまずい。休憩時間も毎回500枚前後は撮るデジカメ撮影時間もすべて含めて時速3キロ。ただ歩くだけなら簡単だが、二度と歩くことのない東海道だから、急ぐのはもったいなくて時間の許す限りいろいろ見て歩きたいのだ。

この小田原→平塚間は、箱根駅伝の7区(4区)にあたり駅伝距離は21.3キロ
どう見てもまっすぐ走る駅伝コースのほうが短くて、回り道の多い東海道のほうが長いはずだが公式距離は旧東海道が短い、なぜだかわからない。

江戸口見付跡をスタートしてすぐ、山王神社で今日の交通安全祈願をする。山王橋を渡りまっすぐにすすむ、この辺りは道路沿いにお寺が続く、なんでも鎌倉より小田原のほうが寺院が多いとか、昔から人口が多かったのだろうか。途中から登校する高校生と一緒になった。J高校の手前の信号を右へ入り新田義貞の首塚を訪ねた。

再び1号線に戻りコースはJ高校交差点を横断し八幡神社前へ寄り、再び1号線に戻り酒匂川にかかる酒匂橋を渡る、ここは広重の徒歩渡しの絵で知られているところ。橋から富士山が見えるらしいがあいにく、雲がかかって見えない。ここに渡しがあったらしい。そのまま延びる1号線をすすむ、連歌川の連歌橋を渡る、どんどんすすむ。寒さ対策もあるので信号で足止めされると体を動かすように、とくに足首とふくらはぎのケアは心がけるようにした。



日蓮上人ゆかりの法船寺の前を通り酒匂交番を過ぎ、大見寺に寄って、さらにしばらくすすむと松並木が見えてきた。印刷局入口から小八幡二丁目までの区間、なかなか立派な松並木が続いた。


小八幡三丁目を過ぎるとバス停一里塚前を通る、ここにはかって一里塚があったらしいが、いまは説明板が立っているのみ。歩道に面する塀に箱根駅伝の応援膜が取り付けられて正月の箱根駅伝が近づいていることを思わせる。若者が三人、正面から走り過ぎて行ったが、この区間を走る駅伝選手の練習なのだろうか。


森戸川にかかる親木橋・歩道橋に上ると歩いてきた方向に富士山が見えた、てっぺんに雲がかかっているがはっきり見えてしばらく鑑賞?あーうれしい。邪魔物の歩道橋もこういう時は展望台になっていい。


時間は9時24分。予定時間ではこの歩道橋で9時20分だからほぼ、遅れを取り戻した。
菅原神社を過ぎる辺りから道の右手、海側に歴史を感ずる古い建物が続く、看板も面白い。マリア観音像があるという真楽寺へ寄ってみた、親鸞聖人ゆかりのお寺だそうで手植えの菩提樹をみることができたが、尋ねる人影がなくマリア像をみることができなかった。


そのまま、JR国府津駅前を通過。この駅名、なにか記憶があるなあ・・・明治時代になって鉄道が敷かれたとき、確かここが箱根山を越える起点となり御殿場から三島へ出るルートが敷かれたところ、思い出した。海が近いせいか明るくて感じのいい街道を気持ちよくすすむ。農協前を過ぎ坂下道祖神前、大山道庚申塔前に行くと前方が上り坂になってきた。「車坂」だ。


史跡車坂碑と車坂いわれの説明板が立てられていて、太田道灌、源頼朝、阿仏尼らの詠んだ歌碑が並んでいる。ここが風光明美な坂道であったことを証明している。右側に太平洋が広がっている。旅人もこの峠からの眺めに疲れをいやされたのだろう。確かに景色はいいが、車の通行量も激しい。海の写真を撮ろうにも車が邪魔をしてなかなか撮れない。

車坂を上りきるとあたりの光景は左右に大きく広がり、ビルのない平坦な町並みの真ん中をまっすぐに一号線が緩やかに下っている、中村川にかかる押切橋の手前で小田原市から二宮町へ入る。

押切橋を渡りそのまま一号線の急な坂を上って行くと箱根駅伝の中継スポットになっている押切坂を行く、せっかくだから先にその坂道を上ってみた。うん、なかなか急な道が続く。


そしてもとに戻って旧街道の押切坂へ、古い屋並みの民家の庭に松屋本陣跡の碑が立っていた。さらにすすむと一号線と合流する手前に日本橋から18番目の梅沢一里塚があった。


再び一号線をすすむ。山西のバス停から左の道へ入ってすすむ、閑静な住宅街をすすむと三代将軍徳川家光ゆかりの等覚院へ寄った。ここは藤で有名らしくて大きな藤棚があった。


再び一号線に出てすすんでいくと二宮駅入口交差点に着いたので駅へまわってみた。11時7分、予定は11時。スタートして公式距離で10キロ、ちょうど今日の中間地点になる。まずまずのペースですすんでいるので一安心。ここで給水?休憩。温かいコーヒーが飲みたいなあ・・・Caféが目に入ると思わず入りたくなるが・・・がまん。

駅前のロータリーの大きなくす?の木の下に戦争体験をもとに書かれた小説「ガラスのうさぎ」にちなんで建てられたガラスのうさぎ像と伊達時影徳碑がたっていた。


ふたたび一号線にもどり、葛川にかかる塩海橋を渡るとまたまっすぐな一号線が向こうまで続いている、それを快調にすすむと大磯町に入った。
大磯町・・・なんと響きのいい名前だ。どんな街道が続くのやら興味津々。

六所神社入口の鳥居を撮っていたら自転車できたおばさんに
“危ないわよ!”と言われた。
あっけにとられ、一呼吸遅れて“すみません!” 

そんなことはどうでもいい、とにかく事故が怖い、歩道を遠慮なく走る自転車はとくに怖い。常に注意して道の端を歩くようにして、細い道は振り返りながら歩くようにしているのだが、写真に気をとられていたことを反省、言葉をかけられたのは警告として受け止めてより注意して歩こう。

大磯警察署の手前で一号線から左の松並木へ入って行く。静かで閑静な住宅が続く。いいところだ、さすがに大磯。警察署前の松の切り株モニュメント。


不動川にかかる本郷橋を渡ると斜めに上り坂が続き左に県立大磯城山公園が見えてきた。ここは昼食と休憩地点に予定していたのでベンチを探してさっそくお昼。12時4分。予定は12時20分としていたから時間の貯金ができた。迷わなかったのと寄り道を最小にしたのがよかったのだろう。

昼食といっても昨夜の残り物のおにぎりとパン。途中で生姜飴を口にしていたので空腹感はないから十分、もともと歩く時はあまり食べない。
犬の散歩にきたおじさんとしばし話込んでいたら隣のベンチに同年齢くらいのご夫婦がきて弁当を広げ始めた、愛想のいい奥さん、どちらともなく話しかけて会話がはずんだ。ご主人がトイレに行ってなかなか戻ってこないうちに奥さんの心配ごとを聞かされた。65歳になった去年、自営業から引退した亭主が急に老けこんできたので心配になり、外歩きを誘って今日もここへ来たという。こちらの歳を言って自分の経験を話したら、とても興味を持ったようで励みにして歩くと夫婦で言ってくれた、こちらの記念写真を撮ってもらって、夫婦の写真も送るからと撮ってあげたら喜んで住所氏名をメモ書きしてくれた。とても穏やかないい夫婦だった。ここで大幅に時間オーバー、早くついて貯金したばかりの時間も食ってしまった。
でも、そういう出会いが東海道の楽しいところ、ついでに予定していなかった城山公園の頂上へ上ってみたら富士山が見事にみえた。ラッキー。



さあ、午後のスタート、12時55分。吉田茂邸は去年焼失したはずだからパスして一号線に沿って歩く。やがて見事な松並木が見えてきた、本格的な松並木でこれは歩くのが楽しみだと思った。その松並木の入口、右に伊藤博文旧居跡の碑がたっていた。最近まではプリンスホテルの中華飯店だったらしいが店は閉められていた。

大磯の松並木は保存もよく歩道も遊歩道になっていて気持ちよく歩いた。とにかく大きくて高い松が多く、カメラには納まりきれない、業者が保存のためか何か作業をしていた。13時30分、予定の時間通り。


しばらくすすみ路地を入って旧島崎藤村宅に回り道した、ここは藤村が亡くなる前の二年間住んでいたところらしい。奈良の志賀直哉旧居よりこじんまりとした平屋だが文豪の住んだ家はとても雰囲気がよく似ていた。


一号線にもどり大磯町役場のとなりにある西行法師ゆかりの鴫立庵へ寄った。寛文四年(1664)小田原の崇雪が西行を慕って草庵を結んだのが始まりという日本三大俳諧道場のひとつといわれている。庭をゆっくりしていたら藤村旧居で出会って団体さんがやってきたので退散。


次へ急ぐ前に大磯の海岸へ出てみた。太平洋はすごい、大きくて広い、海岸も長い、白波が打ち寄せてくる、あわてて逃げる、それを繰り返す、じいさんの浜辺遊びには幼稚かな。



砂がセメントのようで驚いた。歩くのがむずかしい。
なにしろ瀬戸内海育ちで海のスケールも景色も砂も違う太平洋を目の当たりにして気分が爽快だった。一号線に戻り少し進むと明治の三大教育者の一人で同志社創立者の新島襄の終焉の地の碑が道路わきにきれいに祭られていた。


さらにすすむと大磯照ケ崎海水浴場発祥乃地の碑がたっていた。明治18年に日本最初の海水浴場としてこの地に開かれたそうだ。鴫立庵、大磯海岸でのんびりとしたために時間をとってしまった。このわずかな区間で予定より28分も遅れて14時18分になっていた。ここから一号線は左へ大きく曲がってすすむ。このあたりから大磯宿の中心地だったのだろう、古い建物が目についた。

尾上本陣跡、小島本陣跡の碑がたっていた。その間に藤村の墓所がある地福寺へも寄ってみた。大磯郵便局前、大磯駅への入口、を通って三沢橋を渡り左のみちへ、JR東海道線の地下道を通ってすすむと松並木の続く化粧坂へ続く。
化粧坂には物語があるのだがここでは省略。


この化粧坂をすすむと再び一号線に合流、金目川にかかる花水橋の手前までくると道路反対側のお寺から親鸞上人の像が見えたので予定はしていなかった善福寺へ入ってみた。住職さんなのか掃除をしていたのでわが家も本願寺派だと話しかけたら、わざわざ本堂の中へまで案内して、ご本尊の前に座らせてもらい、重要文化財の写真まで撮らせてもらった、おまけに2010年のカレンダーまでもらった。こんな出会いのハプニングは時間に関係なくうれしい。


大幅に時間がおくれてしまったが、金目川を渡り平塚市へ入る、ゴールまで残り少なくなって気が緩んだのか、手持ちの地図のページが変わるところで、一号線を右折しなければならないところを、新しいページで確認もせずそのまま進んだために多分500メートルは行き過ぎただろう。ここからあわてて引き返して一筋を間違えて路地だらけの住宅街に入り右往左往、まさかと思って尋ねたおばあさんが、なんとなんと、東海道を静岡まで歩いた経験がある人ですらすらとわかりやすく教えてくれた、それだけでなく、日が傾いてきたので気をつけて行ってくださいと励ましてくれた。まさか、まさか、玄関横の花の手入れをしていたあのお年寄りが・・・とにかくありがたかった。


平塚の塚、本陣跡・・・平塚宿の中心地であった跡を歩いてゴールの平塚宿の東出入り口、江戸口見付の碑に16時25分に着いた。16時を予定していたから25分の遅れでまずまずの初日の歩きだった。冬至の日の東海道を無事に歩き終えてほっとした。


今夜は平塚泊まり。明日はここから藤沢、戸塚へ向かって歩く。

東海道で出会ったことば。

2009-12-25 21:39:33 | 東海道五十三次
先日、東海道五十三次を歩いているとき
とても心に響く大事なことばと出会った

藤沢市から旧戸塚宿のあった横浜市戸塚区の
国道一号線沿いを歩いていたら
神社(八坂神社だったと思う)の鳥居の横に
こんなポスターが貼ってあった。

  心に旅を。



自分の心に、少しだけ旅をさせてあげましょう。

手を合わせ、目を閉じるだけで毎日の忙しさから

心を解き放してあげることができるはずです。

静かな気持ちで、無垢な心と向き合えば

その奥底から、きっと答えが返ってきます。

毎日、心に旅を。

 (神社本庁)


午後四時を過ぎて
まもなくゴールというところで
急いで歩いていたときだったが
いつもの習慣でふと掲示板に目が行った。

お寺や神社の前を歩くときは
必ず掲示板を見ることが習慣になっているので
このことばに出会ったものと思う。

心に旅を

いいことばだ。

昼前に寄った藤沢の常光寺でもいいことばに出会った
旅はことばと出会う心の旅なのかもしれない。

青春18きっぷ-東海道さった峠の旅。

2009-12-24 17:30:26 | 東海道五十三次
東海道五十三次ひとり歩きの歩き納めを22日、23日に決めて
前日の21日を静岡県のさった峠(興津宿-由比宿間)から
富士山をみようと東海道番外さった峠編で訪ねることにした。

交通費を節約するために青春18きっぷを利用して
朝7時8分、新大阪駅から東海道線で長い電車の旅に出発
京都へ向かう車中、生駒山からきれいな日の出がみえた。




最初の乗り換えは「米原」、ここでJR西日本からJR東海へ
車体のカラーが変わる、ここはすっかりおなじみのコース
「大垣」行きの車中から関ヶ原あたりは一面の雪景色。




大垣で「浜松」行きの快速へ乗り換えるが
ここは乗り換え時間が少なくて隣のホームへみな殺到する
ぼやぼやしていると乗り遅れる、以前経験しているので急ぐ
米原からこの列車は青春18きっぷ組が多いので混雑する。



名古屋を通過、しばらく行くと何箇所か歩いた
東海道五十三次の現地が見えてなつかしい
「豊橋」を通過、ここではネットのウォーキング仲間に出会った。


思い出の多い新居関所の新居町を過ぎると浜名湖へ
真夏の7月の終わりにここの橋を歩いた、暑かった!

浜名湖をわたる・・・


「浜松」で「興津」行きに乗り換える
すわっているだけなのに腹がへる。


浜松駅の乗り換え時間も4分
ホームの駅そばが食べたい
しかし、トイレを済ませておくことにして
お菓子と持参の生姜飴ですき腹を慰める。

去年の夏、暑くて休憩に寄った「天竜川」駅から
夕立にあった天竜川を通過。


つぎの「磐田」駅では東海道完歩の先輩に出会ったところ
なつかしい思い出の友情の駅だ。

12時20分に「静岡」へ到着
スタートを今日にするか明日にするかで
ぎりぎりの今朝の体調で決めて出てきたので
乗り換え時間の13分を利用して今夜の宿さがし
小田原の宿を携帯で確保できたが
はらぺこで「三島」行きに乗る。



車内は乗ったり降りたりの人でどんどん変わる
関西から中京圏へ、そして関東へ向かうので
車内で耳にすることばもだんだんと変わっていく。

乗っている人の表情を観察するのも楽しい
マスクをしている人も結構いるな
こちらも浜松まではマスクしていたがやめた。

吊り広告も楽しい
何度きても思うが静岡県のJR車内は
「JRさわやかウオーキング」の広告を必ずみかける


関西ではJRにウオーキング広告はみかけない
「JR駅からハイキング」はたくさん発行されているが
私鉄に押されているのかな。

由比が近づいてくる、天気はずっといい
きっと富士山は見えると思う
そわそわ、わくわくしてくる。

12時54分に「由比」へ到着
ここまで5時間46分の旅
「由比」駅出口への階段とは逆にホームの端へ急ぐ
おー、富士山のてっぺんが見える、やった!



しかし、気になるのは雲が右に見える
駅前に出て食事をしたいが
その間に富士山に逃げられてはたまらん。

桜えび通りからも富士山が見える
とにかく早く峠の展望台へ行こう
ここの駅に降りたのは4月と6月に続き3度目
過去2回は富士山を見られなかった
三度目の正直、もう、姿を見せてくれるだろう。


街道の名残が残る由比の道を急ぎ足で
そして必死でさった峠を登って行く
途中から振り返りながら富士山を確認


逃げられないように
隠れられないように
確認をしながら
雲がだんだんと近づいているのがわかる
焦る、頼む、頼むから隠れないでくれ!


みかん山を登って展望台へ
見えた、見えた、見えた!
見物に大勢の人が来ていたが車らしい。

犬を連れた同年輩のおじさんが声をかけてきた
毎日犬の散歩で来ているが地元の者でも
いつもこんなにきれいに見えることはないそうだ
朝がいいと言っていた。

雲は出ているがそれはそれでいい
頭を雲の上に・・・思わず口に出る
展望台からカメラスポットの見晴らし台へ。



富士山もきれいだが正面の伊豆半島もきれいに見える
4月13日の誕生日に来た時は曇天で富士山も
伊豆半島もまったく見えなかった。




しばらく峠をなつかしく散策して楽しんだ
その間に富士山に雲がかかってきて
それでも雲の影が富士山に映って珍しかった。



やっと空腹に気がついて
無店舗販売から4個100円のみかんを仕入れた
下り道で富士山をみながら食べていたら
バイクで下りてきた人が怖い顔してこちらを見た。


まわりはみかん畑、手を伸ばせばいくらでもとれる
多分、そこのみかんを獲って食べていると勘違いしたのだろう
無店舗販売の人へ、領収書を発行してください!
100円とかかれた袋を道に証明書代わりに置いていたのに。

由比駅前の食堂で名物のさくらえび定食を食べよう
楽しみに下りたら本日定休、なんだ4月も定休だった
ほかに店はない、コンビニもない、二つ目のみかんで
飢えをしのいだ・・・大袈裟かな
もう由比駅から富士山は見えない。


15時46分の「熱海」行きに乗った。


富士川を渡る車内からの富士山。


熱海の手前で見事な夕日が見えた
16時51分の熱海に到着、ここで駅弁を買った。



「小田原」行きに乗り換え17時13分に今日の宿泊の
小田原駅に着いた、あー楽しかった。


今日の旅費は2,300円
乗車時間(乗り換え時間含む)7時間13分
通常の乗車料金は 7,580円、
新幹線を利用すると 2時間7分で12,470円

小田原まで前回に来ているので明日はここからスタート
予約したホテルは駅から1分、探したがわからない
電話しても出てこない
コンビニで買ったきりんさんの一番さんで
富士山の感動に祝杯をあげたいと
仕入れた食料袋を片手にうろうろ
四度目の電話でやってホテルの人が出てきた
路地裏のわかりにくいところ
とにかく部屋に入って即小宴会を始めた。

(熱海駅で買ったこの弁当はおいしかった)

この旅は夜の外出を禁止している
熱海で買った弁当にビールに夜食用と朝食用の食料で
今日の旅費を上回る出費になった、おこられるぞ。

宴会を終えてしばらくテレビでくつろぎ
明日のコースの準備をする
当初の予定は「小田原」から「大磯」だったが
「平塚」まで歩くことにした。
「冬至」の日、距離は長い、いい歩きをしたい。

・・22日、23日の東海道53次の記録は後日に・・

東海道五十三次から戻ってきた。

2009-12-24 09:50:17 | 東海道五十三次
昨日、東海道五十三次歩きから帰還中に
電車内から書きこんだ簡単な書き込みに
アクセスをたくさんいただいていた

名古屋駅で「ひかり」から
「のぞみ」に乗り換えて書き込んだものは
残念ながら携帯電池切れでアウトだった

自宅へ帰還してリュックから
三日分の荷物を取り出して
改めて思った

よくもこれだけ三日間も背負って
歩き続けたものだと
歩いたくれた足に感謝

二日間とも48,000歩前後

マフラーも手袋も使わなかった
まんいちにと同行したデジカメも
出番はなかった

今朝は足に少しハリを感ずる程度で
ほとんど別条はない
普段通り

三日間の記録は
少しずつ書き込むことにしたい
今回の主役は「富士山」。

うれしいお守り。

2009-09-27 16:20:38 | 東海道五十三次
福岡のウォーキング仲間のTさんからお守りが
送られてきた(贈られて)

ひいきのふるさと広島カープのお守りだ
"東海道でお使いください、きっと元気がでます"
とメモ書きが添えられていた

Tさんは某シューズメーカーが運営しているウォーキング
SNS会員(登録約3,000人)のメンバー仲間で
自分のブログ「東海道五十三次ひとり歩き」の
勝手応援隊コミュニティの二代目管理人を
してもらっている(メンバー20名)

先週のピースひろしまツーデーマーチに参加した際
Tさんがマツダスタジアムで買ってくれたらしい

こういう心遣いがほんとうにうれしい
残された小田原からお江戸日本橋まで
このお守りを身につけて歩くことにする

そのTさんからNHKの「街道てくてく旅・山陽道」の
ことを聞いていたが、今日の午後から総集編で
広島県編を放映していた

山陽道を大宰府から平城京まで歩く番組を
北京オリンピック・シンクロナイズ銀メダリストの
原田早穂さんが歩いていたが

ふるさとの広島県、しかも地元に近いところが
放映されていてわくわくしながら見た
見ているだけでも街道歩きはほんとうに楽しい

三年前に歩いた尾道からしまなみ海道の一部も
放映されていて身を乗り出すようになつかしんだ

東海道五十三次を歩いた後に
山陽道を歩くことも検討したので
ぜひ、Tさんに歩いてほしいと思っている。



●しまなみ海道を完歩(尾道→今治 65歳)
 http://www.human-dy.com/shimanami.walk.html

箱根から小田原へ、東海道五十三次ウォーキング。

2009-09-07 21:47:32 | 東海道五十三次
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、前日に箱根峠越えして到着した箱根(10番宿)から箱根路を一気に下り小田原(9番)まで完歩した。途中でSNSメンバーの思わぬ出迎えを受けて楽しい思い出ができた。難所の箱根を過ぎお江戸日本橋が見えてきた。箱根の下り、9月6日-「箱根→小田原」の記録は以下の通り。 (結果37.917歩 32.6k)

●6日、7時40分の三島駅前から登山バスで箱根へ


快晴の元箱根は涼しくて気持ちがよく、まず、芦ノ湖畔へ。



正面に富士山がはっきりと見える!おー富士山、おはようさん!昨日の夕方に日没を撮った場所から、今朝は富士山を撮る・・・ぜいたくなことだ。
正月おなじみの大学対抗箱根駅伝のゴール地点に向かい、続いて箱根宿本陣があったという箱根ホテルへ、ここは、はやふという本陣があったそうで、いまも樹齢400年の楓の木が元気にホテルの前庭に立っている。昨日見学した箱根関所前に行き、9時ちょうど、今日のスタートにした。今日は距離も長いし、昨日の疲れが出てくるはずだから、とくに時間管理はきちんとしておきたい、昨夜1キロごとに到着時間を手持ちの地図に明記しておいたのでそれが歩行ダイヤ。それを目安に歩くこと。


スタートするといきなりすばらしい杉並木に迎えられる。吸い込まれるように足がどんどんすすむ、まるで映画時代劇のシーンを思わせるような見事な杉並木に感動。徳川幕府が旅人に木陰を与えたいと街道の両側に植えた樹齢370年、約420本の直立した杉並木は、松並木とは違った荘厳な雰囲気さえ感じさせる、早朝だからか人影のない杉並木をひとり占めして堂々と歩くのは我ながらかっこいい!


途中で杉並木の間から芦ノ湖畔に浮かぶ箱根神社の朱の鳥居が見えてきた、朝のやさしい陽を浴びて緑いっぱいの木々を背に、水に浮かぶ朱の鳥居は見事な景観だ。ふるさと宮島の朱の鳥居もいいがこちらもすばらしい!湖畔に出て写真撮影。


杉並木の出口には吉原久保一里塚、遊覧船乗り場の隣にある賽ノ河原に寄り、その向かいの身代わり地蔵に手を合わせていよいよ箱根の山に入って行く。
昨日、あれだけ石畳を歩いたのに今朝の足の状態は悪くはない、ただし、三日分の荷物が入った背中のリュックは重い。今日の心配事は、その背中のリュックと、苦手な下り、かって二度痛めた膝が箱根の下りにどこまで頑張ってくれるかだ。

いきなり石畳が始まる、また、きたな! 朝早いから石が濡れているようで滑らないように・・・権現坂を上り、しばらくすすむと箱根馬子歌の古い碑があった。


 「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」

相変わらず石畳が続く、立てられた説明板を読んでみると、このあたりの石畳は、延宝八年(1680)
に江戸幕府が布設したものだが、その後、文久元年(1863)孝明天皇の妹和宮内親王が十四代将軍徳川家茂のもとに降嫁される際に全面的に改修されたと云われている・・・と書かれている。
大河ドラマの篤姫にも出てきた和宮さんが家茂に嫁ぐ時のシーンを思い出す。


「天ケ石坂」、「白水坂」「於玉坂」と石畳の坂道を下りて行く、いささかうんざりするほどの石畳、昨日の箱根西坂よりこちら東坂の石畳のほうが多いのかもしれない・・・整備がされていない石畳は特に歩きにくい。膝に負担をかけないように、やわらかく、やわらかく石を踏むようにしてすすみ、甘酒茶屋が近いところまで行くと大勢の団体ウォーカーさんたちがやってきた。狭い道なので横に寄って、じっと通り過ぎるのを待ったが、誰一人、声をかけて通る人はいなかった。ちかくまでバスで来た人たちなのだろう。


写真で見た甘酒茶屋の独特の屋根が見えてきた、到着予定は10時30分、到着したのが25分。ここまでは順調。楽しみにしていた甘酒を飲もう。メニューを見て、力餅と甘酒850円を注文して土間風のスペースにあるテーブルについたとたん
「ランドセルさんでしょ!」と、隣のテーブルに座っていた人から声をかけられた。
あっ!山賊さんだ!しかも顔に見覚えがある。
こちらも「○○さんでしょ!」と云うとそうですと手が伸びて握手!して話し込んだ。

8月からずっと自分の箱根歩きの動向を気にしていたらしい、今朝も早く自宅を出て乗り物を乗り継ぎここで待機、もう、帰ろうかと思っていたところだったという。今日の日程を知る由もない山賊さん、まったくの勘で来たらしい。そこまでして、こんなところまで、わざわざ・・・その気持ちがうれしい。甘酒や力餅の味は話に夢中で記憶にない。山賊さんの気持ちがおいしかった。


ここまで愛知県豊橋、静岡県浜松、磐田とSNSのメンバーさんの出迎えの友情をいただいてきたが、神奈川県に入ったとたん、また、こんな出迎えを受けるとは・・・自分にはできないこと、初対面なのに指名手配の顔写真は相模の国まで及んでいたのだ。

ここから、山賊さんと二人で箱根下りをすることにした。
しばらく行くと急な階段が現れた、猿も滑るほどの難所という「猿滑坂」、石畳と急な階段を繰り返しながらどんどん降下していく。
写真を撮り続ける自分が先に歩くと山賊さんに迷惑だから先を歩いてもらって写真を撮り続けながら追っていく・・・自分にとってはありがたいペースメーカーをしてもらった。
甘酒茶屋で予定より17分遅れのスタートしたので、それ以上、遅れないように、むしろ取り返したい・・・しかし、やっぱり石畳は簡単ではない、背中の荷物も歩くスピードにブレーキをかける、坂や階段を下りていくうちに腰に痛みが出てきた、腰は昔痛めた古傷があるので気になった。幸い、後半の平坦地では回復して問題にはならなかった。この辺りが体力的にきつい時だった。
急階段が続く「樫の木坂」、幅の狭い階段を下りるのは緊張する、説明板によれば「樫の木坂」・・・「けわしきこと、道中一番の難所なり、おとこ、かくぞよみける、樫の木のさかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」と書かれていた。


東坂最大の難所というだけに下りるのも大変だが、これを上がるのはもっと大変だろう。ここを大名行列がどうして上り下りしたのやら、想像すらできない。
そこからはカーブの続く七曲の一般道を下りて行く。このあたりが「西海子坂」、どんどん下りて復元された畑一里塚の前についた、ここには箱根宿と小田原宿との中間、間の宿の畑宿があったらしい。11時43分、遅れは13分。ここで数分間の休憩にした。


このあたりで体調も足も元気を取り戻してきてスローペースながら普段通りに歩くことができた。
「大沢坂」の石畳を下り江戸時代の古い石畳みの続く「割石坂」を過ぎると広い一般道路に出て車道をどんどん下がる、派手な色彩の箱根大天狗神社前を大きくカーブして須雲川橋へ、このあたりが「女転坂」、馬に乗った女性があまりの急坂のため馬から転げ落ちたところからその名がついたらしい。


このあたりから箱根の温泉街に入るのかホテルが見えてきた、「葛原坂」を下り、奥湯本バス停を過ぎる、ここが奥湯本か!大きなホテルが次々と現れる。

江戸から22番目の湯本一里塚を見落としてしまったことに気づいて引っ返す、山賊さんが気を使ってこちらのペースに合わせてくれたのでポイントも見逃さないように歩くことができた。


男女仲睦まじい双体道祖神前を通り曽我兄弟ゆかりの禅寺・正眼寺へ寄ってみた。時間は予定通り、さらに下がっていくと左手に早雲寺が見えてきた。早雲寺は、小田原ゆかりの北条早雲の菩提寺。ここで着替えと休憩。



このあたりから車の通行量が多くて歩道のない道を歩くのには神経を使う。
足は元気を取り戻して問題なし。湯本郵便局を過ぎ早川にかかる三枚橋に着いたのが13時57分。予定が14時だから、これからは石畳のない一般道のはずだから時間の心配はなくなった。


ここから国道1号線にそって山崎古戦場跡を経由して崖上の細い道をすすみ、再び1号線に下りて桜並木をすすむと大きな達磨の交通標識が迎えてくれた。ここから国道1号線から古い家の続く旧道をすすみ箱根登山鉄道の入生田駅近くで山賊さんと握手して別れた、駅へ向かう山賊さんの後姿が見えなくなるまで見送りしてコースにもどる。実直な人柄のすばらしい山賊さんだった。14時28分。

ここからまたひとり歩きが始まる。公民館前の階段に腰をおろして水休憩をしていると向こうからリュック姿のおじいさんがやってきた。お互いに目があった、77歳のこのおじいさん、元気元気、まだ、役所に頼まれて○○の仕事をしているとか、仕事場と自宅の間を毎日歩いて通っているというおしゃべりおじいさんの話が延々と続く、ここで15分も休憩して予定時間をオーバー。まあ、これも楽しい東海道ひとり歩き、写真を撮らせてもらって別れた。!
旧道の雰囲気の続く道をスピードアップ。自分でも不思議に思うのだが、いつも3時頃になると足が元気になりどんどんすすむ。
お江戸から21番目の風祭一里塚の横に赤い帽子とエプロン姿の道祖神が祀ってあった。


箱根の道ではいたるところで道祖神を見かける、旅人の無事を祈ってたたずんでいると思うがほっとする。自分も見守られて歩くことができていることを忘れてはいけない。

箱根登山鉄道の踏切へさしかかった、電車好きの血が騒ぐ、ここで登山鉄道を撮影したくなって電車の来るのをじっと待つ。待ち続けてやっと一枚撮った。


ここから登山鉄道と並行している1号線を小田原を目指して急ぐ。
上板橋交差点あたり小田原の広告塔が立っていたので小田原市に入ったのかもしれない。交差点で1号線から左へ、登山鉄道のガード下をスピードアップして一気にすすむ、ここで予定時間を大幅に短縮、静かな旧道も快歩!やがて新幹線のガードが見えてきた。ガードを超えると1号線に出た、このあたりに小田原宿の西目付があったらしい、西の出入り口だったところ。今日のゴールと決めているのが江戸口見附跡だから、ここからゴールまでが小田原宿を歩くことになる。

まっすぐに延びる1号線は小田原市の中心部へ進んでいるようだ。歩道を進んでると山角町由来碑とか筋違橋町由来碑等、旧町名と小田原城下町時代の役割が彫りこまれた碑がたっている。
小田原は宿場と城下町として賑わってきたところ。
箱根口交差点に15時46分に到着、予定時間は16時15分、大幅に余裕時間ができたので予定外の小田原城へ寄ることにした。


いつもは新幹線から眺める小田原城内をぐるりひとめぐりし、ベンチで休憩。16時20分、再び1号線の箱根口交差点からゴールの江戸口見附跡をめざす。
本町交差点を過ぎると右側に明治天皇宮ノ前行在所跡の碑が建っておりここが清水本陣跡、明治天皇聖蹟の碑があるところが片岡本陣跡だったらしい。
次の青物町交差点を過ぎ、青物町交差点をすすみ蒲鉾店の続く道を左へ入ると新宿交差点、そこを右折、しばらくすすむと歩道橋が見えてきた。この歩道橋の下にゴールの小田原宿江戸口見附跡の碑がたち、横にお江戸から20番目の山王一里塚があった。17時5分になっていたが17時ゴールのほぼ予定時間に完歩できて大満足だった。


ここから小田原駅へ、これが結構な距離でさすがに疲れた。小田原駅でこっそりと着替えして小田原駅でもっとも売れているという駅弁を買い込み18時9分の新幹線に乗り込み名古屋へ。
そのまま新大阪へ向かえば20時過ぎには帰ることができるが贅沢は禁物。

青春18きっぷを利用するために、名古屋駅で東海道線に乗り換え19時30分発の米原行きへ乗車、席が取れなくて岐阜まで立った。米原で乗り換え新大阪駅に着いたのが22時13分、そのまま仕事場へ直行して留守中に届いていたメールをチェック。自宅へ戻ったのが23時半。小田原で買ったかまぼこでやっと完歩の祝杯、ビールがおいしかった、それにしてもよく歩いた!

やっと箱根峠を越えた!

2009-09-06 22:49:11 | 東海道五十三次
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、今回は、いよいよ後半最大の難所・箱根峠越えに向かった。静岡県三島(11番宿場)から箱根(10番)、小田原(9番)までを一泊二日で残暑の厳しい箱根路を歩いた。箱根の旧東海道はイメージしていたものとは違っていたが、道々、色とりどりの花が咲きそろい、峠には初秋の風がやさしく吹いていてとても気持ちがよかった。2日目には、予期せぬ山賊(SNSメンバー)の待ち伏せに遭うというハプニングもあったが、無事に関東に入ることができた。
9月5日-「三島→箱根」  (結果30,030歩 21.0k)
9月6日-「箱根→小田原」 (結果37.917歩 32.6k)
キロ数が多いが、歩数計設定によるもので、石畳は歩幅が小さくキロ数は少ないかもしれない。

●5日、朝8時10分に前泊していた三島駅前のホテルを出て周辺を足慣らし散策をした後、前回ゴール&今回スタートの三島市本町交差点を8時30分にスタート、見上げる空には雲ひとつなく快晴、どうやら暑くなりそうな予感。
まず、すぐ近くの三島大社へ、創建は明らかではないが、鎌倉時代には関東総鎮守として源頼朝や多くの武将の崇拝を受けたそうだ。鳥居をくぐり広大な敷地をすすむと一番奥に重要文化財の立派な本殿が配置されている、今日、明日、無事な箱根越えができるようにお守りを買い、社務所でご朱印をもらった。



参道を結婚式に向かう花嫁、花婿さん一団と遭遇、これはラッキー、幸先がいい。
9時10分に三島大社を後にコースをすすむ。大場川にかかる新町橋、このあたりが三島宿の東見附、出入り口があったところ。この新町橋は三島市眺望地点でここから眺める富士山がきれいなところだと橋の中央部分に説明がされている。

今朝の富士山は、すそ野は見えているのに残念ながら頂上は雲にかかってみえない、よし、雲が行くまで待っていようとしばらく眺めていたが雲は動かない、15分くらいは待っただろうか、通りかがりのご婦人に聞いたら、これでもよく見えているという、雲は風次第だから待っていても動かないかもしれない、でも見えるように祈っています!と言ってくれた。やさしい三島のご婦人ありがとう。


愛宕橋を渡ると坂道になってきた、このあたりが「今井坂」、JRの踏切を渡りさらにすすむと急勾配が始まる。坂道を上がりきると、風景が一変、道路を挟んだ両側に松並木がずっと続いている、この松並木は国の指定史跡になっているそうだ。


松並木の横はきれいに整備された初音ケ原石畳歩道になっており、途中に道をはさみ両側に錦田一里塚が見られた。この一里塚は古いものだが良好に保存されており国の指定史跡になっている。


行く道はずっと上り道で平坦な道はない、塚原新田の道標からせまい旧道に入る「白臼坂」だ。両側はうっそうとした木々が生い茂り曲がりくねりながらすすむ。日差しは避けられるがそれでも暑い。
広い道路に出てしばらくすすむと「題目坂」の階段にさしかかる、上がりきり小学校の横を通り公民館前で休憩をしていると下って行く人と上って行く人がすれ違うように自分の目の前を通って行った。こんにちは!とあいさつするとこんにちは!と返ってくる、気持ちがいい。

ここから広いバス通りを上がって行く、かんかん照りで暑い。途中松雲寺に寄る、このお寺は由緒のある寺で幕末には徳川家茂、慶喜をはじめ徳川一門の寺本陣となり、明治天皇も御小休所とした歴史があるそうだ。


さらに行くと三ツ谷新田・こわめし坂の道標に着く。ここから「こわめし坂」が始まる。こわめし坂とは、急勾配で背負った米も人や汗や蒸気で蒸されて、ついに強飯のようになるからだという。箱根西坂で第一の難所といわれており勾配が20%から40%あるというが、ほんとうにきつい坂だ。ゆっくりと上る・・・汗がしたたる。心拍数をチェックしながら、無理をしないように、呼吸を整えて上って行く、振り向くとその急勾配の程がわかる。


国道1号線を横切ると畑の横に笹原の一里塚が見えてきた。ここで一人の男性が追い抜いて行った。すぐ横に史跡箱根旧街道の石碑が立っているのでここで写真を撮ってもらおうと次の人を待つ、5分も待つと下ってくる人がいたのでお願いしたら快く撮ってくれた、すぐそのあとにも一人下りてきた。結構歩いている。


笹原新田・上長坂の道標から「かみなり坂」をすすむ、最後の階段は急できつかったが、階段をのぼっていると上からドングリが風に吹かれておちてきた頭に当たる・・・秋らしい。


階段を上がりきると急カーブの1号線に出る、向かいにドライブインが見えた。12時20分、おなかはすいていないがコーヒーが飲みたい、水の補給もしたくて立ち寄った。
せっかくだからとなめこそばを注文したのが悪かった。麺類だから早いと思ったのに、いらいらするほど待たされて結局店を出たのが13時5分、客は数人なのにまいった。

店の前の一角に芭蕉の句碑が立っていた「霜しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき」。ここらあたり
富士見平というらしいが富士山は雲に隠れたまま、これ雲隠れ!空には雲がないのになあ。
旧道をすすみ再び1号線に合流、きれいに立ち並んだ杉林の中を整備された石畳が続く勝巻地区をすすむ。いくら整備されていても石畳は歩きにくい。風に杉と杉が擦れ合う音だろうか、いろいろな杉の声が頭上から聞こえてくる、夜だったら気味が悪くて歩けないだろう。


司馬遼太郎さんの箱根八里記念歌碑を過ぎるとまた山中新田・山中城跡の道標の立つ国道1号線と合流、時間をとられたくないので素通りするつもりでいたが、ここに来てみると寄ってみたくなる、道路の両側に城跡が広がっているが、二の丸、北の丸跡と天守閣櫓跡を訪ねてみた。
山中城は、天正18年(1590)天下統一をめざす豊臣秀吉の7万の大軍に小田原北条氏の山中城は半日で落城したことで知られている。


元の道に戻り再び杉林の中に続くに石畳の道へ、入口にお墓に徳利の形が刻まれた雲助徳利の墓があり、そこからどんどんすすみ急な階段を上がると国道一号線に出る、少し進んで左の民家への道を入り、庭先を通って笹林の続く道を上がって行く、このあたりが「大枯木坂」、午後も2時を過ぎ、行く手左側が笹の壁になっていて日が当らず風が流れてきて気持ちがいい。
しばらく足休憩、靴も靴下も脱いで風にあててやらねば。右側は視界が広く、山々の木々がきれいで気持ちも安らぐが、水がなくなった、これは困った。



さらにすすむと大きな岩が左手に出現してきた、念仏岩、かすかに南無阿弥陀仏と彫られているのがわかる、行き倒れた人を供養して建てたものらしい。続いて明治天皇小休跡の碑。


両側に続く木立の道をどんどん上がっていくと兜の形をした岩の前に出た。兜岩とは、秀吉が小田原城を攻める折、休憩をした際、この岩の上に兜を置いたからと言い伝えられている。ここが「石原坂」。


さらにすすむと江戸から20番目の山中一里塚と接待茶屋の跡の碑があり、ここから1号線にそって左へ大きくカーブしてすすむとまた石畳が始まる。
次は「兜石坂」、ここは整備されていない石畳が続く、疲れもあるし、すべらないように、踏み外さないように、転ばぬように、常に足元をみながら歩かないといけないので視界がせまくなる、うっかりすると大事なポイントを素通りしてしまう。


石畳を歩くのは神経を使う、まさかこんなに石畳が続くとは想像もしていなかったので面食らった。両側から笹が覆いかぶさるようにトンネル状態になった薄暗い上りが延々と続く。


やっと井上靖さんの箱根8里記念碑のある休憩所に着いた。なにか茶色の動物が藪の中を走っているのが見えたがタヌキなのか・・・後ほど判明することになる。向かいに珍しい八つ手観音像があった。
ここから広い道路を上る、その時、道路を猛烈な勢いで横切るウサギを発見、道路わきに行くと止まってこちらを見ている、さっきの動物はウサギだったのだ。


しばらく歩道のない道路を上がっていくと三叉路に出た。右に峠の茶屋があったので暑いコーヒーが飲みたくて入ってみたら食堂でコーヒーはなし、残念。自販機で水を仕入れた。ここは広い駐車場があり「箱根峠」と標識が出ている。静岡県と神奈川の県境らしい、やっと関東へ入った。静岡県に入ったのが去年の5月だったからずいぶん静岡県を歩いたものだ。


ここから元箱根へ下りになって行く、ひっきりなしに通る通行車両の激しい歩道のない道をゴールの元箱根を目指す。途中から一気に下る道へ、ここでデジカメが動かなくなった。故障か?芦ノ湖も見えて絶好のビューポイントなのにデジカメが使えないと困る、今日だけでなく明日もあるのでなんとか動かしたい。ゴールしてからゆっくり点検することにして元箱根を目指して下りて行く、笹林を下りていくとイメージしていた松並木が続く、今日のゴールは箱根関所だが、そこに行くまでにデジカメをなんとかしたいのでレストランに入ってコーヒーを飲んでゆっくりと点検することにした。
新しいデジカメなので故障をするはずはない、きっと、接触不良だろうと、別のバッテリーに換えてみたりしたが、動いてくれない、時間のことも気になるので箱根駅伝のゴールの場所へ行って何度かシャッターを押していると動いた!そこからあわててゴールの関所に行って撮影もできた。
写真・箱根関所 手前京口御門-奥に江戸御門



写真のとれなかった道を少し引っ返して撮ってきた。17時前になったので今夜の宿泊所にしている昨夜の三島のホテルへ帰るのだが、芦ノ湖に沈む夕日が撮りたくて湖畔でのんびりと日没を待つことにした。遊覧船が戻ってくるのを見たり・・・しばし、湖畔に腰をおろしてのんびりと時を待った。

17時22分、日没が始まった、芦ノ湖の向こうの山へ沈んでいく、雲も少なくきれいな日没を見ることができた、この通り写真にも撮ることができた。



薄暗くなりすっかり人の姿が少なくなった元箱根から、17時53分の三島行きバスで昨夜のホテルへ戻った。面倒なことだが、遊びに来て箱根に泊まる贅沢はできない。
今日のコースは、標識が完備していたこともあって珍しく迷うこともなくスムースに歩くことができて大満足。ただし、石畳で足にどれだけプレッシャーが残っているか、下りが苦手なので明日の箱根から小田原までの山下りはより慎重に事故がないように歩きたい。
初日の祝杯をホテルの部屋でした後、明日のひとり作戦会議、地図に1時間ごとの通過地点を明記して準備を完了した。今回も日程調整が難しくてあわただしい箱根行だったが完歩できてほっとした。

東海道五十三次ウォーキング(吉原宿→原宿→沼津宿→三島宿) 

2009-06-29 14:16:42 | 東海道五十三次
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、静岡市由比(16番宿場)から三島(11番)まで一泊二日の続編。コースは「吉原→原→沼津→三島」まで。

●午前7時15分にホテル出発。スタートになる昨日ゴールの缶南鉄道吉原本町駅へ。7時30分スタート、ゴール予定地と時間は三島市樋口本陣跡前17時30分とした。昨夜、今日のコースは長くて30キロを超えると想定し、地図に1時間毎の到達地点を記入して、午前、午後に調整時間も組み込んで、スタート!


昨日のかすんだ空とは違って上空は青空、左富士が見えるかもしれないと、わくわくしながらすすむ。最初のポイント、和田川にかかる平家越橋を渡ると橋のたもとに立派な平家越の碑が建てられていた。治承4年(1180)、源平の戦いで平家の軍勢が陣取ったあたりだという。源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の羽音に驚き、平家の軍勢が戦わずして退却したという。


ここを右へすすむ、ここからがよく紹介されている左富士の見える絶景の場所ということだが、それは東から来る場合で、西からは右富士ということになる。東海道五十三次に関する地図、資料、書籍、すべて江戸側から書かれているので西から歩くとすべて逆なので戸惑うことが多い。右は左、上り坂は下り坂、ややこしい、「名勝左富士」の立て看板も説明板もたてられているがまったく見えない、天気はいいのになあ。


仕方なく信号を渡り、新幹線と1号線バイパスの下を通りそのまま吉原駅方面を目指してすすむ、車の通行量が激しいところで、騒音と暑さも交じって歩きにくい。
吉原駅前を通り東海道線を渡ってすすみながら左方面を見ると、あっ、富士山や!思わず叫んだ!見えている、見えている!次の交差点でコースから離れ左の道へ寄り道してすすむ、大昭和製紙の工場から煙と鼻をつく臭いは余計だったが、滝川にかかる白妙橋というところまで行くと橋の上からきれいに富士山が見えた。雪はわずかしか残っていないがそんなことは、もう、どうでもいい、会えてうれしい!いつも富士山を見慣れている人には何を?ということだろうが、やっぱり冨士は日本一の山!寄り道して35分をロスしたが、富士山に会えたので満足。


再び東海道へ戻って、寄りたいと思っていた妙法寺毘沙門天さんの階段を上った、なかなか雰囲気のある立派なお寺。“どうか今日一日、東海道を事故なく歩けますようにお守りください”と祈願して毘沙門天さんのお守りを買ってベルトにつけた。道中のお寺や神社、お地蔵さん、道祖神さんまで、自分の旅の安全を祈ってくれていることを忘れてはいけない。手を合わせてお賽銭も忘れないように、これは普段のウォークでも同じようにしていること。


ここから約3キロばかり、まっすぐな道が続く、歩道がないので車道のすみへ寄るようにして歩く、暑い!道の両側には民家が続き庭先には、花々がきれいに咲いて目を楽しませてくれる。


380号線を愛鷹神社、木之宮神社を通り過ぎ、昭和放水路上の広沼橋から振り返るように富士を見ると、ここからもきれいに見える。すぐ前を東海道線が通っているので電車と富士山のツーショット写真を撮ろうと待ち構えたが、こんな時に限り、電車はこない。さらにすすんでいくと左手に立派なお寺が見えてきた。立円寺、ここからも富士がきれいに見えた。ここには「望嶽の碑」があるが、これは文化5年に尾張藩の侍医柴田景浩が江戸へ旅の途中、この寺に滞在したとき、富士の絶景をたたえてたてた碑。


右側の民家の間から松林が続いているのに気がついた。そうだ、もう、あの田子の浦海岸かもしれない、うまく海岸へ続く道が見つかればいいと思いながらさらにすすんでいくとJR東田子の浦の前にきた。
10時19分、予定は10時だったのでかなり時間を取り戻した。この駅からも富士山がきれいに見える。


暑さ避けて木陰に腰をおろして休憩。ここで500mlのペットボトル三本目を買う。水分補給を怠らないように。足に昨日の疲れもなく問題はない。海岸のことを気にしながら380号線からコースは左へ入っていく・・・あれ、これじゃ、海岸から離れる!誰かに聞こう、こんな暑い時間、人影はない。

しばらく立ち止っているとご婦人がきた、“すみません、お尋ねしたいのですが?”といったら“ここの者ではありません”と、冷たく行かれてしまった。
あー、がっかり・・・、しばらくすると夫婦らしい中年の男女がきたので尋ねたら、東田子の浦駅の近くまでもどると海岸へ出る道があることを親切に教えてくれた、そして“お気をつけて”と一番のごちそうことばをかけてもらった。

少し戻って松林を抜けて海岸に出た、堤防の向こうに海が広がっている。“わー広い、伊豆半島が見える!さいこう、サイコウ!”と、ひとりではしゃいだ。
松林は防風林になっているのだろうか、ずっと続いている、海岸もずっと続いている、沼津の千本松原までだろう、このあたりは砂地ではなく石ころごろごろで瀬戸内の白砂の浜辺で育った者には物足らないが、海のスケールがまるで違う。


山部赤人の詠んだ歌はいまでも覚えている
    「田子の浦 ゆうち出でて見れば 真白にぞ
                   富士の高嶺に 雪は降りける」
少し早いが、この絶景を見ながら堤防に腰をかけて弁当を食べた。↓田子の浦海岸と伊豆半島。


10時45分から11時7分まで海岸の堤防で休ませてもらった。ここで予定時間を大きく遅れてしまった。ただし、昼食時間が不要になるので、午後のスタート地点までに取り戻すことにして、ここから一気歩き。

富士市から沼津市へ入り東海道線の踏切を渡って、浅間神社、大通禅寺に寄り、沼川第二放水路を通り163号線を約3.5キロを急いだ。JR原駅に寄った。12時20分。


近くの浅間神社で休憩。このあたりが旧原宿の中心だったと思うが、その面影はない。天保9年(1878)に大火があり再建されなかったらしい。町の規模も小さい。

予定ではここから午後のスタート、12時40分の予定も、ほぼ、その時間通り。問題は、疲れの出る午後をいかに歩くか・・・気を引き締めて、歩道のない道が続くので事故にあわないように車に注意!

午後のスタート、白隠禅師の誕生地と墓があるゆかりの松陰寺を訪れた。臨済宗の名僧として知られる白隠禅師は、この地に生まれ、15歳で松陰寺で得度、諸国を修行し享保2年(1717)に松陰寺の住持となった、参勤交代の際、大名が白隠禅師をよく訪ねたそうだ。


晴れ渡ってかんかん照りの道はますます暑い、男性二人ずれのウォーカーにあったが、あいさつがかえってこなかった、暑くて疲れているのだろう。JR東海道線の踏切に出た、振り返ると富士山がきれいに見える。また、その気になって電車が来るのをじっと待った、日陰のない線路わきで5分も待っただろうか、電車が来た、ラッキー、しかし、撮った写真を見たら富士山は電車に隠れて入っていなかった。あードジ!ばかばかしい!とぶつぶつじいさんをしながらまた、歩く。このあたりが、地図上では、今日の中間地点、予定通過時間が13時10分のところ13分、ほぼ、予定時間通り。なんとなくうれしい。単純!


三島神社、祥雲寺を過ぎJR片浜駅前を通り、さらに直線163号をまっしぐらにすすむ。吉祥院、大諏訪天満宮、栄昌寺を過ぎ八幡神社で5本目の水を買って休憩していると50歳くらい男性が声をかけてきた。大阪からここまで歩いて来たことを話すと驚いていた。タクシーの運転手さんだそうで、さすがに詳しい、これから先のことを説明してくれた。この人にも“気をつけて行ってください!”と言われた。
みんながそう言うのは、ひょっとして、こちらが年寄りだから労わってくれているのかもしれない?本人は、大丈夫と思っていても、人からみると気になるのだろうか・・・うーん、そうなんかなあ・・・。


14時25分、問門橋を渡る、予定の時間通り、さらにまっすぐな道が続く、驚く、しかも、歩道のない車の通行量の激しい道だ。景色も同じように見えて疲れる。コンビニによって凍ったペットボトルを買って、顔や首筋にあててすすむ、人からみたら、いったい何をしてる?と思われるだろうが、顔がほてる、熱いのだ。左のほほに当て、右に当て、ひたいに当て、首筋に当て・・・歩きながらそれを繰り返す。交差点で小学生が不思議そうな顔をして見ていた。子供には声をかけてはいけない。


背中の重さがこたえてきた、30Lのリュックに着替えや書類、資料、関係本、携帯・デジカメの充電器からパンとかバナナ、お茶までたっぷり入れた上に、昨日買った広重の大判の分厚い本も入っているために重い。

163号線、妙傳寺、六代松を過ぎ、しばらく行った幸橋手前の自販機で6本目、ここで同じように自販機に来た男性と立ち話。この人も大阪からと言うと驚いていた。大阪に居たことがあるとも言っていた、以外とそういう人に会う。お決まりの“気をつけて・・・”と言われた。うれしいね!
このあたりからにぎやかになっていく、浅間神社の交差点を右に千本浜通りと標識が出ていたので千本松原に行けるかもしれない、残念だが、そこまではとてもいかれない。次の交差点、静岡銀行角を左折するのだが、静岡銀行はなくなっていた。このあたりが沼津の中心街なのだろう、商店街が続く。通りに本陣、脇陣跡の碑がたっている。このあたりが、旧沼津宿の中心だったのだろう。


本町で右折し次の交差点を左折するとモニュメントが並ぶ通りに出た。楽しい。
沼津は水野氏の五万石で栄えた城下町だから独特の紆余曲折した道になっている。城下町と宿場があった町はどこも同じだ。


次の信号を右折してゆるやかな坂道を下っていく。中央公園横で休憩していると、多分、東海道歩きと思われる男性に会ったので目礼したが、反応がなかった。お互いに疲れる時間帯。大きな通りに出て歩道橋を渡り360号線をすすむ、市街地から少しずつ離れていくのがわかる。脇道をしばらくすすみ再び360号線にそって坂道を上っていく、後ろ左からの直射日光でほほから首筋が痛い、氷はとけてしまってなすすべもなく、汗をぬぐうタオルも朝からの汗でぬれてしまった。ここが一番疲れを感じたところ。東下石田交差点に16時2分着、予定時間が16時、ほぼ完ぺきにすすんでいる。

360号線から145号線へとすすむ、黄瀬川を渡り頼朝、義経の対面石があるという八幡神社へ寄った。治承4年(1180)10月、頼朝が黄瀬川の宿に陣した時、奥州からかけつけた弟の義経と対面、互いに懐旧の涙を流したという。その時に腰かけたふたつの石が、対面石として八幡神社境内の奥に残っていた。


神社の入り口の階段に腰を下ろし靴を脱いで足を休ませていたら、50歳くらいの男性が話しかけてきた。写真を撮ってあげようという。変わった人やなあと思いながらお願いしたとき、バスがやってきて、それに乗るので気をつけて行ってください!とあわてて乗って行った、そこはバス停だったのだ。バスから手を振ってくれてた。こんな出会いもあるから東海道53次ひとり歩きは楽しい。


国道1号線を渡り、少しすすむと左右に大きなお寺が見えてきた。宝池寺、玉井寺。そのどちら側にも伏見一里塚があり、右の宝池寺のほうは復元されたものだが、左の玉井寺側の一里塚は原型に近いものという。


境川を渡り秋葉神社前を通りゴールの三島市本町交差点の樋口本陣跡をめざす。伊豆箱根鉄道の三島広小路駅横を通り、江戸時代、宿場の人々に明け六つ、暮れ六つを知らせた「時の鐘」に寄った。


そして樋口本陣跡のある本町交差点に17時40分にゴール。10分遅れたが、ほぼ、予定通りに歩くことができた。


ここからJR三島駅へ、15分ほど歩いて駅についた。駅で着替えをして18時26分の新幹線こだまに乗って、そのまま乗り換えもせず帰阪した。車中では、三島駅で買った沼津の駅弁「港あじ鮨」と缶ビールで二日間の慰労会をした。この沼津のあじ鮨はおいしかった。
この日の距離数-吉原→原→沼津→三島 約46,600歩 32.6k


あれだけあこがれて、目標にして追い続けてきた富士山が振り返っても見えなくなっていた。

朝は、横をみるとやや後ろに見えていた富士山がだんだんと後方になっていく・・・69歳のじいさんの小さなたった一歩でも積み重ねていくと一日で大きな前進になる、魅力のあるゴールさえ見つけておけば、こんな怠け者の老人でも、一歩を踏み続ける限り、ゴールに近づいていることがわかる、わかれば楽しくなる、その連続でとうとう三島まできた。63歳から始めたリレー式ウォーキングを自分のウォーキングスタイルの中心において多くのことを学んでいる。歩くことは、人生そのもの、歩き方と生き方は同じこと、あきらめてはいけない、一日一歩、めざすところにすすむだけでよい、つないで、つないでリレーしていけば、ゴールが待っている。そう自分に言い聞かせてこれからもお江戸をめざす。次回、いよいよ箱根の関所に向けて厳しい山登りかもしれないが、面白い、受けてやろう!

東海道五十三次ウォーキング(由比宿→蒲原宿→吉原宿) 

2009-06-26 22:31:13 | 東海道五十三次
先週の6月19日の東海道五十三次の一週間遅れの記事です。
ウオーキング専門ブログに書いた記事をそのまま紹介します。

●19日、朝6時28分の新大阪駅始発の新幹線で静岡へ、ビジネスマンばかりの車内でウオーキング姿は気が引けるのだが・・・静岡で東海道線に乗り換え、前回ゴールの由比駅に着いたのが8時56分。富士山が見えるようであれば、前回、見ることができなかったさった峠に行くことも想定していたが、目の前の太平洋もかすんでいたし、タクシーの運転手さんに聞いても、今日の天気では見えないだろうと言われ諦めたが、それでも、もしかして・・・もしかして、と駅のベンチで9時半まで待った、しかし、状況は変わらず断念してコースに入った。


駅前の通りは、ずばり「桜えび通り」、桜えび2匹の派手なアーチが出迎えてくれたが、そちらには行かないで山手にある車の通行量が激しい396号線をすすむ。


平バス停から元の道に戻り古い家並みの続く道をすすむ。「桜えび」と「しらす」の看板がやたらと目につく、海が近いので潮の香り、魚の匂いがする道が続く。さった峠からの富士山は諦めたが、今日のもう一つの目標、「桜えび」を食べること、しかし、この時間、開いている店などはない。


道を少し横道に入り坂上田村麻呂ゆかりの豊積神社へ寄った。和瀬川を渡るとこのあたりから宿場の名残のある光景が続く。驚いたのは、家々の屋根、その軒下が普通見慣れた住宅とはまったく違うこと。

「せがい造り」といって、軒先を長くして、それを支えるために腕木というものが付け足されている、さらにその軒先を雨から守るため「下り懸漁」というものが作られていて、いかにも重々しい重厚な造りになっているが、明治時代からの工夫らしい。ほとんどの家が同じ構造になっているのにびっくりした。


由比川を渡りしばらくすすむと左側に脇本陣羽根の屋、脇本陣徳田屋跡、つづいて加宿問屋場跡が続く。洋館づくりの清水銀行由比支店は明治の郵便局の跡だそうだが、なかなか美観の建物だ。
続いて長い黒壁と道路と壁との間に池のような水貯めがある由比本陣跡へ、由比本陣は、もともと由比城主が引き継いできたもので現在も八代目が健在しているそうだ。庭園は小堀遠州作といわれ、奥には、明治天皇が小休止された離れ座席の「御幸亭」が復元されている。この旧本陣内が由比本陣公園として整備され、その中心が「広重美術館」になっている。


桜えびの食事ができるまでこの美術館で過ごすことにしてゆっくりと見学をさせてもらった。
ここで広重の「東海道五拾三次旅景色」という大判A3サイズの分厚い写真集を2600円で購入。これは掘り出し物と喜んだが、この写真集にこのあと苦しめられることになろうとは思いもよらなかった。(次の日の日記で記述)



(本陣内の公園、正面が広重美術館)

11時になり、すぐ近くのおもしろ宿場館内のレストランで待望の桜えびの昼食をすることにした。二階のレストランは、正面が太平洋、右にさった峠、左手にこれからすすむ蒲原方面が一望できるすばらしい席を確保(まだ、お客さんは一組しか入っていなかった)。名物の桜えび御膳を注文したが、かきあげがおいしかった。生の桜えびの甘いのにもびっくり、わさび醤油で食べるとさらにおいしかった。この「桜えび」は、この駿河湾でしか捕れない深海のえびだそうで夜になるとプランクトンを食べるために浮上してくるのを捕るらしい。おいしかった◎◎。



(レストランから見えるさった峠と東海道本線)

食事と景色に満足して11時50分に早い午後のスタート、由井正雪の生家といわれる正雪紺屋(染物屋)を通りすぎると


「御七里役所跡」、はて? 初めて聞くことばだが、御七里役所とは、徳川家康の八男頼宣が紀州藩士となってできたもので、幕府の行動を監視するために紀州から江戸まで146里間、七里ごとの宿場に23ケ所つくった施設だという。


ここまで来るだけで、汗が噴き出すほどの蒸し暑さ・・・日陰のない通りは暑い。タオルを首に巻いて暑さしのぎ、水分補給を頻繁にするために汗ふきも忙しい。暑さで集中力がにぶってくるので、いつものことだが、一番怖いのが車!いくら気をつけても安全運転ができない命しらずの凶器が走ってくることを忘れないようにと自分に言い聞かせる。

396号線の石碑だけの由比一里塚をすぎ、由比城跡入り口前を通過、単調な古い街並みを蒲原宿をめざして歩く。神沢川橋を渡り東名高速道路の下を過ぎ、さらにまっすぐに延びた道をすすむ、汗が目に入り痛い!たぶん、30度をかなり超えているだろう、首筋が暑いというより痛い。

休憩したくてJR蒲原駅へ回り道して寄ってみた。向田川を過ぎると道路わきに154という数字だけの標識がたっていたがたぶん、東京からのキロ数だろう。
さらに396号線をどんどん歩いて行く。蒲原西木戸の標識がある角(西木戸・茄子屋の辻)を左折して裏道へ入る。ここから光景が一変して古い家並みが伸びている、蒲原宿のはじまりだ。

格子戸のきれいな増田家、醤油屋跡を整備した国登録の文化財「志田家住宅主屋」では説明役のご婦人からいろいろとこの地区のことも含めて話を聞いた。そこで東から来た人と遭遇した、お互いにエールを送って失礼する。すぐ向かいにやはり国登録の文化財「旧五十嵐歯科医院」古い洋館の建物はとくに目立っていた。



「御殿道」というかわった名前の石碑が目についた!どうやら徳川家康から家忠、家光までの休憩所があったところらしい。
宿場の雰囲気が残る蒲原は飽きない、高札場跡、旅籠跡を過ぎ山居沢川を渡り少し右へ入り込むと広重の「蒲原夜之雪」記念碑が小さな公園の一角にあった。その絵がそのまま碑になっている。「蒲原夜之雪」の絵は、広重の東海道の絵の中でも特に傑作といわれるもの。この碑は、「蒲原・夜之雪」が国際文通週間の記念切手に採用された記念に地元の有志が建立したそうだ。ここで休憩、クリームパンのおやつ。13時48分。


さらにすすむと途中でなにやらのぼりを持った一団が一台の車を従えて歩いてくる・・・・ヒロシマ・ナガサキへの平和行進と書かれている・・・どんな団体なのか見た限りではわからなかったが警官もひとり付いていた・・・そうだ、もうそういう時期だ、ヒロシマ県人にはよくわかる。

ナマコ壁の残る家の前を通り諏訪橋を渡り、「蒲原宿の東木戸」の碑の前を通過、ここが蒲原宿の東の入口、すぐ近くに立派な蒲原一里塚の碑があった。



ゆるやかな坂を上がると小川の向こう側で写真を撮っている男性がいたので声をかけた、東京から歩いてきているそうで、しばらく話がはずんだ。どんな地図を使っているのか見せたもらった、すごい、すべて、現在の地図に旧東海道を置き換えて作った手製のもの、これなら迷うことはないだろう。歩く前にじっくりと資料作りに一カ月、歩いて整理するのに一カ月かけているという。時間のある人はいい、自分のようなバタバタ、前日あわてて、明日歩く!といういい加減さでは表面的なものしか見ることができない・・・反省。とても気持ちのいい出会いだった、お元気で!


ここでコースから離れているが浄瑠璃姫の碑があるというので寄り道して行ってきた。暑い時、車の多い道は余計に暑く感ずる、顔の汗を手でなでたらざらざらしていた、ずっと車と一緒に歩いてきたので砂ホコリなのだろう、それにしてもすごい。
今度は急な坂道を上っていく・・・一番疲れる時間帯、下着を着替えたいのだが、適当な場所がない・・・汗で気持ちが悪い。坂道は、吉野山修行体験で教えてもらった

“さんげ さんげ 六根清浄” これを繰り返しながら歩調と呼吸を整えて歩く。

上りきって左へすすむと東名高速をまたぐ新坂橋へ、渡ると静岡市から富士川町となる。14時40分。周囲は東名をはさんで小高い山。ここから曲がりくねりながら集落へと下りて行く。


途中で道確認のために中年の女性に尋ねたら、間違っていなかったのに、次の曲がり角まで親切に歩いて教えてくれた。お気をつけて!このひとことがなによりうれしい。
これまで、どれだけ多くの人から、このことばをもらったことやら、人の温かさをしみじみと感ずるときだ。
新幹線のガード下を通り、どこまでも続くかだらだら道をもくもくとすすむ、間違いなく歩いているつもりだが、手持ちの地図にチェックポイントがない道が続くと確認のしょうがない、慎重に歩かないと迷ってしまうので、どうしても徐行になる、後半に迷ってしまうと足だけでなく、気分的に疲れとでダメージが大きいので人がいたら確認をすることにしている。


退屈すると大好きなミラー遊び!これも気分転換のお遊び!

通行量の多い道を歩いていたら、黄色い帽子をかぶった男性一人、女性二人の三人が信号横にいたので声をかけた。学校帰りの子供の安全管理をしている人たちだった。気さくな人達で話がはずんだ。こちらの地図を見て、これはわかりにくい!と言っていた。そりゃ無理、地図を逆方向に歩いているのだから・・・愉快なお父さんがこれから行く富士川まで、何度も何度も難しい個所を教えてくれた。でも、そんなに覚えられないよ、うれしかった。


東名高速道路をくぐり道は右に左に、とにかくわかりにくくてゆっくり歩いて確かめる他ない。
岩淵の一里塚から下校の子供たちの間にはさまれるように狭い道を車にひやひやしながらすすみ、やっと富士川に出た。16時4分になっていた。
ここから富士山がきれいに見えると聞いていたがまったく見えなくて、この日、とうとう富士山を見ることはできなかった。近くを歩いているはずなのに・・・。
新幹線の富士川鉄橋からの景色がしっかり頭の中にあるので、そのイメージを浮かべると富士山の位置はわかるのだが。


富士川橋を渡って水神社で休憩。境内には「富士山道」と「富士川渡船場跡」の碑が立っていて、ここが重要な場所であったことがわかる。
かって富士川は東海道一の急流として恐れられていて人々は水神を怒らせないように祈ってこの水神社を建立したと伝えられている。


ここからしばらくポイントのない道を歩き続ける、40分も歩いただろうか、身延線柚の木駅の近くへ来たが、一か所で一筋まちがってしまい元戻り、疲れてくると集中力がなくなってくる。庭先の咲いた黄色のユリがあまりにあざやかできれいだったので掃除をしていたお父さんに断って写真を撮らせてもらったら大変よろこんで話しかけてきた。この人も気をつけてと言って見送ってくれた、同年輩の人、通じるなあ・・・ここで予定時間より1時間以上も遅れてしまった、ゴールまで5キロもある。もう、うろうろとより寄り道しないように歩こうと思うが、きれいな花をみるとついつい撮ってしまう。

2キロほど歩いて新幹線富士駅へ通ずるところへ、さらにポイントの少ない道をすすむ、CASAが目印という大きな道の三叉路へきたがない、ない、たぶんレストランだと思うがない、おかしい、間違っているかもしれないともう一筋左の交差点へ行くがない、聞こうにも人がいない。ここはうろうろしないで人の来るのをじっと待つ、日暮れてきた。こんなとき、なんとなくさびしくなる。ここはお国を離れて何百里?自転車で通りかかった男性に地図をみてもらって現地を確認、親切に丁寧に教えてくれた。CASAはなくなってかっぱ寿司になっていた、これじゃ、いくら探してもみつからないぞ。

ここから吉原の街の中へすすんでいく、吉原は思っていた以上に大きな町だ、今日のゴールは岳南鉄道の「吉原本町駅」と決めている。
中心部の青葉通りを越えて小潤井川のところでおばさんに道を確認、途中にあるお寺の名前で聞いたら右側の道だという、?と、しかし自信をもってこちらで間違いないと言われたので行ってみたがやはり間違い、庭の花に水やりしていたお年寄りに聞いたらお寺違い!修正して、吉原の賑やかな商店街を通り、そのはずれにある岳南鉄道の「吉原本町駅」に18時20分ゴール、予定していた時間を1時間も遅れてしまった。午前中を由比で過ごしたこともあるが、事前準備もせずに出たとこ勝負で歩いたつけは大きかった。まあ、事故もなく歩けたのだからよしとしよう。

 35,900歩 25.1キロ。
吉原本町駅から地図を頼りに予約していたホテルをさがして15分。やっとほんとのゴール。あー疲れた!  (翌日の日記は近日中に)