昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

誕生日の東海道五十三次歩き(江尻→興津→由比)

2009-04-15 18:59:19 | 東海道五十三次
13日、日帰りで東海道五十三次ウォークに行ってきた記録。
前回に静岡市の第19番目の府中宿まで進んでいたのでその続きの18番江尻宿、17番興津宿から16番の由比宿までを歩いた。

3年計画で70歳の誕生日にお江戸日本橋へゴールすると決めて京都三条大橋をスタートしてから、昨年の68歳の誕生日は愛知県の岡崎市で迎え、今年の誕生日も東海道のどこかで迎えたいと決めていた。

今回は、他県で深夜までの合宿をしていて睡眠不足に陥っていたので、前夜ぎりぎりまで決めかねていたが、睡眠時間3時間ながら目が覚めたので行くことにした。

早朝6時38分の新幹線で新大阪を経ち、静岡駅から在来線に乗り換え一つ目の東静岡がスタート最寄り駅。


朝の静岡市は快晴、日差しも暑いくらい、これなら今回の楽しみ、興津・由比間のさった峠から富士山を望む絶景に会えるだろうと心は早くもわくわくどきどき。
スタートの黄金橋から東海道線の下を通り、静岡護国神社前に寄り静岡鉄道にそって江尻宿に向かう。国道1号線を交差したり側道をすすんだり、いつものことだが交通事故だけには気をつけようと自分に言い聞かせながらすすむ。

東名高速の下を行くと旧清水市、いまの静岡市清水区に入る。草薙神社への大鳥居が道路わきにあるのにはびっくりした。


草薙一里塚を過ぎ、馬走1里山の信号を左へ入り小学校の横をすすんでいると正面に冨士山が見えてきた。すぐそこに見えている!多少は霞んでいるがそれでもはっきり見える。思わず、やった!


電柱や電線が邪魔なので写真はもう少し先に行って撮ろうと思って史跡さがしに夢中になっていて気がついたら、もう、冨士山の姿はなかった。
どれくらいたっていたのだろうか・・・狐に包まれたみたい。ありゃー、しまった! あとのまつり。

道端にいたおばさんに聞いたら、きのうはよく見えていたけど、きょうの天気では見えないかもしれませんね、とあっさり言われた、ショック!

追分踏切と表示された静岡鉄道の踏切を渡り、金谷橋をすすむと追分羊羹の看板が見えてきた、ウォーキングには必ず羊羹を持参するほどの羊羹党だからおやつに買っていこう。店の近くまで行くと様子がおかしい・・・なんと13-14日は改装のため臨時のお休み。工事中、ありゃー、ショック2! 後で知ったのだが有名な老舗だそうだ。

店の隣に「是より志みづ道」と彫られた清水道道標が立っていた。

さらに古い建物の連なる道をすすむと江尻宿木戸跡の石碑が道路わきにひっそりと立っていた。ここから江尻宿の東の入口か。江尻宿は駿府では府中宿に続く大きな規模の宿場だったが、いまその面影はまったくない。


さらにすすみ三叉路を左へ行くと稚児橋に出た。橋の手前に河童の腰掛け石がモニュメントになっていたので、ここは人間の腰掛け石にさせてもらってしばし休憩、コースの確認。

この稚児橋の欄干4カ所にはゆかいな4体の河童があって愉快だった。
このあたりがサッカーの発祥地だという。


稚児橋を渡って右へ、さらに左の伝馬通りをすすみ、信号四つ目の交差点を右へ行くとJR清水駅、12時を少し過ぎたところだったので駅前の商店街で昼食にした。完熟トマトとあさりのカレー、930円、あさりは大好きでおいしかった。


交差点のすぐ近くのしらすの店先に行列ができていた。しらすも大好き・・・でも買ってもこの暑さでは持ち歩きはできないだろうとあきらめた。
再び伝馬通りをすすむ、辻町の三叉路に行くとそこには一本の細い松が立っていて説明板があり、モニュメントになっていた。なんでもここに、かっては360メートルの松原で1106本の松があったそうだが、第二次大戦中に松根油の原料として伐採されたという。


次の興津宿までの道は見所も少なくて退屈な道、それに暑いので、コンビに寄って羊羹とのど飴を買う。レジの年配の男性が、なぜだか、これから、どちらまで行かれますか?と聞いてきたのでさった峠に行きます、冨士山見えますか?と聞くと、昨日はきれいに見えました、・・・今日は霞んでいるのでどうですかね・・・あーやっぱり駄目か!?

延命地蔵前から側道に入り古い屋並みを曲がりながらすすみバイパスをくぐると再び、さっきまで歩いていた道へ出る。
ここで不思議な光景に出会った、向かい側の道路にそった家々が少し斜めになって立っている、後から撮った写真で確認しても確かに斜めだ・・・なんでやろ?

さらにすすむと左手の高台に清見神社が見えてきた、国指定の史跡で家康や秀吉にもゆかりある寺だそうだ。ここに清見ケ関が設けられた時に守護として仏堂が建立されたのが始まりという。
寄っていきたいのだが、道路の反対側ですぐに渡れないし、早くさった峠の富士山に会いたいので我慢して通り過ごした。


また国道1号線に出てすすむ、磯の香りがしてきて興津の町だ。
ここには第17番目の興津宿があったところ。この宿は、東の由比宿との間に難所で知られたさった峠があり旅人には重要な宿だった。海岸はすぐ近くにあるのだが、寄り道をするわけにはいかない、興津西本陣跡、東本陣跡、道路脇に碑があるだけ、広々とした道路は興津の町をまっすぐに通っていて気持ち良く歩けた。

興津宿のモニュメントがある興津宿公園で一休憩。ここで資料の確認をしておく。
興津一里塚を過ぎるといよいよ由比宿へ向かうのみ、その間にあるさった峠が今日一番の楽しみだ、いい誕生日のプレゼントをしてくれるかどうか、とにかく急ぐ。
ここまでほぼ予定の時間通り、足にもまったく問題はないのでこのまますすむ。


興津川にかかる興津橋を渡るとさった峠への標識が目に付いた、左の道、JRの下をくぐってすすむように表示がはっきりとしてある。こちらの持っている資料はこのままJRに沿って直進だ、自転車を押してきた男性に聞くとJRの下をくぐれという、それにそっちからどんどん人が来る・・・はて?資料が古いので道が変わったのか??? 



でも、ここは、確認しておいたほうがいい、多分、峠へ上る道がいろいろあるのだろうと、資料通り直進する。こちらにもさった峠への標識があったので安心して急な登り坂を行く。だんだんと視界に太平洋が広がってきた。

風に吹かれて残り少なくなった桜の花びらが顔にまで舞ってきて疲れをいやしてくれる。ただ、あたりがうす暗くなってきて、太平洋の水平線と空との区別ができないくらいになった。それに曇って来た。ここで、もう、冨士山の出迎えはないものと覚悟した。


あっけないくらい簡単に峠の最初のビューポイントに着いた。やっぱり富士山の姿はなかった。それでも写真で目に焼き付いていた風景が広がっていた、イメージ通りだった。


しばらくすすむと二人ずれの男女に出会った。
今日が誕生日なので記念の写真を撮っておきたいと話すと“おめでとうございます”と言って親切に撮ってくれた。地元の夫婦でこの峠は散歩道にしているという、大阪から来たというと冨士山の見えないことをとても残念がってくれた。“お気を付けて”と言って自分が来た道をすすんで行った。
とても気持ちのいいご夫婦だった、ありがとう、お二人さん。


次のビューポイントの小さな展望台に行った、ここには何人かの人がきていた、同年配の二人に声をかけた、この人たちも地元の人で車で来たという。このあたりのこと、由比宿のことを説明してくれた。昨日は、向かいに伊豆が見えたという、また、ここからの伊豆の夜景もきれいだと言っていた。


峠の下りで夏みかんの収穫をしていたおじいさん・・・といってもこちらと変わらないかもしれない・・話かけたら夏みかんを一個とってくれた。たった一個だが、自宅まで持ち帰って食べた、みずみずしく甘くておいしかった。

ベンチで携帯電話をのぞいてみると誕生日祝いのメールが数通入っていた。ブログを読んで知ったという、とくに思いもしなかった人からのお祝いメールは余計にうれしい。

峠を降りるとそこは興津宿と由比宿の中間にあたる間の宿、間の宿西倉澤だ。
ここには昔の茶店の建物が保存され、宿場の雰囲気が漂っていた。一方が山、一方はJRと海。狭い一本道が曲がりながら町を貫いていた、旅人はここで一休みするか泊まってさった峠に向かったのだろう。



さくらエビ日本一という標識がいたるところに掲げられていた、ここはさくらエビの本場、今が旬なのだろうか。ゴールのJR由比駅にはほぼ予定通り午後4時半に着いた。約39,000歩。
さくらエビで早い夕食でもと駅前のさくらエビの大きな看板のある食堂に行ったら本日定休日、あー、がっかり。


4時57分の電車で静岡駅へ、新幹線こだまはすいていた、缶ビールでひとり乾杯!
思い切って69歳の誕生日にきて、楽しく歩くことができていいスタートになった。60代最後の1年、いい年にしたい!

うれしい便り、東海道五十三次は出会いの旅。

2009-03-11 22:39:15 | 東海道五十三次
東海道五十三次を歩いているといろいろ楽しいことがある
が、その中でも思わぬ出会いは旅の気持ちを癒してくれて
時間とともになつかしさがこみ上げてくる。

先日、出会った時に撮った写真を送ったら返事が二通きた。

一人は、掛川から茶畑の手前、日坂宿本陣跡前で出会った
かすみが浦市のご夫婦、とても睦まじいお二人だったので
こちらから写真を撮らせてもらった。

住所と名前をどこに書いてもらったのかわからなくなって
諦めていたが、たまたま整理していたパンフレットの片隅
に書かれていたのを発見、ピンボケ写真だが送らせてもら
ったら丁重なハガキがきた。



その後、11月21日に京都三条大橋に着いたそうで、それ
も19日間で完歩したとのこと、驚いた。自分の計画は一ケ月、
31日だからすごい。

もう一通は、島田市の蓬莱橋の上で会った藤枝市の女性から。
自分の話を聞いて東海道を歩いてみたいと言っていたので撮
った写真と資料の入手方法を手紙で連絡したら、手配ができ
たそうで、その時にいたもう一人の女性と二人で4月に日本橋
から歩きますと書いてあった。



ふとした出会い、それも声をかけなければ、すれ違っただけ
なのに、声をかけたばかりに、相手の人が東海道歩きを始め
ることになろうとはこれも驚きだ。

出会いは楽しい、これからもお江戸日本橋まで、どんな出会
いがあるやら、ますます楽しみだ。

東海道五十三次ウォーキング⑳(丸子宿→府中宿)

2009-02-10 13:46:11 | 東海道五十三次
7日の土曜日、急用で上京することになった、東京での約束
時間が16時なので、それに間に合うように静岡で途中下車、
前回の丸子宿から府中宿まで歩くことにした。

早朝の新幹線で新大阪をたち、名古屋でのぞみからひかりに
乗り換え静岡駅へ、バスの待ち時間が長くて丸子宿の西の入
り口、前回ゴールの丸子橋へタクシーで移動。


途中、安倍川にかかる安倍川橋で運転手さんが背中に富士山
が見えると教えてくれたので振り返る、雪をかぶった富士山
の迫りくるような迫力にびっくり、この安倍川橋を今日渡れ
る、わくわくする。

今日のスタートは、前回ゴールの丸子橋、ここは丸子宿の西
の入口になる。橋の上から前回歩いてきた宇津の谷の峠を振
り返る、あの峠を越えてきたのだ。




スタートの丸子橋の目の前にあるとろろ汁でおなじみの丁子
屋は梅がちらほら咲いてほのかな香りが春の訪れを告げてい
るようだった。



丁子屋の梅の木の横にある芭蕉句碑 
 "梅わかな丸子の宿とろろ汁"
東海道の道中には梅の花が咲き、宿の食膳には若菜が出され、
丸子の宿では名物のとろろ汁を召し上がったりしてよい旅を
してくださいという意。


あたりを散策していると後ろから30代後半くらいの男性に
声をかけられた、東京からマラソンで五十三次を走って京都
へ向かっているという、すごい、しばし東海道談義をして別
れた。

穏やかな早春の日差しを背に受けて走って行く男性の姿を見
送ってこちらもスタート、午前9時半今日の予定は午後2時
まで、3時前の新幹線には乗りたい。

車の通行量の多い道を日差しに向かって歩く、丸子本陣跡は
道路脇に石碑が立っているだけ、宿場の名残はまったくない。



埋もれかけた丸子一里塚も気をつけないと見過ごしてしまうよ
うに道路脇にひっそりと立っていた。


佐渡の交差点で1号線へ合流、両側にお寺の続く道を富士山の
見える安倍川橋を目指して元気よくすすむ、寒さはまったく気
にならなくて手袋も外した。


安倍川橋が見えてきた、自然と早足になる、富士山が待って
くれている・・・・と信じて。


緩やかな坂道を上って橋のふもとまで行くと目の前に富士山
が・・


?あれ

見えない!

富士山がいない!

おかしい?

どこへ行った?!

なんでやねん!!


快晴、真っ青な空

ただ、富士山の方向だけ雲に覆われていた・・・

・・・あ、がっかり!



気を取り直して安倍川にかかる安倍川橋を渡る、これまで渡っ
てきた天竜川や大井川と川幅を比べれば半分にも満たない
安倍川だが、それでも大きな川だ。


この正面に見えるはず・・・


渡り終えると安倍川義夫の碑をはさんで名物の安倍川餅の
店が2軒、手前の一軒でおやつに買うことにした、注文し
てつくってくれるので時間がかかる。今でもこの安倍川餅
は名物として人気があるらしい、東海道を行き来していた
昔の旅人は、ここまでくると安倍川餅を食べながら冨士を
眺め一息ついていたのだろうなあ・・・弥治さん、喜多さ
んもきっとそうだろう。


安倍川義夫の碑には、ほのぼのとした物語があるようで、
旅人の落とした小判の入った財布を拾った川越し人足が、
落した旅人を追いかけて渡し、礼金も固辞、その人足を
正直者として讃えた碑らしい。旅人の故郷だった和歌山
県と静岡県の有志が立てた碑ということだ。


すぐ近くの弥勒公園に行ってさっそくオヤツに3個食べ
た、おいしい、旅人気分も味わった。
こしあん、つぶあん二個ずつ+きなこに白砂糖をまぶした
餅4個の計8個豪華なおやつ。


公園内には、由井正雪の大きな碑が立っていた、由井正雪
はこれからすすむ由比の生まれで三代将軍家光没後に反乱
をおこそうとして失敗、自殺した歴史上の人物だ、碑の大
きさから地元では尊ばれているのだろう。
この場所に碑があるのは、当時、この安部川河原に処刑場
があって由井正雪と一族が河原で晒し首になっていたから
だそうだ。


この弥勒公園あたりが府中宿の西の入り口(出口)だったら
しい。


公園の入口角に安倍川川会所跡の説明板が立てられている、
川会所とは、当時の安倍川は徒歩渡しがおこなわれていて、
その川越し人足に指示を出したり賃銭の取り扱いをする役人
がいたところ。

安倍川川会所跡から一筋東海道を外れた府中一里塚を尋ね、
訪ねて歩いてやっと発見した。


古い街並みの新通りをすすみ、右折して人宿通りへ入り、
今度は左折して七間通りに向かう、曲がり曲がりの道は
わかりづらくて、確かめながら歩くので時間がかかる、
七間通りには映画館が続き人通りも多くなる、どうやら
静岡の歓楽街のようだ。

さらに札の辻の石碑を目印にすすむ、小学生高学年くら
いの女の子とお母さんが石碑の文字を声を出して読んで
いるのに遭遇、話しかけると地元にいながらこれまで碑
に気がつかなかったと言っていた。
ここには高札があったところらしい、高札とは、幕府の
法令を掲示するところで町奉行所が設置していた。


人通りの多い呉服町へすすむ、この通りは東海道の宿場
のモニュメントが立てられていてそれに沿って歩く、江
川町通りに出てさらにすすむ、このあたりが静岡の中心
地らしい、ビルが続く、そのビルの前の一角に西郷・山
岡会見史跡のモニュメントがあったが、これを発見する
のにも道を行ったり来たり、恥ずかしいくらいうろうろ
した。


西郷・山岡会見史跡について、1868年(慶応4年)幕府を平
定するために駿府まで軍をすすめた西郷隆盛のもとへ勝海舟か
らの手紙を携え山岡鉄舟が乗り込んできた、この会見は松崎屋
弥兵衛宅で行われ、勝・西郷の江戸城無血開城を話し合った、
鉄舟は徳川慶喜の身柄につき西郷に善処を約束させた。
この話し合いによって明治政府が樹立されたというから歴史を
作った場所といってよい。

次の交差点が伝馬町、伝馬通りになる、東海道はこの伝馬通り
を進むが、せっかく静岡に来たのだから家康公に会わずに素通
りはできないと、東海道から離れて駿府城跡へ向かう。


官庁街の従えるように広がる駿府城跡は広く、いまはお堀の他、
巽櫓が再興され、きれいに整備された公園は静岡の人の憩いの
場になっているのだろうと思った。



駿府城は今川氏に始まり義元が城下町として整備したが、家康
は竹千代時代に1549年(天文18年)から12年も人質とし
てこの城で過ごした、桶狭間の戦いで今川義元が敗死して解放
され岡崎城へ戻った。

天下統一を果たした後、再びこの城を居城として好きな鷹狩りな
どで過ごしていたが、1616年(元和2年)この城で亡くなった。

早咲きの桜も咲き始めている公園の一角、本丸跡に徳川家康公
の大きな銅像が立っていた、ここまで岡崎城、浜松城、そして
駿府城と家康公ゆかりの城で家康公に会ってきたが、それぞれ
の地で天に向かって立つ姿はいかにも天下人らしく雄々しくて
人々の誇りなのだ
ろう。



城跡をのんびり歩きまわっておやつ代わりに買った安倍川餅を
全部食べてしまった・・・結局、昼食代わりになってしまった。

お堀周辺の「家康公の散歩道」にある弥次さん喜多さんの像。


午後2時には静岡駅に戻りたいのでゴールは、静岡駅のひとつ
東にある東静岡駅にすることにして東海道伝馬通りへ戻り先を
急ぐ。

1号線を渡り、JR東海道線をくぐって曲金観音でウォーキング
中の女性グループと出会う、ここは時間が気になるので声をか
けなかった。


そのまま直進、東海道とは少し離れるが真新しいJR東静岡駅へ
ゴール、約24000歩。


余裕を持って新幹線に乗って東京での予定も楽しく過ごすこと
ができた。

・・理解不足のため日記の内容や、人名、地名等の固有名詞に
つきまして誤記や不明確な表現があるかもしれません。
失礼があればお許しください。

東海道五十三次ウォーキング⑲(藤枝宿-丸子宿)

2008-11-17 23:16:33 | 東海道五十三次
14日、15日の二日間、東海道五十三次ウォークシリーズ
(静岡県島田市金谷宿から静岡市丸子宿まで)

11月15日(土) 
藤枝宿(静岡県藤枝市)→「岡部宿」(岡部町)→丸子宿(静岡市)

二日目、6時起床、7時からホテルで朝食。


コースの逆の位置にあるJR藤枝駅へ行ってみた、新しい駅だ。


駅前からきれいに伸びているれんが道商店街をまっすぐに
今日のスタート青木交差点へ向かう。
曇り空、7時55分、スタート。


今日のコースは、ここ藤枝から岡部、丸子まで歩いてゴール
は丸子一里塚に17時。そこから最寄りのJR安倍川駅まで
歩き、東海道線で静岡へ、18時くらいの新幹線で帰阪した
いと思っている。
ただし、丸子宿の丁子屋でとろろ汁を食べたいので多少は遅
くなるかもしれない。

人通りのない街道を気持ちよく歩く、瀬戸川にかかる勝草橋
の手前にきれいに整備された志太一里塚と秋葉常夜灯があ
る。日本橋から50番目の一里塚。


橋を渡って藤枝商店街こだわり街道というきれいな道をすすむ
街灯にかけられた一店逸品ののぼりが統一されていて、これ
が延々と続いていく。

ここらに宿場の西の入口、西木戸門跡があったらしいが、道路
反対側の通りであとから気がついた・・・・朝からドジっ!

少しすすみ左に入ると正定寺、ここには傘の形をした本願の松
という有名な松があるということで寄ってみた。確かに横に這
うように広がった枝ぶりはお見事。


それから右にゆるやかにカープしながらこだわり商店街が続
いていく。各店には、旧街道を意識した木製の表示板がかけ
られている。
問屋場、本陣、高札場がこのあたりにあったらしく上伝馬に
は藤枝宿の道標が立っているのでこのあたりが宿場の中心
だったのだろう。


通りの右をはいったところに大きな松が見えるので行ってみた
大慶寺というお寺で久遠のマツという高さ25メートル、周囲7
メートル、日蓮聖人お手植えの松だそうだ。


旧東海道、いまは商店街こだわり街道をどんどんすすむ
この通りには、お寺が多い。神明神社、洞雲寺、蓮生寺、長楽
寺、できるだけ寄って母の祈願を続けせていただく。

藤枝には、かって田中城という城があり、東西の交通の要衝で
あったため江戸時代は駿府城の西の守り城だったとか・・

その城跡を訪ねてみたくなり、地図では街道からかなり離れ
ているが、行きたいという気持ちを大事に、予定外のコース
をすすむ途中に堀跡の印はたくさんあったが、城跡の碑はい
くら探しても見つからなかった。学校の門の横に本丸跡の碑
が立っていたのでもしかしたら学校内にあるのかも・・・


これは失敗だった、結局、探しても城跡の碑が発見できずに
往復で50分、予定外の時間をとってしまった、これが後々
にひびくことになる。

何事にも興味を持つのはいいことだが、知らない土地では、時
間に余裕をもって先に進まないとだめだ、わかっているのだが。

いつの間にか空があやしくなってきた、いつ、降ってきてもお
かしくない。前回の袋井で雨に遭って困ったことが思い出され
て気になる。

とうとう降ってきた・・・
急ぎ足に切り替えて成田山新護寺、天理教の前を通りしばら
く歩いて向い側の道にあるはずの藤枝宿東木戸口を素通りし
てきたことに気が付き引返すが見当たらない・・・もう少し
戻って探したかったが、雨が気になって諦めて先を急ぐ。

このあたりが藤枝宿の東入口であったということ、ずっと歩
いてきた街道は、ほぼ、昔の通りのままだそうだ。

さらにすすむと道路拡張工事で街道は迂回させられおまけに
大きな開発がおこなわれて地図と現地が一変していてわから
ない。

思案していると、なんと、すぐ近くで交通事故が発生、車の
前部がペチャンコになっている・・・
危ないぞ、危ないぞ、歩いていていつも一番怖いのが車、先
を急ぐ。

いつの間にか小雨になっていた
それに昨日痛みがあった左足の甲の痛みがきつくなってきた
これから向かうのは、市外の岡部宿、峠越えして丸子宿、困
ったなあ・・・

傘のことは後にして、足の状態を見ておきたくて、葉梨川の
八幡橋のふもとのお地蔵さんの前に座り込んで歩行休止。
痛みのある左の靴と靴下を脱いで、貼っていたテープをとっ
てみると甲の部分が赤くはれている。
やっぱり、靴が小さいんだ。

マイカー(手押し車)で通りがかった老婆が”どうしました?”
と声をかけてきた。
”豆ができたので休んでいるところです、大丈夫ですよ”と笑
顔で答えた。
自分の足だけでは歩けない老婆に心配かけさせてどうする!
でも、うれしい、なんだか母のように思えた・・・・。


朝、出かけ前に甲に貼っていたテープが効いていないのでもう
一枚はって甲と直接接しないようにしてみた。

これでしばらく歩いて行くがやっぱり駄目。
小さな休憩所で、左足の厚手の五本指の靴下を脱ぎ、薄手の
靴下に変えてみた。どう?左右違いの靴下、もしかして、これ
流行するかも・・・


横内という地区に入っても小雨が続く、コンビニも店もないの
で傘はない。ここでも一里塚探しに行ったり戻ったり。時間は
大幅に遅れてしまった。

この地方は柿の生産が多いのか、道端の無店舗販売がたく
さんあってうっかり買ってしまった。
大好きな柿三個入り、100円、背中がずっしり重くなった。
足が痛いというのに懲りない。


この地区の家々には、昔の屋号が大きな木板に書かれている
その名前を見ながら、何屋かなと連想しながら歩く・・・足の痛
みからなんとしても気をそらさないと。↓?


岡部の松並木が見えてきた、岡部宿だ。


先週、ここの観光協会に電話で尋ねた時、応対してくれた
人が、ぜひ、寄ってくださいと言ってくれたのでドアに手が
かかったが、時間のことを思うとじっと我慢。
その代わり電話で聞いた「五智如来」には会っておいた。
この五智如来に関する伝説があるのだがここでは割愛する。


岡部の町は、とても奇麗な街で商店会のがんばれ岡部町、
輝け岡部町というおおきな上りが街道にずっとかけられて
元気を感ずる岡部町と感じた。来年は藤枝市と合併するら
しい。がんばれ岡部!

1号線から一筋入った道をすすむと小野小町の姿身の橋と
いう小さな橋が?
なんでも小野小町が東へ行く途中、この岡部宿に泊まり、
この橋の上から夕陽を眺めふと水面に映る長旅で疲れ果て
昔の面影を失った自分の老いの身を見て嘆き悲しんだとい
う伝えがある橋。

岡部公園についたのがちょうど13時、昼食をしていない
が、カバンの重量を少しでも軽くするために朝仕入れた好
物のドーナツと大きな柿一個を食べて昼ごはんの代わりに
することにした。あとは、丁子屋のとろろ汁までがまん◎。

左足の痛みがひかないので、インソールを左だけとって歩
いてみるとこれならなんとかなる、ただし、右が高くて左
足が低い、微妙に差だがバランスが悪い。
しかし、このまま峠越えをして最後までなんとか歩くこと
はできた。

誤解があってはいけないので・・靴に問題があったのでは
なく、靴のサイズが合っていなかったということ。
これまで50キロは履き慣らしてきたが、多少、小さいか
なあと感じていたのでそれがはっきりしたということだ。

すぐ近くの旅籠屋柏屋へ寄った。ここは、岡部宿を代表する
旅籠で、現在の建物は、天保7年に建てられたもの。いまは
建物そのものが資料館として当時の生活ぶりが一目でわか
るようになっている。
平成10年に国の登録有形文化財に認定されている。


奥に店があって食事もできるので、ドーナツと柿を食べたばかり
なのに、うっかり?おでんの匂いにつられて注文してしまった。
350円で6個、みそ味風でやや辛味だったがおいしかった。

お店のおばさんが話かけてきて、これから行く先の地図を持っ
てきて丁寧にボールペンでチェックポイントを記してくれて大助
かり、途中から応援?のおばさんも入ってきてあれこれとアドバ
イスしてもらって・・・頭、こんらん。30分も過ぎてしまった。


まあ、こういう出会いが楽しい思い出、急いでただ歩くだけでは
つまらないと思う。おばちゃん、仕事の手をとってすみませんで
した。おでん、おいしかったよ。
それにしてもかなり遅れてしまったので急がないと。

しばらく1号線にそってすすみ、いよいよ間の宿、宇津ノ谷へ向
かう道へ。ここで道を間違えて最初の急な坂道を登り茶畑に出て
しまう、さすがに足も痛いのでかりかりきた。

宇津ノ谷までの誰もいない峠道は、雨空のせいもあって暗くて慣
れていないとさびしい道だが、熊野古道でこういう道にはなれて
いるので平気。


吉野修行の道で教えてもらった

 さんげ さんげ ろつこんしょうじょう

と繰り返して上リ下りしながら落ち葉の道をすすむ。


やがて、眼下に目的地の古い宇津ノ谷の集落が見えてきた


そこは、昔の宿場の雰囲気が残るちいさな街道、坂道の両
側に並んでいる家々には屋号がついている。
なんだかほっとするような、静かさの中で、リュックにつけ
た鈴の音が妙に大きく響いていた。

下りの真ん中当たりに御羽織屋が見えてきた、ここはもと茶屋
だったらしくて天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原攻略
のときに寄り、陣羽織を与えたという紙子の羽織が所蔵されて
いるそうだ。

 

それからは1号線につかず離れずで一路丸子宿をめざして
すすむ。次の目的地は、丁子屋、ここの名物とろろ汁を食べ
るのが楽しみ。

16時を過ぎ1号線もすでに明かりがついて夕暮れになった。


宇津ノ谷を出てから約1時間、やっと丸子宿についた。
16時32分になっていた。


丁子屋についたのが16時35分、あたりは薄暗くなっていて
丁子屋にも灯りがついてとても雰囲気のいい藁ぶきの店だ。


食事をすれば17時を過ぎるので今日はここをゴールにした。

食べたメニュー「つたの細道」
おひつに麦御飯が入っていて、麦御飯にとろろをぶっかけて
つるつると音をたててお茶漬けのようにして食べる。
おひついっぱい、全部食べた。大きな茶碗三杯で不思議とい
くらでも食べられた。
評判通り、おいしかった。本日16時42分撮影の最新のもの。


満腹、勘定場の女性に
”おいしかったです、これで満足して大阪へ帰れます"と
口に出た。

”それじゃバスの時間をお調べします”

”いえいえ、安倍川まで歩いて行きます”

というと

”そちらに東海道の資料がありますからどうぞ”

と言った・・・

広重の本があったので買って出ようとすると
先ほどの女性が、雨が降っているので100
キンの傘ですが持って行って下さいという

資料をみてくれと言ったのは、その間に傘を捜しに
行っていたのだ

そしてご主人が地図を持ってきて安倍川までの
道を丁寧に教えてくれた

なにしろ外は真っ暗・・・外では地図はみられな
いのだ、たいした雨ではなかったので傘は固辞して
失礼した。

さすがに丁子屋、おいしいのはとろろ汁だけではない
こんなにこころゆくおもてなし心がおいしさの素に
なっているのだとほのぼのとした気持で暗い夜道を
小雨にぬれながら迷いもせずに安倍川駅へ着いた。
17時58分。
一駅先の静岡駅への電車が18時3分。
新幹線静岡発岡山行きのひかりが18時12分。

こんなにうまく接続するとは・・・20時には新大阪へ

新幹線で飲んだ缶ビールがおいしかったこと!

今回の二日間も楽しい、うれしい出会いの連続、東海道
五十三次ひとりウォークは思い出をどんどん積んで行く。

丸子本陣跡


JR安倍川駅



東海道五十三次ウォーキング⑱(金谷宿-藤枝宿)

2008-11-16 19:21:29 | 東海道五十三次
14日、15日の二日間、東海道五十三次ウォークシリーズ
の静岡県島田市金谷宿から静岡市丸子宿まで歩いてきた。

いずれはこのブログで、詳細はHPで紹介するとして
二日間の簡単な歩程について紹介しておきたい。

11月14日(金) 
「金谷宿」(静岡県島田市)→「島田宿」→藤枝宿(藤枝市)

朝6時28分の新大阪発の新幹線で浜松へ

新幹線内で簡単な朝食。

今日のコースの下調べ、お勉強中。

日の出前の京都・東寺の五重塔が見える。

浜松で新幹線から東海道線に乗り換え金谷駅9時1分に下車。


そろそろ富士山が見えるはずだとわくわくしながら駅の観光
案内所を訪ねたら
”よく見えていますよ”と駅の外へ案内された。

わー、見えてる!

これが思わず口に出た感動の第一声。
まわりにいた人がこちらを見るくらい大きな言葉だった。

いつもこんなに奇麗に見えるわけではないそうだ、天気予報
で土曜日から崩れるということだったので晴れ予報の金曜日
に無理して来たのが正解。

スタートして金谷宿をしばらくすすみ金谷本陣跡前へ。


しばらくすすみ大井川鉄道の新金谷駅に寄ってみたら
観光バスの団体で大変な人、人、人。人気観光コースらしい。


SLをまじかにみているとホームに見覚えのある電車が入って
きた、昔利用していた南海電車が現役として働いているでは
ないか!昔のままの車体の色で・・・・。なつかしい。 


さらにすすむと待望の大井川の堤防に行き着いた


 箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川

と言われた難所の大井川だ

さすがに大きい、それに、はるか正面に
富士山がくっきりと見える最高の景色


  感動、感動、感動。

大井川にかかる大井川橋の歩道を渡って行く
冨士山に近づいていくようでわくわくする・・・

先に渡ってきた天竜川に比べると水量が少なく周辺が山に囲
まれているせいか、天竜川ほど大きくは感じないがそれでも
大きな川であることには違いない 
途中で運よく、地元の方に遭遇し写真を撮ってもらった。


1300メートルの橋を渡り切ると島田宿
そこには大井川・川越遺跡が当時にタイムスリップするよう
に復元されていた、ここは国指定の史跡になっている。


渡船が中心のように思った天竜川に対して大井川は
川を渡る川越制度があり、川札を川会所で買って
人力で肩ぐるましてもらうか、輦台というみこしのような
乗り物に乗ってかついでもらうか、どちらかで渡っていたそうだ。



橋を渡って遺跡へすすむ道で地元のご婦人に道を確かめたら
資料館までの300メートルくらいを案内してくれた
どこに行っても地元の人は親切にしてくれてうれしい。

渡ってきた大井川大橋、島田市博物館前の堤防から。


島田市はJR駅前が開発中で、そこにあるという碑が見つか
らない、資料では交番の隣となっているがその交番がない
交番がどこかへ持ち去られたのか・・・まさか?

市内のど真ん中、資料に掲載されている史跡碑があるという
二つのスーパーもなくなっていて碑もわからない
まるで宝探しでもするように史跡探して四苦八苦しながらす
すむのも現代の東海道歩き、これも、また楽しい。
再開発にかける地方の商業ビジネス生存競争の厳しさをここ
でもみた。

島田宿本陣跡。


旧東海道からは外れるが、島田で楽しみにしていたのが蓬
莱橋を訪ねること。木橋としてギネスブックに認定されて
いる世界一長い木造りの歩道橋を渡りたくて足を延ばした。

全長897.4メートルの木橋が大井川にまっすぐに伸びる
ようにかかっている様子は世界一の名にふさわしい、映画
や大河ドラマの撮影によく使われるそうだが想像していた
よりさらにスケールの大きな橋で驚いた。


一歩一歩、ゆっくりとすすむ
穏やかな小春日和が色づき始めている周辺の景色をさらに
やさしく包み込んで渡る人に降り注いでいる

橋の上から眺める富士山はたとえようのないくらい美しい姿で
そこを離れるのがもったいないくらいだった。

二度とこの地にはこない
二度とこの橋は渡らない
二度とこの景色は見られない

しっかりと瞼に収めるように見ておいた。


自分の東海道五十三次は、日本橋までこれ限り
また訪れるという気持はまったくないので名残り惜しい。

富士山を見ることのない西からきた者には
あこがれの冨士山が、こんなにもやさしく迎えてくれて
ここに立てる幸せを感じた。ありがとう。


橋の真中で地元のご婦人二人と楽しい出会いもあった。

遅い昼食に橋のたもとのそばやさんに入って
そば定食を注文して出てきたそばを見て驚いた

醤油の中にそばが入っている!
からい!

うす味、薄い汁の関西から来た者には驚きだ。

冷たいそばを追加したらまた醤油の中に入って出てきた
汁は吸わないように・・・
でも、そばはおいしかったしそれに安かった。

島田市は、金谷の石畳、大井川、国指定の川越遺跡、蓬莱橋
それに人気のSL大井川鉄道と旧東海道にまつわる歴史的財産
をたくさん持っていて魅力のある町だった、通してくれてありがとう。

島田から次の藤枝宿をめざしてすすむ
この間の旧道は、みるべきものがあまりなく
単調な道をすすむだけ、いつのまにか曇り空になって
冨士山はどこかへ行ってしまった。


○○保存会と掘られた碑も多く見かけたが
一つ一つの道標、説明板がていねいに作られていて
藤枝市の史跡に対する姿勢をすばらしいと感じた。

予定のゴール地点・藤枝市青木交差点に、ほぼ予定通りの
4時過ぎに着いた。

明日のこともあるので、そこで切り上げてホテルに入り
食事も外食しないでラウンジ風の雰囲気のいいホテルの
レストランでとった。

静岡限定という抹茶入りの焼酎は香りに品があっておいしく
ひとりで十分にくつろぐことができた。

 約 36,000歩。いい一日だった。



午後から、左足の甲部分に痛みが出てきてちょっと気になる
東海道五十三次には、今日デビューしたばかりのシューズの
左が少し窮屈なのだろう、峠越えがある明日の対策を考えな
いといけない。

翌日のブログは後日にしたい。







東海道五十三次ウォーキング⑰掛川宿→日坂宿→金谷宿

2008-09-10 12:14:32 | 東海道五十三次
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ⑰一泊二日の二日目。

二日目9月8日(月)のコースは
 「掛川宿」→「日坂宿」(掛川市)→「金谷宿」(島田市)

朝、宿泊ホテルで5時に起床、資料で今日のコースの確認を行う、コ
ースのイメージをしっかりと叩き込む、特にポイント毎の到達時間の
設定は、歩程管理に大事なことなので地図に記入しておく。

デジカメのバッテリーと携帯電話の充電をチェック、病んでいる家内
のことが心配なので携帯電話を入れる。
準備に手間取り8時15分に掛川駅前のホテルを出る。

コースに入る前に、まず掛川城へ向かう。
山内一豊が城主であったときに建立した天守閣は、平成6年に日本
で初めてという木造によって復元されたばかり、快晴の秋空に見事
にそびえて、実に美しい。城もたくさん見てきたが、規模は別とし
て、天に高く向う姿はお見事。


しばらく城内を見物して、その一豊が整備したかっての城下町をす
すむ。

掛川も宿場の面影はほとんど残っておらず、わずかに新町七曲りが
その形を残している程度。その七曲りに行くにはガソリンスタンド
が最初の曲がり角と資料にはあるが、ない、まだ、先なのか、行っ
てもない、仕方なしに路地に入ると運よく掃除中のご婦人がいたの
で尋ねたら、やはり行き過ぎていた、あのガソリンスタンドはなく
なっているという。

今日も最初からツキがない!と思ったら、そのご婦人が、路地の角
まで連れてくれてこと細かく教えてくれてツイテた!しかし、50メ
ートルくらいは東海道を通っていないことになるかなあ、愛想のい
い掛川の奥さん、ありがとう。
道は女性に聞くなというけれど、そんなことはないぞ! 逆や。

新町七曲りから葛川一里塚をめざして歩いていると、背が低くて
、幹が白くて、ちいさな実をたくさんつけている街路樹が珍しくて
たまたま、庭先の花の手入れをしていたご婦人に声をかけて聞いて
みたら「モチ」の木とのこと。
それで失礼すればいいものをこのおっさん、花をほめたばかりに、
さあ、大変、そのご婦人の話術に取り込まれてしまった。

子供さんのこと、亭主どののこと、自分のこと、同窓会でのこと
、化粧のこと、青春18切符の旅行のこと・・・拝聴して、住所
メモを交換してようやく放してもらった。


おじさんが、あの有名なお茶メーカーのロゴ文字を書いた人と言
っていたのでそれなりの家柄なのだろう、70歳と言っていたが、
自分より年下とばかりと思っていたので驚いた。
とても明るくて、さわやかで、気持ちのいいご婦人だった。相手
をして遊んでくれてありがとう。


さらに少し行くと向いに「もちや」というきれいな作りの店が見
えたのでなにげなくのぞいてみた。
いちじく4個300円、おっ安い!買った、店の奥さんに聞くと
この店は、掛川名物の「振袖餅」の店だという。それなら、それ
も買った・・・大福もちみたいかなあ・・・3個入り。

買ったのはいいけど、ずっと持って歩くつもりか・・・リュック
の中はすでに満員なのに。
朝、食べなかったパンに夕べコンビニで今日のために買ったおや
つと非常食用の餡ドーナツ10個入り袋、ホテルでもらったパン
も入っている。重い!
すぐ向かいの葛川一里塚で早い休憩、さっそく餅といちじく一個
を食べたが、当分は背中が重いぞ、ほんまにあほなおっさんや!


馬喰橋をわたり旧道をすすむ、成滝というところで1号線に合流。
ここからしばらく交通量の激しい1号線にそってどんどんすすむ
、今日も暑い。
しばらくすると左手にわずか茶畑が見えてきた。そうだ、今日は
、にっぽんの茶畑を歩くんだ!

本所のわかれ道の歩道橋の下で休憩、いちじく2個目。
まだ熟しておらずおいしくない。
食べれば中身はへるが皮を捨てるところがなくてそれも再び荷物
に。あー計算外。
しばらくすすみ再び1号線へ。諏訪神社前で向こうからきた男女
二人に、また、声をかけた。

“東海道を歩かれているのですか”? 
とても愛想のいい二人ずれ、夫婦なんだろう、気さくに話にのっ
てくれた。関東の人なんだろう、歯切れのいい話し方が好きだ。

二人とも、前にリュックをかけ、さすがに東海道を歩く人は、工
夫しているなあ・・・
姿形から、相当に歩ける人とみた。
今日は、自分の歩くコースとまったく逆を歩くという。朝の出発
時間も同じでこの場所に来ている。
おどろいた。自分はまだ全体の三分の一、その二人はすでに三分
の二を歩いている。
“お茶畑がきれいですよ”と言ってわかれた奥さんの笑顔がとて
も清々しくて素敵だった。ありがとう、お二人さん、お元気で!


去っていく二人の歩きの早さは、自分の比ではない。
すごいなあ・・・あの人たちから見れば、自分はどんなに映って
いるのやろ・・・?

伊達方一里塚を過ぎ、八坂で再び一号線へ、昼時間で自分の危険
時間帯だ、快晴で暑い。

やっと昼前の目標、「事任八幡神社」が見えてきた。
大同2年(802年)に坂上田村麻呂が興したと伝えられ、願いが
「事のまま叶う」ということで
評判になり参拝者が多いそうだ。樹齢1000年といわれるクスノキ
の巨木がそびえ立っている。この神社は、枕草子にも記述がある
らしい。


ここは、東海道五十三次の応援コミュニティをつくってくれた友
のSさんが体調を崩して休養しているのでその快癒祈願のお守り
を「快癒の願いが叶う」ことを願ってほしかったので、一番寄っ
てみたいと決めていた神社だ。

お参りする前に神社横で地図の確認をしながらいちじく三個目と
餅を食べているとご婦人が声をかけてきた。・・・なんだか今日
は婦人デーみたい。


この八幡神社が有名な神社であること、これから行く日坂峠から
金谷までのめぼしいところの説明を熱心にしてくれ、おまけに宮
司さん亡き後の神社を取り仕切っているという社務所の奥さんの
ところへ案内して紹介してくれた。

ここで奥さんからまたいろいろ話を聞かされた。大阪に縁のある
人でびっくりした。結局、ここを発つ時点で予定時間をほぼ1時
間もオーバー。12時40分。
このペースではもしかしたらと思っていた島田までは無理だろう、
やっぱり金谷ゴールになるだろう・・・と。
予定の帰りの電車は決めている、島田駅なら17時16分、金谷
駅は17時21分。
これから日坂宿へ向かう、どんな出会いがあるやら・・・

事任八幡宮から1号線を横断して左の日坂宿へ通ずる道へ入る。
集落へ入り少し進むと左に入る道の角に若宮神社の小さな鳥居
と秋葉常夜燈を発見、撮影して元の道へ戻ればいいのに、疑いも
せず、確認もせず、そのまま神社前を行ってしまった。

左右に大きくカーブする道がつづき田園風景が広がる。小学校前
を通過するが・・おかしいなあ、これは宿場の雰囲気ではない、
日坂宿へは坂道を上がると聞いていたが、平地だ。
だれか聞く人はいないかと歩き続けるが、人影はまったくない。
もう、間違っていると確信。
自分の持っている地図は、東海道の道しか書いてないので、他の
道を入ってしまうと、その道は書かれていないので現在地の確認
ができなくてどうしょうもないのだ。

道端で思案しているとき、車が走ってきたので、厚かましくも止
めて聞いてみた。
“すみません、道に迷ったらしくて困っています、・・・”と言
って、地図も見せて聞いてみたが土地の人ではなくてわからない
という。
仕方なしにあの神社まで戻ろうとしたら、30歳くらいの車の男
性が、そこまで送りましょうと、わざわざ運んでくれた。助かった!
距離にして1.5キロくらいか、無駄な歩きと時間を使ってしまっ
た。・・・今回の失敗その3。

その車の人の写真を撮らせてもらおうとしたらデジカメのカード
がいっぱい、カードを入れ替える時間がないので一枚削除して撮
ろうとした、その操作をあわてたために、大変なミスをしてしまう。
きっと変なところをさわったのだろう、設定が変更になったらしく
て、それに気がつかなくて以降の貴重な写真の数々が全てピンボケ。
・・・失敗その4

横道に入り込まずにそのまますすんでおれば、小さな上りを50
メートルほど行くと、そこは日坂宿。考えられないミスをしてし
まった。
坂道で6人ほどのウォーキンググループに出会ったが、こちらの
会釈にも無視するがごとく無愛想に行ってしまった。

日坂宿は、五十三宿の中では三つ目に小さい宿場だったそうだが
ここには当時の雰囲気が残っており興味深く歩いた。旅籠屋川坂
屋跡、萬屋、趣のある建物が残っている。
街道の各家には、昔の屋号の木札もかかっていて当時を偲びなが
ら歩くことができた。


ここでも・・・失敗-その5
元幼稚園跡前にある本陣跡で小雨が降ってきたので休憩をしてい
ると、また、二人ずれの男女がやってきた。13時30分になっ
ていた。
お互いにあいさつを交わして、また、質問形式で話しかけた。
びっくりした、けさ、茨城県の霞ヶ浦の近くから東京経由で金谷
まできて11時にスタートしてここまできたという。
この二人、夫婦、夏休みに入って江戸から歩き始めたそうだ。
ついこの間じゃないか!ということは、来月あたりは京都にゴー
ルだ。いや、まいった、まいった。

ここで終わっておればよかったのに、また、このおセッカイおっ
さんが言うた。
“写真を撮りましょうか、お送りしますから・・・”
と言うと、とても喜んで二人並んでくれたので二枚ほど撮った。
住所まで書いてもらったが、撮った写真は結局ピンボケ、おまけ
に自分も撮ってもらったつもりだが、写真は撮れていなかった。
奥さんが、何度もお礼を言って、これからは坂が大変だから気を
つけてくださいと、と言ってわかれた。
とても純朴で感じのいい二人、いいなあ、定年退職をして歩き始
めたのだろうが、先ほどの二人と言い、普段から歩いていないと
とてもこの長い東海道を夫婦で同じ歩きはできないはずだから、
きっと日頃から仲良く歩いているのだろう・・・いいなあ。
しばらく後ろ姿を見送っていた・・・お気をつけて!


日坂宿からいよいよきつい上り道が続く、なるほど、これはきつい!


13時48分、急な坂道をほぼ上りきってから、こんどはアップ
ダウンが続く。

それに午後の太陽が照りつける。汗が噴き出してタオルはふる操業。
しばらくすすむと左右に茶畑が広がってきた。
あっ、きたきた、これが、本場静岡の茶畑だ。
道の両側の斜面は茶畑が続く、すばらしい景色だ。


一番暑い時間帯で日影もない道はきつく、日坂で買った水も残り
少なくなり節制非常宣言。
夜泣き石、芭蕉句碑、妊婦の墓、涼み松広場、馬頭観世音前をも
くもくと歩き続ける。
小さな白山神社の木陰でしばらく休憩。14時8分。
日坂を越えて坂を上りはじめて35分ほどなのに、ずいぶんと時間
が経過したと思ったがこの程度か・・・さらにアップダウンが延
々と続く。小夜鹿一里塚跡で休憩。14時24分。
ここで四つ目のいちじくと餅を食べる。水がほしい。
昼食のパンもおやつのドーナツもリュックの中で納まって背負っ
ているだけ。

少しすすむと、店の案内図が見えた、しめた、そこで休憩して水
を買おう・・
急いで店の前に行くとシャッターが下りている!
休日だ、あー残念!休日だ、あー残念!二連発、思い切り大きな
声で言ったが、閉まっている店には聞こえていないなあ。
くそっ、月曜だからか、もう月曜の東海道歩きはやめた、がっか
りした。

気を取り直してすすむと久延寺の前に着いた。
久延寺は、掛川城主の山内一豊が、関ヶ原合戦に向かう徳川家康
を接待するために、境内に茶室を設けたと伝えられている寺で、
家康手植えの五葉松や芭蕉の句碑。


また、寺の向かいの小夜の中山公園には、西行法師の歌碑や接待
茶屋跡があった。

ここから、今度は下り、猛烈な急降下、一気に茶畑を下り続ける
これもきつい、ひざに負担がこないように、ソフトにソフトに着
地して、踏ん張りすぎないように、あわてないように下って行っ
た。ここは青木坂というらしい。下りるのもきつかったが、上っ
てくるのはもっとしんどいぞ。


下りきったところが菊川の四郡の辻、かっては、ここが日坂と金
谷との間の宿の菊川だ。
菊川に降りた時点で無理して島田へ行くことはやめておこうと決
めた。決めた要因の一つは、デジカメのバッテリーがとても持ち
そうになかったことがある。
デジカメが使えなければ記録の写真を撮ることができない。

菊川の集落をしばらく行くと菊川坂の入口につく、疲れを感じた
ので心拍数の確認をしたら140、菊川坂は、石畳の上りが続く
ので10分ほど休憩をする。


距離にして600メートルほどの石畳だが、あまり人が通らない
からなのだろう、草が生え放題で歩きにくい。もう少しと思うと
ころで一匹の蜂がやってきて、ぐるぐる前を飛ぶ。

よそ者は通さんぞと言うているのか、通行手形を見せろと言うて
いるのか、あまりにひつこいので少しバックして様子をみて、ま
た、その場所に行くとやっぱりぶんぶん、脅してくる。
もしかして、大軍になってやってきて襲われたら逃げるところが
ないと思うと怖くなった。
恐怖からか、心拍数140を超えっぱなし。
おまけに止まっていると蚊が容赦なく刺してくる。これにはまい
った。

ウォーキング協会の友人の姫さんから、蜂は黒い服に反応するの
で着ないようにと言われていたのを思い出したが、着替えの白い
シャツ着ようにも、その間に蚊にやられたら大変。
意を決して突入することにして・・・石畳をすべりそうになりな
がら50メートルほど、走るようにして上がった。上りきったと
ころでラッキー、ログハウスの素敵なコーヒーハウスが見えたの
で、そこに入って休憩をさせてもらうことにした。


店の奥さんが気さくに話しかけてきていろいろなパンフレットを
くれた。たぶん、この店、東海道歩きの人が寄る店なんだろう。
島田行きを中止して金谷止まりにしたので、コーヒーハウスでゆ
っくり休憩をさせてもらってすぐ近くの諏訪原城跡をぐるり一周
して最後の金谷の石畳を下りて行った。

楽しみにしていた金谷の石畳だったが、雨が降った後で、石がぬ
れていて何度も転びかけ、とても楽しむどころではなかった。す
べらぬ地蔵というのがあったが、とんでもない・・・


かってこの金谷は、江戸から京をめざす人には、大井川を渡りほ
っとする間もない旅の難所だったそうな。

今日、午後の日坂からここ金谷までは、平坦な道はなく、高度差
のあるアップダウンの道できつかった。京都からここまでで、一
番きつかったかもしれない。
石畳みを降りてJR金谷駅はすぐ近くにあったので予定していた帰
路のJRには、余裕をもって乗ることができた。


今回の二日間は、楽しい出会いの連続だった。失敗もあった。
怖い目にもあったし、くらくらする場面もあった。
暑さも真夏と変わりなくて決して楽な歩きではなかった。
でも、地元の人々には今回も親切にしてもらった。
旅は、お互いにやさしくなれるのかなあ・・・

帰路 青春18きっぷ
金谷駅17:21発→浜松乗り換え→豊橋乗り換え→金山乗り換え→
米原乗り換え→新大阪22:54着→仕事場へ→地下鉄終電で自宅へ
二日間 50.5キロ 前回の二日間とほぼ同じ。よく歩いた。
足にさほどの疲れもなくいい歩きができたのかなあと感謝している。

東海道五十三次ウォーキング⑯見付宿-袋井宿→掛川宿

2008-09-09 23:26:50 | 東海道五十三次
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ⑯⑰を残暑の残る中、一泊二日のスケジュールで歩いた。

初日9月7日(日)のコースは
 「見付宿」→「袋井宿」→「掛川宿」  

新大阪発6時8分の新幹線で浜松へ


浜松から東海道線に乗り換えて
前回ゴール、今回スタートの磐田駅へ8時1分、40日ぶりに着く。

1年5ヶ月前に京都三条大橋をスタートして今回が16日目と17日
目、3年計画でお江戸まで33日をかけて歩く東海道五十三次ウォー
クは今回で日数も期間もちょうど中間になる。

袋井宿は京都とお江戸の真中になる27番宿場で、こちらでも今回が
ちょうど「東海道のどまんなか」になり、3ケ年計画全体から見れば
きわめて順調に、予定通りの歩程で進んでいるといってよい。

磐田駅の出札口に行くと向こうから"○○さーん"と自分を呼ぶ声が
かかってきた笑顔の素敵な男性が、こっちをしっかりと見てくださ
っている。

あっ、country walker さんだ!

こちらは初対面だが、自分のことは、ブログの指名手配写真を見られ
ているのですぐわかったのだろう。

country walker さんは地元磐田の方、数日前に「東海道五十三次」が
とりもつご縁、インターネットで声をかけていただいた方だ。

一つ年上だが、なんと東海道を往復されており大先輩。
これから見付宿の入口まで、平成の弥次、喜多コンビだ!


見付宿の入口まで同行案内してくださるということでさっそく、
日曜日の早朝の人影のない磐田市の商店街を仲良くすすむ
ここはジュビロ磐田のホームタウン、通りもジュビロロードだ。

最初に訪ねたのが天平元年(729年)に遠江国府の守護神として建
立された府八幡宮、後の1635年に建立されたという楼門の見事さに
驚いた。


道路の向かい側の遠江国分寺跡へ、741年に聖武天皇の詔によ
って建立されたとか七重の塔の礎石が残っており、国指定の特別史
跡、発掘調査が続いているようだった。

そこから東海道は、大通りから道一筋、住宅街に入り大きくカープ
した道をすすんでいると掃除中の年配のご婦人をみかけたので、よ
せばいいのに、それができなくて声をかけてまた驚いた!

この方、この地に嫁いで70年余、そこが旧東海道であることはもち
ろん、歴史に詳しくてお江戸、増上寺にも縁のある由緒ある家柄の
人だった。おばあさんの話は流暢に続く、品のいい方だった。

矍鑠とした姿に驚いた! 二人目の出会い。

次の交差点が「加茂川」、少し行くと加茂川にかかる「加茂橋」
「加茂橋」を渡るといよいよ見付宿の入口だ
country walker さんとここでお別れ。

いま来たゆるやかな上り道をさっそうと行くcountry walker さん
の後姿をみながら足の運びがとてもスムース、さすがに東海道を
往復した人の歩きは軽くてきれいだなあ・・・と感心した。

きっと、今日、明日の二日間、country walker さんは自分の無事
を思い続けて下さるだろうその思いを大切に歩かせていただこう。

今回は、祈願ウォークだ。

 ○必死で生と闘っているふるさとの母の延命祈願
 ○病んでいる家内の平癒祈願と義母への祈願
 ○江戸の息子の健康祈願
 ○SNS仲間のSさんの快気祈願
 ○country walkerさんの快歩祈願
  えーと・・・そうそう
 ○自分自身の健康祈願、商売繁盛・・・
 ちょっと欲張り過ぎかな?

あー、忙しくなるぞ。背中のリュックの中にこれだけの人を詰め
込んで歩くんだ。そう思ったら、元気もりもり。

見付宿は道路がすっかり整備されきれいになっており、往時の面
影はないが、表通りから左右に入り込む小路に名前がつけられて
いてそれが、ことごとくお寺に通じている・・・見付はお寺の多
い宿だ。

明治4年に建てられたという現存する洋風の木造建築最古の小学
校舎・国指定史跡の「旧見付小学校」には引きつけられた。


ここまてで、もう、予定時間から大幅に遅れているので急ごう!
と思ったのに、学校前の小さな休憩所で飛脚姿の男性と男女数人
のグループがなにやら話し込んでいる。
また、そばに行って声をかけた。

驚いた、今日、三人目の出会い。
Nさん。国鉄民営化により解雇を受けた人で、その不当性を訴え
てさまざまな活動をしている人のようだ。

今回は、京都から東海道五十三次を飛脚の姿でキャラバンを続け
ているところまわりの人は、この地区の支援仲間と同行する応援
隊とのことだ。


歩くか走るかは別として、同じ五十三次に足跡を残すことは同じ
ということか意気投合して、しばし、談笑。45歳。取り巻きの人
たちも素敵だった。

このNさん、13日が日本橋到着と言っていたから、今日も走って
るはず自分の道を行く人は、信念の人、魂の人だ
主義主張は別として、命を賭けて行動に移している人は好きだ
がんばれ、がんばれ、Nさんの背中の飛脚には夢が入ってるぞ
こっちだって、ランドセルの中には夢が入っているんだ!

脇本陣が見つからない・・・見つからない・・・
おーい、脇本陣、進学教室前、でも教室がない!

中年の夫婦らしい人に聞いた、地図をみてもわからない
進学教室は? と聞くと、あれはなくなった、といって教えてく
れた場所に脇本陣の木板が立ててあった。
奥さんが、地元の人間が教えてあげられなくては申し訳ないと
言って夫婦で地図をみながら一緒にさがしてくれたなんとやさ
しい磐田の人、ありがとう。 四人目のうれしい出会い。

家康が寄進したという鐘楼のある宣光寺、ここに童像が何体か
・・とてもかわゆくて、実は自宅にもあるのだが、童像が大好
きなんだほんまにかわゆい、頭をなでて
”大きくなれよ” ?

坂道上がって見付天神へ、もう、汗汗あせアセ・・・あつい!
真夏並みだ。


予定時間を大幅に過ぎて11時10分、あせる。
小高い愛宕山の阿多古山一里塚がわからなくて二度も上り下り
した石碑の前が工事場になってブルーシートがかけられてそれ
に隠れて見えなかった・・・なんでや!

ここで地図を確認しょうと・・・あれ? 写真入りの地図がな
い、おかしい!
手に持っているファイルの中を全部調べてもない

困ったなあ・・・あいつが一番頼りになるのに。

見付神社までは見ていたので、そこから愛宕山ぐるぐる歩きの
間に落としたに違いない。どうする?

時間に余裕があれば戻るが、暑さで体力の消耗をしたくないし
自分にとって魔の11時になっているのであきらめよう、
現場写真のある地図だから痛手だが、もうひとつ、古いけれど
道路地図がある今日は、これで袋井、掛川を歩こうと決めた。

決めた以上は、これからどんなことがあろうと

あの地図があったらなあ・・・と思わないこと、引きずらない
こと。これも一人歩きの鉄則、決断したら、振り返るな
進めば、道は開ける、気持ちを引きずるのは事故のもと。

ここは、気持ちを切り替える時の応援歌で楽しく行くぞ

鈴が森にきて心拍数が135、おっとやばい、ストップだ
でも、ここは、昔、処刑場だったとか・・・薄気味悪い。

とぼとぼとスローウォーク、5分置きに心拍数を測ること
にする。水分補給も欠かさない。

汗拭こうとしたら、ポケットに入れていたハンカチタオル
がない! 

地図を落とす、ハンカチを落とす、気がつかない集中力が
なくなってる・・・

これで「命」を落として、忘れたらどないする?

12時01分、大きな工場がいくつかある交差点にきた
コンビニや食事のできる店がいくつか目に入った。

喫茶店で軽食にしよう。

"たのもう!" 

とドアを開けるとわが国の人ではない二人の若い女性が
にっこり笑って迎えてくれた白人さんと南米系か、かた
ことの日本語で、こっちもかたこと日本語で。
期待したご飯系やスパゲッティはなくて・・・よわった
なあたったひとつのハンバーガーがなかなか出てこない
まいった。

その間、気さくなご主人が相手をしてくれた
このあたりはスズキやヤマハなどの本社や工場群があり
そこで働く人たちが大勢いるために、ここに食事処が集
中しているとのこと店に入ってくるのは、外国人ばかり
言葉も日本語はなしそういえば、三河からこちらは、外
国人が多い、多分、南米系なんだろう自分の住んでいる
関西ではあまり見かけないそうか、みんな、工場に働き
にきているんだ。

ジュピロのホームスタジアムが500メートルのところ
にあるそうなので心を動かされたが、コース外の往復1
キロ、暑いので断念。

12時45分、午後のスタート。
しばらくすすむとこんもりとした森が見えてきた、あっ
大日山だ。
上洛を目指す武田信玄と迎え撃つ徳川家康とが闘った大
日堂の古戦場なるほど、小高い戦場跡に立つと、周囲が
見渡せて、敵の動きを探るには格好の場所、なんだか合
戦前の静けさみたいでぞっとした、早く行こう。


ここはまた、鎌倉街道など七つの街道が集まっていた三
ケ野の七つ道で交通の要衝でもあったらしい。

坂道を下りて刈り入れ前の田園をみながら松並木をまっ
すぐにすすむ。

13時を過ぎ、暑さも厳しいとき、この時間帯が自分の
一番気をつけたい赤信号時間帯。
あたりは刈り入れ前の田園、影のない道は容赦なく照り
つける。
太田川手前のシャッターの下りた食道らしき軒先でしば
らく休憩をとる。


少しすすむと太田川にかかる三ケ野橋、このあたりから
1号線を歩くことになったが、騒々しい見どころもない
単調な時間で一番しんどいときだった。

急ぐこともないから、日影になるところがあれば、軒先
でも、路地でも休むしっかりと呼吸を整えて、心拍数を
120以内に戻して、水補給はかかさず一歩一歩しっかりと
着地して歩いた。幸いに足に疲れはない。

もう、掛川市から袋井市に入っているのだろう。

木原の交差点で1号線から左へはいってしばらくすすむ
と木原畷の古戦場後のある許禰神社前へ、ここも武田信
玄と徳川家康の因縁の場だ。


元亀3年(1572)、久野城をせめた信玄はここ木原に陣を
はり、浜松城を守る家康と衝突、木原の戦いのあった場
所だ。13時50分。
神社入り口わきに家康の腰かけ石が残されていた。

しばらくすすみ再び騒々しい1号線に合流、ここにはコン
ビニとかファーストフードとか会社、工場等が混在している。

コーヒー休憩も考えたが、時間を考えるとここで長居をす
ると後に影響してくることが予想されたので、川井交差点
で1号線から右のコースにすすむ。

「東海道まんなか西小学校」まえを通過、中川橋(御幸橋)
のふもとにある53次公園で休憩、このあたりが袋井宿の入
口だったらしい、14時25分になった。


ここから袋井宿に入って行く、ここ袋井は、27番目の宿
場、江戸から、京都から、ちょうど真ん中になるので、や
たらと、東海道のまん中という表示の看板がやたらと目立
つ、こんなに宿場町をPRしてるところがあったかなあ・・・

そして「東海道どまんなか茶屋」へ14時55分到着。


ここは雑誌などでよく紹介されているボランティアのお年
寄りが東海道を歩く人達の憩いの場として設けている店だ。

書物でみたことのある人の顔もある、しばらく話をさせても
らう。

その間、多分東海道歩きの人と思われる人、3人が入ってき
たがすぐに行ってしまった、ここは、来てもすぐ行くそうだ。

自分のようにのんびりと歩いている者は少ないのかなあ・・・

アイスクリームを食べながらしばらく休憩をさせてもらう
長野から車で来たというお年寄りが気持よく写真を撮ってく
れた。


空があやしくなってきた、時々、雷が聞こえてきた

地図を確認していると若い男性がのぞきこんできて、ふたつ
目の角の日産はなくなっているとアドバイスしてくれて
おまけに、そこまで案内をすると言って先導してくれた
わずか100メートルほどだったが、その親切がうれしかった。

もし聞いていなかったら日産を探してうろうろしていたに
違いない。

松並木に入ったとたんに大きな雷とともに猛烈な夕立が襲っ
てきた!

わー、えらいことや!

これにはまいった、逃げ場がない、少し走って行くとラッキー
東海道松並木を説明した小さな屋根つきの立て看板があった
のでそこにくっつくようにして雨をさけるそれでも、リュック
ははみ出て濡れるし足もとも濡れる、困ったなあ。


しばらくすると手や足がかゆくて痛い
まさかと思ったら蚊だ!
どっちが先客かしらないが
自分だけではない、蚊も雨宿りしていたのだ
こいつにはまいった、耳元でぶぶんと脅しにかかる
こちらがどうやら餌の標的になったのだ、かゆい、痛い
仕方なしに屋根の小さな道路側の表に回ってみると

天からの恵み、なんと、女性用の日傘が・・・

神様、仏様、傘様・・・・ありがたい

さっそく借りて、蚊から逃げるためにも雨の中を歩く

こうしてすばらして袋井の松並木も傘をさして歩き続けた


東海道どまん中東小学校の前にある久津部一里塚を過ぎ
日蓮上人の両親の墓がある妙日寺へ寄る
このあたりでやっと雨は小ぶりになった。

袋井の松並木をすすむと赤い大きな鳥居の富士浅間宮赤鳥居
の前に着くここでしばらく休憩をする、16時26分。


原野谷川の同心橋をわたり地下道のある交差点に出る
ここで迷った。

地図では、少しすすんで道路向こう角に駄菓子屋があるという
そのさらに100メートルくらいのところに信号がありそこを渡
るようになっていたのですすむが橋の上に出てしまった。

間違っている、元の地下道まで帰ろう、地下道のよこの信号の
ところで地図を確認していると自転車に乗った男性が、どちら
までと声をかけてきた。

ありがたい、わけを話すと丁寧に教えてくれた。

これからすすむ掛川松並木の保存のボランティアをしいてる
と言っていた。

信号が変わったのでその人の写真が撮れなかったが40代くらいか
その親切がうれしかった。
ここにきて、濡れて、疲れた体は、たとえわずかな迷い道のロス
でも気分的にダメージになる、ありがとう。

夕闇せまる掛川の松並木は管理が行き届いていてとても気持ち
よく歩くことができた。


途中の松にBOXがかけられ記録を書き込めるノートがに入って
いたのであの男性へのお礼を書き込んでおいた、読んでくれる
かなあ・・・。

垂水川を渡り、東名高速道路をくぐり、国道1号線もくぐり、
薄暗くなった東海道を一路掛川市内へすすむ。

大池の交差点、もう、暗い、角にあるらしい大池一里塚をさが
してもみつからない、角の1か所が更地になっているのでそこ
にあったのだろうか。何度も交差点を行ったり来たりしたが、
さすがに諦めた、車はどんどん通過するが人はいなくて聞くこ
ともできなかった。

こういうことが心残り、二度とこないんだから。くやしいが通過。

西掛川駅前を通過、大池橋を渡る・・・18時1分。もう、暗い。
しばらく1号線をすすみ二瀬川交差点を右へ入り九十九首塚に寄
って暗くなった掛川の商店街に入った。

せっかくだから掛川城のライトアップへ行くことにしてコースを
はずれて掛川城へよった。
城はきれいにライトアップされていたが、デジカメでうまく撮れ
なかった。

明日の朝、もう一度来ることにして回り道になったが、掛川駅前
のホテルへ
コンビニで夕食と缶ビールと明日の朝食とおやつを買って
命も落とさず、忘れずに、ホテルに着いたのが18時58分。

あー、疲れた、よく歩いたなあ・・・。

  初日  40,736 歩  28.5キロ

東海道五十三次ウォーキング⑭新居宿-舞坂宿→浜松宿 ⑮浜松宿→見付宿

2008-07-29 19:21:43 | 東海道五十三次
猛暑の中を一泊二日で東海道五十三次ウォークに行ってきた。

27日(日)新居宿→舞阪宿→浜松宿 35,576歩 24.9キロ  浜松34.9度
28日(月)浜松宿→見付宿(磐田市) 37.013歩 25.9キロ 

27日(日)新居宿→舞阪宿→浜松宿
暑かった、暑かった、とにかく、めちゃくちゃ暑かった、
タオル二枚でも汗におっつかなかった。
ズボンをのぞいて靴下からすべて替え着を持参していたので
なんとかなったが、サウナ状態だった。

新兵器のアイスネットは20分で乾いたが、助かった。
初めて経験したのは道路からの照り返しであごと鼻が暑くなること。
昼過ぎの一番暑い時間帯は喫茶店で休ませてもらった。
歩いていたら間違いなく熱中症になっていたろう。

浜名湖を渡ったが、いい気分だった。
いつもは新幹線から眺めていたのに、この日は、新幹線を眺めた。


舞坂の松並木がきれいに保存されていて見事だった。
コースの大半が国道沿いで車が多くてやかましく、
道路を左右に移動することが多かったので神経を使った。
素敵な人との出会いもあった。


28日(月)浜松宿→見付宿(磐田市)
7時20分スタート、最初に浜松城に寄りましたが
もう、汗汗汗・・・このコースは、まったく日影のないコース
電柱の陰にへばりついて蝉をした。
本物の蝉が暑さにやられたのか道路に落ちてきて苦しんでいた。

この日のお楽しみは、なんといっても天竜川を渡ること。
天竜川の土手に出たとたんに台風並みの強風に砂塵、
あっという間のかみなり雨でずぶぬれ、神社に駆け込んで着替えし
時間待ちしていよいよ天竜川を渡る。感動した。

ここまで来て、一番の感動だった。
ここを昔は船で渡っていたと思うと命がけだったはず。
とにかく大きな川、淀川なんか比較にもならなかった。

写真を撮ってもらいたくて人の来るのをじっと待って
自転車のおじさんに撮ってもらった。思い出の一枚になる。



新天竜川大橋の上で、すぐ隣が天竜川大橋、ずっと下にかすかに
見えるのがJR東海道線の天竜川鉄橋。


小雨の中を濡れながら昔の渡し跡を訪ねてみたくなって
上流へさかのぼり跡の記念碑を発見、後半は、道が
わからなくてかなり行き過ぎたりして混乱、すんなりといかなくて
やっと16時前にラーメン店を発見しかなり遅い昼食。

近くの道路わきではるかのひまわりに会ったり・・・
二日目は、昼まではカンカン照りの猛暑、午後から雨の中の歩行で面喰った。

それでも、目標とした17時ゴールの4分分前に
磐田駅にゴールできて、やった!。
Jリーグジュピロ磐田のホーム磐田市、駅前にマスコット人形が
お出迎え、ジュピロの町だった。次回はここからスタートする。

二日目は、余分なところまで行ったり、まよったりで、通常の
距離を大幅に超えた。二日間で50キロ、あの暑さで歩いてくれた
自分の足に惚れた。

帰路は、青春18キップで。17時12分の豊橋行きに乗車
豊橋から岐阜大垣まで特別快速で、大垣から米原まで各停で
米原から新快速で22時22分新大阪着、5時間10分の旅
東京・新大阪往復したようなものでこれも体力がいった。

自分の歩力が、まだ、東海道で通ずることを実感しましたので
これなら、お江戸にたどりつけそうな気がしてきた。

東海道五十三次ウォーキング(赤坂-御油-吉田-二川-白須賀-新居)

2008-05-19 23:25:07 | 東海道五十三次
予定通り17日、18日にお泊り東海道五十三次ひとり歩きを楽しんできた。

初めてのお泊り東海道、トラブルもなくご期待の珍道中もなく無事に
生還できてほっとしている。

コースは、初日が
 「赤坂宿」→「御油宿」(愛知県豊川市)→「吉田宿」(豊橋市)
二日目
 「吉田宿」→「二川宿」(豊橋市)→静岡県「白須賀宿」(湖西市)→「新居宿」(新居町)

初日17日は、6時前に自宅を出て新大阪6時39分の東海道線で
米原、大垣を経由して名古屋へ、名鉄に乗り換えて名電赤坂に着
いたのが11時12分4時間33分の電車の旅。名鉄にはお世話
になったが今回で最終回となった。

前回ゴールの赤坂宿紅里交差点を11時25分にスタート。
ここ赤坂と次の御油は「遊女」の多かった宿場で有名で旅籠の客
引きが激しかったところらしい。広重の絵にもその場面が描かれている。

お互いに旅人の宿泊客争いをしていたらしい。
それを楽しみにした旅人と、たぶらかされないように女たちを「赤狐」
と呼んで用心をした旅人がいたそうだ。なんでも弥次喜多さんも狐に
たぶらかされたとか・・・。

後油は、天然記念物に指定されている旧東海道随一といわれている
松並木が続いているがこれは見事なものだ。359本、一本一本に
番号札がつけられている。
これまでの藤川、知立の松並木も立派だったが、御油はうっそうとし
た松並木の雰囲気が街道そのもの、昼食も並木のそばで食べた。


後油から豊橋市へ向かう。

この道中は、そんなに見どころはないが、途中で「姫街道」という東海道の回り道として浜松あたりまで浜名湖を迂回する街道があったが、その入り口にも行ってみた。
姫街道には、いろいろ説があるが、新居宿での女性の調べがきつかったので遠回りをした女性が多かったらしく姫街道と言ったとか・・・。


弥生時代の遺跡、瓜郷遺跡や親子の悲哀物語の子だか橋を渡り聖眼寺前では、年配の男性から"定年後のお楽しみですか"と話しかけられた。
一番いやな話だが、とても気さくな人で豊橋の話をしてくれた。
写真も気安く撮ってくれた。

豊橋の真ん中を流れる豊川が見えるところでベンチに腰かけてのん
びりと休憩時間は、計画してきた通りで、ずっと、うまくすすんで
楽な歩きができた余裕。それにしても豊川は大きな川だ。

あとから、その豊川にかかる豊橋を渡るのだが
「豊川→とよがわ」、「豊橋→とよばし」と濁って読むことが橋に
かかれたかなでわかった。それならなんで「とよばし市」にしない
んだろう?

豊川を渡り豊橋市の吉田宿に入ると、道標がしっかりとあって歩き
やすい豊橋市が旧東海道の保存に熱心であることがとてもわかる。
道も広くてきれいで迷うこともなく吉田本陣跡にもすぐに発見できた。
有名な鰻やさんの店先に碑がたてられていたのですぐわかった。


オプションで訪れた吉田城跡公園は規模と言い、雰囲気と言いすば
らしい公園。それに路面電車が走っており電車ファンにとってはこ
れは楽しい豊橋時間も予定通りで初日は文句なしのいい一日だった。

そして、待ちに待ったマイフレンドのヒデさんとの対面となった。
ホテルにわざわざ訪ねて下さった。ご婦人が同伴だったので驚いた
が静岡県のウォーキング仲間だと紹介されて二度びっくり。
食事も一緒にさせていただいた。

ヒデさん、やさしい、会話も上手、お仕事は難しい内容だ
自営だそうで、熱気が感じられる現役バリバリだ。

ぜひ、案内したいとヒデさんに連れられていかれた店にまた驚いた。
豊橋でひとりで食事するなら"ここだ"と決めてヒデさんに会う前に
ちゃんと写真まで撮っていた店だったからだ。

店の名は「きく宗」、東海道名物の「菜飯田楽」を食べさせてくれる
店だが実は、滋賀県の日川でも菜飯田楽が旅の人の名物と聞いて
いたので吉田宿でそれを食べることになったのだからラッキーという
他ない。

菜っぱ(大根の葉)で炊いたご飯と豆腐の田楽だけのシンプルな料
理だが、これが人気メニュー、この店も老舗らしい。

食事をしながら話が三人で弾んだ。いい出会いだった。

ホテルに戻って、休憩がてらテレビドラマをみて
二日目の資料の下調べとコースと時間配分をしていたら深夜1時半
あわてて床につく。

二日目、ねむい、7時のスタート予定を40分おくらせて7時40分に
ホテルを出てコースに入る。
今日のスタートは「吉田本陣跡」、あの鰻やさんの店前からだ。
通りには人影はない。
食事は途中のマクドナルドと決めたのでしばらくは、腹ぺこ・・・
と言ってもほしくはない。

この日の楽しみ三大目標(楽しみ)は

①二川宿本陣資料館
②白須賀宿潮見峠からの遠州灘の眺め
③新居宿資料館

コースとしてはかなりハード、標準は20キロだが、事前の下調べで
コースの近辺にある史跡名所、神社仏閣は見ておきたいのでその分
も含めて26-28キロくらいと予測、迷えばその分が増える。
初めての一日三宿巡りだから道標さがしに写真撮りでフルに動くことになりそう。

昨日の足の疲れはなし。大丈夫だ。
空はくもり、かぜかるので蒸し暑さは感じないが気温は上がるという。

二日目の一番の問題は新居宿資料館の見学時間に間に合うかどう
かだが無理と決めつけるとそういう歩きをするので、間に合わせ
てやろうと思ってそのための歩き方で1時間ごとの時間を地図上
の目的地に書きこんだがすでに40分遅れのスタートで算数がや
やこしい。

帰りの電車は、18時6分のJR新居発大垣行きに乗り、乗りつい
で22時過ぎに新大阪へ戻ってくると最終案の変更はしない。

吉田宿から二川宿までが長い。
早朝はまだ身体が十分に起きていないし無理は禁物とぺースダウ
ンだがついつい40分遅れが気になってしまう。マクドナルドシ
ョップに行くまでにデニーズがあったのでコーヒートーストの軽
食ですませた。

二川に行く前にやや高いコースの上りに差し掛かったので道端で
心拍数のチェック。そして自販機で水の買出し?

お金を入れると

 "まいど!”

 そして

 "おおきに!"

 なに???

 ここは三河・・・

 ”おい、自販機君、あんた、大阪から転勤してきたんか?”

  ???

 "しっかり働くんやで!"
  
  と言うたら

 "おっちゃんも、しっかり歩きや!""

  と言われたような気がした。
  まさか・・・

気をとりなおして歩道のない車道が続く下り道をおりきると二川宿へ
JR二川駅前のベンチに腰かけていると
おばあちゃんにつれられた女の子が、”あっ鯉のぼり”と背中を指差
したので顔見てにっこり笑ってやったら笑ってこたえてくれた。
かわゆいなあ。

おっちやんと行こうか!

おいおい、危ない!

このあたりはJRと新幹線が並行して走っている。
ひっきりなしに新幹線が通る。JRはこないなあ。

期待の二川宿本陣資料館は、予想していた以上の充実した内容と
規模とで通りすがりの見学ではもったいなかった。
旧東海道のことを知りたかったらここがいい、できることなら、一日
ノート書きして帰りたいくらいだ。


この二川宿にもっとも多く泊まった大名はだれか宿帳があった。

黒田藩の大名だ、確か56回だったか・・・
その次が、島津藩の28回、まさか篤姫は?いや、もしかして。

自分のこの東海道五十三次歩きが多分34日くらいになると思われ
るがあの人たちは何日で歩いたのか、その何倍かの距離を何千人と
いう人間を従いて参勤交代を続けたのか、いまでも信じられない。
いろいろなことを思いつつ40分ほどで次のコースへ急ぐ。

東海道五十三次に関することを学ぶならここは推薦したい。
当時の本陣と旅籠内部の一部が再現されている。

二川の通りは、いまなお、古い格子窓の家が多く連なっているいい
雰囲気だ。

二川から白須賀宿へは一号線を約4キロ、周囲は畑、道路は車
午後の気温の高いかんかん照りの炎天下をただひたすらに歩くのみ。

その道に入るとき、向こうから来る男性に声をかけたら
やっぱり東京からの五十三次歩きの男性、気さくな人で
今日は、新居から吉田までという。
自分とまったく逆だ、情報交換して別れた。
具からメモ帳と鉛筆をぶらさげて・・・・うーん、勉強方の人だ
歳は同じくらい、膝を痛めて一年ぶりに歩いていると言っていた。

二川で買っていた弁当を一号線の信号横の畑に座り込んで食べて
いると車が止まるたびにこっちを見られている。

こんな時は、パフォーマンス!

大きな口をあけて、おいしそうに、食べるんだ! 

どうだ、ほしいか「手鍋親子重」だ。うまい!

でも、玉ねぎ畑のにおいがきついなあ。
このあたりは、たまねぎとじやがいも畑が続く。

途中の小さな境川が、愛知県と静岡県の県境、豊橋市から湖西市へ

とうとう、あこがれの遠江の国だ。

いきなり標識の地名が静岡県になった。あたりまえやけど。
落ち着いた白須賀宿だ。

白須賀宿は、落ち着いた静かな町だ
宿場の跡を残すたたずまいはすくないので碑ばかりを探す
行きすぎてもどったり、ここは、意外と苦戦した。

もともと海べりにあった宿だが、何度もの地震や大津波で壊滅的な
被害を受けたためにいまの高台に移転したという。

その宿から潮見坂へ、ここの展望台から遠州灘が見えた
打ち寄せる波が白く見えるのがわかる・・・感動だ!

二年前に熊野古道で、和歌山県海南市の藤白峠から初めて太平洋
をみたときの感動がよみがえった

海・・・・夢が広がる。いいなあ。

京都からスタートして1年1ケ月、13日目でやっと海の見える
ところへ来た。

狭い展望台にいた先客の男性にあいさつしたが
声が返ってこなかったのでそれ以上はやめた。

ここで心拍数のチェック。水の補給。
着替えをしたかったが近くに男女の乗った車が止まっていたので
足の軽いマッサージをしてスタート。

14時40分。
ずっと40分スタート遅れの時間を取り戻そうと歩いてきたが
ほとんど差は縮まっていない。
展望台の案内板に示されていた時間で新居宿には16時にとても
行けそうにないのでどうするか。

足の疲れはさほどなし。新居宿までコース外の見どころへは寄ら
ないことにしてスピードアップしてみることにした。

ここから一気に急な坂道をふもとの元の白須賀宿へ下りて行く。

途中で自転車を押して上がってきた2人の中学生が
こんにちは、と挨拶をしてくれた。気持ちがいい。

下におりて白須賀の松並木、ここは気に入った。
道の片面だけの松並木なのだが、周辺が明るくて視界が広くて
風もよく通って歩きやすく、どんどんも遅れた時間が取り戻せ
てきた。

ここでも向こうから来た男性に声をかけたら東京から
日帰りという、二川まで行くといっていたが、きついなあ・・
写真を頼んだら心安く引き受けてもらった

お互いに気をつけて!で別れた
二度と会うことはない人と二度と来ることはない場所で
わずかな気持ちの共有がなぜかうれしい。
ヤンキースの帽子をかぶった東の人 お元気で、!

左側は山、右側が畑、その向こうに防風林が続いている。
その向こうは海だ。でも、松で見えない。

新居に入り古い街道を本宿跡、一里塚・・・等を探して
16時15分、予定より15分の遅れで新居関所跡に着く。
受付終了15分前だ。


あー、間に合った!

300円、もう、見学者はだれもいない。


その時の受付の人が後から話しかけて来てくれることになるのだが。

この関所を通過しないことには、お江戸行きはここで終わる。

200円で「通行手形」を買い、「証明書」に印を押して無事通過!


万歳! ばんざい!バンザーイ!


鉄砲がある弓もある、脅しの槍もある
ここの取り調べはことのほか、厳しかったらしい。

とくに女性の出をチェックするための調べはきつかったそうだ
それと鉄砲の入りを阻止するための調べも重要な任務だった。

5時で閉館、外に出てベンチに座っていると
受付のおじさんが、話しかけてきてしばらく話をした

この人も定年退職組、ボランティアガイドをしているという。
東海道も半分ほど歩いているということだった。

短い時間だったが、とても、いい話ができた。

JR新居駅に17時20分、予定の6時8分まで時間があるので
ご褒美の缶ビール、キリンさんの一番さんを人のいない駅の
ベンチで飲みながら、しばし二日間の楽しかった余韻に浸った。

そして、ここからが長い帰り道が始まった。

新居→大垣・乗り換え  大垣→米原・乗り換え  米原→新大阪 
22時18分新大阪着。4時間10分。やっぱりつかれた。

今回で53番からスタートして31番の新居宿まで来た。まだ30宿ある。
距離も全コースの半分まで23キロある。遠い。これからだ。

今回も、いろいろな人のお世話になった。
後半は海岸に近いところだったからか風が強くて背中の鯉のぼりも
元気よく泳いで励ましてくれた。
そして足も、くつもしっかり歩いてくれた。感謝だ。
また、道中、励ましメールも二本もらった。

みんなに励ましてもらって歩ける楽しさ、喜びは格別だ。

次回は、新居宿から浜名湖を渡って舞坂、浜松まで。

うれしい応援団!

2008-04-25 00:43:04 | 東海道五十三次
少し前のことになるが、4月13日(日)の誕生日にうれしい
プレゼントがあった。

実は、あるシューズメーカーが運営しているウォーカー対象の
サイトで交流を続けているが、その仲間の一人が自分の「東海道五
十三次ひとり歩き」を応援してやろうと応援団を呼びかけ
コミュニティまで用意してくれた。

せっかくの申し出なので、ありがたくお受けすることにしたら
すでに10人の会員が応援隊に登録をしてくれた。
そのことでこれからの計画を変更したり、特別なことをするつもりは
ないが、期待にこたえなければ申し訳ないので、やはり、責任みたい
なことは感じている。


以下は、その文面。

江戸を目指して、東海道五十三次ひとり歩きのてくてく旅を続けています。
ランドセルさんの今後の歩行予定(ランドセルさんが書き込みます)
とランドセルさんへの応援メッセージを受け付け、ゴールまでの残り
2年をみんなで後押しします。

どしどしコミュニティに参加してください。

ランドセルさんの歩行予定を見て、一日だけでも、一宿分だけでも、
途中の数キロだけでも一緒に歩ける人、とりあえず通過を沿道から
応援できる人も書き込みお願いします。

『でも、ランドセルさん、応援に来る予定の人がドタキャンで居なくて
も落ち込まずに歩いてね。』



息子訪ねて500キロ 東海道五十三次ウォーク⑩知立→岡崎

2008-04-02 22:44:23 | 東海道五十三次
きのう4月1日
東海道五十三次ウォーク、シリーズ10回目
三河の「知立宿」(愛知県知立市)から「岡崎宿」(岡崎市)まで
ひとり歩きをしてきた。

新大阪駅を7時8分の東海道線新快速電車で米原駅へ
米原からJR東海に乗り換え関ヶ原を超え岐阜県の大垣駅へ
ここで乗り換え名古屋駅へ

この時期、この路線も青春18きっぷを利用する元青春18のおじさん、おばさん、
学生さんでいっぱい、大垣からは身動きのとれないすし詰め、すわれない。

名古屋から名鉄に乗り換え目的地前回ゴールの牛田駅についたのが10時半過ぎ。

駅前でストレッチして、まず前回訪れていた来迎寺の一里塚へ


ここでコースをはずれ在原業平のゆかりの寺でかきつばたの有名な無量寿寺へ

このあたりの東海道は松並木が残っていてとても気持ちよく歩ける
うれしくて仕方がない。
通り過ぎるのが惜しくてもったいなくて・・・振り返りながら
道路を右へ左へと渡りながらデジカメで撮り続ける。


このあたりの並木の松は、なんでも樹齢は200年から250年くらいらしい。

倒れかかるように傾いた松だが元気いっぱいだ

幹にさわりたくなって(みんな男松だと思うのでセクハラじゃないな)


お疲れ様! とそっとなでたら

 ありがとう! と言ってくれたような

長生きしてネ!と言ったら

 ありがとう、あんたもな!

と言われたような気がした。


安城市のJAの店に入って弁当を探したら
「あさりと山菜弁当」が目についた。

よっくんさんと親子ウォーカーさんの日記に「あさり」の話があったので
今日はこれにきめた、ついでにあげたてにつられて「串焼き二本」を買い
さにらに出口でついでのついでに「鯛焼き」の匂いにつられて一個買い
豪華な昼食になるぞと近くの道路わきのベンチへ。12時5分。

先客のおばさんが声をかけてきた
72歳で5年前に痴呆と糖尿のご主人を亡くしたとのこと。

 あなたは優しそうだから・・・(人にはそう言われるけど実は大違い)

この言葉で逃げられなくなった!

ひとりはさむい! というおばさんにつきあってちょうど1時間
まあ、おばさんの人生を聞かせてもらった。

途中で断って山菜弁当たべ、冷えてしまった串焼きたべても話はおわらない。
実は、ここで費やした時間が後半にひびいてくるのだ。

自分とはそんなに違わない年齢なのに母の話だと思って聞き続けたが
先のこともあるので心の中で

”おばさん、かんにん、先を急ぎますので” と立ち上がってお別れした。

 ”奥さんを大事に、一人になったらさむいですよ”

じーんときた。 お達者で!

1時5分、さあー 急げ、ここからが日頃鍛えた快歩の見せどころだ!

安城市とわかれて岡崎市へ

交通量の激しい1号線にそって家康公ゆかりの城下町岡崎を目指す

浄瑠璃姫でおなじみの誓願寺を目指すがどうやら道を間違えたらしい

ゲートボールをしていた男性に尋ねたら見事な説明をしてくれた
道を尋ねられると心がけている説明のポイントがあるがこの男性は上手。

地図を見ながら歩いていると魚屋さんから奥さんらしき人が走るように
出てきて向こうから声をかけてきた。

魚光本店の方だ

東海道を歩く人がよく通るらしくて案内も心得たものだ。

今日の1枚の写真撮影を頼んだら(プロフィールの写真)
向かいの神社がいいとそこまで案内をして撮ってくれた。


心からねぎらいの言葉をかけていただきずっと見送ってくれた。

何度も振り返り手をふり・・・・この人とも一期一会。

撮った奥さんの写真はお送りします!(住所も聞いた)

今日もいろいろな人に道を尋ねたが、ほんとうに愛知県の人は親切だ。
思えば、これまでも街道のどこでも親切にしてもらってきた。
日本人は、みんなやさしい、親切なんだ、これから静岡、神奈川、
東京へと続くが、きっと、多くの人の優しさと親切に助けられるだろう。

岡崎への入口、矢作川をわたると八丁味噌でおなじみの八丁通りへ、
ここは「ちりとてちん」」のロケもあったらしい。


太田八丁味噌店見学。
なんと見学バスが何台も止まっていた。

ここでスタンプを押していると小学生の姉妹らしいおねえちゃんのほうから
プロフィールに持っている東海道五十三次の文字を見て

 わーすごい! と声をかけられた。

京都から東京まで歩いているよと話したら

今日、京都から歩いてきたんですか?とお姉ちゃんのほうが聞いてきた

やっぱり小学生や。

道中、出会う人に”すごいですネ”とよくいわれるが
本人は、ちっともそんな風に思っていない。

「なぜ歩こうと思ったか」と聞かれることもある

東京にいる息子に会いたくて
三年間も息子を思い続けて歩くのが楽しい
何も残すものはないから
せめて親父の元気な姿を見せたくて
それが親父から息子へのプレゼント
親父のやっている姿が、息子の励みになればよし

息子訪ねて500キロ 
東海道五十三次ひとり歩き

だと説明している。

東海道のコースからははずれるが岡崎にきて
家康公ゆかりの岡崎城に寄らないのは失礼と

時間的には予定のコースが回りきれなくなるのは仕方ないと
納得して城へ足を延ばした。

聞いてはいたが桜がほんとうに美しい城だ
西日に映える見事な満開の桜に圧倒された。


岡崎城は徳川家康生誕の城だ

「神君出生の城」として江戸時代は神聖されたそうだ。


城を出て元の東海道へ戻ったのでかなり時間が経過した。

ここからいよいよ有名な「岡崎二十七曲がり」の道をすすむ

城下町特有の外敵の侵入を防ぐために城内に入る道を
複雑にしていたのだ。
これまでも三重県の城下町亀山宿がそうだった。

手持ちの地図が古くて簡単なものだから
曲がり角の連続に四苦八苦。
曲がり角にある標識を探して行くのだ。

目印の材木屋がない!
銭湯がない!
橋が工事中で名前がわからない!
・・・・・
標識が止められた車でふさがれている!
街路樹が茂ってみえない!

ここでも何人の人に聞いたやら・・・
むしろ地元の人でも知らないくらい。

えーとまっすぐ行くとNTT・・・前に郵便局・・
商工会議所の資料館?
サラリーマン風の人に聞いてもわからない

おかしいなあ・・・
あれ?

ここはさっきのところや!
なんや、元に戻ってきてる!

なんでやねん!

ひとりでぶつぶつ言ふてると人が振り返る。

おい、そこのねこちゃん

おっちゃん、くたびれたわ!
遭難食のあんパンやるから案内しておくれ!

ニャーオ!

しっかりしろ!と言うてるみたいだった。

こんな時、あの助っ人クンがほしい。
親子ウォーカーさんの息子さんや、楽しく歩くだろうに!と。

まあ、こんな時が一番面白い
まるで「すごろくウォーク」や。
そしてなんとか小さな地域をうろうろうろうろ・・・抜け出した。

岡崎宿西本陣跡を今日のゴールとして

後半部分の残っている「岡崎二十七曲がり」は
次回の楽しみに残すことにして
名鉄東岡崎駅へ。

ホームの駅名の写真を撮る間もないくらい来た急行電車に
あわてて乗った。

ここから、また、長い帰り旅の始まり。
電車は勤め帰りの人、学生でいっぱい。

JR名古屋駅18時30分の米原域に乗車
勤め帰りの人たちで混雑した電車に
リュック姿で乗っている自分が申し訳なくて
なんだかズル休みしている感じがしたのは
まだ現役であることの自覚か?

名鉄名古屋→JR名古屋→米原→新大阪 21時半すぎ帰着。

本日の交通費 JR 2,300円(青春18きっぷ)名鉄 1,140円
歩いた正味時間 約6時間半  電車移動時間 約7時間半
歩数 約34,000歩  距離 約23キロ

東海道五十三次ウォーク3年計画の1年目67歳の東海道五十三次を今回で終了。
(67歳でスタート70歳の誕生日にゴール)
53番大津宿から38番の岡崎宿まで歩いた。予定は36番の赤坂宿までだったが
問題はない。まだ2年、37番から1番まで楽しめる。
来年の桜は、東海道のどこで迎えるやら・・・・

次回から68歳の東海道五十三次が続く。

初詣、初ウォーク!東海道五十三次ウォーキング⑧(宮-鳴海)

2008-01-05 23:29:58 | 東海道五十三次
今年の初詣は
「熱田さん」で!
と決めていたので
元旦からどこの神社にも
初詣に行かなかった。

足の状態もよくなってきたので
足の復活の祈願と
東海道五十三次の再開とで
名古屋まで遠征してきた。


この時期
もちろん青春18切符
昨日金銭ショップで手配できたので
往復2500円の格安旅行。
(現地の私鉄プラス)

ただし、遠いぞ・・・

新大阪→京都→米原 JR西日本新快速
米原乗り換え 
米原→大垣→岐阜→名古屋 JR東海特別快速(この区間座れず)

名古屋から名鉄名古屋線で神宮前下車

初めての熱田神宮
大変な初詣の人、人、人・・・。
人の流れでちゃんと神宮へ連れていかれた。

ここでまず母のこと、家族のこと、自分のこと・・
賽銭の中身には厚かましいほどの祈願をして
母のお守りを買うのにまたひと苦労。


幸い、神社から
東海道五十三次のスタート「宮宿」が
近いところにあるので
そちらへ移動。

前回の桑名で
七里の渡し跡でゴールをしたが
昔の旅人は
桑名の七里の渡しと
こちら宮の渡しとの間を
七里の船旅をして
行き来したのだ。


その宮の渡し跡の公園で
気になる人がいたので声をかけて
撮影を頼んだことから
しばし楽しい会話が続いた。

1月4日となっているのは単純なミスで5日。

その人に
”物好きな人ですね”
と何度も言われて???

”自分でもそう思っていますが人から言われたのは初めてです”
というたら、自分もそうだと笑っていた。

物好きな人に物好きな人と言われたのだから
これ本物や!

映画会社の人で
かなりの人らしいということは
想像できたが時間がないので
失礼した。

戻ってきて
貰った名刺でインターネット検索をして
びっくりした。

いまは、名古屋のM座にきていると言っていたが。

この人のことは、また、別に日に。


宮の七里の渡しを11時ちょうどにスタート
今日は、足に無理をさせられないので
最短の区間だけにして
次の鳴海まで。

もし
状態がよければ
鳴海の少し先の有松まで。

時間かあれば
桶狭間の合戦跡までと
下調べは用意して歩いてみた。

歩いていなかったので
筋肉痛はずっとあったが
スローウォークを心がけたので
痛んだ膝の部分は大丈夫だった。

鳴海宿は町が開発されていて
みるべきものはほとんどなかったが

笠寺の一里塚、名古屋市に残っているたった一つの一里塚。

有松は
逆に
昔の面影が保存され
濃く残っていていい雰囲気だった。


桶狭間には自重して行かなかったが
満足の初ウォークができて
ほっとしている。

午後六時過ぎに事務所へ戻ってこられたので
さほどの疲れもなかった。

そうそう
昼食は
ずっと歩きながら探し続けた

「味噌煮込みうどん」
それもデラックスと豪華版!
980円、おいしくて身体も温まった。


今日のまとめは、少しずつしていこう。

東海道五十三次ウォーキング⑥(石薬師-四日市)

2007-10-31 15:56:48 | 東海道五十三次
東海道五十三次ウォークの第六回「石薬師→四日市」を
きのう歩いてきた。天気がよくて、東海道をのんびり、ゆっ
りとひとり歩きが楽しめた。

ただし、スタートではつまづいた。土日と平日の時間を間
違えたために新大阪のJRスタート時間から少しずつ狂っ
た。東海道線から草津線の接続でおくれ、草津線から関
西線の接続の柘植駅ではなんと1時間近く待ち時間が発
生。駅前のたった一軒の店がコーヒーショップ、ここでコー
ヒータイムをする羽目になった。
亀山行きに乗車。


秋の車窓から・・・関西線柘植・加太間


加太駅を通過。


亀山駅で名古屋行き乗り換え。


新大阪駅を7時20分に乗ったのに現地、関西線加佐登駅
に着いたのは11時。新大阪でわずか8分前に乗車しておれ
ば2時間半ですんだのだが・・・これも懐かしい思い出に
なればいい。

58日ぶりの前回ゴールのJR東海加佐登駅からさあ出発!


駅から東海道へ、ここは国道一号線にそって東海道が
あるのでそちらへ移動していく。車の往来の激しい一号
線に出る、407.5東京からの距離表示。
しばらくすすんで取り入れのすんだ田んぼ道を右に左に
複雑にすすむ。このあたりがわかりにくいところ。




最初の目的地「石薬師の一里塚跡」へ。緩やかな坂道
を上りきったところにあるのが、遠くからでもわかった。



(28日となっているのはその日を予定して作成していた)

石薬師は、歌人の佐々木信綱の出身地で、この一里塚
から町を貫く東海道を東海道石薬師宿「信綱かるた道」
として36の句が道にそって掲示されているのをたどりな
がら進んでいくのだ。



途中にある「石薬師寺」は奈良時代に創建されたもので
佐々木信綱や西行や一休、芭蕉の句碑が境内にあると
ても緑の多い落ち着いたお寺だ。


芭蕉の句碑。”春なれや名もなき山の薄霞”


お寺から道路反対側を少し入っていくと源頼朝の弟、範
頼を祀る「御曹司社」があり


そこから右へ入ると範頼が戦勝を祈願して立てた鞭から
生えたといわれる桜で「蒲桜」、逆桜とも言われる桜と
信綱の歌碑がある。


かるた道をすすむと「信綱の資料館」と「生家」の前につく。
資料館の人が、わざわざ生家へ案内してくださり昔のまま
が保存されている生家の中をみせてもらうことができた。


すずりも筆も巻紙もそのままに・・・


うかつにも、唱歌「うの花」の作詞が佐々木信綱であるこ
とを知らなかった。


生家の庭にも資料館の前にも「うの花」の木?が植えら
れていた。一本100円でも売られていたぞ。

そこから少し行くとこのあたりが石薬師宿の中心だったの
だろうか、ひときわ大きな家がある。
ここが「小沢本陣跡」。明治時代に建て替えられたものだ
そうだが中には貴重な宿帳や貴重品が保存されているら
しい。宿帳には、浅野内匠頭や大岡越前守の名前もある
そうだ。少し行くと信綱ゆかりの大木神社に行く。


北町の延命地蔵さん、ここでおそい弁当を食べる。近くで
休憩わしていたサラリーマン風の中年の男性に話しかけ
たら・・・これが大失敗。この人、仏壇のセールスマンとや
ら、あれやこれとこれから行く四日市の説明をしてくれる
のはいいが、グルメ情報だの自分の仕事のこちだの・・・
弁当たべさせてくれい!12時58分。




信綱かるた道のスタート 一番
「四日市の時雨蛤、日永の長餅の家土産まつと父を待ちにき」




鈴鹿市の石薬師を過ぎて国道一号線にそって歩くと四日
市市に入る。13時36分、一号線の道路標識。


ガソリンスタンドの一角に「采女の一里塚跡」があるがこれ
がなかなか見つからなくて行ったり来たりしてようやく発見。
まさかガソリンスタンドの看板の下にあるとは・・・

少しすすんで国道一号線を横切りななめに緩やかな上り
をすすむとはるか左下前方に四日市の市街地が見えてき
た。やっと関西圏から東海地区へ来たと実感。13時57分。
左が国道一号線、右の道を登っていく・・杖衝坂へ。


坂を上りきったところに「血塚社」がある。日本武尊が坂
で怪我をして足から流した血を封じたところという。


緩やかな上り道から今度は急な下り坂になった。
ここが「杖衝坂・・つえつき坂」という。
日本武尊が剣を杖がわりにして越えたと言われのある急
な坂。
芭蕉も江戸から故郷の伊賀へ帰る途中、馬でここにさし
かかったが、急な坂道のために馬から落ちたそうで、その
時に詠んだ句碑がある。

「芭蕉の句碑」”歩行ならば杖つき坂を落馬かな”


幸か不幸か、自分はこの坂を下っていくほうだから楽だ。
東から西へ向かう人にはきつい坂だったに違いない。


「杖衝坂」道標。


しばらくすすみ内部川をすぎ近鉄線を渡ると国道一号線
旧東海道と伊勢参宮道の分岐点のある小さな緑地帯に
出る。
ここには神水がわき、今日も遠くから車できたという女性
が大きなペットボトル数本に水を汲んでいた。飲んでみた
が冷たくておいしかった。ここには、常夜灯と道標がある。


松並木に残った一本の松の気が遠くから見えてきた。
「東海道名残の一本松」と説明板に書かれている。
昔、このあたりは土手で家はなかったらしい。東海道の
道幅は約5.5メートルで現在も変わっていないそうだ。

すぐ近くで立ち話をしていた80は過ぎていたと思われる
2人のおばあさんと顔があったら、ご苦労さんですね!
ここで立ち去ってはいけない、しばらく話をする。
近鉄四日市駅までどれくらいかかるかと聞いたら、お宅
なら半時間もかからんでしょうと言われたので、予定しの
4時36分には乗れるなと安心。15時12分だ。
・・ところがそんなもんやなかった!


そのすぐ近くに「日永の一里塚跡」があるというが、いくら
探しても見つからない。4人目のおばあさんに聞いたら、お
寺の近くにあるという。
行ってみたがない。時間は気になるし、同じところを三度と
通って倉庫と民家の間に立っている碑をやって見つけた!
あった!と思わず大きな声が出た。諦めないでよかった!
ここで思わぬ時間をとってしまう。
15時32分になっていた。松の木から50メートルもない距離
なのにちょうど20分もかかったことになる。急がないと!




あとは、ゴールの近鉄四日市駅をめざすだけ。
浜田城跡も次回にまわすとして急ぐ。


駅前の大通りに辿りついたので、そこに建てられていた
「東海道400周年年記念」碑を今回のゴール地点とし
て、次回はここからスタートすることにした。16時12分。


近鉄四日市駅


16時36分の快速急行に乗る。中川で大阪なんば行き
に乗り換えて19時21分に戻ってきた。大阪なんば行
きの特急なら直行で早いし本数も多いが、ウォークに来
て特急に乗るのは抵抗あり。
しんどくても急行でよし、その代わりわずかな待ち時間に
駅で缶ビールひとり乾杯!よく歩いた!


歩いた時間よりも電車に乗っていた時間が長かった。
歩数 約24,000 
次回は、四日市から桑名までだ。

東海道五十三次ウォーキング⑤(関-亀山-庄野)

2007-09-03 21:43:44 | 東海道五十三次
旧東海道五十三次ウォークのシリーズ第5回、三重県亀山市
関宿から鈴鹿市庄野宿までひとり歩きをしてきた。

三重県の降水確率が70%であることは承知の上で行ったが
さすがに終日の霧雨、小雨には疲れた。

かさもカッパもリュックの中にちゃんと用意していたが
ウォーキングに似つかわしくないと、かさは強い雨のときだけ
あとは、濡れながら終日歩き通した。

出発は午前7時21分にJR新大阪駅、2度の乗継で三重県
の関へ。途中、鈴鹿の山々が雨雲にかすんでみえるのを車
窓から見ながらせっかく来たのだから中止することなく少しで
も歩こうとスタートの関の駅頭に立った。午前9時14分。


関は霧雨、夏休み最後の日曜日、多くの人が訪れると思っ
ていたが、駅前に人はまったく人がいないのに驚いた。
歩き始めるとうろうろとあたりを見渡している二人連れが目
に入った。東京から東海道を関まで歩いてきたという中年の
カップル、夫婦だろう。

”私もこれから行きますのでそこまで一緒に行きましょう”と案
内した。
こちらは、西の追分へ、その人たちは東から西へだから東の
追分へ。


西の追分に至る新所の通りも誰も通っていない。早朝だった
からかもしれないが、映画のセットを見ているようだった。


西の追分からスタート、新所の通り、メインの中町の通りを
ゆっくりと歩き、東の追分へ木崎の通りへすすむ。

地蔵院(国重要文化財)天平13年-741-行基菩薩の開創。
本堂・鐘楼・愛染堂が重要文化財に指定されている。


旅館会津屋 関宿を代表する旅籠のひとつ、二階に洋風の
窓がついた洋風屋は珍しい建物だ。


橋爪家 江戸時代の初めから両替商を営んだ豪商、道に面
して三角形の屋根があるユニークな建物。


伊藤本陣跡 関宿には伊藤、川北の二本陣があった。現在
残っているこの建物は、本陣の店部分、川北本陣は、石碑
が残るのみ、本陣の門は、近くの延命寺の山門に移築され
ている。


鶴屋 会津屋、玉屋とともに関を代表する旅籠で江戸時代は
脇本陣もつとめた。


玉屋 関を代表する大旅籠のひとつ、江戸時代に建てられた
貴重な旅籠建築に当時の道具類や資料を展示、江戸時代の
旅籠を再現している。かごも展示してある。


東の追分へ。実は、前回、ここまで来ていた。

東の追分から次の亀山宿をめざしてちょうど10時30に歩き
始める。関で時間をとりすぎたが、12時半に亀山の中心に
行っていたい。これから2時間後だ。
雨もほとんど上がった。これならねむしろ道は歩きやすい。

しばらく歩くと大岡畷跡の桜並木、雨あがりの緑の道は気持
ちがいい。


さらに進むと向こうからおばさん達の一団がきたので黙って
通り過ぎることができない性分がここでも出てしまう。

”こんにちは!今日はどちらまで?” と声をかけると

愛想のいい反応が返ってきて、そこで一気に盛り上がる。

東京のおばちゃんたち、月2回、1年で完歩するというグル
ープだ。日本橋からここまで来たというのだからおそれ入る。

証拠写真を撮ってもらおうとお願いしたら一緒の記念撮影に
なった。このグループ、あとから続いて20名くらいいた。


やっぱり江戸弁は、歯切れがよくてあってええなあ・・

その後も、途中で男性グルーブにも会ったし、男女カップル
二組にもあった。東海道を歩いている人は多いんだ。

しばらく歩くと大きな木が前方に見えてきた。野村一里塚
だ。これまで見てきた一里塚では際立って大きい。


亀山に近づいてくるとまた雨が落ちてきた。
宿場の雰囲気が目の前に現れてきた。道が色分けされてい
るのが珍しい。


坂道を竜川にかかる京口坂橋をわたると左に亀山宿の西端
にある京口門跡。


古い町並みの一戸一戸に木の札がかけられ、そこに元の屋
号の名前が書き込まれている。


町並み保存分科会というプロジェクトができて宿場の賑わい
を復活させたいということだ。

この木札は、進んでいく道路沿いにずっとかけられていた。

雨がかなり降ってきたが、コースから離れた亀山城跡へ行く。
時間は予定通り。


ただし、ベンチは雨でぬれ、弁当を食べる場所がない。
ここだけ少し雨宿りしながら仕方なくカサも使って歩いた。


亀山の雰囲気が気に入った、先を急ぐので今回は、さらりと
歩くが、再度、訪れてみたい。

小ぶりだが雨に濡れながらどんどんすすむ。
ローソクでおなじみの亀山ローソクの前を通り和田の一里塚
を過ぎる頃から、すっかり郊外の雰囲気になった。

JR井田川駅前を14時43分に通過、雨もふり続く。
ここから歩道のない曲がり道が続き、往来する車に緊張の連
続。安楽川にかかる和泉橋を渡りきったところにある川俣神
社で雨宿りしやっと昼食の弁当を食べた。
時間は3時を過ぎた。ここで、今日は、石薬師まで行かないで
次の庄野宿で切り上げることにする。

亀山市から鈴鹿市の庄野へ。

庄野は、古い街並みに往時の面影はあるものの本陣跡の石
碑がある程度で、他の説明板もほとんど字が読み取れない
ほどに放置され意外な感じがした。


そう言えば、一週間前に庄野宿、石薬師宿への地図または
資料がほしくて鈴鹿市のホームページをたどると観光協会
へリンクされていたので電話したがつながらず、問い合わせ
先と記載されていたメールに依頼記事を送信しておいたが、
今日までなんの連絡もない。

鈴鹿市の姿勢がここに見えた。

熊野古道でも琵琶湖一周でも所属する自治体によって力の
入れ方が違うことはわかっているが、鈴鹿市にはがっかりし
た。次の石薬師はどうなんだろうか。

ただ、一か所、庄野宿資料館の女性担当の方は、訪問した
のが4時を過ぎたばかり、閉館だったらしいが、丁寧に応対
してくれた。




ここからは、帰りの最寄駅のJR関西線加佐登駅に急ぐだけ。
調べていた時間表を確認しょうとしたらその用紙がない。
忘れてきたことに気がついた。さあ大変!

かすかな記憶をたどって4時18分がうまく接続する時刻だろ
うと思って急いで加佐登駅に14分到着。

ところがなんと11分だった。

あー、出たばっかりや、また、置き去りにされた!

と大きな声で言うたら改札の外にいたいた人たちの視線が
????

そや、ここは、名古屋圏や、関西と違う。

「名古屋」行き電車、ここはJR東海。


次の電車は、5時3分。

ご褒美の缶ビールでもと思っても、駅前見渡してもどこにも
見当たらない。
ホームに出て、階段の陰で持ってきた着替えをした。
やっと、生き返った心境だった。 びっしょり濡れていた。

やっと5時3分の亀山行きに乗る。しかし、亀山駅で乗り継
ぎ時間が、なんと30分もある。
暗くなった駅の売店で缶ビールを買ってひとりでご褒美した。

やっときた電車は1両。そのすしずめ電車で柘植駅へ。
草津線に乗り換え、ダッシュしてやっと座席を確保した。
草津で新快速に乗り新大阪着が7時54分。

いったい、どれだけかかったのやら ・・・

ああー、ちかれたの1日になった。
万歩計は35000、たいして歩いてはいなかった。

前回も大雨にあった。
やっぱり、あの鈴鹿あたりは多雨なところなんだろう。

次回は、今回ゴールの加佐登駅がスタート、四日市宿まで
歩く予定。

東海道五十三次をウォーキング③(石部→土山)

2007-07-18 20:42:51 | 東海道五十三次
昔の人は、東海道を12日から15日で歩いていたそうだ。
一日にすると約40キロ、十里くらいだろうか・・・それにしても大変な距離だ。

道の事情や、衣服、履きもの、食べ物等の条件は、いまとは比較にならないほど悪かっただろう、しかも、歩き続けるのだから大変な難歩行だったに違いない。

その東海道五十三次を三年計画で、4月に京都三条大橋から、東京日本橋をめざして歩き始めたが、完歩に要する日数は28日前後を想定している。その半分の日数で昔の人は歩いたというのだから、いかに健脚であったかということだ。比較にもならない。

その東海道五十三次シリーズ第4回を祭日の16日に歩いてきた。

今回のコースは、石部から水口を経て土山まで(いずれも滋賀県)、それぞれ石部宿、水口宿、土山宿があるところだ。

5月にゴールした石部宿道の辺広場(石部中央交差点)を8時30分にスタート。


宿場町の風情の残る早朝の石部の街道を歩く。日の丸が掲げてある旧家が続く。

古い街並みの残る街道をどんどんすすむ。歩道のない道、車に神経をつかいながら歩く。花の手入れをしていたご婦人が”おはようございます”と声をかけてくれた。とても気持ちがいい。
落合橋の手前にあるという石部宿東口跡を探すがないので、草刈りをしていたお父さん軍団に聞いてみた。二人三人と寄ってくるが、結局誰も知らない。
”気をつけて”という声をもらって先を急ぐ。長い距離になるので、早朝に距離を歩いておきたい、ここは、ピッチを上げる。

やがて右側、北島酒造の前に来た。個人的なことだが、普段から、ここ造り酒屋北島酒造のお酒を愛飲している。鈴鹿山系の水を使っているらしいここのお酒はうまい!どうしても見ておきたかった。なるほど、とても風格のある作り酒屋さんだ。このあとも銘酒造り酒屋さんの前を通り写真に収めているが、今回はこちらだけということでお許しを!



川底が道路より高い天井川になっている由良谷川の下のトンネルを通りぬける。


夏目の一里塚で最初の休憩。昨日までの雨で湿度は高く、首にまいたタオルももう汗を含む。今日は、水分補給を十分にすること。

しばらく歩き、また天井川の大沙川のトンネルをくぐる。堤防に樹齢750年という弘法杉の老木がそびえている。弘法大師が通りかかったとき、景色がよくてこの場所で昼食をとり、その時に使った杉の箸を堤防に差し込んだら、のちに成長して大杉になったという伝えのある杉。


さらにすすむ、いつのまにか曇り空、田園風景を楽しみながらどんどんすすむ。
JR三雲駅をすぎ野洲川にかかる横田橋をわたる。


湖南市から甲賀市に入る。野洲川にそって1キロくらいか、ひときわ目立つ横田の常夜灯が見えてきた。ここは、かって横田の渡しがあったところ。常夜灯は遠くからでも旅人の目印になるように10.5メートルの高さがあり、東海道でも最大級のものだそうな。

横田の渡しの常夜灯

野洲川、かっては、このあたりを横田川といったらしく、ここに渡しがあった。当時の石段の一部も残っている。ここで休憩。予定時間より早い到着で、5時にゴールという目処がついた。・・・あとから雨に遭うとは想像もできなかった。


泉川をわたると泉一里塚があり、広い道に出ると、そこからは、道は一直線に伸びている。選挙もまじか。ポスターも至るところに貼られているが、この日、まったく選挙カーには出会わなかった。


街道の名残の松並木があちこちに残っている。ただ、道を拡張したり整備したりして、どうやら、ほとんどの松並木は消滅したらしい。


予定より30分も早く昼食場所と予定していた水口の五十鈴神社に到着した。一角に林口一理塚があった。ここで、ゲートボール帰りのおばさん達としばし談笑。どうやら、ひとり歩きのこのじじいに興味をもったらしい。
こういうことも、ひとりウォークの楽しみの一つ。やっぱり女性の会話力はたいしたもんだ。いろいろと話しかけてくる。楽しい。一人でさびしくないかと盛んに聞かれる。”男は、一週間、黙っていてもなんともないんですよ”というたら、”女性は、しゃべり相手がないと楽しくない”と言い返してきた。そうだろう! 神社の鳥居の横で昼食。


時間に余裕があったので、予定していなかった水口城跡へ足を伸ばした。自然の湧水の堀をめぐらせた城で、別名「湧水城」というこの城は、三代将軍家光が上洛する際の宿館として築いた将軍家専用のもの。周辺を散策して元の道へ、ここで、ほぼ、本来予定していた時間になった。


近江鉄道を渡ると正面にからくり時計のある三筋につきあたり、真中をすすむ、ここが旧東海道。いまは、アーケードの商店街になっているが、往時を偲ぶ古い建物も多い。


問屋場跡・・この碑に書かれていること→【問屋場】は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。水口宿では、江戸中期以来はここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人になり、運営にあたりました。


水口本陣跡の碑・碑文から この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。本陣とは大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設でこれわ補助するものとしては脇本陣があり、水口宿ではその両方が宿の東部の昨坂町にありました。本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋に許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。


水口宿の町並みをすすむ。


さらに進むと脇本陣跡、ここは、そのまま個人の家として使われている。


国道一号線を横切りすすむと水口宿東見付けにつきあたる。東見付(江戸口)跡という碑が立っている。
【見付け】とは、城郭の門など、外と接し警備を行う場所と書いてある。この地が水口宿の東端、すなわち江戸口となっていた。水口藩が成立し城下町になったので東西に警備所として見付が設置されたようだ。

ここを右に急な坂を下っていく。このあたりから、しばらくは、上り下りの道が続く。いよいよ空模様があやしくなってきた。
道の向い側を反対から来る男性がいるが、地図を盛んに見ているので声をかけなかった。リュックもなしの軽装なので遠くからの人ではないのかなあ・・


しばらく静かな街道をどんどんすすむ。今郷一理塚の前にきた。石碑は、選挙看板でふさがれていて撮れない。お役所仕事はこんなもん、ちょっと横に立てればいくらでもスペースはあるのに。



再び一号線と合流する地点に水口宿の石碑が立っている。とうとう、ぱらぱらと雨が降ってきた。ここで振られても、どこにも雨宿りするところはない。足は大丈夫だが、ついついペースが落ちてくる。クラブで行くと、交代しながらだれかが、ペースメーカーとなって歩くのだが、一人で歩く時は、そこがむずかしい。全体の進み具合と、次の目的地までの距離と時間を設定して、大きくタイムオーバーしないように、しかも、見どころは押さえていかないといけない。写真も撮りたい。忙しい。ついつい、行きすぎて諦めることになる。
右手には「デジカメ」、左手に「地図」


しばらくは、田園の道が続く。かんかん照りも困るが雨はもっと困る。

茅葺屋根の旅籠・東屋跡


名産の土山茶畑


国道一号線を歩道橋で横切ると、ここからの道は、ずっと旅籠跡の石碑が続く。その数はいくらになるやら・・・ここらで雨足が激しくなり軒先で雨宿りしながら、少しずつすすむ。店はないし、もちろんコンビニなどありはしない。
写真を撮りたいし、雨は気になるし・・・道の両側が旅籠跡ばかりだから、写真を撮っていると進まない。


明治天皇聖蹟碑、旅籠跡の続く海道にひときわ大きな碑が立っている。明治天皇の行幸碑はあちこちで見かけた。


東海道五十三次ひとり歩きの証明写真。倉庫の軒先で30分ほど雨宿り、小雨になったので通りかがった男性に撮ってもらった今回たった一枚の証明?写真。


小雨になったのでまた歩き始める。とにかく急ぐ、まだまだ土山宿の中心、本陣跡までは距離がある。足も今が一番しんどいとき。


しばらくすすむと夕立のような雨になってきた。とても歩ける状態ではない。運がよかったのは、ちょうど野洲川にかかる自転車歩道専用橋が目の前、ここは、橋に屋根がかかっていてここで20分の雨宿り、さびしい何もないところだ。


雨の国道一号線をすすむ。東京から441.5キロ地点。これから歩く距離だ。


写真を撮ってくれた男性が、国道一号線に出るとコンビニがあると教えてくれていたのでカサを求めてコンビニや、どこや!と進んで見つけたコンビニは、なんと、閉鎖していた!こらっ、こらこらこらー!

国道から右の街道をすすむ、ここは、両側の至るところに旅籠の碑が続く、一般の家にも、元旅籠○○屋という標識が付けられている。
その数から想像しても、土山宿の規模の大きさには驚いた。






大黒橋に書かれた鈴鹿馬子唄の絵

  坂はてるてる 鈴鹿はくもる あいの土山雨が降る

土山陣屋跡・・【陣屋】とは、代官、その他の役人が在住した屋敷のこと。


高札場跡【高札場】とは・・幕府が発した法令などを記した「高札」を掲示した場所のこと。人の目につきやすいところに設置した。


大黒屋本陣跡・問屋場跡【問屋場】とは・・宿の公用を行う事務所のこと。仕事は、幕府の公用旅行者のための人足や馬や宿泊所の手配をしたり飛脚の管理をしていた。


土山宿本陣跡

土山宿本陣は、宝永11年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際に設けられた。本陣は、当時の大名、旗本、公家、勅使が宿泊したもので、屋内には現在でも当時の使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁になり、土山宿に宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇行幸の際には、この本陣でで誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒が下賜され、今なお土山の誇りとして語り継がれている。本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治3年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。(説明板を抜粋)

土山宿問屋場跡

問屋場は、公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所て、宿の管理を司る問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や荷物を振り分ける場指・人足指らの役人が詰めていた。土山宿の問屋場は、時代とともに場所を移り変わってきた。宿駅廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。。(説明板を抜粋)

二階本陣跡


雨上がりの土山宿町並み、どこまでもこのような街並みが続き、まるで映画のセットのような感覚になりながら歩いた。


旅籠平野屋には、森鴎外も泊まった。


来見川にかかる来見橋に描かれた東海道の絵





雨も上がったし、ゴールはもうまじかのはずだ。


あいの土山・道の駅が見えてきた。ゴールはその向かいの田村神社。




午後5時37分に田村神社にゴール!


予定より少し遅れたが、雨に足止めされながらよく歩いた。

 歩数 約47,000歩   距離 約34キロ

☆交通経路 往路 JR新大阪→草津乗り換え→石部
      復路 あいくるバス田村神社前→JR貴生川→草津乗り換え→新大阪

☆この日、新潟でまた地震災害が発生した。亡くなられた方にはお悔やみを、災害に遭われた皆様には、お見舞い申し上げます。