青春18きっぷの旅 第3日 8月6日
○広島へ移動して原爆記念日、慰霊碑にお参りするのが3日目
の目的 7時23分、小倉駅発→下関乗り換え→岩国乗り換え
→広島で途中下車15時54分広島発→岡山乗換→姫路乗換→
22時4分新大阪駅へ帰着。
今回の2泊3日の青春18の旅は、最終日の3日目を広島原爆
記念日にヒロシマの地に立つことを目的に逆算して日程を組んだ。
広島生まれで広島育ちのDNA、この日は県人として特別の日だ。
久しく6日の記念日に慰霊碑を訪れていないので、ここ数年、ぜ
ひ、訪れておきたいと思っていたが、やっと実現することになった。
あれから63年目、5歳だったあの日のことは、はっきりと覚え
ている。
広島に着く、久しぶりに駅前に立つ、広島も暑い!
まず「広島焼き・広島魂」で昼食。
広島駅から平和公園の慰霊碑、原爆ドームまで往復を歩くこと
にしたあの日、被爆した人たちのことを思えば、今日だけは電
車やバスには乗るまい、今日の広島は、あの日同様に猛烈な
暑さ、それでも歩こう。
暑い道を自分のいのちの歌「ひろしま平和のうた」を口ずさみ
ながら歩く 原爆投下直下の爆心地、島外科病院前に行き、平
和公園へすすむ。
島外科病院前の「爆心地」の碑に書かれていることは
・・テニアン島から飛来した米軍機B-29「エノラ・ゲイ号」
によって
人類史上最初に使用された原子爆弾は、この上空約580メー
トルでさく烈しました。爆心直下となったこの一帯は、約3,000
度~4,000度の熱線と爆風や放射線を受けほとんどの人びとが
瞬時にその生命を奪われました。
時に1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分のことでした。
大勢の人が訪れている、とにかく外国人が多い
日本人はどうなのか
ヒロシマ、ナガサキを訪れたことがあるのだろうか?
埼玉県原水協の幟をもった人たちもいた。
最初に平和公園の平和の鐘の前にたたずんだ。
公園のいたるところに人だかりがしている
被爆体験の語り部さんを取り巻くようにして話を聞いているのだ。
おなじみの原爆の子の像の前へ、沢山の折鶴がかけられて
いる自分も高校生のころ、活動をしていたなあ・・・
神様、私達に愛と平和を創り出す力を!!
佐々木禎子さんの詩を朗読している人たち、それを聞いて
いる人たち思いはひとつ、平和だ。
美空ひばりさんは昭和49年に広島平和祭で歌った
「一本のエンピツがあったら」という曲の中で
一本のエンピツがあったら・・・いのちと書く
一本のエンピツがあったら・・・戦争はいやだと書く
と歌った。
公園内をめぐりながら慰霊碑の前に立った
そこから元安川に沿って歩いた
あの日、熱さから逃れるために、水がほしくてこの川に殺到
した人たちはそのまま命とともに流された。
原爆ドームをぐるり一周して思い切りたくさんの写真を撮った
息子からわが家系にずっと語り継ぎ残しておくものとして記録
するためだ。
さあ、帰ろう・・・
市電の通りに出た
原爆ドームと電車通りをはさんで広島市民球場がある
ここは広島カープのホーム球場、しかし来年は広島駅近くに
新球場が完成するために今年で歴史を閉じる。
広島カープは、親会社を持たない市民、県民球団として歩ん
できた原爆で廃墟と化した広島の人々に野球で元気と勇気を
与えようと創設された広島カープはどこの商業球団とも違う
大きな使命を持って誕生したチームだった。
だから最初から広島と言う地名を入れて変わることはない。
何度も経営難に陥りながら、そのたびに市民、県民がバック
アップ
して球団名わ変えることなく広島カープであり続けたことは
カープファンの誇りなのだ。
路面電車が走っている、これも広島の楽しみの一つだ。
さすがに往復して両ほほが直射日光で暑かった
日焼け止めも塗らなかった
アイスメッとも使わなかった
とてもそんな気にもならなかった。
自宅にもどり、頬と首筋が熱をもったのか暑くて痛くて眠れなかった
あの日、熱線を受けた人たちの思いが自分にも伝わったのだろう・・・
それならいいと思う。
こうして2泊3日の2008、夏の青春18きっぷの旅、第一章は終わった。
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