田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

合唱とはしんどいものです

2012年03月31日 10時32分48秒 | 愛・LOVE・友 
私の加わっている混声合唱団(勿論素人の集まり)は、4月に創立10周年を迎え、震災のチャリティコンサートを行うことになり、目下、週一の猛練習中である。ド素人だった私が団に加わったのは[気楽に歌って]という勧誘にその気になったからである。そして6年が過ぎた。その間、一年半ばかり抜けた時期があったが、まあ大体、月二回の練習に参加している。不思議なもので、普段はおさそいの文句の通り暇つぶしの娯楽で[気楽に]歌ってきたが、最近になって、[気楽]に歌っていてはだめだということを深い意味で知るところとなった。もとより演奏会で19曲も、ほとんど暗譜で歌わなければならないとあって、[気楽]な気持ちは完全に吹き飛んでいるが、別の意味の気楽さが生まれてこないとやっていられなくなるようなことにも気づいた。それがないと継続に支障があるからだ。
演奏日二週間前の今は「緊張」に支配されている。人に聞かせるということの意味を考えたとき、合唱とは、[気楽]でなんかあり得ないわけで、聞く人の心や気持ちにそって音楽をいかに届けるかという格闘そのものであることを知る。
聞く人に何を届けるのかということを考えたときに、まずなんと言っても、聴衆に見られているので、不快で見苦しい服装では興ざめであるということである。同じ歌であっても、どてら姿で歌う自己満足の鼻歌をとは訳が違う。酒に酔っ払ながら高歌放吟するカラオケもしかりだ。合唱とは、自己満足とは無縁の、一人一人の呼吸を合わせて発声を合わせ、あわよくば声を溶け合わせで皆さんが共通のイメージを描き、音にして集団的にこのイメージを視聴者に届けることであると思う。
特に演奏会での合唱は、これまで思ってもいなかったことだが、サービス精神で、自分を殺して演技をし、極端に集中力を高め、マ(間)を作り、聞いてくれる相手の耳目と時間を奪う極技に違いない。こんなことを考えている昨今であるが、練習の時に感じることは、それ以下のことであって、自分が歌いながら自分たちの表現が、曲が主張する詩のイメージ要求というか作詞者の現場感覚とうまく合っているのだろうかということである。最近分かってきたことであるが、指揮者が心に抱く詩と曲の調和したものを、発声によって(自分が楽器になって)表現しているということだ。良い声を出すには、歌う自分も詩を掘り下げて[読む]ことが重要なのではないかという単純なことをいままで気づいていなかったことを恥じる。(写真はブーレーズ)



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