昨夜、TV放送にて
映画 「幸せのちから」を観た。
実在の人物クリス・ガードナーの半生が基になっている。
1980年代のアメリカ
ホームレス生活の父子が
億万長者になるというお話。
……………
先日、徹子の部屋に
主演のウィル・スミスさんが
来ていて
新しい映画の話とともに
過去のいくつかの映画の話も
していた。
その中のひとつに
「幸せのちから」があり、
そのことを思い出したので
何となく見はじめた。
………………
次々と降りかかる災難に
ハラハラしながら
いつの間にか
最後まで観てしまった。
ラスト、
ラストを迎えていることにも
気付かないまま
主人公の苦労が
報われた瞬間に
思わず嗚咽が
止められないほど
泣いてしまった。
よく泣くけど、
声が出るのは珍しいこと。
…………………
その思いを共有したくて
検索してレビューを見てみたが
意外と不評なのも多くて
あれぇ~という感じだった。
ぽっつーん。。。。(∋_∈)
なんでだろう。
たぶん私の中の
スイッチが入っていたから
だろうな、と思った。
スイッチが入るとは、
自分の物語として
自分のことのように感じ
同じように
苦しんだり喜んだり出来る
感覚がもてた、ということなのだと思う。
当時の、
アメリカの、
社会の、
現実の細々したことは
私には分からない。
現実的に客観的に見ることは
今回に限りいえば
なかったと思う。
だからその辺のことは
まるで考えてはいない
というのが前提。
その上で
私のスイッチをいれたシーンは
ウィル・スミス演じる父親と
その子どもとのやりとり
だった。
生活がいよいよ苦しくなってきた中
バスケに夢中で
父親に相手をせがむ子ども。
ひとしきり相手をしてやるものの、
バスケばかりは
やっていられないと
父のたしなめる言葉に
ボールをしまう子ども。
その子に父が言ったのは
“誰もが無理だと言っても、(やりたいことは?)あきらめるな。
それが パパでも、だ ”
というような言葉。
録ってないので
微妙に違うかもしれないが、
だいたいそんなこと だったと思う。
なんだか昔、自分の父親に
似たようなこと言われたなあと
思ったのだ。
もっとも うちの場合は、
“親に反対されて あきらめるくらいのものなら やめておけ”
というものだったけれど。
ああ、
自分で 出来ないと 思って
やらなかったことが
いくつも いくつもあったなあと
思い出された。
そんなに簡単にあきらめるほど
難しいことだったのだろうか、
とか
はたまた、
簡単にあきらめられるくらいの
思いしか持っていなかった
自分って、どうなんだろう
とか振り返らずにはいられなかった。
人と比べることではないが、
ひどく自分が小さな世界の中で
うろうろしていたように思えて
何ともいえない気持ちになった。
………………
だから、
有り得ないくらいの逆境を
にわかには信じれないくらいの努力で
突き進んでいく主人公を
いつの間にか
心から応援していた。
大きな荷物を引きずりながら
毎日寝る場所を探し、
子どもを世話し、
セールスに奔走し、
証券会社の養成コースの
勉強を続ける。
何十人(?)の中で一人の
採用を勝ち取る結末に
現実味がない、とか
お金=幸せなのか、とか
色々 批評の声はあった。
そうかもしれない。
でも、そんなことは
どうでもいい。
そういえば、
生活苦に家を出た奥さんが、
旦那のやる無茶なことに
「どうでも いい」と言っていた。
私は別な意味で
それらの正しい(かもしれない)意見に対して
“私にとっては、どうでもいいのだ”
と言いたい思いが
膨らんでいっぱいになっていった。
こんな気持ちを
無かったことには出来ない。
正しくても そうでなくても、
あれだけ一生懸命になれることが羨ましく
でも、
まだ 自分には出来ることはあるはずだという
どこにも根拠のない希望が
湧いてくるようだった。
映画の解説にある
“サクセスストーリー”や“感動”
の言葉の方が
私には薄っぺらいものに思えた。
主人公が、みごと採用されたのは喜ばしいことだけど
それより
いつか彼が息子に言ったことを
身をもって示し、
そして叶ったことが
嬉しかった。
それこそ、子どもに
お金では買えない大事なものを
与えることが出来たのでは
ないだろうか。
どんな時でもあきらめず
生きていく力や 強い心。
私が思う、幸せのちから。
こればかりは
いくら頭で理解しても
持てるものではないと思う。
理屈を越えた、感覚のようなものだと思うから。
そしてそれは
感じる心が育つ子どもの時代にこそ
得ることができる
貴重な心の財産だと思うのだ。
最後、
思いがけず採用のことを聞かされた
ウィル・スミスの目が
みるみる赤くなったのを見たとき、はっとした。
彼は
ただ無茶苦茶に突っ走ってきただけでなく
色々な思いを抱え
背負ってきたんだろうなと
私には感じられ
彼に対して、
自分に対しての思いが
一気にあふれてしまった。
何か出来るはずだ
まだ 行ける。
どんなに無能な人間でも
心のちからはきっと
自分で思うよりずっと
大きなものなんだと
信じたい気持ちになった。
映画 「幸せのちから」を観た。
実在の人物クリス・ガードナーの半生が基になっている。
1980年代のアメリカ
ホームレス生活の父子が
億万長者になるというお話。
……………
先日、徹子の部屋に
主演のウィル・スミスさんが
来ていて
新しい映画の話とともに
過去のいくつかの映画の話も
していた。
その中のひとつに
「幸せのちから」があり、
そのことを思い出したので
何となく見はじめた。
………………
次々と降りかかる災難に
ハラハラしながら
いつの間にか
最後まで観てしまった。
ラスト、
ラストを迎えていることにも
気付かないまま
主人公の苦労が
報われた瞬間に
思わず嗚咽が
止められないほど
泣いてしまった。
よく泣くけど、
声が出るのは珍しいこと。
…………………
その思いを共有したくて
検索してレビューを見てみたが
意外と不評なのも多くて
あれぇ~という感じだった。
ぽっつーん。。。。(∋_∈)
なんでだろう。
たぶん私の中の
スイッチが入っていたから
だろうな、と思った。
スイッチが入るとは、
自分の物語として
自分のことのように感じ
同じように
苦しんだり喜んだり出来る
感覚がもてた、ということなのだと思う。
当時の、
アメリカの、
社会の、
現実の細々したことは
私には分からない。
現実的に客観的に見ることは
今回に限りいえば
なかったと思う。
だからその辺のことは
まるで考えてはいない
というのが前提。
その上で
私のスイッチをいれたシーンは
ウィル・スミス演じる父親と
その子どもとのやりとり
だった。
生活がいよいよ苦しくなってきた中
バスケに夢中で
父親に相手をせがむ子ども。
ひとしきり相手をしてやるものの、
バスケばかりは
やっていられないと
父のたしなめる言葉に
ボールをしまう子ども。
その子に父が言ったのは
“誰もが無理だと言っても、(やりたいことは?)あきらめるな。
それが パパでも、だ ”
というような言葉。
録ってないので
微妙に違うかもしれないが、
だいたいそんなこと だったと思う。
なんだか昔、自分の父親に
似たようなこと言われたなあと
思ったのだ。
もっとも うちの場合は、
“親に反対されて あきらめるくらいのものなら やめておけ”
というものだったけれど。
ああ、
自分で 出来ないと 思って
やらなかったことが
いくつも いくつもあったなあと
思い出された。
そんなに簡単にあきらめるほど
難しいことだったのだろうか、
とか
はたまた、
簡単にあきらめられるくらいの
思いしか持っていなかった
自分って、どうなんだろう
とか振り返らずにはいられなかった。
人と比べることではないが、
ひどく自分が小さな世界の中で
うろうろしていたように思えて
何ともいえない気持ちになった。
………………
だから、
有り得ないくらいの逆境を
にわかには信じれないくらいの努力で
突き進んでいく主人公を
いつの間にか
心から応援していた。
大きな荷物を引きずりながら
毎日寝る場所を探し、
子どもを世話し、
セールスに奔走し、
証券会社の養成コースの
勉強を続ける。
何十人(?)の中で一人の
採用を勝ち取る結末に
現実味がない、とか
お金=幸せなのか、とか
色々 批評の声はあった。
そうかもしれない。
でも、そんなことは
どうでもいい。
そういえば、
生活苦に家を出た奥さんが、
旦那のやる無茶なことに
「どうでも いい」と言っていた。
私は別な意味で
それらの正しい(かもしれない)意見に対して
“私にとっては、どうでもいいのだ”
と言いたい思いが
膨らんでいっぱいになっていった。
こんな気持ちを
無かったことには出来ない。
正しくても そうでなくても、
あれだけ一生懸命になれることが羨ましく
でも、
まだ 自分には出来ることはあるはずだという
どこにも根拠のない希望が
湧いてくるようだった。
映画の解説にある
“サクセスストーリー”や“感動”
の言葉の方が
私には薄っぺらいものに思えた。
主人公が、みごと採用されたのは喜ばしいことだけど
それより
いつか彼が息子に言ったことを
身をもって示し、
そして叶ったことが
嬉しかった。
それこそ、子どもに
お金では買えない大事なものを
与えることが出来たのでは
ないだろうか。
どんな時でもあきらめず
生きていく力や 強い心。
私が思う、幸せのちから。
こればかりは
いくら頭で理解しても
持てるものではないと思う。
理屈を越えた、感覚のようなものだと思うから。
そしてそれは
感じる心が育つ子どもの時代にこそ
得ることができる
貴重な心の財産だと思うのだ。
最後、
思いがけず採用のことを聞かされた
ウィル・スミスの目が
みるみる赤くなったのを見たとき、はっとした。
彼は
ただ無茶苦茶に突っ走ってきただけでなく
色々な思いを抱え
背負ってきたんだろうなと
私には感じられ
彼に対して、
自分に対しての思いが
一気にあふれてしまった。
何か出来るはずだ
まだ 行ける。
どんなに無能な人間でも
心のちからはきっと
自分で思うよりずっと
大きなものなんだと
信じたい気持ちになった。