☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

島津啓次郎は佐土原藩主・島津忠寛三男

2024-11-13 14:39:26 | 南洲墓地再見

当ブログへ初めてご訪問の皆さま、また日頃からお読みくださっている皆さま、ありがとうございます

 

☆ 今日は約2ヶ月ぶりの投稿です

 

FBFのFさんが、昨日南洲墓地を久しぶりに訪れたと投稿されていて、
そのアップ画像から「名越」姓のお二人のお墓を思い浮かべたのがきっかけで、
私も久しぶりにPCを開いて、過去の画像から探していくうちに、色々再発見・再考の時間となりました。

南洲墓地の配置図で確認する中で、島津啓次郎さんのお墓と名越姓のお二人のお墓の位置関係を測るうちに、島津啓次郎さんに関連する拙ブログ内の記事を読み直していました。

今日の画像は2018年3月30日に撮ったものです。
「名越」姓のお二人ではなく、
島津啓次郎さんのお墓です。

「島津啓次郎墓」




〈関連記事〉
㉑ 島津重豪の娘・敬姫
2022-07-21 12:50:03 | 福昌寺跡島津家墓地 2018


「5月2日 新橋松元屋から 京橋区加賀町へ宿替え 麻布永坂島津氏お染様の所へ」
2020-05-02 15:58:04 | 『都見物日記』



では、また近いうちに次回へ

※ 誤「敬次郎」→ 正「啓次郎」2024. 12. 03 訂正致しました

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曲水の宴、 なんて読む?

2024-09-12 00:19:33 | 日記
 当ブログへ初めてご訪問の皆さま、ようこそおいで下さいました。
また日頃からお読みくださっている皆さま、すっかりご無沙汰しております。
 
さて、先日の大河ドラマ『光る君へ』ですが、録画していたものを今日視聴していたところ、その中で「曲水の宴」の場面がありました。
 
実は視聴する前に「曲水の宴」についての仙巌園さんのFBでの投稿を目にしていたので、確認作業のようになりましたが、私のFBFの間でその読みがちょっとした話題になりました。
 
ご覧になっていた方はお気付きになられたでしょうが、「曲水の宴」を通常は「きょくすいのえん」と読むところを、ナレーションでも紀行でも「ごくすいのえん」と呼んでいたのです。
 
‥‥と、それについてはFBでも書いたのでここでは置いておいて
 (‥‥って、置いとくんかい!
 
「曲水の宴」を見に初めて行ったのはいつだったかな、と当ブログでチェックしてみました。
 
6年前の2018年の4月8日でした。
 
  ( 2018-04-30 19:07:33 ) カテゴリー|日記 
 
 
もっと前のことだったという感覚でしたので、意外でした。
 
まぁ、この6年間にはいろいろありましたからね
 
ということで、久しぶりの投稿はこの辺で
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祖父のもうひとりの妹・テウについて

2024-06-12 03:12:36 | 祖父・篤彦の妹たち
当ブログへ初めてご訪問の皆さま、また日頃からお読みくださっている皆さま、ありがとうございます

カテゴリ「祖父・篤彦の妹たち」については、今回が最終回です。

今回の妹は‥‥曽祖父の戸籍に記録が残っている「養女 テウ」についてです。

このテウさんについては、これまでに4件の記事で書いています。
 ☆関連記事は→こちら←をクリックすると表示されます


これまでの記事は、その時点ではわからなかったことや、その後にわかったことなど、様々な事柄と関連づけて書いたので少々煩雑になった感があります。

☆ここで今一度整理する意味でも改めて書いておきます。


曽祖父の除籍謄本に記載されている事柄として、

「養女 テウ 明治十六年十月廿四日生」
・明治十七年九月十二日 鹿児島縣日置郡石谷村 町田久成二女入籍ス 
・明治三十八年貳月十七日 鹿児島縣鹿児島郡伊敷村
     上伊敷三百七十三番戸戸主〇〇〇〇二男 佐八郎ト婚姻

ということで、除籍となっています。
数えの23(満で21歳)で結婚されています。

更には、「(曽祖父・轟の)孫 / 養女テウ  子」として明治三十六年拾弍月弍拾五日生(出生届は翌日の日付)の男子がいたようで、こちらは明治36年の出生届出日に「〇〇〇〇弟〇〇認知届出」
とあり、母親のテウさんとは別の姓のようです。

実はその子孫の方が市内在住であることは、以前、時成の子孫の内村氏からお聞きしていたのですが、私が一個人として先様に伺うのもどうかと思い、ご連絡を差し上げたこともお会いしたこともありません。

これに関連することを数年前のブログ記事に少しだけ書いたことはありましたが、ここではお名前は伏せておきます。

テウさん、戸籍上は祖父(明治十四年五月十六日生)のもうひとりの妹にあたるのだな、という思いを改めて感じるのでした。

 

以上、祖父の妹たちについて、でした。


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祖父の次妹・キサ

2024-06-06 13:05:00 | 祖父・篤彦の妹たち

当ブログへ初めてご訪問の皆さま、また日頃からお読みくださっている皆さま、ありがとうございます


投稿は先月26日以来になりますが、その2日前の夕刻、庭作業中ブヨにより右足首をやられて、翌日土曜日には赤く腫れてしまい、薬を塗って腫れは引いたものの、薬の成分が合わなかったのか塗布による後遺症なのか、赤班が出てしまい、結局は皮膚科で診てもらって薬を塗っていますが、未だに治りきっていません‥‥(-.-;)

気を取り直して、続きを書いていこうと思いますので、どうぞご笑覧ください。


今回は祖父の二人目の妹について、です。

前回の「ヤサ」さん(明治22年生まれ)の次に明治25年生まれの末弟がいますが、

その下にもう一人の妹がいます。

曽祖父の除籍謄本を見てみると、

「四女 キサ」とあります。明治27年生まれです。


ここで疑問

ヤサさんが曽祖父・轟の二女なのに次のキサさんが四女、ということは三女は?
仮に三女が夭逝したとして、戸籍に残らないことってあるのでしょうか?
今となっては調べる手立てもありませんが‥‥

さらによく見ればキサさんは「六月七日生まれ」、、、
奇しくも明日が誕生日だったようです!


以前の記事↓で画像右端に写っているのが祖父の次妹・キサです

画像は大正4年に台南の自宅庭で撮られたもののようです。

除籍謄本の記載なので、没年月日は分かりませんが、
父から聞いたことも併せて記してみます。
ーーーーーーーーーーーー

除籍謄本には「東京市牛込区〇〇 小田島 認 ト 婚姻届出   大正八年八月二十二日」
とあり、「同年九月貮日送付除籍」となっています。

前述の写真が撮られたのが大正4年、結婚はその4年後ということですね。
当時は曾祖父母や兄である祖父の家族らと一緒に台南で暮らしていたので、あちらで結婚したのだと思います。


父の話によると、この小田島認氏は陸軍軍人で
「台湾高雄、屏東在住」とメモに残しています。

さらに、長男・政義(ひとり息子)は大正7、8年生まれで
中央大学で水泳選手だったそう

戦時中、南方戦線で終戦、
戦後は吉野小学校か吉野中学校で先生として勤務

昭和27年、父が東京出張所勤務だった頃、その出張所で会ったきりだとのことでした。

その当時35〜36歳かでプラスチック関係の事業で企業を図るものの失敗したとか、
そんな話を聞いています。

ーーーーーーーーー
以上、話を聞きつつメモしたものを見ながら書きました。

次回は、祖父の「もうひとりの妹」について、です。



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祖父の長妹・ヤサ

2024-05-26 13:12:50 | 祖父・篤彦の妹たち
 ここまで、祖父の弟三人について書いてきましたが、末弟との間に二人の妹がいます。

そこで今回から、二人の妹(プラスα)について書きます。

まず、明治22年12月生まれの「ヤサ」さんです。
こちらも曽祖父の除籍謄本での情報のみです。

大正3年2月に「佐賀縣西松浦郡有田町〇〇 戸主渕上富四郎ト婚姻」とあります。

情報は以上です。

ですが、父の話として、戦後、鹿児島市名山堀で末の叔父とその息子(父の従弟)が有田焼きなどの陶食器を仕入れて商売をしていた、と聞いています。
☆ 関連記事→『名山堀散策2』

その際にこの叔母が住む有田で仕入れていた、ということのようです。

「ヤサ」さんについてはこれで全てです。
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祖父の三弟・恒吉(ツネ)

2024-05-26 12:52:00 | 祖父・篤彦の弟たち

当ブログへ初めてご訪問の皆さま、また日頃からお読みくださっている皆さま、ありがとうございます

・前回、前々回に続き、祖父の弟について書きます。

・祖父の3番目の弟の名は「恒吉」です。

  ただ読みは「つねきち」なのか「つねよし」なのかは分かりません。

  父が言うには祖父は「ツネ」と呼んでいたそうなのです。

・この「ツネ」さんは曽祖父・轟の四男として明治20年7月に生まれました。

・恒吉さんについては曽祖父の除籍謄本に記された情報のみしかありません。

「昭和五年八月三十一日夜 愛知縣名古屋市南區熱田〇〇二於イテ死亡」とあり、届出人は長兄である祖父の篤彦です。

ただ祖父は昭和5年には台湾在住ですので、連絡を受けて日本本土に戻り手続き・引き取りをしたのかな?と思います。どこにお墓があるのかなどは全くわかりません。

明治20年7月生まれで昭和5年8月には43歳

死因も分かりませんが、早くに亡くなったようです。


祖父の弟は四人いましたが、明治25年生まれの末弟の上に、妹が戸籍上には3名いますので、次回からは妹たちについて書こうと思います。



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祖父の次弟・汀

2024-05-21 15:53:00 | 祖父・篤彦の弟たち

前回に続き、祖父の弟たちについて少しだけ書いてみます。

 

今日は祖父の次弟・汀、です。

父によると、祖父は次弟を「ミギ」と言っていたと話していました。

正しい読みは分かりません。

 

この方は前回紹介した敏雄さんと二歳違いで明治18年3月生まれ。祖父・篤彦とは四歳違いです。

 情報は除籍謄本のみです。

 

一時期、川上久良の養子となっていたようです。

汀さんからすると、川上久良は伯母・川上イサの長男であり、従兄です。

明治29年7月に下荒田町・川上久良養子となりますが、

明治38年11月初めに「協議離縁」

 

その後大正8年には橋口ミネさんと結婚。

ミネさんは長崎市の「橋口乙四郎妹」とあり、婚姻届は横浜市に出されています。

 

大正8年4月、長男・清さんが横浜で、昭和2年5月に次男・淳さんが兵庫県武庫郡で生まれています。

また、大正11年3月初めには長女・弘さんが横浜市で生まれていますが、翌年6月に亡くなっています。

皆さん、亡き父のいとこ、ということになりますね。

 

曽祖父・轟の三男であり、祖父・篤彦の次弟、汀さんは昭和17年1月、神戸市灘区で亡くなっています。

届出人は妻・ミネさん。

 

次は、祖父・篤彦の三弟・「ツネ」さんについてです。

 

 

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祖父の長弟・敏雄

2024-05-20 23:38:13 | 祖父・篤彦の弟たち

みなさま、しばらくぶりで御座います。

又つらつらと綴ってみようと思います

 

今日、5月20日、例の「家族・親族のメモリアルカレンダー」を見てみると、

祖父・篤彦のすぐ下の弟・敏雄が「皷川の藤田善次郎の養子」となった日でした。

 

除籍謄本によるのですが、祖父・篤彦の二歳違いの弟は明治16年4月生まれで

その敏雄さんが明治22年に養子に行った時には満で6歳。

この皷川の藤田善次郎という人物がどういう方かは全く分かりません。

 

また、その翌年の4月には、『都見物日記』に残っている通り、父親である曽祖父・轟は、

姉・川上イサさんとその姑さんと一緒に東京市へ1ヶ月余り出かけています。

 

この敏雄さん、私の亡き父からすれば叔父の一人ですが、末っ子で大正15年生まれだったので

敏雄叔父にあったことはなかったと思います。

 

その父が祖父・篤彦から聞いた話では、敏雄さんは篤彦じいさんよりも体格が良く身体が大きかったけど、

篤彦じいさんはある時相撲で投げ飛ばした、と自慢げに(?)父に語っていたようです。

 

でも、養子に行った時には、篤彦じいさんは8歳、6歳の弟が体格が良いと言ってもそんな子供の頃のことだったのかは疑問が残りました。

もしかしたら、養子に入った後も兄弟で過ごす時間があったのかも、と思うのでした。

今となっては確認のしようがありませんが、もう少し成長した頃の話かな、とずっとイメージしていました。

そんな祖父も、明治28〜9年には親(曽祖父・轟)に従い台湾へ移り住むので、ほんの数年の間の思い出なのかもしれません。

 

 追記:敏雄さんメモには「北海道へ」とあるのですが、詳しいことは分かりません。

父によると、祖父・篤彦は弟・敏雄のことを「トシ」と呼んでいたようです。

 

では、次は次弟のお話をします。

お休みなさい

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久澄さんの命日

2024-04-24 23:59:31 | 日記

 当ブログへ初めてご訪問の皆さま、また日頃からお読みくださっている皆さま、ありがとうございます 

 

・今日は本家嫡子「久澄」さんの命日でした。

  2019年1月の関連過去記事→『今和泉島津家と永吉島津家と

・昨年初めて命日にちゃんとお墓参り出来ました。

・FBには投稿していたのですが、こちらのブログにはまた後日

・我が家の庭で今年もアマリリスが花を咲かせました♪

 

気軽に携帯からアップするつもりが

ちょっと勝手が悪い...

もうちょっとどうにかしたい〜

ではおやすみなさい😴

 

追記:スマホを再起動させたらちゃんとgooblogアプリが作動しました♪ よかった(^-^)

 

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水仙の庭

2024-03-09 17:51:00 | このブログのこと

皆さま、お久しぶりでございます。


昨年10月以降、すっかりご無沙汰しておりました。
 
年も替わり5ヶ月も経って、庭には白い水仙の花が賑やかに咲いています。
 
 

白い水仙
香りも良いです


こちらは💁🏻‍♀️鈴蘭水仙
スノードロップと間違われる事もあるようです
 
 
gooblogさんからメールで1年前に投稿した記事の案内が届き、そろそろ更新しなければ!と思ったところでございます。
 
ちなみに昨年の今日の記事はこちら↓
郡元墓地の川上家累代合葬墓など('08.12.6 撮影) - ☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

郡元墓地の川上家累代合葬墓など('08.12.6 撮影) - ☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

以前「郡元墓地」について書いた記事を検索していて、後日アップする予定で2年近くもそのままになっていた物があることに気付きました。・ここです↓『歴史探訪時系列...

goo blog

 
昨年はその前年11月から20年ぶりくらいで仕事に就くことが出来、新しい生活サイクルに慣れることを優先して、ブログのコメント欄も閉じていました。
 
また折を見てコメント欄書き込みも復活させていただこうと思います。
 
今後もマイペースながら、あまり間を空けずに、気負わず気ままに楽しく書いていければと思っております
 
これからもお気軽に覗いてみて下さいね
 
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