☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

祖母が戦後お参りしようとしていたお墓

2021-11-29 13:10:30 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

以前、今年の3月20日の日記『先祖のお墓探しは前途多難っぽい』の中で、父が「終戦後、台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話」を書きました。

  〈以前の日記より引用〉

  「父の話に、終戦後台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話があります。祖母のおかあさん、とは義母・スガさんのことだったのか、実家・寺山の墓だったのか??」

  「その時(昭和21年ごろか?)は大雨のあとだったかで土砂崩れで道が塞がれていて、お墓に行く事は叶わずお参り出来ずに帰ったという事でした」   

 

 記事を書いて以降気になりながらも、興国寺墓地には行く機会がないままですが、今日になってふと頭に浮かんだのです。

思い返すと、祖母・ふくの「お母さん」とは、祖母が5歳になる前、明治32年9月に死別した「寺山家に嫁いだ実母」か、嫁ぎ先の、祖母にとっては義母に当たる「(旧姓・三原)ツタ」のことになるわけで、曽祖父の養母「栗川スガ」ではない事に気づきました。

(曽祖父の養母だと一代飛び越してるし、頭がこんがらがっていたようです

 

しかも、祖母・ふくの義母である、私の曽祖母・ツタは台湾で亡くなっており、お骨は我が家の家系の墓に納めているわけですから、祖母が言っていた「お母さんのお墓」とは、寺山家の墓所に納められた、実母・スキのお墓のことでは‥‥。

 

 あれ?

 

※ 実はここまで書くうちにも「寺山家の墓」かとは思っていたのですが、

よくよく考えると、祖母の実母・スキは稲荷馬場の「町田」から寺山に嫁いだ女性で、寺山の曽祖父との間に3人の子供(私の祖母・ふくと、その兄・姉)がありました。

 『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)   2019-09-25

ここ↑に書いていますが、

没年については、「明治三十二年九月二十五日 午前十一時 臺北縣 臺北北門街二丁目三拾八番戸ニ於テ死亡

 同 十月三日届出     同 十一月二十日受付」とあるのですが、遺骨が何処に納められたのかまではわかりません。

 

もしかして、町田家の墓所だろうか‥‥?

いや、スキさんは寺山家の女性となったわけですからそんなことはないですよね。

 

 明治32年に亡くなった後、台湾にお墓を作っていたのか、それとも、台北から台南へ移る際にでも本土に送り、もしかしたら寺山家の墓に納めるべく祖母の兄(長男・寺山用麿)がのちに本土に持ち帰り、遺骨を納めたのか、‥‥。

 寺山用麿は明治21年生まれ、大正9年に小倉で亡くなっているようです→『寺山源右衛門家』)

 

でも、祖母の父・寺山用行は台湾で暮らし台湾で亡くなっているから‥‥、今となってはわかりません。

興国寺墓地に寺山家の墓があるのか、ないのか‥‥。

今ある先祖供養の墓石に、これからも静かにお眠りください、とお祈りするばかりです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寺山源右衛門家

2020-06-25 23:52:50 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

今日は父方祖母の実父、寺山用之の命日でした。

昭和16年(1941年)なので、来年は没後80年になります。

昨年、『曾祖父・寺山用之の命日と曾祖母の名前 』を書いた時点では分からなかったことも少しずつわかってきました。

 

 昨年7月には除籍謄本を取り、曽祖父・寺山用之の兄が「寺山用信」であり、「寺山源右衛門」を継いでいること、明治20年9月7日に兄から戸籍を相続している事などもわかりました。

(昨年9月25日の記事『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に) 』)

 また、同じ稲荷馬場町の町田藤蔵の長女・スキと結婚したこと、子供は3人だったこと、長男・用麿は明治21年に生まれ、大正9年に小倉市で亡くなっていること、長女・節は明治25年に生まれ、妹より3年後に清水町の肥田木氏と結婚していること(その妹というのが次女・ふく、私の父方祖母)などもわかりました。

 祖母に兄・姉がいたことや、姉が肥田木に嫁いだことは父からも聞いたことがありましたが、確認出来て嬉しかったです。

 

ところで、『鹿児島城下絵図』で「寺山源右衛門」の住所をみてみると、安政6年・天保13年共に上竜尾町で今の南洲神社の下(北東)あたりだったようです。(ちなみに、隣は「伊集院伊膳」の名前になっていました。)

 これは以前チェックしていて、「ー 絵図」に載っているのは「寺山」姓は1件だけで、上町なのでこれかなぁ〜程度に思っていたのですが、「寺山源右衛門家」だということは『島津家家臣団系図集』に載っていたので鹿児島市内地図で現在の地番でもチェックしていました。

その時にはピンと来なかったのですが、「ー 絵図」で確認すると「大乗院坊中 善聚院」となっており、「'19. 6/25付」でメモにも書いておいたので、昨夜改めてそれを見てビックリしました

↑  これは間違いでしたので訂正 ('20.10.20追記) →『薩州島津家と寺山源右衛門家』('20.10.18にて)

 

先日も「仁王堂水」を訪ねて歩いていた↓「坊中馬場」のことだ

仁王堂水(清水馬場・坊中馬場)&鶴嶺高等女学校校跡(本立寺馬場)を訪ねて 』

 

 で、今日は思い立って法務局まで父と出かけ、寺山の家があった場所の土地台帳を確認に行ったのです。

 結果は‥‥‥‥、明治35年以降のものしかなく、それ以前の寺山の記述を確認出来ませんでした。。

 

でも、いいこともありました

以前コメントで教えていただいたので一度見ていた「名越泰藏」「名越時成」と、それに続いて曽祖父の名前が記録されている土地台帳のコピーを入手することができたのです

 

コロナ対策で長時間滞在せずに済むようにコピーサービスをするようになったのかな?と思い尋ねると、以前から無料でいただけるようになっていたとかで、前回閲覧したときにはメモに取っただけでしたが、今日再度行ってコピーも手に入って、来た甲斐がありました

寺山の用之爺さんが繋いでくれたのかなぁ〜、なんて嬉しくなりました

 

帰りには、コロナ禍で外食を控えて以降、久しぶりに行きつけのうどんそばのお店で遅い昼食をいただいて帰りました

帰りつく頃に雨になりましたが、暑いくらいのお天気で満腹、満足な一日でした

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父方祖母の育ての親・平山チカの命日でした

2020-04-12 23:52:43 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

さて、寝る前に日記書いておこうかな、と思って3年ダイアリーをめくっていたら、

今日の日付に「平山チカさんの命日」と書いていました!

忘れてました〜

☆ 関連日記:『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)

この中で、祖母・ふくの育ての親である、平山チカについて少し書いていますが、

昭和16年4月12日に台南・麻豆で亡くなりました。享年75。

 

さらに遡ると、今月7日は曽祖母・ツタの命日でした!

(ツタは夫・轟が亡くなった翌年、大正12年4月に台湾・高雄州の屏東で亡くなっています。)

☆ 関連日記:『曾祖父が養子となった先は‥‥

 

昨日も今日も、例の石塔(→『倉山作太夫久籌?』)に刻んである名前の更なる事実を書き出すことに没頭しておりましたので、ついつい他のことが疎かになります。

 

あ!でも最近体力増進のために始めた父との「ちょこっと散歩」は続けています。

 

命日のことは日記としてここに書いて、もう寝ることにします。お休みなさい

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)

2019-09-25 11:35:32 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

今年6月、父方祖母・フク(婦久)の実父・寺山用之の命日25日に書いた「曾祖父・寺山用之の命日と曾祖母の名前」で、祖母の実母の名前が「スキ」であることを確認できたものの「旧姓」も「生没年」すらも分からない、と書きました。

 

その後も気になって、翌7月10日に市役所支所に行き、「寺山用之」の戸籍謄本・除籍謄本等を確認したのです

父が「もう残ってないだろう」というのですが、「轟の戸籍謄本等があるんだから、まだあるはず!!」と出掛けました

 

思った通り、3種類の書類が残っていたので新たな事がいくつも分かりました〜

 

 

まず、曾祖母「スキ」の生没年は、

慶應三年(1867年)十二月十八日生まれ でした

※ ↑補足(2019.10.20)

旧暦から新暦に変換するサイトによると、1868年1月12日になるようです

 

で、旧姓ですが、

「明治十九年五月十日に鹿児島郡稲荷馬場町 町田藤蔵 長女に入籍ス」とありました

これについては未だ良く分かりませんので、のちの課題。

 

 

没年については、「明治三十二年九月二十五日 午前十一時 臺北縣 臺北北門街二丁目三拾八番戸ニ於テ死亡

 同 十月三日届出     同 十一月二十日受付」

となっておりました。

奇しくも、今日が曽祖母・スキの命日です。

(明治32年って‥‥1899年? 今年は没後120年ということか〜?! 知らなかったとは言え、申し訳ない…) 

 

一方、寺山の爺さんの後添い・平山チカさんの生年月日については手元に「位牌」しかなく、分かりません

ただ、位牌に書いてある没年・命日が「昭和十六年 四月 十二日 帰趨  於 (台南)麻豆」とあり七十五才で亡くなっていますので、逆算すると、、、

 

西暦で1867年生まれ‥‥ ということは慶應三年生まれで「スキ」さんと同年ということが分かりました〜

 

 

また、祖母・ふく(婦久の草書表記)には 兄・用麿、姉・節 の二人がいた事も分かりました。

兄・用麿さんは、明治21年8月27日生まれ、残念ながら大正9年に32才になって間も無く小倉市で亡くなったようです。

姉・節さんは、明治25年5月17日生まれ、大正5年7月に清水町151番地の肥田木健介さんと結婚し、除籍。

ふくばあちゃんは、明治27年(1894年)11月27日生まれで、大正2年(1913年)4月15日 18歳の時に篤彦(31才)と結婚。

節お姉さんより先にお嫁に行ったようですね。

 

これからわかる事は、実母・スキ(旧姓:町田?)が亡くなったのは、ふくばあちゃんが5歳になる前のことで、上の二人もまだ子供だったということです。(兄・用麿が11歳、姉・節が7歳)

 

それで、寺山用之じい様は後添いに平山チカさんを迎えたのではないでしょうか。

だから、ふくばあちゃんは平山チカさんが実母のように育てられたのでしょう。

 

で、台湾でもふくばあちゃんとも一緒に暮らし、前に書いたように寺山の爺様と最後まで添い遂げたんだと思います

ありがとう、チカさん

‥‥にしても、なんで籍を入れなかったんだろう??

先妻・スキさんへの配慮?

  

いずれにしても、ボヤけていた姿が少しだけ鮮明になって来たように感じます

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曾祖父・寺山用之の命日と曾祖母の名前

2019-06-25 23:54:07 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

前回、父方祖母・「ふく」(Top写真、左端)の実父は「寺山氏」

と書きましたが、

今日はその、曾祖父・寺山用之の命日でした。

昭和16年に台湾・佳里で亡くなりました。

その時に父も一緒に暮らしていたのですが、

最初に異変に気付いたのが父だったそうです。

気が付いた時には、もう亡くなっていて、

その時のことが記憶にハッキリ残っているようです。

 

我が家の神棚に位牌があるのですが、

曾祖父と一緒にあるのは、後添いの女性で、

そういえば父方祖母の母親の名前、ちゃんと覚えていなかったことに気付き‥‥

昨夜寝る時に気になってたので朝一番に戸籍謄本(写し)で確認したのです。

 

「スキ」さん、でした

 

残念ながら旧姓も生没年すらも分かりませんでしたが、名前だけでも確認出来てよかった

後添いさんは籍入れはしていないのだけど、「平山チカ」さんといってお酒が好きな人だったそうです(父談)

そのチカさんは同年4月に台南・麻豆で亡くなりました。75才でした。

 

祖父・篤彦の仕事の関係で祖母の父・寺山用之と祖父母と、父の下の兄と父の5人で佳里に移り、

チカさんが亡くなって2ヶ月あまり後に亡くなったのでした。

 

寺山用之 昭和16年(1941年)歿。 享年80。

 

☆以前上げた記事に、大正4年くらいに台湾で撮った家族写真がありますが、

家族写真を掲げる 

ここには写っていませんね。左端が父方祖母の「ふく」ばあちゃんです♪

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする