いつもお読みいただき、ありがとうございます
2017年にFacebookを始めて、そちらに記事をアップすることも増えたので、
あとから見返してみて「ブログ記事になってない!」 ということも多々あるのですが、
この桐野利秋誕生地跡を訪ねたことも当ブログには書いていませんでした・・・
ということで本日、2018年1月の日記↓としてアップしましたのでどうぞご笑覧ください
『桐野利秋誕生地を訪ねて』(2018-01-22) カテゴリー: 別府晋介&桐野利秋
では〜
いつもお読みいただき、ありがとうございます
2017年にFacebookを始めて、そちらに記事をアップすることも増えたので、
あとから見返してみて「ブログ記事になってない!」 ということも多々あるのですが、
この桐野利秋誕生地跡を訪ねたことも当ブログには書いていませんでした・・・
ということで本日、2018年1月の日記↓としてアップしましたのでどうぞご笑覧ください
『桐野利秋誕生地を訪ねて』(2018-01-22) カテゴリー: 別府晋介&桐野利秋
では〜
☆以前、実方の川上家について書きましたが、
以前書いた記事 →『実方の別府家と川上家』( 2021-09-24 | 西南戦争 )
書く内容の焦点が絞りにくく、その為、説明に次ぐ説明で自分でも読みにくいな〜と思っていたところ、
FBで数日前に書いたものが思いの外スッキリ読みやすくまとまったので、
記録としてこのブログにも残しておこうと思います。(以下の通り)
それにしても、西南の役で18歳で亡くなった「川上笑左衛門」さん、
幕末1860年頃のお生まれになりますが、このお名前はどういう経緯で付けられたのか、気になるところではあります。
今回、ふと思い立って画像をファイルにまとめ直していたところ、
川上良助さんの先妻との間の子供さんの墓碑を見て、次男ご家族が大正時代に次々と早世・夭逝されていることで、何か当時の疫病・流行病との因果関係があるのかと気になり、FBでこの記事を書いたところです。
吉野・実方の別府家と桐野家、川上家と別府家との繋がりなどをもう一度確認するためにも書きました。
ということで、私の大叔母・フクの夫である川上良助の母親、即ち、お姑さんが別府兄弟の姉、ということになるのですね。
父の伯母・フクおばさんの孫娘のお二人と父('11. 7.4 撮影)
なお、プライバシーにご配慮いただき、訪問等はお控え下さいますよう、呉々もお願い致します
桐野利秋には「人斬り半次郎」という異名があるのはよく知られた所ですが、実際のところはどうだったのでしょう?
近く出版されるという桐野作人さんの新刊の新書本を読む前に、これまでどのように描かれているのかを確かめたくなったので、先日ネット販売で検索して池波正太郎の文庫本2冊を取り寄せてみました。
『人斬り半次郎(幕末編)』 (新潮文庫) 文庫 – 1999/7/28
『人斬り半次郎(賊将編)』 (新潮文庫) 文庫 – 1999/7/28
ーーーーーーーーー
☆池波正太郎の本を読むより前に、桐野作人氏の新刊を購入。
『薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 』〈 (NHK出版新書 564) 新書 – 2018/9/11 〉
実際に手にかけた人数はそう多くはなかったとか。
桐野氏によると「史料のうえで桐野が無闇に人を斬った事例を見出すことはできない」(p32)そうです。
☆日々の忙しさにかまけて、この記事は下書き保留のままだったのを
年が変わった2019年1月15日にアップするに至る。。^^;
内容は追々じっくり読むことにして、
巻末の「おわりにーーーー桐野利秋の人気と功罪」を興味深く読みました。
半次郎少年が出てきましたね、今日の『西郷どん』。
https://jpreki.com/beppu-shi/
ネット検索で見たこちら↑のサイトでも桐野利秋と別府晋介とは「母方の従兄弟」とあります(Wikiにも書かれています)が、その繋がりを詳しく知りたくなり、西郷南洲顕彰会の『敬天愛人』第14号(平成8年9月24日発行)を読むと、別府晋介とその兄・九郎兄弟の父親・別府十郎の姉・スガさん(晋助兄弟の伯母)が同じ吉野実方(さねかた)の桐野兼秋と結婚し、二男として生まれたのが利秋(中村半次郎)という事です。
実は、この別府家は我が家の家系とは後に姻戚関係となるのです。
☆以前ブログに書きました。
『名越左源太泰藏の子供たち』
別府家の晋助兄弟の姉が吉野・実方の川上家に嫁ぎ、その二男に、 私の祖父・篤彦の姉(曾祖父・轟の長女で、父からすると伯母)フクが後妻に入ったということです。ややこしいですけど。。
なので今回の半次郎少年にも関心がありました。
ドラマは観るだけでいいかなぁ、と思っていたのに、大河ドラマのガイドブック(?)であらすじを読むと「半次郎」の文字を目にして俄然興味が湧きました。
それよりも、今年になって急に気になったのは、赤山靫負が出てくるということは当然「お由羅騒動」「高崎崩れ」が書かれているわけで、そうなると処罰された者たちを原作では一体どう書かれているのだろう⁉️ということ。
そうなると居ても立ってもいられなくなり即本屋に走り、林真理子さんの原作本、3分冊の1冊目だけを手に取り、NHKのガイド本も入手したというわけです。
☆画像はまた別の本ですが、左は原作者・林真理子さんの思い入れなどを直接読めると思い購入
町田久成さんに関する記事を書く前に、「別府晋介」の生誕地を父と訪ねた記事をどのブログのどこに書いたのか分からなくなったので自身の過去のブログをあちこち見ていたら、
2011年8月末の記事を目にしました。
で、そこから遡って行き着いたのがmixi日記。
※2008年10月28日のmixi日記
mixi日記は閉じているので、見られない方の為にも
当時の日付けで過去日記をアップしていこうと前々から計画中なのですが、過去記事テキストは簡単に移せますが、まず当時のデジカメ写真のファイルからアップした画像を移さなくてはならなかったりするので、手間取ってなかなか思うように行きません。
出来る範囲でぼちぼちやっていこうと思っています。
肝心のことを忘れていました。なぜ、別府晋介の話を持ち出したかというと、
その別府家のひとりの女性が、私の祖父・篤彦の姉の嫁ぎ先である川上家のご先祖のどなたかの奥方とのことです。
(☆後日確認したところ↑こちらの女性は別府晋介の姉で、川上忠太郎と結婚しています。西郷南洲顕彰会『敬天愛人』第14号P.247に記載あり)'17. 6.18追記
お墓は、ご存知の方もおられるかもしれませんが、隣同士です。
川上家の方のお話では、実際に、訪ねてこられる方もあるとのことでした。
☆2008年10月27日に訪ねた吉野・実方(さねかた)の別府晋介誕生地の写真をアップしておきます。
昨日は、とてもお天気が良かったので
家の中にいてももったいない、お昼時でちょうどお腹も空いてきたことだし
じゃぁ、お昼を食べに行こう!ということになり、
それならば~、とちょっと足を伸ばして前々から行こうと思っていた
「吉野台地探訪」に、父とドライブしてきました。
寺山公園へは去年の8月に初めて行きましたが、→ mixi日記「寺山展望台へ。(8月23日 処暑)」☆これは後日当ブログにアップした記事があります↓
『「寺山展望台へ。(8月23日 処暑)」mixi日記より』(2007.8.24)
今回はそこへ向かう途中にある上之原(かみのはら)から実方神社へ向かい、
その近くにある別府晋介誕生の地などを見て回るのが目的。
実は今月9日の地元南日本新聞の夕刊に載っていたのですが、
そこで紹介されていたコースを逆に上から麓へ辿ってみました。
☆この実方というところは、
戦後父が四国の海軍航空基地から鹿児島へ引き上げてきた時に、
吉野・実方(さねかた)の親戚の家を訪ね、
その後2ヶ月ほど暮らした場所なのだそうです。
その親戚の家へ行くのに、市内の上町(かんまち)から皷川を通り、
たんたどの坂道をひたすら歩いて(車なんてありませんから)
登って行ったそうなのですが、
〈名越(なごや)どん坂〉 〈新実方橋〉 ☆画像をクリックすると拡大表示されます
当時の道と比べ、現在の道路ではすっかり変わってしまっているうえ、
手がかりの「実方橋」も過年豪雨で流され、
今では幹線道路が「新実方橋」を通っているので、
父は「今行ってもわからないだろう。」と諦めていたのです。
そうなると、俄然確かめに行ってみたいのが、私(笑)
今日を好機と出かけたというワケです。
☆☆☆
上之原(かみのはら)へ到着すると、桜島を眼前に上之原振興会館があり、
同じ敷地内の一角に、原五社神社と
上之原集落発祥220年祭(平成10年10月建立)記念碑があります。
この、「上之原(かみのはら)集落」というのが何なのかというと、
1779(安政8)年10月の桜島大噴火の際に、
桜島・黒神から避難してきた人たちが、初めは城下に造られた長屋から
現在に吉野中学校の土地へ移った後、永住の地として
故郷の桜島を望める現在の場所を選んで開墾したのだそうです。
そこから吉野町の中心部を抜けると
〈松十文字バス停〉 〈駄馬落バス停〉
「新・実方橋」手前(下りの場合・左手)に
実方神社と、西南戦争の終焉の地・城山で西郷隆盛を介錯したと伝わる別府晋介の
誕生の地があります。
〈実方神社〉
〈別府晋介誕生地の入り口〉 〈別府晋介誕生地跡〉
近くに桐野利秋の誕生地もありますが、
今回は車で通り過ぎただけでした。(桐野利秋は別府の従兄)
結局、父がしばらく住んでいた親戚の家のあった所はわかりませんでしたが
おそらくこの辺だろう、という場所は小川(稲荷川)が流れていて
なんだか懐かしいような、郷愁にかられる風景が広がっていました。
☆‥‥‥と、ここまで書いて、やっぱりもう少しハッキリさせたくて
今父と、地図を開いて昨日辿ったところを思い返しながら話しをしてみたら
だいたいの目星がつきました! しつこく訊いてよかったです。
まぁ、親というのはあまり多くを語らないものですね、
こちらが訊いてみない限り。(笑)
おそらく、別府晋介の誕生地の下の、川沿いであろう、という結論でした。
また、時間を作って行ってみようと思います。
☆以上、2017年4月8日に過去日記アップ☆
当時撮った写真もこちらに追加アップしておきます。
〈御内用方の跡〉