☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

画像フォルダをチェックして、過去の動向を振り返る

2022-06-26 15:17:05 | インデックス(主なイベント)

きのうの記事『重富島津家屋敷跡の鹿児島県民教育文化研究所('2010.3.3撮影)』をアップする際に、昔フォルダにアップしていた画像を見直していたのですが、ほとんど画像を上げていない年があったりして、その年はどう過ごしていたっけ?と振り返ってみることに。

 

ブログ記事を読み返せばいくらかわかる、と思ったら、

過去に「インデックス」というカテゴリーで一度整理していたことを思い出しました。

  

なるほど2010年以降は画像も携帯(ガラケー)で撮ったものだったり、飼っていた犬猫の画像だったり、庭の花、寄せ植えなど、ガーデニングに目覚めた頃のものだったりするのです。

      

 

それと犬猫が高齢化し、そのお世話で父と協力しながら薬を飲ませたり、

病院に連れていったりと、忙しかった時期でもありました。

・『2011~2015年』(2021-04-30)カテゴリー: インデックス(主なイベント)

 

そして、10年以上一緒に過ごしてくれた犬のハナを2013年4月に、

 

2015年7月には猫のクロを天国に見送ったあと、2016年から徐々に記事数が増えていってるようです。

 

2016年4月に1件、

2016年4月のあれこれ及び、先祖の生没年月日専用カレンダー式手帳完成!

 

この記事以降、5月には4件、6月1件、9月に2件、

12月に8件書いています。この年には父が卒寿となりました。

これは、以前のインデックス↓でまとめていました。

・『2016年の出来事・記事インデックス』(2021-04-23)カテゴリー| インデックス(主なイベント)

 

2017年は件数が多く、上期・下期に分け、さらに下期を2回に分けてまとめました。

画像フォルダへのアップは1月に8枚のみ、1月のブログ記事は5件

 

この年の4月以降は、過去のmixi日記から画像とともにこちらのブログへ転載することも多く、そのために画像フォルダへのアップや元記事の画像探し、改めてのPCフォルダ作りにかなりの時間を費やしていたように思います。大変だったなぁ‥‥。

2017年下半期は、特に2008年前後の画像を大量にアップしたり、「あ、これもフォトアルバムにしなくては!」とか半ば義務感にかられる様に取り組んでいましたっけ‥‥。

2007年8月23日(処暑)寺山展望台へ」や「維新のふるさと鹿児島ウォーク2008ー①」とか、「薩摩藩留学生渡欧の地、串木野羽島 in 2010」もこの頃に作りました。

フォトアルバムの半分くらいは2017年から増えていきました。

それで、疲れてしまって中断したり、無茶もしていたように記憶しています。

・『2017年の出来事・記事インデックス(上半期)』(2021-04-16

・『2017年の出来事・記事インデックス (下半期−1)』(2021-04-16

・『2017年の出来事・記事インデックス(下半期−2)』(2021-04-16 )

 

2018年、2019年も同様のことをやりつつ、歴史の深掘りや、

新たに探訪したところなども記事やアルバムとしてアップしています。

「☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆」フォトチャンネル一覧」

 

以上、2016年以降の動向を振り返り、思いがけず、

『インデックス』の続編、というかまとめのページとなりました

 2018年以降もまたまとめてみようかな

(例によって主にセルフチェック用のインデックスです

では〜

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

重富島津家屋敷跡の鹿児島県民教育文化研究所('2010.3.3撮影)

2022-06-25 23:43:21 | 2010年の上町ひな祭り@重富島津家屋敷跡の鹿児島県民教育文化研究所

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

さて、タイトルの物件ですが、重富島津家の屋敷はすでに無く、この建物は80年以上前に建てられたもので、呉服店、料亭、離島の子供達の進学寮などを経て文化施設になった歴史あるものだそうです。

その造りや装飾性などから国登録有形文化財に指定されていたものでありましたが、何やら取り壊されるというお話を本日小耳にしました

鹿児島県教育会館に耐震上の問題ありで、その建て替え地として取り壊されるのだとか

 

突然な話と思ったら、3年ほど前から話があったらしく‥‥。

こういうのって決まってから一般に知られる印象がありますね。

出来れば残して有効活用に知恵を絞っていただきたいところ。

仮に取り壊し、新しい建物を建てるにしても、

上町という歴史的な土地柄、景観を損なわないように配慮願いたいものです。

 

では、気を取り直して、

今から12年余り前の2010年3月3日に行われた

「上町のひな祭り」の写真をどうぞご覧下さい♪

(内部の画像はほぼありませんので、悪しからず

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フォトチャンネルも作ってみました♪

重富島津家跡の鹿児島県民教育文化研究所('2010.3.3撮影)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

継豊の後継、長男・宗信と次男・重年

2022-06-16 16:29:06 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊

 いつもお読みいただきありがとうございます 

画像は紫式部の花🌸5月末に撮影。黄色の花🌼はカランコエです。

 

前回は吉貴・継豊親子の時代を再確認しましたが、

その後、継豊の長男・島津宗信も若くして亡くなり、継豊次男の島津重年が後を継いだのです。

・島津宗信 … 享保十三(1728)年  江戸の芝藩邸に出生。

       延享三(1746)年 継豊が隠居し、宗信が封を継ぐ

        〜 寛延二(1749)年 病に罹り、同年七月十日 鹿児島鶴丸城に没す 歳二十二

 関連記事:

→『第24代藩主・島津重年と嗣子・重豪』(2019-05-26) カテゴリー:第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊

 

以前、平田靱負について書いた記事もありますが、

→『平田靱負と藩主・島津重年』(2019-05-25)カテゴリー:第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊

島津重年は江戸へ参勤交代の途中、まだ子供だった島津重豪の伴い、岐阜の「宝暦治水」の現場を訪れています。

 

☆きのうのテレビ番組『英雄たちの選択』(田沼意次の回)を見たことで、

寝る前に再度諸々を確認することになったのですが、

島津重年の没年月日を改めて目にしてみると、

宝暦五(1755)年 六月十六日

旧暦の今日でした!

それで、またまたその偶然に驚いて、今日のブログ記事と相成りました

 

・島津重年 … 享保十四(1729)年 鹿児島鶴丸城に出生。

   重年は初め加治木島津家島津久季の養子となり元文二(1737)年元服。

  寛延二(1749)年、兄の藩主・宗信が若くで亡くなり後継ぎがなかったので、

 重年が本家に復し、第24代藩主を継ぐ 〜 宝暦五(1755)年 江戸の芝藩邸に歿す 享年二十七。

 

 以上、主に『島津歴代略記』を参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「田沼時代」は安永・天明年間

2022-06-16 13:42:46 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
前回に続き、『英雄たちの選択』からもう一つ。
 
昨夜は「田沼意次」の回だったけど、その中身というよりその年代についていろんなことが気になった。
 
「田沼意次」… 1772(安永1)年, 幕府老中。子の意知(おきとも)と共に田沼時代を現出。(1719〜1788)
(※「広辞苑」より)
 
江戸中期、第9代将軍徳川家重の小姓を経て側用人となり、第10代将軍・徳川家治から老中に登用されたわけだけど、正直このお二人の将軍には馴染みがなかった。
 
 第8代将軍はよく知られた徳川吉宗、第11代将軍は徳川家斉で、松平定信を老中に任じ「寛政の改革」を行なった。
 そのお二人の間に埋もれた印象。
 
田沼時代の後半には「天明の飢饉」(天明2〜7年)、天明の大火(天明8年1月晦日, 京都の大火)などもあった。
年号を順に網羅しているわけではないので、田沼時代を確認すると、
 
・安永(1772. 11. 16 〜 1781. 4. 2)後桃園・光格天皇朝の年号
・天明(1781. 4. 2 〜 1789. 1. 25)江戸後期、光格天皇朝の年号
 
とある。
 
1700年代といえば、薩摩藩・島津吉貴、島津継豊を思い浮かべるのが私の性(さが・性質)なのだが、これも確認してみると、
・島津吉貴 … 延宝3(1675)年生まれ - 延享4(1747)年没
      宝永元(1704)年襲封
・島津継豊 … 元禄14(1701)年生まれ - 宝暦10(1760)年没
      享保6(1721)年に藩主襲封
 
※ どの時代にも天変地異あったわけですが、享保元年〜2年には霧島山大爆発を繰り返した模様。
 また、享保年間、延享年間にはそれぞれ江戸の桜田・高輪の藩邸が延焼し、出費はさらに累増したそう。
 
☆おまけ:吉貴・継豊の時代に鹿児島郊外の武に黄檗宗の寿国寺を建立
 「寿国寺」についてはブログでコメントいただいている「クマタツ1847」さんの
  ブログ記事「鹿児島にあった笑岳寺と寿国寺」をぜひご参照ください
 
ということで、田沼よりもだいぶ前の時代になるわけですね。
 
では、「田沼時代」の薩摩の藩主はというと‥‥長くなるので、また次回。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「曽我どんの傘焼き」と「曽我事件」

2022-06-16 12:47:54 | 日記
子供の頃に見た甲突川河畔の「曽我どんの傘焼き」、その元となった「曽我事件」が先週の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもあったけど、きのうの『英雄たちの選択』再放送でしっかり理解できた。
 
☆Top画像は「曽我どんの傘焼き」が行われる場所かどうか、覚えていませんが、
このような河原に傘を積み上げます。(もう少し下流の加治屋町あたりかも?)
 
甲突川にかかっていた西田橋の写真。現在は8・6水害の後、石橋公園に移設されています。
 
☆現在ここにかかっている西田橋はこんな感じです(2020年3月に撮影)
 
 
昔、「曽我兄弟」由来のものとは聞いていたけど、それっきりで、「そが」といえば「蘇我入鹿」くらいしか知らなかった私はなぜ「蘇我」ではなく「曽我」なのか?と思ったけど調べもしなかった。
 
「曽我兄弟の敵討ち」深掘りすると面白い典型のような回だった。
 
☆鹿児島市内を流れる甲突川(10年以上前に撮影)「曽我どんの傘焼き」が催される場所はもっと上流です
  
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする