☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

町田猛彦、三崎氏と大野氏

2020-11-23 01:54:37 | 町田家の人々

 いつもお読みくださって、ありがとうございます

 

さて、11月4日にアップした『町田申四郎の妻』の中で、町田久成の弟たちのことを書きましたが、

その際に、久成のすぐ下の弟、町田実積(猛彦)が養子に入ったという、「三崎氏」のことを調べてみました。

 

三崎氏「島津大蔵家二男家」(平太左衛門家)寄合並

大蔵家五代 島津大蔵 久起二男  《嘉永元年 小番》

久品 初, 明辰 千代熊, ‥‥   樹家 号 三崎氏 

 ー 久芳 ー 久武(新八 平太) ー 久懿(新八郎 平太左衛門)

  = 久謐(平太左衛門) 実, 町田監物久要三男 室, 伊集院亘久道叔母

   = 久志 初,実積 大助 猛彦 平太左衛門 萬 実, 町田民部久成弟(町田猛彦)室, 大野多宮久甫女

     西南役出陣 延岡ニテ脱退 後, 復家  号, 町田萬実積 石谷住 子孫不詳

(『島津家家臣団系図集』下巻 p.355より)

 

 ここを見て、町田猛彦(萬 実積)が継いだ「三崎平太左衛門 久謐」も町田家の人だったことがわかったのでした

そして、猛彦の妻は大野多宮久甫の娘ということで、今和泉島津家墓地にあった「大野多宮久甫」の名前を目にしたことが発端となり、11月6日の『大野多宮久甫と関山糺金生(孚)』を書くことになった、というわけです

 

〈以下、参考までに再録〉

町田久長 二男・町田実積(さねつみ)‥‥‥大助・猛彦・萬‥‥‥(薩摩藩英国留学生候補となるも渡英せず)

      → 三崎平太左衛門久謐を嗣ぎ改 三崎平太左衛門久志 室、大野多宮久甫 女

           西南の役に出陣、延岡にて脱退、改 町田萬実積 石谷住 子孫不詳

    ☆三崎平太左衛門久謐も実は「町田監物久要三男」で実積の叔父、「室 伊集院亘久道 叔母」とあります。

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「若き薩摩の群像」

2020-11-12 10:35:03 | 薩摩藩英国留学生

FBの歴史グループでコメントしたものですが、記録として

 

全員揃ってからはまだ見に行けていません。。天辺の二人は町田久成と新納刑部久修で、両手広げているのが新納さん。今回ちゃんと把握しました(苦笑)。新たに加わったお二人(堀さん、高見さん)はもちろんですが、お二人を見つめる田中静洲(盛明)、長澤鼎(かなえ)と名越時成もわかります。五代さんは中段中央で桜島側に向かって椅子に座って右手を伸ばしていますね。あと町田兄弟が2名いますが、まだ9名いますね。なかなか全部は難しいです。全員分かるようになれるといいな、と思います。当地に図解はないのでしょうか?近いうちに行って確かめたいです。

 

(画像は南日本新聞の記事)

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曽祖父・轟の兄、時成の命日

2020-11-07 22:29:33 | 薩摩藩英国留学生

今日、11月7日は、名越時成さんの命日でした。

明治44年に、宮崎県高鍋で亡くなったようです。満64歳。

〈弘化四(1847)年 9月24日生まれ ー 明治44(1911)年 11月7日卒〉

亡くなって今年で109年、ですね。

(調べたら、弘化元年は1844年12月2日から始まっているようですので、弘化四年九月は1848年‥‥と思ったら、1848年2月28日で終わってる??この辺がいまだによく分かりません。。

  

時成さんについては知っている事はさほど無いのですが、

以前、知らないうちに繋がっていたという、不思議な縁がありました。

 

20年近く前に勤めていた仕事の関係で知り合った方から「英会話に興味がある?もし習いたいなら良い先生を知ってるよ」と、ある方を紹介されたのです。

 

年齢的にも近いその先生の英会話クラスに通い始めて、洋楽好きという共通点などもあり、英語の授業以外にもいろいろ雑談するうちに、私が先祖について調べていることを話していると、同じ先祖であることがわかったのです

それも、通い始めてだいぶ経った頃でした。

 

それが、「時成兄さん」の娘のお孫さんだった!というわけです これだけでもすごいですよね〜

 

そして、そのお祖母様が亡くなって日も浅い頃か、法事が終わって紹介して下さった方のレストランに先生がご夫婦でたまたまいらしていた時に、これまた偶々私もお店に遊びに行き、お店のカウンターの隣に座っていたのがその英会話教室の先生だったと、後から教えて頂いたのでした。

 

そのお祖母様(時成さんの長女)も台湾で教師(確か美術でしたか?)をされていたということでした。

そして戦争前だったか戦後だったかに台湾から日本本土、鹿児島県に引き揚げて来られたそうです。

私の父も湾生(台湾生まれ台湾育ち)なので、より親しみが湧きました。

先生のお祖母様も、女性教師ということもあり、引き揚げてから苦労されたという話をされていたことを覚えています。

 

もうだいぶ前のことなので、細かいところは記憶違いもあるかもしれませんが、さほど間違っていないと思います。

時成さんの命日に、そんなことを思い出しました。

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島津蔵人 源 久名

2020-11-07 09:27:11 | 今和泉島津家墓地

 いつもご覧いただき、ありがとうございます 

 

6日に『大野多宮久甫と関山糺金生(孚)』を上げましたが、

今回も指宿岩本で撮った1枚。2006年撮影です。

こちらも気になっていたのです。「島津蔵人 源 久名」です。

 

「島津」だし、「源」だし、一体どういった人なのだろう??と。

 

「島津家家臣団系図集」で見てみたところ、

「島津蔵人家」というのがあり、「今和泉家二男家」(蔵人家)寄合 とありました。

  庶子 号 博多 明治2年改号 和泉

今和泉島津安芸 忠厚四男 久名    初 久武、蔵人 文化十三年十月命に依り樹家

      若年寄 安政三年九月十六日卒 

 

☆ 今和泉島津家墓地には他にも気になるものがいくつもあるので、随時回想とともにアップします

 

 

 

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島津久敬と永吉島津家

2020-11-06 23:49:12 | 永吉島津家

 皆さま、こんばんは

 

今日は前回に続いて、気になる一枚の写真紹介ぃ〜

ということで、↓こちらです 「島津又七郎 久敬」と「永畠 琴」と読めます。この「永畠 琴」ってどなたでしょうね

 

「島津又七郎 久敬」は、これまでこのブログ記事(『島津 登について』など)にもちょくちょく名前が出ていますが、例によって、この時は「島津」とあるだけで写真に収めたように思います。「又七郎?……久、敬‥‥?」って感じです。

 

「島津又七郎 久敬」……今和泉島津家・島津忠剛の息子で、天璋院篤姫の兄のうちの一人です。

のちに永吉島津第13代として養子入りしますが、廃嫡となります。

 

『日置市立永吉小学校創立百五十周年 並びに坊野小学校統合四十周年 記念誌』のp.151~155に、

「百五十年前の永吉」と題して野田幸敬氏が書かれていますが、その中の「9.  島津久敬について」(p.154)の項で詳しく書いて下さっています。

(上記の記念誌を入手した経緯はこちらに書きました→『ブログでの嬉しい繋がりを得た6月』)

 

「篤姫が徳川十三代将軍家定に輿入れ準備中の安政二年、不祥事を起こし三年で隠居となりました。宇都山の今の招魂社の横に隠居屋敷を置きました。‥‥中略‥‥。」

島津久敬のお墓は日置市永吉の天昌寺の右隣に久敬単独で立っているそうですが、実際の久敬夫婦のお墓は近くにありご家族で管理されているそうです。

上記、「中略」の部分に書かれているのですが、家臣の娘さんを妻にし、五男二女、孫もたくさんと栄えたようです。

(これを読んでそのことを知ってホッとしました

そして、「永吉島津家の二男以下の分家の名乗る名字」は決められており、「九良賀野」だそうです!

実際、江戸時代には、九良賀野平八家、亘家、登家などあるそうです。

で、久敬の家は「九良賀野」→「九良ヶ野」→「九良野」となまって名乗られたそうです。

そんなこともあるのですね〜

 

九良賀野については以前『水上の野元彦十郎様も』などに書きましたが、

左源太の妻・タネの弟・島津久籌の息子が「永吉の九良賀野辰彦」さんです。

永吉島津家に養子入りした、左源太の妻・タネさんの実弟・島津久籌(島津登の長男)の四男(長男は早世なので、三男?)が、この「辰彦」さんで、「駅長 九良賀野六郎 嗣」とあります。

 

 

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薩州家のこと、島津仲家のこと

2020-11-06 17:42:28 | 薩州島津家と我が家の先祖

これまで度々目にしながら、分かったようでよく解っていなかった「薩州家」について

以下、Wikiの「薩州家」(←系図あり)より

『 薩州家(さっしゅうけ)は、薩摩国守護大名島津氏の分家。

島津宗家8代当主島津久豊の次男の島津用久(好久)よりはじまる。「薩州家」の名前は用久薩摩守を称したことに由来する。2代当主国久の死後に起こった御家騒動は、他の分家をも巻き込んだ騒乱となった。一時は半独立状態にあったが、5代当主実久は島津宗家当主の座を巡る争いで、一時的に宗家当主・薩摩守護に就いたと考えられている[1]が、最終的には同じく分家の伊作家に敗北した。以後は島津宗家を継いだ伊作家系に従う。7代当主忠辰はこうした経緯からか豊臣秀吉九州平定に対しては、宗家よりも先に降伏した[1]朝鮮出兵に際し秀吉の怒りを買い改易され、忠辰が朝鮮在陣中に病死したため、薩州家はその所領を失った。』

 

 最初に「薩州家」を意識したのは、『さつま歴史人名集』で我が家の名字を目にした時でした。

(こちらにその頃のことを書いています→『追いつけない。。

 

 

そこに書かれていたのが「薩州家島津仲」だったのです。 

ただ、そこにあったのは「栗川用次」で、「島津帯刀久元二男、今和泉島津家臣。」とありました。

確かに曽祖父が継いだ養父の名前にも「用」の文字があるけど、これだけではよくわかりませんでした。

なので、しばらくはそのまま目にすることもありませんでした。

 

そして、「島津仲」ってなんだろう?「島津用久」って?と調べてみましたが、、、

 

結局、赤鉛筆で傍線を引いて、そのままでした。

今でこそ、これを見て「島津仲」だ!「寺山」だ!「矢柄家」もある!

「島津薩摩守義虎」に「忠辰」か〜。。と感慨深いですが、ここまで何年も経て、ようやく理解できるようになりました。

    

 

では〜

 

 

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大野多宮久甫と関山糺金生(孚)

2020-11-06 01:09:04 | 今和泉島津家墓地

 いつもお読みくださってありがとうございます

 

さて、今年6月に『12年前の画像とブログ記事』を書いた頃、画像フォルダを眺める中で、

「この画像をピックアップして記事に上げたいなぁ」と思うものがいくつかありました。

 

その中の1枚。14年前の2006年8月4日に指宿岩本の「今和泉島津家墓地」で撮ったものです。

「大野多宮 藤原久甫」「關山 糺 日下部金生」とあります。

側面にあるのは建立年月日「嘉永七 甲 寅年 二月二十七日」(最初「卯」に見えたけど、別ので確認↓)

  

当時は薩摩の歴史も今和泉島津家のことも、島津家の各家系のことなども全く知識のない頃。

何と無く気になって撮ったものですが、その後、高祖父・名越左源太に関する(左源太の叔母婿と書かれている)本などを読んだり、諸先生のお話をSNSで伺ったりするうちに、関山糺が名越家とも繋がりがあることを知り、2年半前『關山糺の名があちらこちらに』に書きました。

 

そこで例によって『島津家家臣団系図集』を見てみました。

「關山 糺 金生」は「金咬(白編に交)」を継いだ「関山 糺 金生(孚)」で、

「初,岑九郎 糺 大目付」更には「実,島津対馬忠喬二男 室,喜入主水久高 妹」とありました

 

そう!島津対馬忠喬とは、私の曽祖父・轟の養母、スガの父  →『島津對馬の長女・スガ

なのでこの「関山 糺 金生(孚)」はスガの兄だったんです〜〜〜〜

 

 

そして、前回書いた『町田申四郎の妻』の中に、「大野多宮 久甫」の名前があるのです 

 

「(町田久長の)二男・町田実積(さねつみ)‥‥‥大助・猛彦・萬‥‥‥(候補となるも渡英せず)

      → 三崎平太左衛門久謐を嗣ぎ改 三崎平太左衛門久志 室、大野多宮久甫 女(むすめ) 」

 

この「大野多宮」とは?

同じく『島津家家臣団系図集』(下巻 p.199~200)を見てみました。

 「大野氏「薩州家二男家」(多宮家)一所持 」

祖・忠綱(薩州家初代用久長男薩摩守国久二男号大野)

 

大野氏も今回改めてしっかりと調べてみたわけですが、代々を見てみると、

「忠綱」ー「忠悟」ー「忠元」ー「忠宗」=「久行」=「久明」=「久矩」と続きます。(= は養子入り)

 

系図の中には「寺山」「三原」など気になる姓がありつつ、

時代が下って「久矩」ー「久丘 」=「久富」ー「久端 隼人多宮」ー

  ー「久昶」=「久甫 多宮 実,島津安芸 忠厚四男 室,小松相馬清猷(きよもと/きよみち) 姉」との表記

 

なるほどそれで、今和泉島津家墓地の献灯に名前があるわけですね。

 

 今和泉島津家墓地で写したものはいくつかフォトチャンネルにアップしています

PC画面では右サイドにフォトチャンネル一覧がありますので宜しければ他も合わせてご覧ください

 

 

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町田申四郎の妻

2020-11-04 00:17:34 | 町田家の人々

最近、我が家の家電のひとつが調子悪く、いつ頃購入したのだったかと、メモ帳・手帳、日記の類を読み返していたのですが、そんな中、気になるメモ書き(日付は'18. 4/22)がありました。

以前FBのお友達(Fさん)の投稿記事で、調所笑左衛門廣郷の孫娘(次男の娘)・八重さんが、「町田久成の弟・申四郎の妻」であるという(Zさんの)コメントを書き留めていたのを目にして、改めてちゃんと頭に入れておこうと思ったわけです。

 

ここで、町田久成の兄弟について確認です。

薩摩藩英国留学生として、町田久成の弟たちが参加しています。

 

 【 町田久長の息子たち4兄弟は以下の通り】

当時の本名と渡英時の変名・帰国後の事も少し記してみます

(当時の年齢共に門田 明『若き薩摩の群像 サツマ・スチューデントの生涯』p.8~9参照)

 

(帰国後の事については、野田幸敬編『島津家臣団系図集』等参考)

 

長男・町田民部‥‥‥‥‥‥‥‥‥久成(ひさすみ)‥‥‥‥上野良太郎 28歳(開成所掛大目付学頭)

   → 博物館創設を提唱、明治15年3月オープンの帝国博物館初代館長、その後明治22年出家等ありますが、諸々は『関 秀夫著『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー』(☆翌4月5日追記あり)』に。

 

二男・町田実積(さねつみ)‥‥‥大助・猛彦・萬‥‥‥(候補となるも渡英せず)

      → 三崎平太左衛門久謐を嗣ぎ改 三崎平太左衛門久志 室、大野多宮久甫 女

           西南の役に出陣、延岡にて脱退、改 町田萬実積 石谷住 子孫不詳

    ☆三崎平太左衛門久謐も実は「町田監物久要三男」で実積の叔父、「室 伊集院亘久道 叔母」とあります。

 

三男・町田実種(さねたね)‥‥‥申四郎・右近・棟‥‥塩田権之丞 19歳

      → 明治に入り小松清廉を嗣ぎ小松右近清緝、後復家町田棟

         (実種の息子・慶蔵は昭和39年、兄・久成の長男・秀麿より町田家を継承)

  

 

四男・町田実行(さねゆき)‥‥‥清蔵(清次郎?)‥‥‥…清水兼次郎 15歳

     (鹿児島市の観光パンフには↑清次郎との表記も)

      → 帰国後財部氏養子(宮崎に居住)

  

 

※ 実種(申四郎)、実行(清蔵) 共に渡英の翌年(1866年)帰国。「帰国後の消息不明」と言われてきましたが、その後は以上のような事でした。実積(猛彦)さんが三崎を継いだというのはあくまでも『島津家家臣団系図集』によるもので、確認は取れていません。

 

そんな中で、「三男・実種=申四郎」さんの妻についての話です。

これまた『島津家家臣団系図集』で「諏訪氏本家(甚六家)一所持」を見ていた時に、「諏訪甚六=廣兼」の子・矩兼の室が「島津登久馨の娘・ヒサ」とあったり、娘が「町田棟 室」と書かれているのを見つけたのです!

 

「あれ?」と、ここでタイトルの「町田申四郎の妻」の話になるのですが、

親である「諏訪廣兼」の所をもう一度見てみたら、「室 伊集院隼衛久達 女」とあります。

もしかしたら、こちらが調所笑左衛門廣郷に繋がるのかな?と思ったり‥‥。

 

続きはまた改めて見てみる事にして、

今日はこれにて

 

 

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