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この記事はカテゴリー『都見物日記』として書いております。
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今回は、大まかな旅程や宿泊先などを記してみようと思います。
明治23年4月17日の出帆から5月29日の鹿児島到着まであるので、
まずは、4月17日〜4月23日大坂への宿泊まで。
『都見物日記』とは
名越左源太時敏の長女・イサが記した『都見物日記』は、
先日の 「永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様」 でも少しだけ内容紹介を書きましたが、
川上家のイサさんのお姑さん、イサさん、それと弟である私の曾祖父・轟の三人で船や鉄道を乗り継ぎ、讃州多度津〜金比羅参詣〜兵庫・大坂・西京・津〜伊勢参詣〜東京・日光・などを巡った際の日記で、明治23年4月17日鹿児島出発から5月29日までの旅の様子が書かれています。
明治二十三年 四月
『都見物日記』 川上イサ 五十一才
《 ザッと主な流れ 》
M. 23 4.17 AM9時過ぎ出立しほどなく乗船
PM2時前 出帆(豊瑞丸)
4.18 終日船内
4.19 雨。霧。昼食後、讃州多度津の港に着く
4時頃豊瑞丸から釣り船に降りて、夕方陸に上がる
総勢26名、汽車にて金比羅様へ(夜10時頃まで)
帰りに大茶屋「虎屋」で食事
夜10時頃、汽車で浜近くまで、それから舟で豊瑞丸を目指すも
霧で何も見えず、小舟にて26名で夜を明かす
4.20 天気よし。朝霧にて何も分からず昼寝。夜、沖に船(豊瑞丸)を見つけ
皆騒ぎ立ち賑やかに。ほかに大勢が乗り込み、夜中0時頃までせわしく
1時頃寝入る
4.21 朝4時より船出帆、天気よし。
少し風も出て晴れ上がり、船も揺れず昼寝。
午後、淡路島を眺め、兵庫港入り
宿屋「薩摩屋」 ※名越家と川上方へ端書を送る
神戸楠公社へ参詣
4.22 天気よし。7時過ぎに目覚め茶飲み、飯食べ、
すぐに神戸の停車場へ行き、二時間待ち。
10時前に汽車に乗り、11時過ぎには大坂の「増元」という宿屋へ着き昼飯
イサさんは宿屋で留守番
出掛けていた姑さんと轟さんが戻り、昼過ぎより大坂市中見物に
夜は道頓堀へ芝居見物
※大坂2泊
4.23 雨。昼は「増元」にて。夜は三原氏お母様と4人で「源水楼茶屋」へ
三原氏お母様は、曾祖父・轟の妻、ツタの実母です。曽祖父ら三人とは別に鹿児島市から大阪へ出向いていたということでしょうか。
いつもお読みいただきありがとうございます
さて、6月28日の『 電信の・・・。 』で、「次回からいよいよ『都見物日記』について書いていきます♪」と書いておきながら随分と間が空いてしまいました。。
10年以上前に mixi で書いていた日記と画像を、たくさんの皆さんに読んでいただけるように、このブログに書き写す作業をしています。
いろんなところに行った記録として、自分でもいつでも見られるように、また、こちらのブログでもリンクを貼れるようにという目的もあります。
そういうことですので、どうぞご了承下さいませ〜
『都見物日記』を語るにあたり、只今、構成に頭をしぼっておりますが、
簡単な流れを以前の記事から拾ってみます。
2018年3月17日の「川上イサさんの『都見物日記』」より
名越左源太時敏の長女・イサが記した『都見物日記』は、以前少しだけ内容紹介を書きましたが、
川上家のイサさんのお姑さん、イサさん、それと弟である私の曾祖父・轟の三人で船や鉄道を乗り継ぎ、讃州多度津〜金比羅参詣〜兵庫・大坂・西京・津〜伊勢参詣〜東京・日光・などを巡った際の日記で、明治23年4月17日鹿児島出発から5月29日までの旅の様子が書かれています。
寺師若法師さんにより薩摩文化月刊誌の『さんぎし』に紹介されたもので、昭和34年3月〜11月号に9回にわたって掲載されたようです。
私の母が存命中に、曾祖父・轟の兄、名越時成の子孫の内村八紘さんからコピーを頂いていたものです。
母から教えてもらい一度は目を通していましたが、全編に渡りしっかりと読んだのは、1999年7月に母が亡くなって数年経った頃でした。
その後、これがいつ頃掲載されたのか知りたくなり、父と鹿児島県立図書館へ行って司書さんに問い合わせところ、寺師若法師さんはだいぶ前に亡くなっているので随分前のものだと思う、との事でした。
2008年4月9日の 「「篤姫」と"いささん"の日記」より
日記によると、初日、「昼飯はおいしく夕飯はトントトントいけず残念に候」
と書かれており
「夕方より少々気分悪敷候得共吐き方これなく」済んだようですが、
翌18日は朝食は「食べる事はいかず、矢張矢張ごろごろ休み」、
九時過初めて用足しに出、顔を洗い、お茶を飲んだら少しは気分宜しく、
お昼はお粥を食べた、等々、船旅での様子が詳しく書かれていました。
川上のお姑様も「少し昨夜御はき遊ばされ御気分あしく、
今日はよろしく私と同敷(おなじく)昼飯より御召し上りなされ、‥‥」と
船旅は難儀なようでしたが、
3日目の19日には、雨が降り天気も船から見る景色も悪いものの、
「朝より飯食べ皆々元気にて気分宜敷実に嬉敷事。
一時頃には昼飯食べ程無く讃岐近くに砂の瀬に乗りかかり、云々」
と、早速立ち寄り先の事を綴り始めます。
ここから途中伊勢参詣も果たし、泊まった宿屋の名前や、
車や汽車の乗り継ぎも書き付けつつ東京滞在は5月1日から18日まで、
横浜から神戸・大坂に数日泊まり、
5月下旬、鹿児島に帰り着くまで日記は続きます。
と、こんな感じの旅の記録です。
その中の東京滞在中の日記では、最近になって「この人、親族だったんだ!」と分かった「永吉の九良賀野 辰彦」 という人物が出て来ます!曽祖父・轟の従兄弟にあたります。
以前紹介した『島津家家臣団系図集』により確認すると、永吉島津家に養子入りした、左源太の妻・タネさんの実弟・島津久籌(島津登久包の長男)の四男(長男は早世なので、三男?)が、この「辰彦」さんで、「駅長 九良賀野六郎 嗣」とあります。
永吉島津家からは、島津久敬から二代遡って「久良賀野 亘」という別立された方がおられました。
また日記には「九良賀野 辰彦」と一緒に 「水上(みっかん)の野元彦十郎」 という人物も出て来ます。
このように地元鹿児島ならではの地名や、滞在先の大坂や東京市での来客の名前もたくさん出て来るのです。
例えば、4月19日に讃州多度津に船が着き、そこから汽車に乗って向かった金比羅様へは
鹿児島からの知り合いとして「和田屋のすみばば、相良酒屋のばば、藤武殿」などが登場します。
この「ふたりのばば」さまは、4月22日の日記で
「石燈籠(いづろ)和田屋 母おすみ殿」と「上町柳町の相良の母殿」と書かれています。
それだけではなく、滞在先の宿の名前なども、もしかしたら、今も残っていたりする?などと興味は尽きません。
そんなこともあり、このブログをよんで下さる方でちょっとでも興味を持っていただけると楽しいな、なんて思います。
登場人物の名前や店の名前にお心当たりがある方は、どうぞコメントをお寄せ下さいね♪
ところで、昨年5月18日に興国寺墓地を見て回った時にたまたま目に留まった「九良賀野家之墓」があり、その時にはなぜ気になったのか分かりませんでしたが、川上イサさんの この『都見物日記』に書かれていた名前が頭の片隅に残っていたからだと腑に落ちた次第です。
近くには「種子島時中之墓」もありました。
前述の 『島津家家臣団系図集』 で「時中」を調べると、3名ほどあり、どの時中様かは不明。(種子島家はとにかく多い!)
ここにある燈籠↓には「九良賀野 ◯◯」とあるので、繋がりがある事が分かります。
ほかにも五月十三日には「西田の有川氏」(この方は銀行努めの人)とか「永岩直次郎さん」とか、とにかく一ヶ月半の間の事ですから登場人物は多いです(笑)
五月二日には「麻布永坂 島津氏お染様の所へ‥云々‥」などとあります。
「お染様」についてはまた改めて書きたいと思います。
五月十日には泉岳寺を訪ねた後、「大円寺の名越家御祖先の墓へお参致し」草とり掃除をしたり、ここより少し下にある「お筆どのの子供の墓へも」お参りしたそうです。
大坂では「西村時彦様」とも会っていたりします。(西村時彦は、のちの西村天囚)
《関連記事》→『「西村天囚」からの「島津吉貴の時代」』
今後は、先々で泊まった宿屋や、食事をした店、歌舞伎を見に行った事なども書いてみたいと思います
追記 (2021.2.9)
☆ 九良賀野辰彦登場の回はこちら→『「5月2日 新橋松元屋から 京橋区加賀町へ宿替え 麻布永坂島津氏お染様の所へ」』
2008年(平成20年)の若宮神社の六月灯へ行った時の写真を
当時の日付けの日記 ↓↓ に並べてみました。
六月灯@若宮神社 2008
右のフォトチャンネルも作ってみたので見てみて下さいね♪
☆いくつかここにも並べておきます。
☆若宮神社由緒沿革
☆画像はすべて2008年7月9日のものです.