今、番組見ながら書いてるんですが、
ただの鉄道マニア向け番組ではなかった!
NHK BS-Pのプレミアムカフェ
西郷隆盛は鉄道敷設に反対だったようで、
「莫大な資金を他の事に当てるべき、西洋の真似をすることだけでは日本の発展はない」など、『南洲翁遺訓』からの引用など紹介もあった。
品川の海上築堤跡の保存についても意見が様々な昨今にも関係ある内容。
琉球王子(伊江王子の名は初めて知った🤭)の話も出てきた。
第11世 伊江 朝直(ちょうちょく)
とりあえず、記録として。
今、番組見ながら書いてるんですが、
ただの鉄道マニア向け番組ではなかった!
NHK BS-Pのプレミアムカフェ
西郷隆盛は鉄道敷設に反対だったようで、
「莫大な資金を他の事に当てるべき、西洋の真似をすることだけでは日本の発展はない」など、『南洲翁遺訓』からの引用など紹介もあった。
品川の海上築堤跡の保存についても意見が様々な昨今にも関係ある内容。
琉球王子(伊江王子の名は初めて知った🤭)の話も出てきた。
第11世 伊江 朝直(ちょうちょく)
とりあえず、記録として。
いつもご覧いただきありがとうございます
さて、大河ドラマ「青天を衝け」では、朝ドラ「あさが来た」でも演じたディーン・フジオカさんが再度キャスティングされて話題になっている五代才助、五代友厚ですが、今日は明治18年に亡くなった五代様の命日でした。
明治18年(1885年)、五十一歳(満49歳)東京・築地の別邸にて病没
これまでにも書いていますが、改めて画像をアップして、遺徳を讃えたいと思います。
↑泉町の泉公園にある五代友厚の銅像(2016.1月撮影、2019.9月に画像フォルダ入れ)
『五代友厚公の命日に誕生地を訪ねる』(2019.9.25記事)
公園になった五代友厚誕生地(2017.1月撮影、2019.9月に画像フォルダ入れ)
『五代友厚誕生地、憩いの公園に』(2016.9.29)
工事着工前と工事中の画像(2016.9.29に画像フォルダ入れ)
また、タイトルにあるとおり、父方祖母の生みの親・スキの命日でもありました。
以前の記事→ 『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)』(2019.9.25 記事)
こちらは明治32年、1899年のことでした。享年31。
「慶應三年(1867年)十二月十八日生まれ」
「明治三十二年九月二十五日 午前十一時 臺北縣 臺北北門街二丁目三拾八番戸ニ於テ死亡」
合掌
眺めて楽しむ古地図遊びです
2008年1月23日に上町のバス停にあった古地図を撮影しました
どうぞお楽しみください
なお、ご感想のコメントは大歓迎ですが、
「画像にある〇〇家について」など詳細等を質問されても全く詳しくないので
何卒ご了承ください
地図の中央、城山からいづろ(石燈籠)、海に向かった範囲
No.33
No.42
No.36
No.37
No.38
次回は↓こちら側へ。
No.34
上町のバス停にあった古地図、結構楽しめるので、並べてみたいと思います。
眺めて楽しむ古地図遊びです
2008年1月23日に上町のバス停にあった古地図を撮影しました
どうぞお楽しみください
なお、ご感想のコメントは大歓迎ですが、
「画像にある〇〇家について」など詳細等を質問されても全く詳しくないので
何卒ご了承ください
全体が収まった画像↓
No.28
No.26
No.27
右上、福昌寺のあたりから
No.43
No.30
No.31
No.32
今日は「秋分の日」ですね
鹿児島は気持ちのいい快晴です
ここまで長々とシリーズ化した上町散策ですが、結局のところ、
2008年1月23日のこの日、名越家の屋敷跡を確定するには至りませんでした。
(前回はこちら→『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(6)森有礼誕生地』)
とはいえ、上町巡りの続きを書いておかなくては
春日神社の前の森有礼誕生地を後にして、細い路地に入ってみました。
この地図↓には春日神社の表示がないけど、春日交番から北へ向かい、左手のカーブを描いた路地です。
いい感じで苔むし年季の入った石垣だったので思わずパチリ
で、元の「名越家」があったあたりに戻り、空き地になっている場所を少し覗かせていただきました。
中へは入れません
↑↑『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(2)重富島津家屋敷跡』でアップした画像の
逆サイド↓からの絵ですね。
草叢の中に石垣の残骸らしきものが‥‥。
奥に目をやると、石燈籠もありました
「名越家屋敷、ここだったのかなぁ‥‥?」などと言いながら二人でしばし覗き込んでいました。
その後、同年2月2日に『重富島津家資料展』で古地図などを見る機会があり、「名越氏屋敷」があった場所はわかりました。
(『2/1~2/3 金魚、雨、いろいろ。(mixi日記より)』)
小柄な父だけど、結構高い石塀でした。ここ、2021年の今はどうなってるでしょうね?また散策してみたいです。
行っては戻り、戻ってはまた眺める父でした(笑)
車のテールライトも明るく見えて、夕暮れも迫って来たのでここでおしまい。
今回は、森有礼の誕生地です
春日神社の道路を挟んだところにあります。
今、2021年の画像見て気づいたけど、↑「春日小路」ってありますね
2008年1月23日の時点では知る由もなかったのですが、
実は、私の曽祖父・轟が妻子ともに養子となり家を継いだ家が
ほぼこの辺りで、「森有礼誕生地」の隣にあったようなのです。(古地図にて確認しました)
(上の地図では森有礼誕生地の上隣)
「森有礼」については‥‥、特にここで書くことはありません
今回は、前回の春日神社にも関連する話
13年前に散策して知ったのですが、(画像は全て2008年1月23日に撮影)
春日神社があるこの地が、戦国時代は軍港であったことが分かる石碑をご紹介します。
と、その前に、春日神社の周りの石塀に、あるものを発見!
丸に十文字が刻まれていましたよ
これがどういったものかはわかりません。
もしかしたら軍港だった場所であることと関係するのかな?と思っていましたが、
今考えると、前述の説明板にあったように、(これクリックしてね→)
島津家藩主が折々に参詣する鹿児島五社神社の一つだからかもしれませんね。
こちら↓が「薩摩水軍軍港跡」の碑です。
石碑には「薩藩」って書いてあるけど説明書きには「薩摩水軍軍港」となってる。
戦国時代にはすでに港が築かれたから、ということですかね。
「三國名勝図会」(鹿児島県立図書館蔵)より、「春日神社」の絵です。
このアングルの俯瞰図ですね。(区画整理などで若干違うかもしれませんが )
2008年1月の上町散策です ( 前回はこちら→『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(3)』)
重富島津家屋敷跡から東へ向かい、
角を曲がって北へ向かうと、ぐるっと回り込むような道があり、その先に
春日神社が見えて来ます (上の地図には表記がありませんが‥‥)
道路を挟んで眺める春日神社です。
春日神社の敷地にもある石碑がありますが、それはまた次回に
2008年1月23日の散策、画像整理ついでと言ってはなんですが、
記憶の掘り起こしが続いております。
お付き合い頂き、ありがとうございます
前回『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(2)』で重富島津家屋敷跡まで出てきた後、
東に向かいました。(画面、大龍小学校前の縦の通りを下方の「現在地」に向かいます)
ここで、この通りの名前が「南洲門前通り」と判明
↓画像奥が少し高くなっていて辿って来た道。少し下って来ました。
「歴史アメニティ回廊」とあるこの表示は角を曲がったところにあったと思います(曖昧)
そこには上町の歴史を詳しく説明する掲示がありました。
「鹿児島発祥の地・上町(かんまち)」です。鹿児島の発祥の地、なのですね、上町は
南方神社奉納 「恵比寿踊り」(尚古集成館蔵「倭文麻環(しずのおだまき)」より)
「鹿児島五社と三ヶ寺(さんかじ)」
鹿児島五社は「南方(みなかた)神社・八坂神社・稲荷神社・春日神社・若宮神社」
三ヶ寺は「福昌寺・浄光明寺・大龍寺」
次回は「春日神社」方面へ
今日もご訪問ありがとうございます
秋分の日も間近、朝夕はいくらか過ごしやすくなってきましたね
さて、2008年の上町散策の続きです。(画像は全て2008年1月23日撮影)
『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(1)』の最後に「左源太の遠島処分」とあるのは、
嘉永三年(1850年)の「嘉永朋党事件」、いわゆる島津家のお家騒動で「お由羅騒動」ともいわれるものです。
あまり大きな声で言いたくはないのですが(汗)、左源太の別邸(野屋敷)が密談の舞台となったというもの。
左源太は屋敷を貸したものの連判状に署名しなかったこともあり、遠島処分で済んだのだろう
ということだそうですが、それだけじゃない複雑な事情もありそうです。
それはともかく、大龍小学校の前を通り、「名越家」の角まで来た私たち親子
この角地も屋敷があった場所なのだろうか?と手がかりもなくウロウロ(怪しまれなかったか知らん?)
なんとか屋敷跡らしき名残を見つけたいと、
少し周りを散策してみることにして、先ずは国道10号線方向に下って行きました。
↓奥がスタート地点の角で、しばらく下って振り返ったところです。
国道10号線まで出ずに、最初の角を曲がってみました。
少し古い石垣を見ると、「いつ頃のものだろう??」などと思ってついつい撮影
「西本願寺上町出張所」でした。
親鸞聖人の像があり、恥ずかしながら「西本願寺は親鸞聖人と関係あるんだな」と
この時、初めて認識
道なりに進み、元の通り(古地図に「小坂」と書かれたあたり)に向かうことに。
空き地の向こうは、大龍小学校から伸びる通りです。
路地を曲がって通りに出ると、「卸口小路」と表示がありました。振り仮名はハッキリしませんが「おろっしゅっ」かな?
通りに出て向かいを見ると、重富島津家の屋敷跡です。
ここから元の「名越家」角に戻るか迷いましたが、それとももう少し散策を続けてみることに。
また次回に続きます
前回に続き、2008年1月23日に散策した鹿児島城下の上町の画像です。
(当然ながら、画像は全て13年前に撮ったものですので御了承下さい)
まずは、当時大河ドラマ『篤姫』の放送でにわかに注目を浴びることとなった、
篤姫の実家、今和泉島津家本邸跡 を訪ねることからスタートしました。
付近の様子。「上之馬場(うえんばあ)」と表示がありました。
この↓右手が屋敷跡。この屋敷跡の向こうにバス停があり、先ずは地図をたっぷりと写真に収めました(堪能♪)
バス停に到着。大きな古地図をじっくり見てみます。
「今和泉島津家本邸跡」の説明書き
バス停前には古地図のパネルが二つもあったので、ここで色々と確認します。
「名越家」は、篤姫のご実家のご近所でした。お向かいは重富島津家のお屋敷。
ただ、名越家のはっきりした場所は、この時点ではわかっていませんでしたので、
大龍寺跡(現・大龍小学校)の前を通り、この「名越家」角のあたりから付近をぐるっと廻ってみることにしました。
「大龍小学校校庭遺跡」として説明書きがありました。
「三千年くらい前の縄文時代後期を中心とした祭祀遺跡である」そうで、また
「五世紀頃に南方の島々との交流があったと思われ」るとあります。
「内城(1550~1602年)」「大龍寺(1611~1869年)」もあった場所には大昔からの人々の痕跡がありました。
大龍小学校の前の通りの奥は南洲神社・南洲墓地方面。
ここで方向転換し、名越家の屋敷跡があったあたりに向かいます。(小学校の門)
もう少し引きで見ると、
さらに鹿児島湾(錦江湾)側には「今和泉島津家濱(浜)屋敷」もありました。
実はのちに気づくことになるのですが、
『鹿児島城下絵図散歩』で、安政6年(1859年)に「島津峯之助殿中屋敷」であったものが、
それ以前の天保13年(1842年)には「名越右膳中屋敷」と表記があり、祇園之洲に掛かる
永安橋南側の「抱真院」に繋がる「境橋」の手前(画面の境橋の左手屋敷、上町から見ると境橋の手前右手)に
340坪の屋敷があったようです。(☆画像右手が北、左手が南)
嘉永三年(1850年)の左源太の遠島処分に伴い、父・右膳の中屋敷も
今和泉島津家に召し上げられたということなのでしょうか?
では、また続きます。
若宮神社の画像、改めて眺めていて気づいたことなどを書いてみます。
以前、記事に書いていますが、
『若宮神社~篤姫生誕地~春日神社界隈を散策(mixi日記より)』
(2008.1.25 カテゴリー「若宮神社」)
何となく気になって撮っていた恵比寿さまがありました(↑トップ画像)
なぜ若宮神社に恵比寿さまが?と思って、「若宮神社由緒沿革」を読むと、
明治初年までは「若宮八幡宮」と呼ばれていたようです。
(参考までに)→「八幡宮」、 「神社の分類と神様の系統」
祠の横、この左側の石塔↓の中に居られます
フォトチャンネルも作ってはいたのですが、
ブログ記事としては画像が少なくて不完全燃焼というか、
画像を紹介したりなくて改めてアップしたいと思ったのです
「若宮神社」は画像上部中央↓
近くには春日神社もあります。
こちらはまた次回に
いつもご覧いただき、ありがとうございます
今日はここで少し趣向を変えて
今の時期の庭の画像などを並べてみようと思います
こちらの塀側には朝日が当たらないので、デュランタが今頃になって咲いています。
こちらでは季節外れの紫陽花が咲いています。
母が好きだった(と思う^^;)アメジスト・セージ。いつの間にか庭から無くなっていたので、
苗を買ってきて直植えにしたら大きく育って花をつけてくれました。
これはアメリカ芙蓉、かな?(真ん中に伸びているのは花海棠の幹)
紅葉も少しずつですが色づいてきました。
金柑の木、思い切って剪定したら、いつの間にか緑の葉が繁ってきました。
大きく繁って剪定するのも大変だった銀木犀も6月にバッサリ切り戻してもらいましたが、
その頃からするとだいぶ枝葉が蘇ってきました。
←見栄えは悪いけど、紫式部です^^;↓貧弱でも紫の実が可愛いです♪
ミニバラ、ポップコーン
画像中央、蕾の左手奥に、ショウリョウバッタが写っていました。今年は庭でたくさん見かけましたよ。
こんな感じで、秋へと移り変わっていく我が家の庭です。