☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

『夢留』を読むために‥‥

2022-03-13 21:27:02 | これまでの経緯
一つ前の記事で、下野敏見先生の訃報を目にしたこと、
その記事に『南西諸島史料集』が紹介されていたことを書きました。
  ↓
 
ところで、我が家の書棚になぜか高額の『南西諸島史料集』があります。
この第二巻、「名越左源太関連史料」なので入手したものでしたけど、
そこに収録されている『夢留』を読みたいがために、
ごく平凡な一般市民の身でありながら
18,000円(税別)もする「南西諸島史料集」を購入したことを
すっかり忘れていました‥‥💦
 
家に届いたのは2008年11月7日のことでした
 
ただ、「現代語訳になって読めるのかと思っていたのは浅はかであった」と反省していたことまで、以前このブログで書いておりました(苦笑)
   ↓
 
========================
 
『夢留』のことを知ったのは、bizaさんのブログ「幕末奄美遠島生活」の記事からでした。
  ↓
 
過去に紹介していますが、このbizaさんはのちに
『名越左源太が見た 幕末奄美の食と菓子』を上梓される方でした。
 
☆トップ画像はこの著書からです
 
 
 なお、現在bizaさんのブログを読むことはできませんのでご了承下さい。
 
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原点に帰る機会を頂いた

2022-03-12 17:28:53 | これまでの経緯

 いつもお読み下さり、ありがとうございます

 近頃は少しずつ春めいて日中も暖かくなって来ましたね

 

さて今日は、私にしては珍しく朝から当日の新聞を開いてみたところ、
下野敏見氏の訃報を知りました。
『下野敏見氏が死去 92歳 種子・屋久、トカラ…民俗研究60年余』
心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。
 
私はこれまで面識などありませんが、
お名前は『南島雑話の世界』(2002年発行、名越(なごし)護 著)の
巻末の諸先生方との座談会でそのお姿と共に目にしておりました。
 
つい先日も、所々読み直していたところでしたが、正直申しますと、これまではつい左源太じい様の動向にばかり気持ちが向いて、巻頭からの「奄美の世界」についての記述にはざっと目を通しただけでした。
 
今、巻末の座談会のページを改めて読んだところ、
下野先生が「ゾフリ」についての考察を述べておられ(p.277)、元々の「ゾフリ」の実態は、時代が下っての意味とはまた違うのではないか、とあり、またそのほかにも「ノロ」や「シチャガマ」など興味を惹かれるものがあります。
 
ネットニュース記事を読むと、下野先生の著書に『南西諸島史料集』とあったので、書棚にあったはず!と「第二巻」を取り出してみたら、これは「名越左源太関係史料」(2008年11月発行)の巻で「松下志朗編」でした。
下野先生によるものではなかった、残念‥‥。
 
 
これも何かの啓示かと、これまでに読んでいなかった史料など、じっくり読んでみたいと思います。
下野先生、ありがとうございました。どうぞ安らかに。
 
 
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数年越しでのコメント返信

2018-02-10 13:30:09 | これまでの経緯

いつもお読み頂きありがとうございます

さて、このブログを立ち上げて10年目になります。

☆最初の記事はこちら→2008年3月20日「春分の日にブログを始めてみた。」

最初の頃は、地元の歴史はもとより、それに関わっていた自分の祖先の事すら詳しく知らない状態で
その都度その時点で気付いた事や疑問に思った事などを書いてきました。

また、このブログを立ち上げる前に登録制のSNS「mixi(ミクシィ)」に書いていた記事も
当時を振り返り自分でも確認する意味もあって、ここに転載することを少し前から始めています。

以来、今日までに新たに詳細が分かって来た事もあり、以前の記事を見返してみると訂正を加えるべき事なども散見されます。
最近では、以前の記事を見直し、気付いた時に修正や追記を記事に加える作業をしています。

そんな中で、これまでコメントを頂きながらも自分でも分からない事・捉えきれていない事については
コメント返しもせずに失礼とは思いつつもそのままにしておりました。

※ここまでの下書きは「2017-10-12 00:15:26」草稿。

   ☆☆☆

※以下、本日 2018年2月10日書き込みました。

2011年1月20日の『名越左源太泰藏の子供たち』などへは
公開にしているコメントの他にも数通のコメントを頂いていましたが、何しろ当方の知識も乏しく、またお寄せいただいた内容についての確認も出来ない状態でしたので公表は控えさせて頂きました。

いくつか例を挙げますと、「名越姓を"もらった"家系の子孫」であるとか、「左源太の"側室"の子孫」であると仰有る方もおられ、ただただ困惑するだけでした。

当方としては、私自身の祖父、曾祖父から遡ったことしか分からない上に、除籍謄本などは役所では曾祖父以降(昭和24年以降だったか?)の書類しか残っていないので、それ以前は辿れないそうでお手上げ状態のまま、それ以上はわかりません。
曾祖父の兄・名越時成さんについても、そのご子孫であり最初に我が家に曾祖父・轟について訪ねてこられた内村八紘氏から頂いたレポートからしか分かりませんので、今後ご質問頂いてもお答え出来ることは特にございませんので、ご了承ください。

もし、それぞれに詳しい情報をお持ちでしたら、是非、「鹿児島県歴史資料センター黎明館」の方へ情報なりお問い合わせなり頂けると有り難く存じます。

例えば、前述の『名越左源太泰藏の子供たち』の記事の最後に追記した通り、『鹿児島県史料 名越時敏史料ー1』によると、「三男・吉次郎、四男・徳熊」とあり、4男2女がいたと、文久2年の正月の日記に左源太時敏本人が書いていますので、こちらの線で調べてみられると何か手がかりがあるかもしれませんよ、舩田クラーセンさやか様。

それでは、ご希望のような答えになっていないかもしれませんが、勝手ながらこれをもって「数年越しの返信」とさせて頂きたいと思います。
また、コメントをお寄せ下さる場合、公開を希望されない場合はそのように一言お書き添え下さるようお願い致します。
特に断りない場合は公開にさせて頂くこともありますのでご注意くださいませ。


☆ちなみに、「側室」とは領主・殿様が持つものと思っていましたが、左源太のようなものが仮に「第二夫人」があったとして「側室」というのでしょうか?
素朴な疑問ですが、どなたかご存知の方、お答えいただけると幸甚に存じます。


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これまでの経緯-3

2008-04-25 23:52:14 | これまでの経緯

左源太の墓が、移設されたのかそれとも無縁墓として合葬されてしまったのか
確認出来ないままではどうにも収まらない私は、
何とか手がかりがないものかと、無い知恵を絞る日々でした。

3/13(木)
 鹿児島市役所へ行き、福昌寺跡近くにある発照寺(ほっしょうじ)に
 加治木島津家の墓とその他に少しばかり墓が残っていると聞き訪ねるが、
 本当に僅かばかりで、何の手がかりも見つからなかった。
 ほとんどは薮に埋もれ崩れた墓石がそのままになっていた。


やはり、左源太の墓はもう存在しないのだろうか?

永井氏が昭和24年に編纂された「高崎くづれ 大島遠島録」の
「名越左源太翁小伝」にかかれていた言葉が気に懸かる。

 『…(前略)… 墓は現に鼓川町長谷(註:長谷場)墓地にある。
 文化五年に起つた近思録崩(秩父騒動)で有名な秩父太郎一家の墓も
 相並んで其東方にある。此の墓地は遠からず全部他に移転すべき運命に
 あるそうだが、かかる由緒墓は何らかの方法で保存さるるであろう。』

コメント (4)
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これまでの経緯ー2

2008-04-25 23:35:11 | これまでの経緯

* 前のページより続き

我が家の祖先のことをいろいろ調べ、家系・繋がりなどをまとめているうちに、
名越左源太の墓を未だに拝めていないのは申し訳ないこと、是非とも探し出して
お参りしなくては、という想いが募っていました。
左源太の子供・子孫がどれだけ残っているのか、お参りをするひとが果たして
いるのだろうか?と考えると、おそらく鹿児島に残っているのは
ウチと内村さんと、おそらくイサさんの子孫の方くらいではないかと思われるのでした。


3/6(木)
 タンタドの名越左源太別邸跡へ。
 これまでにも2~3度探したのだが、今回ようやく初めて訪ね当たる。
 屋敷跡地前の坂道入り口に表示板があるが、車で行くと少々見つけにくい感あり。


3/11(火)
 福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。
* ネットで探して移設のことを知ったのは↓このHPでした。
名越左源太公の墓

 墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
 名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。

昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。

 *ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
 市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
 まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
 左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。

 この日はこのあと県立図書館へ行き、永井亀彦氏の
 「高崎崩の志士 名越左源太翁 
    (嘉永年間著わされた郷土誌料 南島雑話の解説)」と
 「高崎くづれ 大島遠島録 (名越左源太翁日記)」の
 2冊を借りて帰った。
  私は新聞で連載されていた「南島雑話の世界」と後に出版された書籍以外、
 この時初めて見にしたが、父は台湾で暮らしていた頃に
 左源太の描いた絵と解説の原稿を目にしている。
 
左源太の次男・轟は父の祖父。台湾南部で大正11年2月に亡くなっている。
父は大正15年生まれだから、轟さんとはお目文字叶わなかったわけですが、
左源太の描いたものは父親(轟の長男)から見せてもらったそうです。

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これまでの経緯ー1

2008-04-25 23:00:50 | これまでの経緯

その後もまだまだ史跡巡りは続きます。


一度ここで現在までの経緯を整理してみようと思います。

1/23(水)
 若宮神社~今和泉島津家屋敷跡~大龍寺跡(現・大竜小学校)
~上町の名越家屋敷跡~春日神社 途中、森有礼の生誕地跡碑など

1/27(日)
 鶴丸城跡(現・鹿児島県歴史史料センター黎明館)散策

1/29(火)
 小松帯刀別邸跡を見に車で出かけ、ついでに昔住んでいた地域を散策

2/2(土)
 黎明館「島津氏一門の雅と由緒― 重富(越前)島津家資料展 ―」

2/15(金)
 1年半ぶりに、指宿岩本の今和泉島津家墓地へ。

2/18(月)
 磯・仙巌園へ。庭園散策。尚古集成館も見学。

2/29(金)
 福昌寺跡(長谷場墓地?)で名越左源太の墓を探すも見つからず。。
* 後に、移転されたらしいという情報をネットで目にする。
第21代藩主吉貴夫人で第22代藩主継豊の実母である、
お須磨(名越家の女性)の墓に初めてお参りした。

* 3月もまだまだ続きます。

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追いつけない。。

2008-04-25 16:44:51 | これまでの経緯

私が、後追いで調べ始めたのが今年に入ってから。

大河ドラマで『篤姫』が始まるのを機会に
島津家との関わりや、我が家の家系の事をもっと把握しておきたいと
郷土史にも疎かった私は、まず手始めに家にある資料を読む事にしたのでした。

そんな折、ちょうど1月6日から1月12日まで
鹿児島市の篤姫館で開催されていた「篤姫展」を見に行ったのが
1月の10日。

篤姫館へ(2008.1.12 mixi日記より)


一通り展示物を見てまわり、出口に向かうとそこに
篤姫が暮らしていた頃の鹿児島城下の絵地図があり、
ウチの先祖の名前が書かれた屋敷跡の場所を発見したのです。



それで、俄然興味を持ったのでした。

それからはほぼ毎週、郷土の史跡巡りの日々で
まずは一度も行った事の無かった南洲墓地・南州神社へ。

郷土史探訪の日々<1. 西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)

郷土史探訪の日々<2. 南洲墓地~南洲神社(mixiアルバムより)

「ほ~ぅ、これが南洲墓地かぁ。」とぐるぐる歩き廻り、
ウチと関わりのあるお墓があるかと探してみたり、
歴史上名の知れた方々のお墓を拝見して回ったりしました。

この時点では、西郷南洲翁についても明治維新に関わる「郷土の偉人さん」で
西南の役の主役、城山で自害した人、くらいの認識しかありませんでした。
西郷南洲顕彰館も初めて行きました。


家に帰れば帰ったで、母の残した資料から興味のあるものを引っ張り出しては
あれこれと読みあさり、『「さつま」歴史人名集』で自分ちの名前の由来や
島津家歴代の名前や繋がりを調べまくり、脳内の日頃と違う分野を使い過ぎたために
頭痛をおこしたりしてぐったり疲れてしまうような事もありました。(笑)

ちなみに、現在の姓は今和泉島津家の家臣の家の名。
ドラマ『篤姫』にも出てきました。

母は以前から「今和泉島津の家来だった家なんだよ。」と言っていたので(*↓に☆☆☆《補足》☆☆☆あり)
「はぁ~、お母さんの言ってた事はこれだったのかぁー」と
ちょっとした感動を覚えました。

まだ大河ドラマの話題も無い頃、2年程前に今和泉島津家の領地だった指宿岩本にあるお墓も見に行き、

    

孫六さん。(mixi日記より)

忠剛・忠冬両領主の墓にある献燈に名前が残っているのを目にしてはいましたが、やはりこういう形で名前が出てくると、また違った感慨があるものです。

      

      

実は、この燈籠に名前を見つけたのは、
随分前にこのお墓を見に行った母だったのです。

母の残したメモや集めた資料を眺めては関連づけて読むのですが、
めぼしいところは既に目を通した跡があり、
赤鉛筆で傍線を引いてあったりします。

もう、どこまで先を行っているのか、「もうコレはチェック済みなのか~!」
「これもすでに知っていたのねー!」などと父と二人驚くばかりで
なかなか追いつけそうになく、ただただ脱帽です。



☆☆☆《補足》☆☆☆2017年3月9日

(*)我が家が「今和泉島津家の家来だった家」というのはちょっと違っていて、同じ姓ではあっても繋がりまでは未だに分かっていません。

この件は、当時の母にはまだ解明できていなかった懸案でした。
そのため、父をお供に指宿市役所に戸籍を調べに行ったりしたようです。

なぜそう思い込んでいたのかというと、指宿岩本の今和泉島津家の墓地で見つけた献灯石に刻まれていた名前は「栗川用邦」「栗川用郡」で、
曾祖父・轟が妻ツタ(旧姓:三原)と長女・長男とを従え養子に入った先の養父の名前が「栗川用行」なのです。
(これについては2016年5月25日の「我が家のファミリーヒストリーを思う」にも書きました。)

また、上記本文にもあるように『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄/高城書房出版)で見てみると、
  「薩州島津仲正徳年間、二男以下の苗字栗川氏、諱字は嫡男 久、二男以下は 用 と命名するよう命ぜられた。」とありました。
  「栗川用次 島津帯刀久元二男、今和泉島津家臣。」とも書かれています。

それですっかり「間違いない!」と思ったのかもしれません。

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そもそもの始まりは

2008-04-23 17:05:19 | これまでの経緯

私が名越左源太の名前を初めて聞いたのは、20年程前の事でしょうか、
母が先祖の事をいろいろ調べ始めた頃だったと思います。

「お父さんのひいおじいさんは『南島雑話』を書いた人で
名越左源太っていうんだよ。」とか
「ウチは元々は北条家の流れ(*)で、
島津継豊の母親は名越家の人で(「これまでの経緯-1」
もとは江戸高輪のお豆腐屋さんの娘だったんだって。」などと話すのですが、
「…なごや…さげんた?……なんとうざつわ?」と、当時は全くワケが解らず、
ただ、「ふ~ん…。でもそれが、今のウチとどう関係あるの?」といった感じでした。
(*後に、北条家の流れを汲むのは別の名越氏であることが判明しました)
      ↓
    下部に☆☆☆《補足》☆☆☆


母はその頃、自分たちのお墓を建てようとしていて、
ちょうど父方の(私から見た)祖父の50年祭も近い事もあったりで
銘碑に刻む先祖の名前や没年・系譜を調べたのが始まりなのではないかと、
9年前になくなった母の遺品を整理する中で思い至ったのでした。


その中で、父方の祖先に名越左源太と言う郷土史にも名の知れた人物がいて、
更にその祖先を調べると島津の殿様に嫁いだ女性の兄が
島津家に仕えるようになったのがそもそもの始まりだとわかり、
(父は左源太については自分の先祖の事なので当然知っていたのですが、
極々身内のこと故にそれまで別段話をすることも無かったんじゃないかと思いますが、)
そこから今度は島津家の事を調べ始めたらしいことが
残された数々の資料から推測されます。


・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

…と、ここまで書いたところで
念のため父に訊いてみたら、それより以前に母は既に知っていたそうです。(^^;)
母はもともと歴史が好きだったらしい事も初めて知りました。あはは。。



☆☆☆《補足》☆☆☆2017年3月9日

(*)この「北条家」かどうかに関しては、
時成の子孫の内村氏からのお話があり、(*)内の文章を書き足したのですが、
左源太の家も北条家の流れを継いでいるのではないか、との話もあります。
ちなみに、家紋は三笠(開いた三本傘)。
曾祖父・轟の兄、名越時成の変名「三笠政之介」の三笠はこの家紋から付けたとのことです。

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