☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

薩摩藩留学生渡欧の地、串木野羽島 in 2010

2017-09-28 00:56:14 | 薩摩藩英国留学生
☆以前の留学生たちのイラストのある案内板は台風で被害を受けたため、
現在のものは新たに作り直されたものだそうです。

☆現在のものはこちら

2010年4月17日『薩摩藩留学生渡欧の地、羽島』という日記を書きましたが、当時の懐かしい写真をmixiから拾ってフォトチャンネルを作りましたのでご覧下さい。

羽島に記念館が作られる予定だと、当時テレビニュースや新聞などで目にして一度行ってみたくなり父と出かけました。
気持ちよく晴れた日で、現地につくと薩摩藩英国留学生記念館建設に向けて整地をしていました。

記事欄外、右サイドにある「最新フォトチャンネル」に今年4月に行った時のアルバム『羽島・薩摩藩英国留学生記念館』もあるので、
7年前の様子を現在と比較するのも一興です。
  
薩摩藩留学生渡欧の地、串木野羽島 in 2010
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ブログの景色をお着替え♪

2017-09-27 22:57:45 | 日記
 いつもお読み頂き、ありがとうございます

今日は久しぶりにテンプレートを新しくしてみました

ずーーっと菜の花に蝶々を飛ばしたデザインだったので、気分一新

テンプレートの名前は「実」

色合いや葉の形から、パッと見は「オリーブみたい♪」と思ったけど、実が丸いから違うか

でも明るくていい感じです

右側には新たに「フォトチャンネル」も並べてみましたのでご覧下さいね


今日は雨でした
最近長めの投稿が続いていたので、今日はあっさりこんな感じで

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台湾・沖縄関連の本&DVD、大人買い!

2017-09-27 13:27:21 | 日記
先日書いた『維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(2)』「牛島満大将生い立ちの碑」についても書きましたが、改めて「牛島 満」で検索したところ、関連する本がある事が分かりました。

 『沖縄決戦-高級参謀の手記』八原博通 著 
 『沖縄戦 二十四歳の大隊長: 陸軍大尉 伊東孝一の戦い』笹 幸恵 著
 ☆Wiki 八原博通
 ☆伊東孝一さんについて検索すると、『NHK 戦争証言アーカイブス』がありました。
  また、キーワード「棚原 高地 伊東 孝一」で検索すると、詳しく書かれたホームページなどがヒットしました。

購入するかどうかかなり悩みましたが、結局あれもこれもとお取り寄せ。

2冊購入を決めたついでに、前々からチェックしては長いこと購入を躊躇していた『セデック・バレ』(台湾の「霧社事件」を扱った映画)と、この映画を撮った監督の作品『餘生〜セデック・バレの真実』というドキュメンタリーのDVDも合わせて観たくなり購入。

ドキュメンタリー映画は154分と2時間半あまりとちょっと長めですが、それ以上に『セデック・バレ』は4時間ほどあるらしく、まだ届いてないけど観るのに苦労しそう。。
一度に全編通して観る事は多分出来ないと思われます。

『KANO 1931海の向こうの甲子園』は永瀬正敏さんが出演されたことで知られる台湾映画。
昭和6年日本統治時代、台湾南部・嘉義の嘉義農林学校野球部が甲子園で決勝まで上り詰め、人々の記憶に残る善戦を繰り広げた実話を基に描かれたもの。

映画については気にはなっていたものの、とうとう観ることはありませんでした。
(前にも書いた通り腰痛持ちなので、長時間の視聴は後々が心配

「KANO(嘉義農林高校)」の話は当時の人たちには知られていたとはいえ、父が5歳くらいの頃の事なので父にしてみても伝え聞いた話だろうし、もっと詳しい事も分かるんじゃないかな、と思ったわけです。
また、嘉義は父の長兄が小学校の教員として過ごした町でもありました。

コミック版の方は、巻末にある昭和6年当時の菊池寛のコメントを載せた新聞記事やなどを購入を決めました。

八田與一さんについては近年知られるようになったと思いますが、祖父も勤めていた嘉南大圳についても詳しく知りたかったので読む事にしました。

   ☆☆☆

今回は、一度にあれこれ買ってしまったので、記録としての投稿です
 
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維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(3)

2017-09-24 00:58:43 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

☆☆☆ 前回の「維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(2)」からの続き ☆☆☆
※画像はすべて、2008年当時のものです

さてさて、『維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008』の第3段です。
      (※小さい画像はクリックすると拡大表示されます)
「篤姫ウォークマップ」にも載っていなかった「田代安定誕生之碑」と思いがけず遭遇し、
 

「八重山や南方諸島の研究者であった方だとか。左源太さんとも重なるじゃないですか!興味がわきました。」などと、
当時はまだ、数年後に判明する両者の不思議な繋がりなど知る由もなかった私たち親子は
地図を頼りに先へ歩を進めました。

次に向かったのは、鹿児島市立病院(※)の敷地の一角にある「彫塑家 安藤照誕生地」です。
父は当然のように知っていたこの名前、私はこの時初めて知りました。☆Wikipediaより「安藤 照」代表作
鹿児島市の城山の麓にある軍服姿の西郷隆盛像や東京の「初代・忠犬ハチ公像」などの作者として知られています。
明治25年生まれで旧制県立川辺中へ入学後旧制二中(現・鹿児島県立甲南高等学校の前身)へ転校、8年かけて卒業後東京美術学校へ入学。
在学中・卒業後と数々受賞し活躍するも、1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲の犠牲となって死亡。享年54。《Wikiより》

そしてその横には「四方学舎の跡」の石碑と説明書きがありました。

この石碑もマップには載っていなかったのですが、ここで薩摩の偉人たちも文武に励んだのですね。

 ○Wiki『郷中(ごじゅう)』より→「方限(ほうぎり)」
 ○WaShimoさんのHPより→「郷中(ごじゅう)教育」

(※)現在、鹿児島市立病院は以前のJT(日本たばこ産業)の跡地に移っており、市立病院跡地 についてはPDF『市立病院跡地緑地基本計画』(平成29年7月)が公表されています。またそれとは別に今年9月には『鹿児島市における明治維新150年・大河ドラマ「西郷どん」放送に向けての取組みについて』(イメージパース図あり)も。来年の大河ドラマ『西郷どん』放送に向け『大河ドラマ館』が新設される予定。
 鹿児島市HPより《西郷どん 大河ドラマ館の案内》
☆HPによると、設置期間は平成30年1月13日(土)〜平成31年1月14日(月・祝) (367日間)。年中無休だそうです!
 期間終了後は、緑地公園になるのかな?

そこから今度は路面電車(市電)通り沿いに北上し、「山本権兵衛とその甥・英輔の誕生地」を見て
(☆小さい画面はクリックすると拡大表示されます。)

中央高校の周囲に点在する御歴々の偉人たちの誕生地を観て回り(東郷平八郎誕生地は高校の敷地内で写真無し)、

☆なぜか川向こうに続きこちらにも「井上良馨誕生地」の石碑が?! 川向こうの大久保誕生地近くの方が石碑が古い感じ。↑説明書きは全く同じ





白猫に誘われつつ「西郷隆盛・西郷従道 誕生の地」を訪ね、
維新ふるさと館横の「大久保利通生い立ちの地」を巡って


鹿児島市の戦災復興記念碑(祈念ではなく記念)や大久保利通銅像を写真におさめ、
無事ゴールする事が出来ました♪

☆今思い返しても、今に繋がる有意義なイベント参加となりました。

   ☆☆☆ 完 ☆☆☆


☆四方学舎の碑から大久保利通銅像前までアルバム第2部です。
   ↓ ↓ ↓
維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008ー②

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維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(2)

2017-09-19 14:37:33 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

☆トップの写真はこのイベントの際に頂いた「篤姫ウォークマップ」

☆☆☆ 前回「維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(1)」より続き ☆☆☆
画像は断りのない限り、2008年11月15日当時のものです

さて、松方正義像をあとにして、武之橋を渡った右手には、乃木希典夫人の乃木静子像のあった公園があります。
乃木静子誕生地です。

小さい画像はクリックすると拡大表示されます。  静子夫人、生い立ちから殉死までの年表
お守り札のエピソード、など 

辞世の句「出でまして かへります日の なしときく 今日の御幸に あふぞ悲しき」

☆おや?とお思いの方もあるでしょうが、現在は今年7月「乃木静子夫人銅像、再び」にも書いたとおり
去年11月27日(夫人の誕生日)に新しい乃木静子像が建立されています。《乃木静子夫人奉賛会のHP》

 (以前のものがリンク切れだったので、新たに検索して貼り直しました!  ↑ 2020. 7. 21)

☆ご覧の通り、以前の案内板には現在の像の基になったと思われる写真が映っていました。

 現在の様子
              


乃木静子夫人の誕生地をあとにして武之橋方向へ戻り、今度は甲突川左岸を上流へ辿ります。

そこには牛島満大将生い立ちの碑があります。

沖縄軍司令官 牛島満大将 生い立ちの碑(石碑裏側) 苔むした台座 金丸三郎 元鹿児島県知事による碑文

☆2017年現在まで、ほとんど詳しい事は知らずにいたので改めて調べてみました。
Wikiによると、牛島満は1887(明治20)年7月生まれ。父母ともに薩摩藩出身だが、満の出生地は東京で、
生まれてすぐに父親が急逝したため、母親の郷里である鹿児島に兄弟とともに帰郷。
1897(明治30)年に熊本陸軍地方幼年学校に入校。1906年に陸軍士官学校に入校。
但し、第一鹿児島中学(現・県立鶴丸高校の前身)が母校とある。

    建立期成会委員の御歴々

(ここでは敢えて沖縄戦時下の出来事に関する事は書きません。Wikiなどを参考にして下さい。)
なぜここに碑が立てられたのか経緯は分かりませんが、この辺りに暮らしていたのかもしれませんね。

☆牛島満中将(没後大将)について2008年当時は全く聞いた事がなく、ここを訪れた時に父が親から聞いた話を私に語ったのです。
父の話によると祖父から「もしかしたら(大龍小学校で)同級生の牛島かなぁ」というのを聞いていたようですが、今回調べてみると生まれた年が違いました。
祖父は明治14年5月生まれなので牛島氏は6歳若い。
もしかすると牛島氏の兄弟が同級だったのかも?などと思ってみたり、同名でも全く別人か?とも。今となってはわかりませんが。

「篤姫ウォークマップ」見ながら歩いていたところ、牛島満生い立ちの碑はコースから外れていたので
次の安藤照誕生地を目指して市立病院の裏手を歩いていると……
そこに唐突に現れたのが「田代安定誕生之地」と書かれた石碑と説明板だったのです!

☆mixiフォトアルバムを見ると作成当時の写真説明コメントのところに
「八重山や南方諸島の研究者であった方だとか。左源太さんとも重なるじゃないですか!興味がわきました。」と書いてありました(笑)

☆関連記事→「田代安定について考える【追記あり】」


☆☆☆ もう暫く続きますがまた次回へ↓ ☆☆☆

維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(3)


アルバムも作ってみました。
枚数が多いので2部に分けました。
「維新のふるさと鹿児島ウォーク2008ー①」

2冊目の
「維新のふるさと鹿児島ウォーク2008ー②」も出来ました♪('17. 9/20完成!)

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維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(1)

2017-09-19 00:10:18 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

☆ 2008年012月8日作成の mixi フォトアルバムより抜粋
なので、現在とは違いが見られるところもありますのでご了承下さい

'08. 11/15土曜日、JR九州と鹿児島市企画の「維新のふるさと鹿児島ウォーク」5kmコースに参加した時の写真を並べてみました。
 維新に関する人物だけではなく、渋谷の忠犬ハチ公を作った安藤照誕生地乃木静子誕生地、それに、もしかしたら祖父の小学校時代の同級生かもしれないという牛島満生い立ちの碑なども見ることが出来ました。
 乃木静子誕生地や牛島満生い立ちの碑などはコースには入っていないのですが、もらった地図にはしっかり記されていて、父の解説付きであれこれ見て回ることが出来ました。

☆まずは、鹿児島中央駅からスタート!共研公園の中を通り、「西郷南洲翁宅地跡」

……と、ここでは写真撮らなかったので、今年2017年5月に撮った画像を
☆共研公園の画像など 小さい画像はクリックすると拡大表示されます

ここだけは今年(2017年)5月撮影

続いて甲突川沿いを桜島に向かって歩きます。

振り返って中央駅の大観覧車「アミュラン」をながめつつ、川沿いから離れナポリ通りに戻り、石塀沿いに歩いていくとそこには‥‥

井上良馨(いのうえ よしか)の誕生地、そして同じ区画の角地には大久保利通の誕生地碑が立っていました!


ここはナポリ通り。桜島を望むと川の右側、錦江湾(鹿児島湾)に流れ込む甲突川の右岸です。
(この時はもしかしたらナポリ通りのライトアップの工事中だったかな?それとも街路樹の手入れ?)
ナポリ通りを横切り更に甲突橋近くには、関勇助誕生地の石碑と説明板がありました。ちょうど何かの工事中で作業道具が広がっていました。
 

 

  歩行者専用道路を示すガードには小鳥のオブジェ。猫にも遭遇♡ 更に川岸を下流へ歩くと、

甲突川に架かる武之橋が見えてきました。

残念ながら五大石橋のひとつだった以前の「武之橋」は平成5年8月6日の「8・6水害」で破壊流出してしまいました。

武之橋の一つ下流側の橋が見えます。橋の名前は、「松方橋」!近くには松方正義像があります。


☆この当時、名前だけは知っていた、2度にわたって首相を務めた松方正義

mixiフォトアルバムでは「まさに、大河ドラマ「天璋院 篤姫」の現在放送中の激動の時代背景と重なります。良く見ると篤姫と同い年!!」と書いています。

西暦で言うと松方正義は1835年、天璋院 篤姫は1836年ですが、旧暦の天保6年生まれということでは同じ年なのですね。


「我に奇策あるに非ず 唯 正直あるのみ」と書かれています

で、この銅像があるこの場所が「松方公園」だと思い込んでいたところ、
今回写真を見直しイベントでもらった地図を見直すと、ここから少し住宅地に入ったところでした。そこが誕生地です。

 

☆☆☆ 長くなるので続きは↓次回へ ☆☆☆

維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(2)

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品川弥二郎と田中芳男、そして町田久成の関わりとは?

2017-09-17 22:28:16 | 町田久成(敬称略)

いつもお読み頂きありがとうございます♪

前回の『繋がるものたち』の最後に町田久成と田中芳男の因縁について

「田代(安定)が上京し勤めた内務省の博物局(!!)係の局長というのが、田中芳男でした!
 以前書いた通り、初代帝国博物館館長・町田久成の次に2代目館長となった人物でした!」

と書きましたが、自分で検索してもこのブログ内のどこにも書いていませんでした。。

よく考えるとTwitterでつぶやいていたので、こちらにも載せておきます。

タイトルの3人の関わり合いに付いては‥‥うまく纏められないのでご紹介まで。
気が向いたら、というかこの件の元となった本を熟読出来た時には書くかもしれませんが、
詳しく知りたい方は、関 秀夫著『 博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー 』をお読み下さい。(^^;


 

 



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繋がるものたち

2017-09-14 23:56:40 | 日記
いつもお読み頂きありがとうございます。

この頃、郷土の歴史に関連するいろんな本を読んでいると、それ自体は全く繋がりはないと思っていた書物の中に唐突に別の本のことが書かれていたり、はたまたずっと気になっていたことの答えが随分前に買った本の中にひょこっと書かれていたりする事が続いています。

例えば、ブログを始めた切っ掛けなどを最初の頃に書いたのですが、
2009年2月23日の「ブログに込めた思い ー 2」で「"子孫から"名瀬市に寄贈された」とあるこの子孫とは誰なのか不明のままだったのが、名越護さんの『南島雑話の世界』を念入りにに読み返してみたところ、西宮市の(名越左源太の直系の)子孫の方と鹿児島市の内村八紘さんから奄美博物館に贈られた…とハッキリ書かれていたのです。

なぜこれを見落としていたのかといえば、
頭初は様々な資料・史料に手こずっている中で、関連のあるもの・真っ先に関心のある事柄に気持ちがはやり、飛ばし読み・拾い読みをしていたからなのですね。(汗💦)

なので少しは知識も増えていくらか理解出来てきた今、再度丁寧に読んでみているところなのです。

あと、最近「田代安定」に関して書きましたが、今日落ち着いて「第一章 青年期」を読んだところ、「鹿児島県勧業課陸産係時代の田代安定の動向が記された資料がある」(p.27)として紹介されているのが、随分前(2011年)に出版され、それを新聞の案内で目にした当時に購入していた『児玉宗之丞日記 (上巻) ー明治の生活がよくわかるー 』だったのです!
『児玉宗之丞日記 (上巻) ー明治の生活がよくわかるー 』所崎 平 著

これにはハッとしました!
正直どんな内容だか当時は見当がつかず買うのに随分迷った末、茫洋としながらも、左源太や曽祖父の生きた時代を知る上で何かの参考にはなるだろうと手元に置くことにしたからです。

当の『児玉〜』の本ですが、ところどころ付箋を付けてはいるものの、やはり拾い読み程度で「また後で改めて読もう〜」と今日までほとんどそのままになっていました。
今になって「買っておいてよかった〜♪」と思えたのでした。
資料とはそんなものなのかもしれませんね、もしかしたら。。。(?)

しかし、改めて田代安定という人は凄い方です。
名越護さんのご著書を読まれることをお薦めします!

それと、「田代安定誕生の地碑」の写真が出てきたと前述のブログ記事に追加で貼ってるのですが、名越氏の本の冒頭部分にも同じ様に載っていて、「四方学舎之跡」の石碑の写真と共に場所の紹介もされていました。
☆田代安定誕生の地は旧私立病院の裏手にひっそりと立っています。実際、私も2008年11月15日の「維新のふるさと鹿児島ウォーク」で歩いた際には、他の偉人達とは別の一角に全く唐突に石碑を目にした様に記憶しています。

そして、田代が上京し勤めた内務省の博物局(!!)係の局長というのが、田中芳男でした!
以前書いた通り、初代帝国博物館館長・町田久成の次に2代目館長となった人物でした!
ここでもこんなふうに繋がるなんて…という感じです。


では、今夜はこの辺で。
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曾祖父・轟と台湾

2017-09-13 09:12:47 | 名越左源太と家族
曾祖父・轟の名を台湾のサイトに見つける
秋場所も始まりました。皆様、ご無沙汰しております。夏の暑さもようやく治まりつつあるこのごろ、久しぶりにブログを書いてみる気になりました。前回の記事をアップした直後、U室......


1年前(の昨日)書いた記事です。
台湾へ渡った経緯は未だにわかりませんが、ここで再度ブログに上げておこうと思います。
台湾へは2度ほど父の同窓会のお伴で行ったことがありますが、
今後行けるかどうかは分かりません。
台湾語(台湾華語?北京語?)、勉強したいなぁ。。。。
CDブックは買ってあって、一応目を通したくらいですが、集中して勉強しないと身に付かないですね。

本当は現地に行って、国立台湾大學図書館の田代安定文庫の資料も見てみたいんだけどなぁ‥‥。

いつか叶うと良いな、という夢です。
名越護氏も著書『田代安定』のあとがきで書いていたけど、
もっと研究が進んで、資料の開示がされることを望んでいます。
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野津鎮雄の...?!

2017-09-12 21:09:13 | ある日の父の問わず語り
9日の記事『佐々木 克氏監修『大久保 利通』からのあれこれ』で、
佐々木 克(すぐる)氏監修の『大久保 利通』(講談社学術文庫)を読んで気になったことや気付いたことなどを書きましたが、
米田虎雄(※)氏の談話の中に、「野津鎮雄(のづ しずお)」の名前が出てきます。(→26. 佐賀陣中の公 27. 沈勇なりし公)

 (※) 米田虎雄(こめだ とらお)…… 1839(天保十)年 〜 1915(大正四)年
   熊本藩家老 長岡監物(ながおか けんもつ)の子。父の旧姓の米田(こめだ)を名乗った。
   1871(明治四)年七月、宮内省の改革が行われた際、熊本県権大参事から侍従に登用された。ついで侍従番長となり
   1873(明治六)年三月の明治天皇断髪に奉仕した。また、佐賀の乱の際には熊本士族の鎮撫のために派遣された。
   1879(明治十二)年に侍従長就任、以後も長く宮内省に出仕した。
   父 長岡監物は1859(安政六)年八月に没したが、西郷隆盛と大久保利通が信頼を寄せていた熊本藩の要人である。
       ( 同書P.144-145 より)
この本、貴重な上とても面白いので、是非実際に読んで頂ければと思いますが、談話の内容を簡単にまとめると、
大久保公が佐賀の乱の時自ら進んで平定に出かけ、米田氏も河野敏鎌(こうの びんけん・とがま)と一緒に随行したところ、大戦争の真っ最中に鉄砲の弾丸が飛んでくる中を周章(あわ)てる様子もなく当時司令官だった野津のところへ歩いて向かい、それを見ていた河野も米田もその沈勇ぶりに愕いたという話、また、陛下が北越御巡幸になったことがあったがその御巡幸の前に近衛兵が混雑を起こした時には、騒動が起こって第一に飛んで来たのは大久保さんであった(※※)と、後になって野津(この時は近衛の参謀長をしていた)から聞いた話で、公の次に大隈(重信)さんが来たほかは騒動が済んで弾丸の雨の降り止むまでは誰も来なかった、危険な中を冒し陛下のご機嫌を伺い、野津を御前に召して万事をご命令になるように取り計らったのは実に泰然たるもので、野津も敬服したと言い、公は実に沈勇な人であった。……といったことが綴られているものです。

(※※)ただ近衛兵の騒動、いわゆる「竹橋騒動」が起こったのは明治11年8月23日で、大久保はこの年の5月14日に暗殺されているから、野津から聞いたと紹介しているこの話は米田の記憶違いである、と<監修者注>には書かれている

談話は最後に、(取材時)72歳になる米田氏が今までに感服して真に天下の豪傑だと思ったのは大西郷と藤田東湖、それからこの大久保公、この三人だ、と語られます。
(『報知新聞』明治四十三年十一月十七日、十八日掲載記事) 《参考までに→「tsubu(ツブ)」さんのHPより「西郷隆盛と藤田東湖」》  

で、ここで父の話になるのですが、
ある日、藤田東湖が出てくる部分としてこの談話を音読して父に聞かせている最中のこと、
急に「野津鎮雄の孫だという人が居てねぇ、」と語りだしたのです。

話の続きを訊いてみると、弟が通っていた幼稚園の保護者会でその「野津(鎮雄)の孫」という人に「会長になってくれ」と言われ、
父は何度か固辞したものの、やむなく承知、しばらく任に付いた後、退いた、という話でした。

またまたひょんな話でしたチャン、チャン
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あ、る、っこー♪あ、る、っこー♪(mixi日記より) 

2017-09-11 18:14:48 | mixi日記アップのお知らせ
2008年6月21日のmixi日記より
「あ、る、っこー♪あ、る、っこー♪」
過去日記にアップしました。

☆ 新聞にあった「池之上町界隈で地元の埋もれた名所を見直してみよう!」 という記事を見つけ、
 5/17(土) 池之上町 町内散策 、翌日の5/18(日) 谷山街道散策に参加したり
 6/1(日) 日置市日吉町のお祭り "せっぺとべ" を初めて見たり小松帯刀の領地~吉利街道を歩いたり
 6/8(日)には 重富=越前島津家領地 島津家墓地など を見学したこと などを書いています。

どうぞご覧下さい
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田代安定について考える【追記あり】

2017-09-10 01:50:45 | 田代安定(やすさだ・あんてい)
FaceBookより

名越(この方の読みは「なごし」) 護氏が田代安定を知ったのが2年前(鹿児島民族学会の2015年10月例会の講話の際)だったのは意外だった。
南日本新聞に掲載された名越護氏執筆の『南島雑話の世界 名越左源太の見た幕末の奄美』の発行が今から15年前の2002年5月。
名越(なごや)左源太時行(時敏)の「(南島雑話の)下書き」が國立台灣大學図書館の田代安定文庫で発見されたと南日本新聞に載ったのが2014年4月だった。
「田代安定文庫@國立台灣大學圖書館」

私はその記事が出る前に「田代安定」の名前は知っていたのだが、
鹿児島検定の問題集だったかと思って確認したら載っていないので、民俗学の関係史料か他の書物かも?
そう、そもそも高祖父・名越時敏のことを知るために資料を読んだり、ネット検索したりしていた中で、八重山諸島などの研究をしていた田代の名前を知ったのでした。
それにしても、もう少し地元鹿児島でも田代安定の名前を知られてもいいと思う。



   ☆☆☆
《追記 '17. 9/11》
きのうmixiのフォトアルバムを見直していたら、2008年の11月に参加した「維新ふるさと鹿児島ウォーク」で
鹿児島中央駅から甲突川の両岸沿いに郷土の偉人の生誕地や縁の地巡りをした時にデジカメで撮影した、田代安定の誕生地の石碑の画像に再会!
この時が初めて田代安定を知った日だったかもしれません〜(^-^) 2枚だけでしたがアップしておきます♪


思えば今から9年前のこの頃は、まだまだ郷土の歴史も詳しく知らない頃でした。


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佐々木 克氏監修『大久保 利通』からのあれこれ

2017-09-09 01:29:40 | 幕末〜明治維新
以前から書こう書こうと思いながら、今日(書き始めは実は6日前)になってしまったのだけど、
佐々木 克(すぐる)氏監修の『大久保 利通』(講談社学術文庫)を読んでいて気付いた事や、
こぼれ話をいくつか綴ってみたいと思います。

※ 文庫まえがきより「本書は大久保利通が遭難してから三十二年経った時点で、『報知新聞』の記者・松原致遠が、
 生前の大久保利通と親しく交遊をもった人物や大久保に仕えた下僚、それに利道の実妹、子息などに直接面会して聞き取った、
 大久保についての思い出やエピソード、印象などを語った談話を集めたものである。」

※※ 『大久保 利通』は、元々は『報知新聞』に1910年10月1日から翌年1月11日までと
 一時中断を挟み3月26日から4月17日まで掲載された談話筆記であり、
 その記事を底本に松原致遠編として1912(明治45)年に新潮社から発行されたものに、
 その際削除された15日分の記事を漏れなく拾い上げおさめたもの。
 
※※※ 松原編『大久保利通』は15日分の談話が削られており、また、記者と話者との挨拶や、
 記者の談話社についての印象記事も削除され、新聞掲載の記事とはかなり印象が異なるものとなっている上、
 新聞連載の順番を改め、大久保の伝記を編むような形に編集の手が加えられている。
 1980年(昭和55年)に、利道没後百年記念事業の一つとして鹿児島県で復刻されたものや、
 鹿児島県で出版されたものを2003(平成15)年にマツノ書店から限定本として復刻されたものなどもある
 (この際に松原本で削除された談話のうち、11日分を補遺として追加掲載された)が、なぜか4日分が漏れてしまった。


来年の大河ドラマ『西郷どん』が話題になっている昨今ですが、
盟友でありつつも、維新後は敵役(地元では尚更)のように取り上げられる事の多い大久保利通に以前から興味を持っていたのです。

前述のように地元では西郷さんに比べるとあまり注目されず話に上る事も少なかった大久保氏ですので、自分で確認するしかないと去年から今年にかけて書籍を入手してはパラパラと繙いてみたところ、気になる事がいくつか出て来たのです。

表題の文庫本を読んで順に書こうかとも思いましたが、結果いつまでたっても書き出せずにいたので、とにかくランダムに並べてみます。

主なものは次の通り。

1 熊本藩家老長岡監物の子で父の旧姓の米田(こめだ)を名乗った米田虎雄氏の談で、
西郷隆盛の印象について述べている →「28 東湖・南洲・甲東 ∙∙∙∙∙∙ 米田虎雄」の章(明治43年11月20日掲載)


「あの上野にある銅像や世間によくある西郷の肥満した肖像は、あれは西郷が島に流されて帰った以後の風采で、西郷は島へ流されるまではごく痩せぎすな人であった。」とあったのです!
更には、「背のスラリとした髪の毛のバサバサした武士で、眼ばかりは やはりギロギロと光っていた。」
「島に流されて非常に肥満(ふと)って帰り、その後も人が心配するほど肥満ってきたが、天下のために奔走している頃は、痩せたスラリとした人であった。」と!!

どうです?西郷さんのイメージ、違ってきませんか??
おそらく「島に流されて帰った以後の風采」とあるのは、1858年の僧・月照との入水後に、
幕府から匿うため藩から命じられた「奄美大島」への遠島の後、ということでしょう。
奄美大島へ渡る前の痩せぎすな西郷さんは想像していませんでした。

ただ、のちの久光の命令に背き1862年に遠島処分になった沖永良部島での生活では痩せているはずですね。


その他、この章には「あまり父が西郷を豪傑だと言うものですから、内の旧臣の者が いかに豪傑でも刀に銹(さび)があっては価値(ねうち)があるまい と言って、私(ひそ)かに西郷の刀を抜いて見たら、銹どころか鍛(きた)いたて(←ママ)のような美事な刃(やいば)なので愕(おどろ)いて感服したことがある。」といった話もあります。


更には同じ章から、これも西郷さんに関する事なので恐縮ですが、太ってる痩せてるに関しての楽しいエピソードとして、

「いつか大久保さんの笑い話に、西郷があまり肥満(ふと)るから心配になって、吉井(友実)なんかと話して妾(めかけ)でも置かしたら好かろうと言うので、西郷に勧めると西郷は「それはヨカ、置きましょう」と言って二、三日すると、佳い奴が手に入った見に来てくれとのことで、蠣殻町(かきがらちょう)の屋敷へ見に行くと、妾というのは女ではなく大きな犬が二匹いたのだったと、大久保さんが笑って話されたことがある。」という話も。


また、これと前後しますが、大久保利通については同じ章に、

「大久保さんは大西郷や(藤田)東湖とは違い、背の高いスラッとした人で、威儀の正しい真面目な人であった。骨格なども実に立派で、体質も丈夫、紀尾井町の変がなければまだ生きていたかもしれぬ。」
「なにしろこの三人は豪傑さ。西郷、大久保は東湖の感化を受けた人だが、東湖もこの二人には深く敬服してたのもしく思っていたらしい。」
「大西郷と大久保さんと両人で維新前(ぜん)によく宅(うち)へ来る頃、天下の大事を話してもいい人物が十三人あると言って、西郷がその名前を書いて父に渡した事があるが、その書き付けは十年の戦争の時に兵火でなくなってしまって惜しいことをした。」
「世の中に西郷と大久保ぐらい仲のよかった者はあるまい。実に兄弟以上であった。」

など、二人(あるいは三人)の維新前の様子が語られています。

大久保公について書かれた本を読んでいたつもりが、西郷さんのことを知る事になるとは思ってもいなかったので少々の驚きとともに認識を新たにしたのでした。


2 こちらも米田虎雄男爵の談として「24 維新前の公」では
「二つなき 道に吾(わが)身は 捨小舟(すておぶね)、風吹かば吹け 波立たば立て」という歌について、米田氏の父・長岡監物が、当時の状況や傾倒していた斉彬公が亡くなったことを知り大いに落胆した西郷がきっと殉死をするに違いないと思い、西郷にそれを止めたことがあり、西郷も死にはせぬと言っていたが、その時にこの歌を書いて渡したところ、西郷がそれを守り袋か何かに入れていたので、西郷の歌として世間に伝わっているような次第である、と書かれていました。(明治43年11月13日掲載)


他に父のこぼれ話もあるので、それはまた後日。
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