☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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花尾神社関係資料に三原藤五郎藤原義礼と曽祖父の養父の名前を見つけた!

2020-09-25 22:14:52 | 三原藤五郎と倉山藤五郎
 いつもお読み下さり、FBのいいね!なども頂きありがとうございます
 
 
さて、FBでは9月17日にタイムラインに載せていたのですが、ブログでも書いておこうと思っていた事柄です。
予告していたように、こちらにも記しておきます。
(後日編集し直すかもしれませんが、以下、FBよりのコピペです。)
 
 
 
今月に入ってすぐくらいかな、気になってた事をネットで検索していたら、鹿児島市のデジタルデータに先祖の名前が載っていた。
古地図に載ってる「三原藤五郎」とか先祖の縁戚筋の「倉山藤五郎」とか名前がかぶってるんで、こんがらがってしまうのです。。(曾祖母ツタが「三原家」出身でもある)
 
 トップ画像を差し替えました。(2020.10.17)
福昌寺で6月23日に撮影したものに「三原藤五郎武○」とあったのを思い出したので貼っておきます。この方がどんな関係があるのかまではわかりませんが。。。関連記事→『本立寺跡へ、ちょこっと福昌寺へ』)
  
 
 
そこで、とりあえず「三原藤五郎」で検索したところ、この史料↓(下記リンク)のp.29に「花尾大権現」に関する文書があり、「側役趣法掛 三原藤五郎藤原義礼」とありましたが、同じページに「栗川権十郎藤原用行」とあったのでびっくり!(この人、曽祖父・轟の養父です)
 
『 第11編 資料編(PDF:11022KB) - 鹿児島市
 
 
 
 
 また、「倉山藤五郎」の名前は以前書いた『倉山久籌は島津登久包の義理の弟だった! 』に出ています。
カテゴリーが違うので、探しにくいかと思い、こちらにもリンクしておきます。
 

「倉山作太夫久籌の長男・久昌の長男「藤五郎」という人がいて、(どこかで見たような‥‥)と思ったら、

永吉島津家「貴久公四男家」(中務家)を継いだ、タネの実弟「久籌 権五郎主殿又七」の長女・フユさんのところに「倉山藤五郎妻」と書いてある」

<補足:要するに、タネの姪っ子が倉山藤五郎の奥さん、というわけですね

「藤五郎 西南役薩軍狙撃一番左小隊長 於佐土原戦死 ‥‥ 

       室 島津又七久籌長女冬(永吉家)」

また、藤五郎の父・久昌の妹・ヌイさんは、「島津求馬久邦室」であり、

ヌイさんの息子「久能」さんも「応 吉織衛 西南役戦死 ‥‥ でした。。

       室 比志島静馬範雅女」

 

☆ 下の画像は南洲神社にある「西南の役戦歿者名簿」鹿児島からの参加者欄です。

中央に「倉山 藤五郎」とあります。一人置いた左隣には「栗川久澄」の名前も。

 
☆ 「栗川久澄」の関連記事 → 『今和泉島津家と永吉島津家と 』をご覧下さい。
 
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中西長門守秀長は近江の人で猿楽の名人だった

2020-09-25 15:58:22 | 歴史探索

 いつもお読み頂きありがとうございます

 ←「中西長門守秀長」の墓石(クリックすると拡大表示されます

さて、7月末に『岷山? 』というタイトルの記事で福昌寺の墓石の主について調べていましたが、

「中西長門守秀長」の名前を調べる前に、数日後、別件で『かんまち本  その2』を読んでいたら

「虎屋馬場(とらやんばぁ)」の説明文にその名前が出ていました

『虎屋馬場(とらやんばぁ)』の項に、「虎屋と称する呉服商の中西秀長の屋敷がありました。秀長は猿楽の名人であり、島津忠恒に伝授しました。」とあります。

「呉服商」で「猿楽の名人」、、、?

島津忠恒、のちの島津家久の頃の人、ということはわかりますが、、、ん〜〜、もう少し詳しく知りたいですね。

 

改めて「中西秀長」でネット検索してみました。

元々は近江の出の家系のようですね。

「尚古集成館」のHPにも関連記事がありました。

「能楽(のうがく)」

 

以下、Weblio辞書より → 「中西秀長」とは?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/04 19:54 UTC 版)

中西 秀長(なかにし ひでなが、生年不詳 - 慶安3年8月11日1650年9月6日))は、江戸時代初期の薩摩藩武士は秀長。通称は弥兵衛、長門守。猿楽の名人。近江国小幡村の領主の子孫である小幡弥兵衛宗以の子。は秀長。12歳の時に豊臣秀次に奉仕し、浪人して上京して呉服商となり、家号を虎屋と称す。慶長年中は虎屋または小幡氏を称す。薩摩藩に移って後も、しばらく「虎屋」を称していたため、かつて中西秀長の屋敷のあった通りに「虎屋の馬場」という名がついた。

「中西秀長」の続きの解説一覧

のちに猿楽の名人であるが故に、島津忠恒に300石で仕官す。のちに1000石となる。征夷大将軍徳川家光の薩摩藩桜田藩邸御成の際は猿楽を披露する。また、薩摩藩に金春八郎大夫厳達、大坂本願寺坊官下間少進法印に伝わる謡曲や舞踊を伝え、島津忠恒に猿楽を伝授した。

また禁裏より参内を命じられ、正六位、長門守を叙される。寛永年間に中西に改姓する。

墓は浄土宗知恩院の末寺、不断光院。法号は久遠院円日大居士。墓所から宗旨は浄土宗と思われる。また、息子は中西分右衛門(初め、弥左衛門。墓は父に同じ)、中西長門右衛門秀乗(墓は福昌寺)。子孫は代々、猿楽を世襲する。

年譜

  • 慶長7年;島津忠恒に仕官。
  • 慶長9年;禁裏より正六位、長門守を叙される。
  • 元和6年;加増されて1000石となる。
  • 寛永7年4月8日;徳川家光が薩摩藩桜田藩邸に御成となり、猿楽を披露す。
  • 寛永13年;この年作成の「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」によると、『新堀の上』に『中屋敷 3620分 中西長門守殿』とある。鎌田出雲守政統の屋敷が近くにあった。

参考文献

  • 上野尭史「鹿児島士人名抄録」高城書房
  • 「鹿児島県史料 旧記雑録後編4」
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書きたいことが溜まってしまって、、、。

2020-09-19 23:54:43 | 日記

今、2日前に書いた記事を推敲・校正してアップしたところです。

「上野の博覧会」と「帝国博物館」

 

9月に1件しか書いていなかったのですが、

あれこれネットでも調べ物しては資料なども読んでいると、

気になることが増えて行き、それぞれに書きたいことが溜まるのだけど、

雑事に追われるうちにPCを開ける時間が作れず、気持ちばかり焦る毎日でした。

(時間はあるはずなのに‥‥

 

7月の最後に書いた記事『岷山? 』の最後にあげた、「中西長門守秀長」について書こうと思っていたはずなのですが、、、、

そのほか、

・「三原藤五郎」と「倉山藤五郎」

・「薩州島津家」と「寺山氏」

なども、今後書く予定です。

 

今夜はこの辺で〜 

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「上野の博覧会」と「帝国博物館」

2020-09-17 23:21:55 | 『都見物日記』番外編

 いつもお読み頂きありがとうございます

 

さて、9月15日は町田久成(名前の読みは「ヒサスミ」)の命日でした。

3年前に購入した本、関秀夫 著『博物館の誕生 ー町田久成と帝室博物館ー』によると、明治29年頃から体調を崩し、上野の博物館に近い谷中道に面した「明王院」に定住し、そこで一年半ほどの療養生活を送ったそうです。

(以前書いた記事もありますので宜しければお読み下さい →『関 秀夫著『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー』(☆翌4月5日追記あり) 』)

そして、明治30年(1897年)9月15日に、不忍池が見える上野公園の韻松亭で、親しかった女主人(‥‥って、どなただろう??)に看取られて亡くなったそうです。

 現・東京国立博物館の裏庭には、没後十七回忌の供養を兼ねて大正元年10月に旧友であった井上馨らが建立した顕彰碑があり、その碑文は重野安繹の作成になるものだそうですが、そこには政府の出した公式発表と同じく、東叡山明王院で没したと記されているそうです。

また、同書のp.186 には「明治二十二年二月十一日、大日本帝国憲法が公布され、その三ヶ月後の五月十六日になると、宮内省の博物館は館名を「帝国博物館」と改めた。」とあります。

 

 そこで、明治23年に書かれたイサさんの『都見物日記』と照会してみたところ、

上野の博覧会へ出掛けた事が書かれているのは、5月7日から9日にかけてで、

☆7日には「上野の博覧会に」出掛け、「三時過まで色々の品を見、」博覧会(場)の中の茶店で弁当を食べ、その後また夕方まで展示物を見たようです。(「5月7日 雨降りながらも、上野の博覧会に」 )

 

☆8日には「馬車に乗り上野迄行く。直ぐと美術館に行く。」

この日の「美術館」というのは、博覧会の2階の展示会場の「美術部」だったのかもしれません。最初に読んだ時には、単独の美術館かと思っていましたが、これも前述の関氏の本(p.204)を読んで気づきました。(「5月8日 上野博覧会、美術館、九段坂招魂社」 )

 

☆9日は上野の博覧会へ行ったのは弟・轟だけでしたので、イサさんの日記には博物館の展示については書かれていません。

「5月9日 轟殿は博覧会へ、 佐原芳どの、 山井於時様、 永岩直次郎さんもご来訪」 )

 

そういえば偶然にも、今日9月17日(明治17年)はイサの妹・筆さんが町田久成と離婚した日でした。

「お筆殿の子供の墓」って、やはり気になります。。

→(「5月10日 泉岳寺、大円寺、浅草の観音へも参詣」 )

これも前述の本によると、明治12年に結婚した町田久成は長男を早くに亡くしているそうなのですが、もしかしたらその子の墓なのかな?と思ったり。

ただ、「結婚後三男一女をもうけたが、長男と妻を早く亡くしている」とあるので、

今ひとつハッキリしないのですけどね。筆さん、大正14年まで生きてるし。→ 『 大正14年まで生きた筆(フデ)さん 』

 

この本には、二男・秀麿さん(明治13年生まれ)、三男・茂さん(明治15年生まれ)とあります。

結婚が明治12年で、離婚は5年後の明治17年。

 

<この間、明治15年3月20日、上野の山に念願の「博物館」がオープンした。それまでには、紆余曲折(明治11年に大久保利通が亡くなったことも影響するなど)様々な苦労があったようですが、それは別の機会に書きたいと思います>

 

また、曽祖父の戸籍に養女で入ったテウ(蝶子)さんは明治16年生まれなのですが、「町田久成 二女」とあるのです。

もしかしたら、亡くなった長男というのは実は長女だったのでは?と思ったりも‥‥。

イサさんたちが大圓寺でお参りした筆さんの子供の墓とはこの子かしらん?よくわかりません。。

 

ところで、町田久成(ひさすみ)が滋賀県の園城寺(通称:三井寺)で剃髪し出家したのは明治22年12月1日だそうで(因みに、出家した際には同時に「二人の幼い息子も」剃髪させ、稚児僧として久成のそばに置いたと当時の新聞にもあるそうです)、その翌年にイサさんや曽祖父・轟は「都(東京市)見物」しているわけですね。

 

出家した町田久成については、当時度々新聞記事の話題に上ったらしく、

明治26年のシカゴ博覧会には、13歳になった秀麿さんを連れて渡米したことが伝えられているそうです。

町田家の家督を相続した町田秀麿さんは、昭和42年までご存命だったそうです。(p.229)

 

実は終戦後、町田家の今のご当主一家が台湾から引き揚げて来られたのち、戦後の「尋ね人」放送で秀麿さんから探されて家督を相続されたということを、以前あった「子孫が語る薩摩スチューデント」(2017年7月)の講演後にご本人から伺っています。

町田久成の弟・町田申四郎(のちに町田棟(むねき)実種)の息子さんが、町田秀麿さんから家督を継承され、更に今のご当主に引き継がれたということのようです。

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「おすぎおたま」と伊勢音頭

2020-09-02 17:54:06 | 『都見物日記』番外編

 いつもお読みいただき、ありがとうございます。

今日は台風9号が九州の西海上を北上中で、外は風も強く、時折雨も窓ガラスに強く打ち付けておりますが、

皆様のところはいかがでしょうか?

台風10号も発生した模様です。どうぞお気をつけ下さいね

 

さて、つい先ほどBSプレミアムで放送された「浮世絵ツアー お伊勢参り」でのお話。

江戸時代には、お伊勢さん近くの「古市」というところは旅館や芝居小屋、遊郭などが立ち並ぶ歓楽街で、ここでは色々な大道芸が見られ、

 

その中でも有名な「おすぎ おたま」という女性二人組もいたと紹介があったのです。

「お客の投げ銭をかわしながら三味線で歌う芸が旅人を楽しませ」たそうです

どこかで見覚え聞き覚えのある名前、と思って確認したところ、

「4月29日 御伊勢様参り〜伊勢音頭見物」』のお伊勢参りについての記述で

「途中にお玉おすきという三味線にて銭をうける芸を一寸み申候。」とあります。

やはりこの二人の女性だったようですね

 

 

このシリーズ好きで、これまでも再放送を含め何度も見ています。

今日は偶然見ていたのですが、この回は見ていませんでした。

 

また、今回は伊勢音頭についても見ることが出来ました。

なるほど前述の4月29日の日記にも「夕飯などたべ 今晩は伊勢の山田古市伊勢音頭見に参り」と書いてあります

ここ「古市」のことだったんですね〜

 

今でも創業から約240年の「麻吉」という旅館が残っているそうです

    

 

そこで番組では「伊勢音頭」も披露されました〜

「尾張名古屋は城でもつ〜♪」って聞きますが、「伊勢音頭」に歌われているんですね  知らなかったです

大伯母イサさんの『都見物日記』シリーズ、5月30日の『旅の終わり』にも書きましたが、

長旅から鹿児島に帰り着き、皆と無事を喜び合った場面では

「伊勢音頭のなり損ね」なども飛び出して楽しんだようです。きっと楽しい旅の思い出となったのでしょうね 

番組でも林家三平さんがレクチャーを受けて踊っていました〜 こうやって楽しんだのでしょうね♪

静止画と画面の歌詞でお楽しみ下さい 

 

  

 

    

 

 

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