シリーズ「福昌寺跡島津家墓地」の記事が続いていますが、
ちょっとここで、閑話休題です。
先週の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の「紀行コーナー」では鎌倉の「持仏堂」の紹介がありましたが、源頼朝の墓、石塔の足元には丸十紋が映し出されていたので思わず見入ってしまいました。
謂れをご存じない方には「なぜここに丸十紋が‥‥?」と思われたでしょうね。
今、再放送を見ていて、ここにも書いておきたくなったのです。
で、試しに「持仏堂 鎌倉」でネット検索したところ、鎌倉市のHPに「源頼朝の墓」として
「島津重豪が‥‥」と紹介されていたので嬉しかったです
鎌倉市のHPより↓
「現在、墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。墓の層塔(そうとう)は1779年(安永8)に島津重豪(しまずしげひで)により大御堂(おおみどう)から移されたものといわれ、国の史跡に指定されています。
明治時代になり、それまでは一緒にまつられることも多かった神と仏を離す神仏分離(しんぶつぶんり)の政策により、1872年(明治5)墓前に白旗神社が建立されました。」
☆ 鹿児島市の仙巌園は島津家別邸でした。今は歴史と観光のスポットとなって久しいですね。
そのお隣には島津家所縁の「鶴嶺神社」があります。「鶴嶺」と書いて「つるがね」と読みます。
☆ そこには「遷塔之記」があり、鎌倉との関わりが書かれています。
【概略】
平成になって鎌倉の墓塔を修復する際に試作された雛形塔が、「頼朝公没後800年」を記念して、鎌倉の墓所を再興した鹿児島島津家に寄贈すべく、鎌倉市民有志により「源頼朝公墓所再興報恩塔」として遷座(平成11年8月建立)
2008年(平成20年)2月に訪ねた際に撮っていました。
「源頼朝公御石塔」の札が立っていました(2008年2月撮影)
☆ 現在では、島津氏初代・島津忠久公が「源頼朝と丹後局の間に生まれた」というのは伝承であると知られるようになりましたが、重豪公の頃の話ですから、公はご先祖とされる頼朝公の墓が荒廃しているのを見て悲しんだことでしょうね
「薩藩史談集」(重野安繹ほか著)によると、
丹後局の父は武蔵国比企郡(埼玉県)の豪族比企掃部允(ひきかもんのすけ)、母は比企局(ひきのつぼね/頼朝の乳母・比企尼)ということです。(『島津歴代略記』参照)
「鎌倉殿の墓」と島津家との繋がり、広く知っていただけると嬉しいです
追記および一部訂正:(2022.7.10 PM11:25)
たった今尚古集成館のHPを読んだところ、
『島津家初代・忠久誕生にまつわる説話』として詳しく書かれていました。(←リンクをクリック)
母親は丹後局であり、彼女が惟宗広言(これむねひろこと/貴族)に嫁いだため、島津家初代は「惟宗」を名乗ったと系図にあり、専門家の間では忠久の父親はこの広言(ひろこと)、あるいは惟宗忠康ではないかと考えられている、とのことです。
「とはいえ、頼朝の庶子であるという説話を、島津家や家臣をはじめ、多くの人々が尊重し、現在まで伝わっているという点も、また欠いてはならない歴史」とも。
また同じく尚古集成館のHPに『比企家とのつながり』として系図などと共に詳しく書かれています。