以前から書こう書こうと思いながら、今日(書き始めは実は6日前
)になってしまったのだけど、
佐々木 克(すぐる)氏監修の『大久保 利通』(講談社学術文庫)を読んでいて気付いた事や、
こぼれ話をいくつか綴ってみたいと思います。
※ 文庫まえがきより「本書は大久保利通が遭難してから三十二年経った時点で、『報知新聞』の記者・松原致遠が、
生前の大久保利通と親しく交遊をもった人物や大久保に仕えた下僚、それに利道の実妹、子息などに直接面会して聞き取った、
大久保についての思い出やエピソード、印象などを語った談話を集めたものである。」
※※ 『大久保 利通』は、元々は『報知新聞』に1910年10月1日から翌年1月11日までと
一時中断を挟み3月26日から4月17日まで掲載された談話筆記であり、
その記事を底本に松原致遠編として1912(明治45)年に新潮社から発行されたものに、
その際削除された15日分の記事を漏れなく拾い上げおさめたもの。
※※※ 松原編『大久保利通』は15日分の談話が削られており、また、記者と話者との挨拶や、
記者の談話社についての印象記事も削除され、新聞掲載の記事とはかなり印象が異なるものとなっている上、
新聞連載の順番を改め、大久保の伝記を編むような形に編集の手が加えられている。
1980年(昭和55年)に、利道没後百年記念事業の一つとして鹿児島県で復刻されたものや、
鹿児島県で出版されたものを2003(平成15)年にマツノ書店から限定本として復刻されたものなどもある
(この際に松原本で削除された談話のうち、11日分を補遺として追加掲載された)が、なぜか4日分が漏れてしまった。
来年の大河ドラマ『西郷どん』が話題になっている昨今ですが、
盟友でありつつも、維新後は敵役(地元では尚更)のように取り上げられる事の多い大久保利通に以前から興味を持っていたのです。
前述のように地元では西郷さんに比べるとあまり注目されず話に上る事も少なかった大久保氏ですので、自分で確認するしかないと去年から今年にかけて書籍を入手してはパラパラと繙いてみたところ、気になる事がいくつか出て来たのです。
表題の文庫本を読んで順に書こうかとも思いましたが、結果いつまでたっても書き出せずにいたので、とにかくランダムに並べてみます。
主なものは次の通り。
1 熊本藩家老長岡監物の子で父の旧姓の米田(こめだ)を名乗った米田虎雄氏の談で、
西郷隆盛の印象について述べている →「28 東湖・南洲・甲東 ∙∙∙∙∙∙ 米田虎雄」の章(明治43年11月20日掲載)
「あの上野にある銅像や世間によくある西郷の肥満した肖像は、あれは西郷が島に流されて帰った以後の風采で、西郷は島へ流されるまではごく痩せぎすな人であった。」とあったのです!
更には、「背のスラリとした髪の毛のバサバサした武士で、眼ばかりは やはりギロギロと光っていた。」
「島に流されて非常に肥満(ふと)って帰り、その後も人が心配するほど肥満ってきたが、天下のために奔走している頃は、痩せたスラリとした人であった。」と!!
どうです?西郷さんのイメージ、違ってきませんか??
おそらく「島に流されて帰った以後の風采」とあるのは、1858年の僧・月照との入水後に、
幕府から匿うため藩から命じられた「奄美大島」への遠島の後、ということでしょう。
奄美大島へ渡る前の痩せぎすな西郷さんは想像していませんでした。
ただ、のちの久光の命令に背き1862年に遠島処分になった沖永良部島での生活では痩せているはずですね。
その他、この章には「あまり父が西郷を豪傑だと言うものですから、内の旧臣の者が いかに豪傑でも刀に銹(さび)があっては価値(ねうち)があるまい と言って、私(ひそ)かに西郷の刀を抜いて見たら、銹どころか鍛(きた)いたて(←ママ)のような美事な刃(やいば)なので愕(おどろ)いて感服したことがある。」といった話もあります。
更には同じ章から、これも西郷さんに関する事なので恐縮ですが、太ってる痩せてるに関しての楽しいエピソードとして、
「いつか大久保さんの笑い話に、西郷があまり肥満(ふと)るから心配になって、吉井(友実)なんかと話して妾(めかけ)でも置かしたら好かろうと言うので、西郷に勧めると西郷は「それはヨカ、置きましょう」と言って二、三日すると、佳い奴が手に入った見に来てくれとのことで、蠣殻町(かきがらちょう)の屋敷へ見に行くと、妾というのは女ではなく大きな犬が二匹いたのだったと、大久保さんが笑って話されたことがある。」という話も。
また、これと前後しますが、大久保利通については同じ章に、
「大久保さんは大西郷や
(藤田)東湖とは違い、背の高いスラッとした人で、威儀の正しい真面目な人であった。骨格なども実に立派で、体質も丈夫、紀尾井町の変がなければまだ生きていたかもしれぬ。」
「なにしろこの三人は豪傑さ。西郷、大久保は東湖の感化を受けた人だが、東湖もこの二人には深く敬服してたのもしく思っていたらしい。」
「大西郷と大久保さんと両人で維新前(ぜん)によく宅(うち)へ来る頃、天下の大事を話してもいい人物が十三人あると言って、西郷がその名前を書いて父に渡した事があるが、その書き付けは十年の戦争の時に兵火でなくなってしまって惜しいことをした。」
「世の中に西郷と大久保ぐらい仲のよかった者はあるまい。実に兄弟以上であった。」
など、二人(あるいは三人)の維新前の様子が語られています。
大久保公について書かれた本を読んでいたつもりが、西郷さんのことを知る事になるとは思ってもいなかったので少々の驚きとともに認識を新たにしたのでした。
2 こちらも米田虎雄男爵の談として「24 維新前の公」では
「二つなき 道に吾(わが)身は 捨小舟(すておぶね)、風吹かば吹け 波立たば立て」という歌について、米田氏の父・長岡監物が、当時の状況や傾倒していた斉彬公が亡くなったことを知り大いに落胆した西郷がきっと殉死をするに違いないと思い、西郷にそれを止めたことがあり、西郷も死にはせぬと言っていたが、その時にこの歌を書いて渡したところ、西郷がそれを守り袋か何かに入れていたので、西郷の歌として世間に伝わっているような次第である、と書かれていました。(明治43年11月13日掲載)
他に父のこぼれ話もあるので、それはまた後日。