こちらもFBにアップした記事です
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FBへ投稿したものをこのブログに記します。
少し前に『曽祖父の養父母の墓は‥‥どこ?』で先祖のお墓がどこにあるのか、あったのか、探さなくては!と書きましたが、2017年の6月に書いた『名越左源太のお墓は?』を読み直す機会があり、そこに自分で書いたはずのことをすっかり忘れていることに気づきました。
しかもそれは、2008年4月の『これまでの経緯ー2』に記していたものでした(正直ショック)
※ 以下の通り
('08) 3/11(火)
福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。
墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。
昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。
*ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。
目的が泰藏さん(名越左源太時敏)のお墓探しだったので、「資料・名簿などは残っていない」と聞いたことはすっかり失念していました。
ということは、用行さんや須賀さんのお墓・遺骨はどちらかの墓地から改装されていたとしても、もはや無いのかも知れません‥‥(それが一番のショック)
追記:(2021.3.21)
2008年に坂元墓地に行った時に撮った立て札には、「興国寺墓地」も「南洲寺墓地」も書かれていない
なので、まだ探す余地は残っていそう
「寺山家」の墓のこともあるし
→ 『薩州島津家と寺山源右衛門家』(2020.10.18)
『曽祖父の養母・スガの命日でした』(2020.4.18)
この記事↑の最後に書いたことを再録しておきます
「 そう言えば、スガさんのお墓って、どこにあるんだろう??
父の話に、終戦後台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話があります。祖母のおかあさん、とは義母・スガさんのことだったのか、実家・寺山の墓だったのか??
( 訂正:2021年11月29日に『祖母が戦後お参りしようとしていたお墓』で訂正していますが、「スガさん」は曾祖父の養母なので「祖母のおかあさん」には当たりませんでしたゴメンナサイ)
その時は大雨のあとだったかで土砂崩れで道が塞がれていて、お墓に行く事は叶わずお参り出来ずに帰ったという事でしたが、おそらく「興国寺墓地」ではなかったかと思われます。
興国寺墓地は島津家のお墓をはじめ、古い家のお墓があるところです。私も以前二度ほど行ったことがあります。
長澤鼎のお墓を見にも行きましたが、結構急な傾斜があるし、ただ行くだけでは見当もつきません。
墓めぐりには時間と体力が必要です。第一、また行けるかどうか。。。 」
関連記事:『「谷山支所〜県立図書館」mixi日記より』(2008.3.27)
いつもお読みいただき、ありがとうございます
さて、『【第3話】和田屋のすみばばと相良酒屋のばば』のタイトルにある「和田屋」について、昨年になってわかったことがあるのでここに記しておきたいと思います(確か、これまでには書いていないと思います)。
FBで鹿児島の歴史を学ぶグループやFBFの投稿などで刺激を受けることも多く、興味を持ったことをネット検索する中で唐鎌 祐祥先生と北 隆志さんの共著ブログ『鹿児島市歴史地理散歩』を見つけました
嬉々としてブログを読み漁ると、『⑥ 「下町の商店街」』(この著者は北 隆志さん)を見つけ読んでみたところ、
この「呉服商」の項に「明治22年ころの石灯籠通りの主な呉服商」として、いくつか店舗名を紹介する中に
「呉服太物琉球反物商和田店」
という記述があり、これが「石燈籠(いづろ)の和田屋」ではないか!?と思ったわけです。
おそらく間違い無いと思うのですが、どうでしょう
欲を言えば、「和田屋のすみばば」と同行の「上町柳町の酒屋の相良」さんもわかるといいな、なんて
2021.3.12(金曜日)追記
冒頭で「確かこれまでに書いていないと思う」‥‥と書きましたが、今日改めて見てみたら、
昨年5月に『いづろの和田屋のおすみ殿』で書いていました〜(^-^;) コラコラ
☆タイトルを『画像の見直しで思わぬ発見も♪』から変更しました('21.3.9)
以前『本立寺跡へ、ちょこっと福昌寺へ』に載せた画像(2020年6月23日撮影)で、
「三原藤五郎武◯」の名が入った石塔(画像③)画像をアップしましたが、これは島津重豪公の墓所ではなく、島津斉宣公の墓所にある石燈でした。
これは「調所笑左衛門」の刻銘のある石燈(画像①)の二つ右隣にあります
またそれとは別に、2008年2月29日(閏年)に撮った画像を見ていたら、
島津重年公の墓所近くで撮ったと思われる画像に気になるものがありました。
花入・水皿の部分に十文字紋がある、彫りの凝った墓石を撮っていたのです。(上下2枚とも2008.2.29撮影)
福昌寺の十字紋墓石、撮ったことすら忘れていたけど、これはきっと、何か関連するのではないか
と、昨日夕方確認に福昌寺墓地まで行ってみました。こちら↓は昨日撮ったものです
撮った時には暗くてわからなかったのだけど、画像整理しながら側面を見ると‥‥
「島津仲 久健 女 大奥御年寄格 壽賀」とありました
島津仲家の女性だったようです(第4代 久健の女子のどちらか。「島津家家臣団系図集」参照)
それで同じ島津仲家の「栗川久澄」さんと同じ十字紋だったのですね
☆関連記事:『薩州家のこと、島津仲家のこと』(2020.11.6)
〃 :『曽祖父の養父母の墓は‥‥どこ?』(2020.12.22)
この↓左向こうに見えるのは、重年公のお墓です。
ところで、昨日ここを訪ね当てた時、墓石群の前で足元にあったレンガひとつ分ほどの穴に気づかず、コケてしまいました
でも、一面苔むしていて、とっさに付いた両手も膝をついた両脚も怪我なく済みました。苔に助けられたようです
もしかすると、いえ、きっと所縁のこの方が守って下さったに違いない、と思いつつ、
不幸中の幸いを喜んだのでした