いつもご覧頂きありがとうございます
2月になり寒さが続いております。鹿児島もこの先の天気予報では雪のマークが3日ほど付いているようです。
さて、今回は2016年の9月12日の『曾祖父・轟の名を台湾のサイトに見つける』に続くお話です。
台湾総督府のHPで、明治時代の職員の名前と所属・役職名などを閲覧することが出来るのですが、
こちらの上部の「«」で巻末へ行き1ページ前にめくると616ページ下段に曾祖父・轟の名前を見る事が出来ます。
『台湾総督府職員録系統」の『明治二十九年 職員録(甲)』
※ちなみに、轟の生没年:1850−1922(嘉永3年1月26日生まれ 大正11年2月6日没 享年72)
改めてこうして比べてみると、田代安定氏より7年早い生まれでほぼ同年代なんですね。
また同じ記事に書いたように、国立台湾師範大学のサイトにも「栗川轟(陳春暉 譯)(1939)
1999〈一百零二年前澎湖之水產業概況(原名:〈四十二年前の澎湖の水產業〉),《硓咕石:澎湖縣立文化中心季刊》16:2-12。」の表示があり(リンクページの下から3分の1程の所)、この論文が明治30年に曾祖父・轟が書いたものを紹介してあることから、先ほどの台湾総督府のHPの明治30年の職員録にも名前が載っているのか見てみたところ、面白い発見があったのです
『台湾総督府職員録系統」の『明治三十年 職員録(甲)』の表紙から3枚めくった右側のページ(偶然にもこちらもp.616)、中段の左から3人目に「田代安定」の名前が載っていました「殖産課 事務官」の一員として並んでいます。
もしかしたら、轟との接点がありはしないかと、ふと思いました。
これが『田代安定文庫@國立臺湾大學圖書館』に「名越時行」の自署のある「雑記下書」が58枚見つかったことと関係あったりするのではないか、と。
仮にですが、曾祖父・轟と田代安定氏がどこかで接点があって、父である名越(左源太)時行の書いた(描いた)ものを見たり手に取ったことがあった、とか。
ただ、それ以降の田代安定氏の調査・収集活動の中で集められたものかもしれないのですが‥‥。
これについては氏の活動の細かい経緯と年代を追って照合してみないとわかりませんね。
とにかく、曾祖父・轟と同時期に台湾総督府に田代安定氏も従事していたというのが今回の発見でした。
改めて、田代安定について興味ある方はこちらをどうぞ
『田代安定について考える【追記あり】』
田代安定文庫@國立臺湾大學圖書館写真は、2年前、南日本新聞に載っていた記事。先ほど「名越左源太」で検索したところ、画像一覧からたどった先で、今まで謎だったことが判明しました。*國立臺湾大學圖書館のサイ......
国立台湾大学図書館(國立臺湾大學図書館)の田代文庫の資料、やはり気になります。
←※この小さい画面、なぜか逆さですがクリック拡大ではまともに表示されます
上の小さな画像はクリックすると大きく表示されます。
更に画面を引き延ばすと文字も読めると思いますので読んでみて下さいね
⭐️下の写真は黎明館の企画展『島津重豪 薩摩を変えた博物大名』の図録から、「調所広郷」を描いた名越左源太時敏(時行)の直筆画。小片は、本人が最初に描いた物にイマイチ満足できずに後で描き直したもの。「此方似申候(こちらの方が似ている)」と書かれています(笑)。
↑※図録確認したら「此方似寄也」でした。訂正致します
(‘18. 1.17)
これを基に明治になって描かれた絵が、通常目にする「調所広郷肖像画」です。
FaceBookより
名越(この方の読みは「なごし」) 護氏が田代安定を知ったのが2年前(鹿児島民族学会の2015年10月例会の講話の際)だったのは意外だった。
南日本新聞に掲載された名越護氏執筆の『南島雑話の世界 名越左源太の見た幕末の奄美』の発行が今から15年前の2002年5月。
名越(なごや)左源太時行(時敏)の「(南島雑話の)下書き」が國立台灣大學図書館の田代安定文庫で発見されたと南日本新聞に載ったのが2014年4月だった。
「田代安定文庫@國立台灣大學圖書館」
私はその記事が出る前に「田代安定」の名前は知っていたのだが、
鹿児島検定の問題集だったかと思って確認したら載っていないので、民俗学の関係史料か他の書物かも?
そう、そもそも高祖父・名越時敏のことを知るために資料を読んだり、ネット検索したりしていた中で、八重山諸島などの研究をしていた田代の名前を知ったのでした。
それにしても、もう少し地元鹿児島でも田代安定の名前を知られてもいいと思う。
☆☆☆
《追記 '17. 9/11》
きのうmixiのフォトアルバムを見直していたら、2008年の11月に参加した「維新ふるさと鹿児島ウォーク」で
鹿児島中央駅から甲突川の両岸沿いに郷土の偉人の生誕地や縁の地巡りをした時にデジカメで撮影した、田代安定の誕生地の石碑の画像に再会!
この時が初めて田代安定を知った日だったかもしれません〜(^-^) 2枚だけでしたがアップしておきます♪
思えば今から9年前のこの頃は、まだまだ郷土の歴史も詳しく知らない頃でした。
名越(この方の読みは「なごし」) 護氏が田代安定を知ったのが2年前(鹿児島民族学会の2015年10月例会の講話の際)だったのは意外だった。
南日本新聞に掲載された名越護氏執筆の『南島雑話の世界 名越左源太の見た幕末の奄美』の発行が今から15年前の2002年5月。
名越(なごや)左源太時行(時敏)の「(南島雑話の)下書き」が國立台灣大學図書館の田代安定文庫で発見されたと南日本新聞に載ったのが2014年4月だった。
「田代安定文庫@國立台灣大學圖書館」
私はその記事が出る前に「田代安定」の名前は知っていたのだが、
鹿児島検定の問題集だったかと思って確認したら載っていないので、民俗学の関係史料か他の書物かも?
そう、そもそも高祖父・名越時敏のことを知るために資料を読んだり、ネット検索したりしていた中で、八重山諸島などの研究をしていた田代の名前を知ったのでした。
それにしても、もう少し地元鹿児島でも田代安定の名前を知られてもいいと思う。
☆☆☆
《追記 '17. 9/11》
きのうmixiのフォトアルバムを見直していたら、2008年の11月に参加した「維新ふるさと鹿児島ウォーク」で
鹿児島中央駅から甲突川の両岸沿いに郷土の偉人の生誕地や縁の地巡りをした時にデジカメで撮影した、田代安定の誕生地の石碑の画像に再会!
この時が初めて田代安定を知った日だったかもしれません〜(^-^) 2枚だけでしたがアップしておきます♪
思えば今から9年前のこの頃は、まだまだ郷土の歴史も詳しく知らない頃でした。
写真は、2年前、南日本新聞に載っていた記事。
先ほど「名越左源太」で検索したところ、画像一覧からたどった先で、今まで謎だったことが判明しました。
*國立臺湾大學圖書館のサイトです。中程まで画面をスクロールしてくださいね。
↓
「描繪日本幕末時期奄美大島的「南島雜話」原稿,一世紀後於臺大圖書館現身!」
左源太の手による原本は、ある研究者に貸し出された後、行方不明になっていることは以前から知られていますが、
山口県立大学国際文化学部の安溪遊地(あんけい・ゆうじ)教授によると、
《「鹿児島のある研究者」とは、田代安定だった》
ということのようなのです。
そして何より!左源太の手による原本を、このサイトの中に見ることが出来ました!
そうかぁ、これが左源太(父のひいじい様)の絵なのかぁ。。。と感慨に耽ること暫し。
それもこれも、安渓先生による発見のおかげです。ありがたいことです。
でも、実際に見てみることは、難しそうですね。。
先ほど「名越左源太」で検索したところ、画像一覧からたどった先で、今まで謎だったことが判明しました。
*國立臺湾大學圖書館のサイトです。中程まで画面をスクロールしてくださいね。
↓
「描繪日本幕末時期奄美大島的「南島雜話」原稿,一世紀後於臺大圖書館現身!」
左源太の手による原本は、ある研究者に貸し出された後、行方不明になっていることは以前から知られていますが、
山口県立大学国際文化学部の安溪遊地(あんけい・ゆうじ)教授によると、
《「鹿児島のある研究者」とは、田代安定だった》
ということのようなのです。
そして何より!左源太の手による原本を、このサイトの中に見ることが出来ました!
そうかぁ、これが左源太(父のひいじい様)の絵なのかぁ。。。と感慨に耽ること暫し。
それもこれも、安渓先生による発見のおかげです。ありがたいことです。
でも、実際に見てみることは、難しそうですね。。