☆写真は『小林市の地頭仮屋跡』で、7月23日に撮影 ↑
『南島雑話の世界』によると、
左源太が任務により小林市にある地頭仮屋跡に住んでいたのは、
1864(元治元)年10月5日から二年間で、その後、
「1866(慶応2)年8月に高岡(いま"'02年現在"の宮崎県高岡町)地頭に転任、
1867( 〃 3)年8月に寺社奉行になっている。」のだそうです。
在職の二年間に、「文武の鍛錬の他、桑の植え付けや茶の播種を奨励し、
大島から取り寄せたコウシャ(ヤマイモの一種)や紅白の甘藷を植えつけ、
その普及をはかっている」とも書かれています。
その後、「1873(明治6)年6月、また宮崎県十二大区(西諸県地方)の区長に就任するが、
翌'74(明治7)年4月に依願退職して、鹿児島市内のタンタドの野屋敷を本宅とし
時折、街に下りて骨董品をあさり、悠々自適の歳月を送った。」とあります。
1864(元治元)年8月には藩の辞令で、小銃隊75人を率いて長州に出兵する手はずだったところ
同年9月16日に急遽、現在の宮崎県小林市の「居地頭」に任命されたそうです。
当時の地位は「大番頭格」。(この"番頭"とかの地位がまだよくわかりませんが。。)
「『小林市誌』によるとそれまでの小林地頭は、赴任しない「掛持地頭」が長く続き、
居地頭は実に228年ぶりだった。」とも書かれていました。
そして、今日、小林市役所のHPを覗いてみました。
なるほど、このHPからそのような記述を見ることが出来ました。
*11頁「歴史散歩/国際交流」をクリックしてくださいね。
左源太は10月2日に家族同伴で鹿児島を発ち、5日に小林に着任しているとのこと。
ちなみに、左源太の長男・平馬(のち時成、変名・三笠政之介)が
薩摩藩英国留学生の1人として渡英したのは、この小林地頭時代の1865(慶応元)年3月、
なんですね。
2019年に関連記事を書きました
『小林居地頭着任の日 』2019-10-05 カテゴリー: 名越左源太と家族