名越左源太(時敏・のちに泰蔵)に関する日記が続いているけど、
しかも、いくつかのコミュにも左源太のことを書き込みしてるけど、
そもそもなぜ左源太なの?
と、お思いの方もいらっしゃるかも知れませんね。
なぜ?
なぜ、左源太のお墓を探しているの?
「左源太さんのお墓参りをしたいから。」
そう、結局はそういうことなんです。
じゃぁ、なぜ、左源太さんなの?
「ご先祖様だから。」
ご先祖様のお墓がどこにあるかが
なぜ、わからないの?
「左源太の次男の代に、台湾へ渡って、
その子供、さらに孫の時代に戦争に負けて
日本の本土に引き上げて来たから。」
おまけに、父は終戦前の旧制中学卒業と同時に
四国松山の海軍航空隊の予科練入隊のために台湾を離れ、
終戦後引き上げてきた家族の当時の状況が詳しくはわからないから
名越家の家系図など現地台湾の人に預けたらしいということ以外、
父が昔台湾で見せてもらったことがあるという
左源太が書いた絵図や原稿(「南島雑話」にも関わる原本の一部?)も
どうなったか知らない。
☆☆☆
*永井亀彦編集発行 『高崎崩れの志士 名越左源太』 1934年
「南島雑話」を書いたのは名越左源太である、と初めて書かれた本がある。
《参考サイト》
http://sagenta.nature-f.com/?eid=137070 ←☆リンク切れです('17 4/30追記)
今年になって父から聞いたことだけど、
その頃(1934年だから昭和9年)だろうか、
祖父(父の父・左源太の孫)が
「あの原稿も資料として渡しておけばよかったなぁ。」とか
「原稿があれば提供出来たのになぁ。」とか
話していたことがあったそうだ。
初耳。こんな逸話が予期せずポロッと出て来る。
その祖父は昭和23年1月に亡くなっている。
*終戦からしばらくして、1949年(昭和24年)に
『高崎くづれ 大島遠島録』(名越左源太翁日記)
永井亀彦編/西南文化研究会
という本も出ているらしい。
一時期話題になったそうだ。
発行年が違うが、書名が似ているのでちょっと混乱してしまう。。
しかしいまだに一部その道のかたがたには話題にしてもらってもいる。
そのお陰で、こうやって調べることが出来るのは本当にありがたいことだ。
☆☆☆
それはともかく、
以前ウチにも来られてご自分で調べまとめられた冊子を届けてくださった
左源太の長男の家系の方(内○八紘さん)の資料によると、
宮崎在住の、左源太長男(時成)直系の子孫の方はあまり左源太のことや
その子供のこと、その後どうなったかなどはご存じなかったらしい。
その上、八紘さんの資料に載ってたのは、以前の
移設前の長谷場墓地のお墓のことだった。
ということは、今現在、左源太のお墓のことを知ってる人は?
左源太さんのお墓にお参りする人がいないんじゃないの?!
と、思ったわけです。
だから、少しでも早くお墓を見つけてお参りをしなきゃ
左源太さんに申し訳ない!!
そういう理由だったんです。
そう、お墓参りが出来れば、
左源太については一区切りつくと
そう思っているんです。