☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

祖父の長妹・ヤサ

2024-05-26 13:12:50 | 祖父・篤彦の妹たち
 ここまで、祖父の弟三人について書いてきましたが、末弟との間に二人の妹がいます。

そこで今回から、二人の妹(プラスα)について書きます。

まず、明治22年12月生まれの「ヤサ」さんです。
こちらも曽祖父の除籍謄本での情報のみです。

大正3年2月に「佐賀縣西松浦郡有田町〇〇 戸主渕上富四郎ト婚姻」とあります。

情報は以上です。

ですが、父の話として、戦後、鹿児島市名山堀で末の叔父とその息子(父の従弟)が有田焼きなどの陶食器を仕入れて商売をしていた、と聞いています。
☆ 関連記事→『名山堀散策2』

その際にこの叔母が住む有田で仕入れていた、ということのようです。

「ヤサ」さんについてはこれで全てです。
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祖父の三弟・恒吉(ツネ)

2024-05-26 12:52:00 | 祖父・篤彦の弟たち

当ブログへ初めてご訪問の皆さま、また日頃からお読みくださっている皆さま、ありがとうございます

・前回、前々回に続き、祖父の弟について書きます。

・祖父の3番目の弟の名は「恒吉」です。

  ただ読みは「つねきち」なのか「つねよし」なのかは分かりません。

  父が言うには祖父は「ツネ」と呼んでいたそうなのです。

・この「ツネ」さんは曽祖父・轟の四男として明治20年7月に生まれました。

・恒吉さんについては曽祖父の除籍謄本に記された情報のみしかありません。

「昭和五年八月三十一日夜 愛知縣名古屋市南區熱田〇〇二於イテ死亡」とあり、届出人は長兄である祖父の篤彦です。

ただ祖父は昭和5年には台湾在住ですので、連絡を受けて日本本土に戻り手続き・引き取りをしたのかな?と思います。どこにお墓があるのかなどは全くわかりません。

明治20年7月生まれで昭和5年8月には43歳

死因も分かりませんが、早くに亡くなったようです。


祖父の弟は四人いましたが、明治25年生まれの末弟の上に、妹が戸籍上には3名いますので、次回からは妹たちについて書こうと思います。



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祖父の次弟・汀

2024-05-21 15:53:00 | 祖父・篤彦の弟たち

前回に続き、祖父の弟たちについて少しだけ書いてみます。

 

今日は祖父の次弟・汀、です。

父によると、祖父は次弟を「ミギ」と言っていたと話していました。

正しい読みは分かりません。

 

この方は前回紹介した敏雄さんと二歳違いで明治18年3月生まれ。祖父・篤彦とは四歳違いです。

 情報は除籍謄本のみです。

 

一時期、川上久良の養子となっていたようです。

汀さんからすると、川上久良は伯母・川上イサの長男であり、従兄です。

明治29年7月に下荒田町・川上久良養子となりますが、

明治38年11月初めに「協議離縁」

 

その後大正8年には橋口ミネさんと結婚。

ミネさんは長崎市の「橋口乙四郎妹」とあり、婚姻届は横浜市に出されています。

 

大正8年4月、長男・清さんが横浜で、昭和2年5月に次男・淳さんが兵庫県武庫郡で生まれています。

また、大正11年3月初めには長女・弘さんが横浜市で生まれていますが、翌年6月に亡くなっています。

皆さん、亡き父のいとこ、ということになりますね。

 

曽祖父・轟の三男であり、祖父・篤彦の次弟、汀さんは昭和17年1月、神戸市灘区で亡くなっています。

届出人は妻・ミネさん。

 

次は、祖父・篤彦の三弟・「ツネ」さんについてです。

 

 

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祖父の長弟・敏雄

2024-05-20 23:38:13 | 祖父・篤彦の弟たち

みなさま、しばらくぶりで御座います。

又つらつらと綴ってみようと思います

 

今日、5月20日、例の「家族・親族のメモリアルカレンダー」を見てみると、

祖父・篤彦のすぐ下の弟・敏雄が「皷川の藤田善次郎の養子」となった日でした。

 

除籍謄本によるのですが、祖父・篤彦の二歳違いの弟は明治16年4月生まれで

その敏雄さんが明治22年に養子に行った時には満で6歳。

この皷川の藤田善次郎という人物がどういう方かは全く分かりません。

 

また、その翌年の4月には、『都見物日記』に残っている通り、父親である曽祖父・轟は、

姉・川上イサさんとその姑さんと一緒に東京市へ1ヶ月余り出かけています。

 

この敏雄さん、私の亡き父からすれば叔父の一人ですが、末っ子で大正15年生まれだったので

敏雄叔父にあったことはなかったと思います。

 

その父が祖父・篤彦から聞いた話では、敏雄さんは篤彦じいさんよりも体格が良く身体が大きかったけど、

篤彦じいさんはある時相撲で投げ飛ばした、と自慢げに(?)父に語っていたようです。

 

でも、養子に行った時には、篤彦じいさんは8歳、6歳の弟が体格が良いと言ってもそんな子供の頃のことだったのかは疑問が残りました。

もしかしたら、養子に入った後も兄弟で過ごす時間があったのかも、と思うのでした。

今となっては確認のしようがありませんが、もう少し成長した頃の話かな、とずっとイメージしていました。

そんな祖父も、明治28〜9年には親(曽祖父・轟)に従い台湾へ移り住むので、ほんの数年の間の思い出なのかもしれません。

 

 追記:敏雄さんメモには「北海道へ」とあるのですが、詳しいことは分かりません。

父によると、祖父・篤彦は弟・敏雄のことを「トシ」と呼んでいたようです。

 

では、次は次弟のお話をします。

お休みなさい

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