☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

倉山作太夫から上司・調所笑左衛門殿への書簡

2019-10-29 14:18:00 | 爲恵祥院殿菩提石塔

FBで先日の記事の倉山作太夫の紹介をしたところ、

あるお方に調所様の部下であったとご教示頂きました。

 

そこで、「倉山作太夫 調所笑左衛門」で検索かけたら

とても興味深いものを見つけました

「『琉球外国関係文書』編年目録」

(天保十四年に始まり、弘化元年三月〜嘉永二年十二月)

 

その中に、嘉永元年申七月晦日付けの、倉山作太夫から調所様への文書もありました。

「警吏新納四郎右衛門帰国照会」

 

弘化三年(1846)九月の「11」にはタイトルに「倉山」の名前が見られます。
弘化四年(1847)四月「12. 琉球国守備増遣(予備)」に、「当時琉球在番奉行は倉山作太夫」とありました。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/…/ok230016.htm

 

嘉永元年十二月以降、調所様のお名前が無いのが悲しい。。

https://ja.wikipedia.org/wiki/調所広郷

 

 

 

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倉山久籌は島津登久包の義理の弟だった!

2019-10-27 22:19:33 | 爲恵祥院殿菩提石塔

前回、倉山作太夫家の家系図を追って、倉山作太夫久籌の室は「島津登久備 孫女(永吉家二男家)」であるという記述を紹介しました。

 

そこで前回のように、『島津家家臣団系図集 下巻』で「210  島津登家[永吉家二男家](登家)」を確認すると、

「島津登久備」とは、「島津登久包」の祖父であり、久包の妹が「倉山作太夫久籌 室」と確認出来ました!

 

ということは倉山作太夫久籌夫婦は、久包の長女・タネ(名越右源太盛貞時行=左源太時敏 室)の叔母夫婦であると判明しました

  

 

さらに良く見ると、久包の父・「島津久命」は実は先代「久備」の従弟「掛橋輝次 兼治」が養子に入っており、

またその「久命」の妹(久備 女子)は「島津求馬久馮 室」とありました

なので、「島津求馬久馮夫婦」は島津登久包の叔母夫婦!という事になります 

 ←右端に「島津求馬久馮 夫婦」の刻銘あり!

 

と、ここで「島津登久包」を再確認してみました。

「八郎権五郎登 若年寄(斉彬公) 家老(忠義公) 戊辰戦争出役」

 

「久包」には弟もあり、「輝次 門十郎矢九郎 平山七郎右衛門 嗣」とありました。

   (‥‥ん?「平山」 

 

ところで、久包の長男で、タネの弟も「久籌」なのでややこしいです。

 

 写真の中央にある「島津矢柄久計」は島津矢柄家「薩州家准二男家」(矢柄家)にその名があります。

前述の系図集では

「134  島津矢柄家 [薩州家准二男家](矢柄家)一所持格 庶子号岩越」とあり、

「本宗家八代久豊公二男 用久」に始まります。

「久計 弥一郎矢柄」とだけ。

その長男に、「久敬」とあるのですが、続けて「弥一郎矢柄 室 菱刈杢之氶隆徴 妹」とのこと。

「島津矢市郎久敬」とは文字が違っているのですが‥‥。別人でしょうか??

 

「菱刈杢之氶隆徴」について、同様に「146  菱刈氏本家 [藤原北家庶流](藤馬家)一所持 本領菱刈院」にて確認。

「隆(実)徴」の妹「島津矢柄室」とあり、その父「隆珍」の弟に「久籌」とあり、

「孫五郎倉山作太夫久喜養子」とありました!

正に!島津登久包の妹の夫でありました〜  グルグル回って一周した感じ

 

「倉山久籌」について前回省いた箇所があるので再度、

「久籌 孫五郎作太夫 琉球在番奉行  実 菱刈安房隆観三男 室 島津登久備 孫女(永吉家二男家)」

 

  ☆10.30 追記:昨年6月13日に福昌寺で撮った写真に「菱刈安房隆観」「島津登久備」の名がありました

   関連記事 → 『調所笑左衛門などの刻銘を確かめに


ふと、(倉山作太夫)久籌の子供たちに目をやると、

長男・久昌の長男「藤五郎」という人がいて、(どこかで見たような‥‥)と思ったら、

永吉島津家「貴久公四男家」(中務家)を継いだ、タネの実弟「久籌 権五郎主殿又七」の長女・フユさんのところに「倉山藤五郎妻」と書いてあるのを以前見ていたので見覚えあるはずですね

 

「藤五郎 西南役薩軍狙撃一番左小隊長 於佐土原戦死 ‥‥ 

       室 島津又七久籌長女冬(永吉家)」

また、藤五郎の父・久昌の妹・ヌイさんは、「島津求馬久邦室」であり、

ヌイさんの息子「久能」さんも「応 吉織衛 西南役戦死 ‥‥ でした。。

       室 比志島静馬範雅女」

 

西南の役戦没者名簿で 確認しなくては‥‥‥。

 

それでは、今夜はこの辺で

 

 

☆☆☆☆☆☆

追記(11/4)

南洲墓地墓石配置図により確認! 栗川久澄の一つ置いた右隣にありました!!

たまたまですが、戦没者のネームプレートでも一つ置いた隣同士!

 

 

 

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倉山作太夫久籌?

2019-10-27 08:28:46 | 爲恵祥院殿菩提石塔

ここ数日調べ物をしていました。

以前2016年12月に書いた『名越右源太篤烈とは?』で上げた画像、石塔に刻まれた数組の夫婦の名前です。

(☆画像は全て、2012年11月16日撮影です。もう一度しっかり確認しなくては!)

  

左:「島津矢市郎久敬夫婦 名越右源太篤烈夫婦 倉山作太夫久籌夫婦」

右:「島津求馬久馮夫婦 島津矢柄久計夫婦 島津直??夫婦」

 

 この中で「倉山」という姓が気になっていたので、『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄著 高城書房出版)で見てみると、

[ 倉山 ] ‥‥ 豊州家島津丹波 正徳年間 二男以下の苗字は倉山氏。諱字は長男「久」、二男以下は「季」と命名するよう命ぜられた。

  倉山久武 ‥‥ 豊後久起 子 倉山作太夫家(寄合並)祖。

と、もう一件「倉山藤八」の2件のみ載っていました。

 

そこで「豊後久起」を[島津]に探してみると、[ 豊州島津 ](p.151)にありました。

  島津将監久起 ‥‥ (島津内膳)久兵 孫 宝暦六年(1756) 千五百六十九石 一所持 若年寄。1757没。

  ※ 将監(しょうげん)‥‥ 近衛府の判官。左右がある。

 

この「久兵」は「久邦養子」で

 宝永二年(1705) 大目付。正徳二年(1712) 一所持 若年寄。 正徳五年(1715)〜享保十六年(1731) 家老。

とあります。

 

また、『島津家家臣団系図集 下巻』でも「倉山」をチェック!

下巻 p.356  倉山氏 「豊州家二男家」(作太夫家)寄合並

 282  豊州家十二代 島津内膳久起二男 文化九年五月樹家 屋敷 西田

 

久武 ー 久喜 = 久籌 ‥‥ 実 菱刈安房隆観三男 室 島津登久備孫女(永吉家二男家)

とありました!

今度は「島津登久備」を調べてみなくては〜、、、と一先ずここまで。

う〜〜〜ん、、この辺りも繋がりありそう〜

 

 「島津矢市郎久敬」「 島津求馬家」「島津矢柄(やつか)家」も調べましたが、次回以降に回します。

(何で「やつか」と確認したか忘れましたが、「矢柄」は「やがら」かもしれません。'21.1.16 追記)

「やがら」【 矢柄・矢幹・簳 】 ・・・ 矢の幹。篦(の)。矢篦(やの)。(「広辞苑」より '21.1.18 追記)

 

この石塔に刻まれた各家の繋がり、何かお気付きの方がおられましたら、コメントなど頂けると嬉しいです

 

 この石塔、引きで見ると、こういう形↓の石塔です。これにぐるりと名前が刻まれています。

  

上の画像を大きく写したのが↓こちら

 「爲 恵祥院殿菩提」と読めますが、

恵祥院とはまだ誰だか分かりません。ネット検索では出て来ませんでした。

 

 

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大正14年まで生きた筆(フデ)さん

2019-10-20 09:22:23 | 大伯母・名越フデのこと

曽祖父・轟の次姉である「名越フデ(筆)」さんについては、これまで5件の記事を書いています。

※ カテゴリーがそれぞれバラバラなのでこのブログの検索欄に「フデ」と入れて検索してみて下さいね。

 

過日、曽祖父・轟とその妻・ツタについて、誕生日ー命日を確かめていたのです。

 轟  ‥‥‥‥ 嘉永三年一月二十六日(1850. 3.9)生まれ ー 大正11年(1922年) 2月6日没(72才)

 ツタ ‥‥‥ 安政五年十月二十三日(1858. 11.28)生まれ ー 大正12年(1923年) 4月7日没(満64歳)

 

 西暦表示は旧暦から新暦への変換サイト「西暦和暦変換」を参考にしました。

 

轟ジイさんが亡くなった翌年、ツタばあちゃんは亡くなったんだなぁ‥‥と感慨に浸ります。

先日書いた、祖母の両親、寺山の方も後添いの平山チカが昭和16年4月に亡くなった2ヶ月後の6月に用之も亡くなりました。

 

と、ここで、轟ジイさんの次姉・フデさんの誕生日が6月16日(奇しくも父親・泰藏=左源太の命日)だったので、命日は‥‥とブログ記事を確認すると‥‥

昨年1月に書いた『フデさんの命日でした』、これだけだったのです、、、。

再度亡くなった年を確認したところ、「大正14年」だったことに改めて気付き、私の父が生まれる前年のことだったんだ!と認識を新たにしたのでした。

 

曾祖父母が大正11年〜12年に亡くなっていたので、なんとなくそのもっと前だったように思っていたフデさんの没年が、う〜んと手前に迫って来た感じがしたのでした

 

 名越筆(フデ)‥‥‥ 弘化二年六月十六日(1845)生まれ ー 大正14年(1925)1月19日没(満79歳)

 

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川上式部邸跡と「授産社跡」

2019-10-19 11:31:49 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

さて、間が空きましたが、今日は『都見物日記』です。

なかなか思うようにご紹介できないのは、構成力の無さだとつくづく感じているのですが、

曽祖父・轟の長姉、イサさんの嫁ぎ先の川上家について書いていないことに気付きまして、FBで書いた記事から再構成して記しておこうと思います。

 

以下、9月15日の自身のFB記事より 

   ☆☆☆

 

 『都見物日記』を書いた川上イサさんは、曽祖父・轟の長姉で、夫・川上久逹の父・川上式部久美は島津斉彬公・忠義公の時に家老を務めた人。


※〈補足〉

トップ画像は、時成さんのご子孫・内村氏の『名越左源太と長男・時成(変名・三笠政之介)』より

(なお、「川上久辰」とあるのは「川上久逹(ひさゆき)」の誤植と思われます)

 

画像の中のイサさんの説明に「明治二十三年第一回帝国議会を見学に上京して‥‥」とあるが、イサさん一行が議会を見学した様子は日記には見受けられません。
帝国議会が開かれたこの年、お江戸上りをする人が多かった、と書かれています。

川上式部の邸は武之橋近くでした。

イサさんの旅日記の最後にも武之橋入り口まで帰って来たことが書かれています。



『鹿児島城下絵図散歩』(高城書房)の中の平成現在の地図によると、この敷地あたりに「授産社跡」と記されている。

 

 「授産社跡」がよく分からず検索かけてみたところ、拾い物。

「第二章 鹿児島の近代化」703ページ、749ページなど興味深い。

 https://www.city.kagoshima.lg.jp/.../2012510154932.pdf

 

   ☆☆☆

参考までに、黎明館『薩摩藩家老の系譜』があります。

こういうものに特に詳しいわけではないので、時間がある時にじっくり読んでみたいと思います。

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木脇啓四郎と『南島雑話』

2019-10-16 02:30:44 | 木脇啓四郎

以前から気になっていた事のひとつに「木脇伊左衛門」のことがありました。

 

 2008年4月23日の「そもそもの始まりは」に 頂いたコメントで、

「名越篤烈」が書いた史料に「木脇伊左衛門」についての記載があるそうで、「名越篤烈」を知らないかとのご質問の方があったのですが、コメントが書き込まれたのは2010年8月2日でした。

 

生憎この時分は「名越篤烈」が「名越左源太時敏」と同一人物とは分かっておらず、またこの「ひろみ」さんのご先祖様「木脇刑部左衛門祐秀」についても名前を見たことあるような‥‥という程度でした。

 

ず〜〜っと気になりながら、つい最近、木脇啓四郎という人物が「南島雑話」の写しを命じられ作成したことを知り、ようやく調べてみる気になったところです。

☆きっかけはこれ → 「島津豊久像からの木脇啓四郎

 

 

「木脇伊左衛門」で検索して知ったのですが、平成25年3月10日に鹿児島市立美術館で 「木脇啓四郎描くー幕末・明治の薩摩藩文化官僚の画業」という催しがあったようですね。

 「木脇」の読みは「きのわき」のようです。

    木脇啓四郎(きのわき けいしろう 1817~1899)

  

 

「鹿児島市立美術館 木脇伊左衛門」で検索すると、この時の資料が[PDF]で出ていたのでダウンロードして読んでみました。→ 演題:『木脇啓四郎 人と業績』 講師:丹羽 謙治(法文学部教授)〈 http://hdl.handle.net/10232/16938 〉

 

また、上記イベントタイトルの、鹿児島大学附属図書館の「講演会記録」のページで上から4番目の「panels.pdf」を読むと、出生から始まり生涯に渡っての詳しい動向・業績が紹介されています。→〈 http://hdl.handle.net/10232/16937 〉

 

☆『木脇啓四郎と沖縄・奄美』 の項に、

「明治18年(1885)夏頃に、名越左源太がまとめた『南島雑話』の写本を、鹿児島県少書記と奄美大島金久支庁長を兼務する新納中三の依頼を受け作成している(22年6月完成)。」

とあります。 

 

 

 「木脇刑部左衛門祐秀」での検索では、Wikiの木脇 祐秀(きのわき すけひで)」がTopに出ています。

続けて「木脇刑部左衛門祐秀 名越篤烈」で検索したところ‥‥‥ 

桐野作人先生のブログ「膏肓記」のコメント欄がヒットしました

1月20日の書き込みで、書き込み主は「木脇moひろみ」さん……って、同一人物ですよね?

 

ちょっとこれでは見にくいので、別表示で見てみると‥‥

2012年9月16日の「鹿児島講演と史跡取材」という記事でした。

で、ひろみさんの書き込みは2013年の1月20日だったんですね。

こちらにも丹羽謙治先生のお名前が出ていました。

 

 幕末の木脇啓四郎は便宜上「唐湊系」で、本家直系の「祐秀系」との区別表示をされているようです。

 

この記事書き始めたのは午後4時だったのですが、

こんな時間になってしまいました〜 (←今夜はもっと丸っこい月)

 

いやぁ〜、こんな展開になるとは思っていませんでした。

では、今夜はこんなところで

お休みなさい〜

 

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藤沢市の「文書館だより 文倉(ふみくら)」

2019-10-15 14:59:19 | 日記

いつもお読み下さって、ありがとうございます

今日はちょっと雑談など書いてみます。

 

以前「曾祖父・轟の名を台湾のサイトに見つける」で藤沢市文書館のサイト、「文書館だより 文書(ふみくら)」を紹介しましたが、バックナンバー第31号をみてみたところ、「芥川龍之介の実父・新原敏三は牛乳搾取販売業「耕牧舎」を営んでいた」とあり、初めて知りました!

  「文書館だより 文倉(ふみくら)」一覧

 

その辺りのことは全く知らなかったので、Wikiでチェックしてみました。

「芥川龍之介」

なぜ「芥川」なのか、その辺りのことも書かれいたので、認識を新たにしたところです。

 

ちなみに、三男・芥川也寸志氏は1925年生まれ、ウチの父より一歳年上だったんですね

知らなかった〜

 

☆以前のブログ記事のカテゴリー編集などしていた中で、気になったことをチェックしてみました 

 

 

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寺山用央と名越恒篤と二階堂省行與右衛門

2019-10-13 00:33:13 | 通昭録

 9月20日のFBで書いたものです。

アップした後に気付いた事もコメント欄から拾ってまとめてみました。備忘録として。

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 

数日前父方祖母の父親・寺山用之の兄「寺山用信」で検索かけたら「寺山用央」という名前が載った『鹿児島県史料集 (55) 通昭録(四)』(鹿児島県立図書館)が上がっていた。

 

「樺山」とか「美代(みしろ)」とかの見慣れた名前もある中で、8ページに「寺山用央」の名前が出てくる。(14ページ以降にもある)

※「美代清○」という名前は、曽祖父の戸籍に一時養子入りした「町田久成の娘てう」さんの子供が「美代姓」なのだけど、繋がりがあるのだろうか?

関連記事 → 『テウさんについて

 

11ページには「名越恒篤 左源太」の名前も??
この人はいったい‥‥だれ?

そもそもこの史料集の意味がよくわかっていませんが‥‥(汗)

 

 ‥‥‥とここまで書いて数日後

 

「11ページ」の「名越恒篤 左源太」って誰?って書いたけど、自分のブログ読んでたら書いてあった(笑)

初代・名越恒渡(つねただ)の孫、すなわち三代目さんでした〜

(ココの文章の「☆3」をお読み下さい)

月桂院とは』 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

〈 これより10月12日 追記 〉

この、『鹿児島県史料集 (55) 通昭録(四)』(鹿児島県立図書館)は、平成28年3月刊行のようです。

「『通昭録』は江戸時代後期 得能通昭(享保十四年生まれ 寛政元年没)郡奉行や勧農使として務める傍ら収集したものを江戸在勤中にまとめたものです。」とありました。

また収録内容に関しても巻頭に鹿児島県立図書館長・原口泉先生の「刊行のことば」があるので読んでみて下さい。

 

  また改めて名越恒篤の前後の歌や名前を読んでみると、「二階堂省行 與右衛門」の名で

   「甲申の月見かてら名越恒をとむらひてよめる」とありました!

 

この方、『島津家家臣団系図集 下巻』で確認したら、p.312に

231 二階堂氏「藤原姓維遠流」(蔀(しとみ)家)に「与右衛門(城下士小番二階堂与右衛門家)」とありました。

☆ちなみに二階堂氏の「二男家筋行恒流」(源太夫家)子孫、二階堂行三には名越左源太時敏の姉が嫁いでいるようです。

 

 

 なお、この名越恒篤の「望月の今宵はよしやくもるとも又こん秋の光こそ見め」歌はp.107下段にも「重出」として載っており、

 

つくりなすみきりにつゝく海山はあかぬ詠そ世に類ひなき
八月十五夜名越恒篤君をとふらひてよめる 
  私云(去)君時罷蟄居  二階堂省行
(重出)
 望月の今宵はよしやくもるとも又こん秋の光こそ見め(67オ)
   返し                  名越恒篤
 問ひ寄し人の情をみつ月に心のくまもはれてうれしき 

                       寺山用央 

 

よくよく読んでみると、p.110にも恒篤の名がありました。

  山かせのかよ(な)ふ麓の秋の色に心もなひく小田の民草 

   さま〳〵に味をつくしの田面哉 

                  名越恒篤歟 
 
 
美代清相に関してはp.109に
  はてしなき遠き東の隅田川たえぬ流をいつまてか汲む 

                      美代清相

 
とあったり、p.8、p.14にも数多く載っています。
 
 
 この様に、ネット検索で読めるのはとてもありがたい事ですね
 まとめて下さった得能通昭氏にも、中山右尚氏はじめ刊行に携わられた方々にも感謝します。
 
 
 
肝心の「寺山用央」については、寺山氏二男家別立の中にその名前があります。
(2019.10.13  15:30 追記)
 
「用親」【二男家別立】初 久起権右衛門 母 喜入安房久亮 臣 田代五右衛門 妹
 |
「用信」太次右衛門
 |
「用央」 太次右衛門 示顕流免許皆伝    
              東郷藤兵衛実満 弟子
 
 この二男家の子孫に「寺山修司」の名前もあります。
 
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名越彦太夫とは?

2019-10-07 23:55:25 | 名越彦太夫

以前アップした画像で「名越彦太夫」という名前が気になっていた。

(『福昌寺跡の島津家墓地に』(2018.3.20))

どこかで目にした様にも思った。

が、その後そのままで放っておいた。

(画像は福昌寺跡島津家墓地にて2008.5.17 撮影)

 

 関連記事「5月の歴史探訪フォトアルバム-2

 

最近になって調べてみる気になった。

 

ネット検索をかけてみると、「篠崎 仲苗(しのざき なかなえ)」という名前がトップに上がっていたので見てみた。

 

「名越彦太夫高房の次男」とある。

 

 実父:名越彦太夫高房(名越左源太家分家筋の当主。家格代々小番。広敷御用人や側役、当番頭などを務める)

 
「高房」‥‥‥ 島津斉興から島津忠義に仕えた名越彦太夫高房
 
 

実はずいぶん前に、原口泉先生の著書『NHKかごしま歴史散歩』の中の「サラリーマン武士の一日」の章で目にしていたのだ。

 

それによると、名越家の初代・名越恒渡(つねただ)の弟・高豊の子孫で、5代目が高房ということらしい。

 

4代目・盛発が鮫島家から養子入り。この頃相当家運が傾いていたが、4代目は鮫島家から持参した30石を基礎にして家運をおこした中興の祖である、とのこと。

 

5代・高房は、横目役に就いていたが、1816年(文化十三年)から長崎詰となり蔵屋敷の監査などにあたった。

ところが長崎在任中、何かと出費がかさんだ様で、再び家計が苦しくなる。

1823年(文政六年)から琉球への転勤願いが叶い(注:琉球といっても奄美のこと)約2年勤務。

その結果、苦しかった家系も挽回し、さらに新たに屋敷地や禄高も買うことが出来た。

 

6代目・彦太夫高温(たかはる)の代には219坪と買増した添地合わせて339坪あり、禄高も幕末には4百石近くになった。同じ屋敷内に家来の黒木家と川村家を含めて三世帯が住んでいる。

 

名越彦太夫(6代目)は、順調に昇進してお側役までなった。(お側役とは殿様と家老の取次役)

 

尚、名越彦太夫高房の次男・彦十郎は、母方にあたる篠崎蔵太左衛門家の養子となり、名跡を相続する。

江戸芝藩邸において江戸留守居を務めていたが、庄内藩を中心とする江戸幕府軍による薩摩藩邸焼き討ち事件の際に戦死。 ←Wiki「篠崎仲苗」より https://ja.wikipedia.org/wiki/篠崎仲苗

 

 

 ちなみに「名越彦太夫」と同じ石塔台座には「町田」の名もあります☆

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小林居地頭着任の日

2019-10-05 23:58:02 | 名越左源太と家族

2008年7月に「左源太の任期」でも書きましたが、

10月5日は高祖父・名越左源太時敏が小林に居地頭として着任した日、でした。

1864年(元治元年)のことでした。

 

『南島雑話の世界』によると、「『小林市誌』によるとそれまでの小林地頭は、赴任しない「掛持地頭」が長く続き、居地頭は実に228年ぶりだった。」ということです。

 

同年9月16日に急遽、現在の宮崎県小林市の「居地頭」に任命されたそうです。

そして、左源太は10月2日に家族同伴で鹿児島を発ち、5日に小林に着任しているとのこと。

 

なお、左源太の長男・平馬(のち時成、変名・三笠政之介)が 薩摩藩英国留学生の1人として渡英したのは、

左源太がこの小林地頭時代の1865(慶応元)年3月のことでした。

 

 今日小林居地頭着任の日、という事でメモとして記しておきます。

画像は2008年7月撮影

<関連記事>

小林市の地頭仮屋跡』 2008-07-25  カテゴリー : 名越左源太と家族

 

  

  

   

  

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南洲神社・南洲墓地〜顕彰館へ

2019-10-05 23:55:12 | 日記

今日午後、特別展を観に父と。

残念ながら、館長さんのお話は時間が合わず😢

 

南洲神社参拝。西南戦争戦没者の中に親族縁者の名前など確認。
御神籤は「小吉」で内容はまずまず♪


南洲墓地を回ったら、日差しのせいか暑くて☀️帰りは脚が棒の様😵でした。

あ、そうそう、西郷さんのお墓の前である方とバッタリ!今日はお休みだったようです😉


 FBから3連投でした〜☆

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島津豊久像からの木脇啓四郎

2019-10-05 00:18:22 | 木脇啓四郎

先日の黎明館の展示で「島津豊久像」を観たけど、その画家「藤原信徴(のぶあき)」を検索していたらこの西田実著「大西郷の逸話」にその名前が出ていたためヒットした。
面白そうだったんでロシア語の10月号テキストと一緒にポチッと☆

https://www.amazon.co.jp/dp/4861240379/ref=cm_sw_r_fa_dp_U_Zf2LDbVA7NEJ5?fbclid=IwAR0lCZBKgh0P_cUTKbgQa-TgpFjjwvcjF-eBxAzMOsRioWbXFlk6w4GfJhA

書籍の画像はamazonから拝借しました。

 

 

「藤原信徴」で検索すると「中島信徴」と出て来る。

それで「南島雑話」の写本を作成した人物が「木脇啓四郎」だと出ていたんでビックリ!

 

試しに「中島信徴 南島雑話」で検索すると「鹿児島大学リポジトリ」で

「鹿児島市立美術館・鹿児島大学附属図書館合同企画展「木脇啓四郎描く―幕末・明治の薩摩藩文化官僚の画業」」とというものが出て来ます。

 PCだとダウンロードして読むことができます。

 

それによると、写本は5巻5冊で

「(木脇)啓四郎は、鹿児島県少書記と奄美大島金久支庁 長を兼務する新納中三の依頼を受け、明治 19 年 6月~22 年 6 月にかけて、名越左源太がまとめ た『南島雑話』の写本を作成した(「島庁本」)。 この「島庁本」を鹿児島高等農林学校教授の小出満二が転写したものが、鹿児島大学附属図書 館本である。」

と あります。

 

 以上、今回も自身のFBより編集・転載しましたっ

 

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島津義弘没後四百年記念展「戦国島津」へ

2019-10-03 23:45:19 | 日記

一昨日10月1日から始まった、黎明館の
「島津義弘没後四百年記念展『戦国島津』」に父と行って来ました〜☆

前評判通り、妻・宰相に宛てた義弘の書状や18mもの虎狩絵巻や図屏風も興味深く、また「島津忠久像」(玉里島津家資料)も見ることが出来て良かった♪
「源頼朝下文写(くだしぶみうつし)」も3点展示されています。(図録読むと更によくわかる❣️)

鎧兜や合戦布陣図も勿論のこと、茶入れ・茶杓などの茶道具や「利休江御尋之條書之写」を見られたのが思いがけず印象深い。
あと、キリがないけど島津豊久像(部分)も豊久の木杯も、「心岳寺講島津歳久位牌」も!
それと天昌寺絵図に明軍陣羽織に高野山敵味方供養塔拓本もあった!

今日はふらっと行ってみたって感じだったけど思ってた以上に楽しめた♡
一部入れ替えもあるみたいだからまた行こうかな♪

 

 自身のFBより転載しました〜 

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