☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

幾島君招魂墓(鹿児島市)

2018-03-24 14:26:35 | 幾島君招魂墓

いつかブログに載せようと思っていた幾島君招魂墓の画像
ようやくアルバムにしました。(2008年12月6日撮影)

幾島君招魂墓(鹿児島市)


大河ドラマ『篤姫』(2008年)放送時に見つかった、篤姫教育係であった幾島君の招魂墓
当時新聞でもテレビでも取り上げられ、わが家の先祖(名越家ではない方)の墓と同じ墓地だったので父と出かけて探し出し、撮影したものです

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ブログスタートから10年

2018-03-21 08:36:34 | インデックス(主なイベント)
いつもお読みいただきありがとうございます
トップ写真は、今の季節と同じものを、と思い、2009年の3月21日に撮ったものをアップしました。

さて、タイトル通り、2008年3月20日にこのブログを始めて10年になりました。
『春分の日に、ブログを始めてみた。』

ただここでバックナンバーの欄を見ると、一番古いものは「2007年7月」になっていますので、「」と思われるかもしれませんが、2008年の3月20日より前のものは、その2007年7月4日の『古書店に行きました。』をかわきりに、mixi過去日記を載せているので、このように表示されています。

そこで、これまでに一体いくつの記事を書いて来たんだろう?と思い、数えてみました。

全部で194件、ありました。
純粋に、10年前の春分の日からの記事を数えてみる事にして、それ以前の「mixi過去日記」を調べてみます。

カテゴリー欄の「mixi過去日記」の表示は、今現在10件。

その内訳はというと、
2007年7月 ‥‥ 1件
  〃 年8月 ‥‥ 4件
2008年2月 ‥‥ 1件
  〃 年3月 ‥‥ 5件

‥‥おや?11件もある‥‥?
よく見てみると、カテゴリーが必ずしも「mixi過去日記」とはなっていないので数が合わないようですね。
しかも、2008年3月20日以降にも「mixi過去日記」記事が入っています。
※例えば、同年3月27日の『「谷山支所〜県立図書館」mixi日記より』
同じく4月11日の『「新しい《のおと》3冊。」mixi日記より』など。

なので、ここでは単純に194件から11件を引いてみると、これまでのgooブログ記事は183件、ということのようです。

ということで、今回のこの記事は、スタートから184件目、ということになります。

‥‥あれ?
良い思いつきだと思ったんだけど、やってみると何だかスッキリしない結果になってしまいました。。

11年目スタートに当たり、「これを機会に記事にナンバリングしよう」と思って始めた事だったんですけどね

 
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福昌寺跡の島津家墓地に

2018-03-20 13:54:59 | 歴史探索

いつもお読みいただきありがとうございます
トップ写真は2006年8月4日、指宿の今和泉島津家墓地の整備改装前に撮ったものです

さて、2008年8月2日に『5月の歴史探訪フォトアルバム-1』(カテゴリー:日記)として上げましたが、写真をクリックすると拡大表示されなくなっていたのでどうにかしたいと常々思っていました。

今回改めて写真を見直してみたところ、前回のページに掲載しなかったもので興味を持って頂けるものが残っていたので、新たにブログアップしてみたいと思います。


《福昌寺跡の島津家墓地にて》(撮影:2008年5月17日)
「かごしま探検の会」の街歩きに参加して、鹿児島市内の上町地区、福昌寺跡へ


島津淡路忠喬」と「島津三次郎忠冬」と読めます。今和泉島津家の方々ですね。

指2本でやるあの拡大表示(名前がわからない)をしてみて下さいね

島津安藝忠剛」と「島津山◯忠厚」 こちらも今和泉島津家。忠剛は、忠冬の父で篤姫の父でもありますね。
※写真で見るだけでは山◯がよくわかりません‥‥あとで調べてみます。



ここで今和泉家の方々について、少し分かりやすいように指宿・岩本の墓地の新しい見取り図を貼っておきますね。



続いて鹿児島市内の島津家墓地から、
こちらは島津、菱川の姓と並んで「調所笑左衛門(広郷)」の名があります。以前のページにも載せました。

データの小さい画像しか見つからなかったので、例の指2本のヤツ()で画面拡大してご覧下さい)

そして、名越&三原 右端が「名越彦太夫」、左端に「三原」名前は判別出来ません。


さらに、名越&町田 名越彦太夫の隣の面、真ん中に「町田」名前には「久」の文字が見えますがハッキリしません。
山口、井上、竪山などの姓が並んでいます。


こちらには「島津安藝(あき)・對馬(つしま)

よく見えないのでさらに近づくと‥‥
島津安藝"忠敬(ただゆき)"」と「島津對馬"忠喬"

この、「島津對馬忠喬」というのが、『島津對馬の長女・スガ』に書いている今和泉島津家・忠卿(ただあきら)から数えて第4代当主ということになります。
指宿・岩本の墓地見取り図には「忠郷」と表記されていますが、「忠卿(ただあきら)」と思われます。
  これについては別ブログに書きました『忠郷なのか忠卿(あきら)なのか?』コメント欄

また、同じ「ただゆき」という読みの「島津周防"忠教(ただゆき)"」(安政6年)すなわち、のちの久光様の名も
 


大河ドラマ『西郷どん』で斉彬公とつい最近の放送回でも激しく対峙していた、久光様のご両親のお墓も。
こちら「島津斉興」さまと

母・由羅さまのお墓です


ついでながら、大河ドラマHPより「人物相関図」もどうぞ

福昌寺跡墓地をあとにして‥‥

中学・高校一貫校になった玉龍高校へ


きゅ(今日)はこんなところで、よしゅごあんどかい?(よろしゅうございましょうか)
 

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去年の今日のブログ

2018-03-19 23:17:51 | 日記
にほんブログ村に登録しました
17日深夜(18日)、「にほんブログ村」に登録しました。ジャンルを何にしようかとしばらく考えて、「歴史ブログ」の「近代明治・大正・戦前」にしてみました。歴史に詳しい訳でも......
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曾祖父が養子となった先は‥‥

2018-03-18 23:57:00 | 曾祖父・轟のこと
☆今日3月18日は我が家の先祖、曾祖父・轟が栗川家に養子入りし、姓が名越から栗川に変わった日でした。
 追記:川上イサさんと写っている男の子、「久良」となっていますが、年代から、またイサさんの様子からすると、長男・久良さんではないと思われます(2020.9.22追記)
 
轟の長男である私の祖父・篤彦は明治14年生まれ。
その翌年の明治15年3月18日に、曾祖父・名越轟は妻子を伴い、栗川家に養子入りしました。
 
養父・栗川用行は、曾祖父が養子に入る時には既に亡くなっていたと思われます(詳細は不明)
養母・スガは島津對馬の長女で天保8年(1837)生まれ
計算してみると、養子である轟じい様(当時32歳)とは13歳しか違わないようです!
 
☆養母・スガについては、関連記事:今年1月11日の『島津對馬の長女・スガ』もご覧下さい。
 
☆養父・栗川用行については詳しい事がわかりません。
「さつま歴史人名集」(稲葉行雄 著・高城書房出版)には
   [ 栗川 ] ‥‥ 薩州家島津仲 正徳年間、二男以下の苗字栗川氏、諱字は嫡男 、二男以下は と命名するよう命ぜられた。
と、あります。また、今和泉島津家の家臣にも名を連ねています。 Wikiより→「栗川用常」
大河ドラマ『篤姫』でも「栗川孫六」という人物が出ていました。 過去記事「孫六さん。(mixi日記より)」
※指宿・岩本の今和泉島津家墓地にある当主の墓前の献灯には「用」の字が付いた「栗川」姓の名前がいくつか見られます。
 
※左は忠剛様の墓前、右は忠冬様の墓前
 
※鹿児島には割合に少ない姓であり、鹿児島市の教育長が同姓だったことから、中学時代に何人かの教師から度々親族か問われた事がありますが、辿れば繋がるのかもしれません。
10年程前に私がお世話になったお医者様からも聞かれた事があります。その先生は「高校時代の恩師で、教育長の立場よりも現場に籍を置くことを望み教壇に立たれた尊敬する方だった」と仰っていました。
 
 轟の姉・川上イサさんの孫にあたる方から写真のコピーなどを頂いた事があり、そこには同姓の親族らしき名前を書き込んで下さっているのですが、轟との繋がりも残念ながらよくわからないままです。
 
その写真の中の1枚に、轟の妻・ツタ(私の曾祖母)と一緒に写っている少女がいます。
名前は丹下幸代
着物姿の肩には毛糸で編んだようなケープのようなものをまとい、それとお揃いのような大きな手編み風の帽子を冠って立っていて、椅子に腰掛けたツタが背中に手を添えている写真です。
「明治26年4月22日」と書き添えてあります。
 
轟は、明治29年には台湾総督府で勤務しているので、鹿児島で撮った最期の写真だと思われます。
 
☆「丹下幸代」の名前は「さんぎし」に掲載された『都見物日記』の冒頭に出てきます。
これについては、またおいおい書いていきます。
 
☆上記リンク記事内にあるように「*月刊誌「さんぎし(竹馬)」は昭和32年に創刊され、昭和57年に復刊し、平成19年3月で300号が復刊継続」と書かれていました。
コメント (2)
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川上イサさんの『都見物日記』

2018-03-17 17:57:18 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただきありがとうございます

☆新しいカテゴリー 轟の姉・イサさんの『都見物日記』 を作りました。
☆また、カテゴリー設定が違っても、欄外右上の検索機能を使って「このブログ内で」の設定でキーワード都見物日記でも関連記事を読む事が出来ます。

名越左源太時敏の長女・イサが記した『都見物日記』は、以前少しだけ内容紹介を書きましたが、
川上家のイサさんのお姑さん、イサさん、それと弟である私の曾祖父・轟の三人で船や鉄道を乗り継ぎ、讃州多度津〜金比羅参詣〜兵庫・大坂・西京・津〜伊勢参詣〜東京・日光・などを巡った際の日記で、明治23年4月17日鹿児島出発から5月29日までの旅の様子が書かれています。
寺師若法師さんにより薩摩文化月刊誌の『さんぎし』に紹介されたもので、昭和34年3月〜11月号に9回にわたって掲載されたようです。

私の母が存命中に、曾祖父・轟の兄、名越時成の子孫の内村八紘さんからコピーを頂いていたものです。
母から教えてもらい一度は目を通していましたが、全編に渡りしっかりと読んだのは、1999年7月に母が亡くなって数年経った頃でした。

その後、これがいつ頃掲載されたのか知りたくなり、父と鹿児島県立図書館へ行って司書さんに問い合わせところ、寺師若法師さんはだいぶ前に亡くなっているので随分前のものだと思う、との事でした。


こうしてブログに書くにあたり、その時に書き付けた2008年のメモ帳を見てみると、7/1(火)の食糧買い物リストの下に

☆『さんぎし』S.34 3月〜11月号(9回) 翻刻連載
   発行者:寺師若法師(宗一)氏

と、あります。メモ帳の日付けは多少前後するかもしれませんが、ほぼ7月初めにメモしたものだと思います。

また更に遡って、日付け:3/26(水)として行動予定リストの下には

  本名:寺師宗一  寺師若法師
       薩摩文化月刊誌「さんぎし」
      「南日狂壇」南日本新聞
      (※↑これはおそらく、当時の薩摩狂句のコーナー名だったと思います)
とありました。
※ちなみに行動予定リストの内容は、
  ◯ 谷山支所
  ◯ 採血結果をきく →3/29(土)AMに
  ◯ 県立図書館
       鹿児島市史 指宿市史も!

などと、なっていました。
成る程確かにその日の記録がmixiブログにも書いてありました。
こちらのブログに転載したものがあります。
  「谷山支所〜県立図書館」mixi日記より


今後、少しずつ「都見物日記」の内容を紹介していこうと思っています。
気長におつきあい下さいね
 

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篤姫の父上・母上のお墓

2018-03-11 21:25:16 | 大河ドラマ『西郷どん』

いつもお読みいただきありがとうございます

さて、今夜の大河ドラマ『西郷どん』では、篤姫の実父・今和泉家の島津忠剛が亡くなったという知らせに、国許を離れ江戸藩邸に暮らす篤姫が市井に逃走、海を見つめ涙を流し「父上〜〜!!」と叫ぶ場面がありました。

10年前の大河ドラマ『篤姫』でも、篤姫が徳川家に入輿するために江戸へ移った後に国許の父上が亡くなったことは一通り見聞きしていましたが、なんとも言えず感情移入して涙が溢れてしまいました。

その放送当時、鹿児島市内の墓地に篤姫の実家・今和泉島津家の墓石があると、内村八紘さんに教えて頂いた事がありました(内村八紘さんは名越時成の子孫のお一人)。
この時は轟の姉・イサさんの婚家・川上家のお墓を教えて下さるためでしたが、先日『西郷どん』の時代考証をされている原口泉先生もテレビで話されていた「郡元墓地」です。
ただ、実父・島津忠剛様のお墓は指宿・岩本の今和泉島津家墓地にあるので、ここに名前が刻んであったかどうかはわかりません。

ブログにも書いた事があったのですが、どこに書いたのだったか、写真と記事を探し出すのに時間がかかってしまいました。。
結局別のブログに探し出す事が出来ましたが、今後迷う事が無いように、こちらにも写真付きでアップしておこうと思います。

☆撮影は、2008年12月6日だったようです、自分でも忘れてるので日付け書いといてよかった〜♪
アメブロ『ゆきの時間』より「天璋院篤姫さんのご家族のお墓へ行ってきました♪」(日記は2009年9月30日)

「忠剛 女」の次の「 〃  室」とあるのが篤姫の実母「幸」様、その下にある没年の画像、右から3番目です。
 

明治二年十一月三十日 六十才 と読めます

右から4行目の「源 忠敬」とあるのが篤姫の兄・島津忠敬(ただゆき)様


☆篤姫の養育係・幾島殿が登場しましたが、幾島さまのお墓(招魂墓)が鹿児島市内の墓地内に見つかった当時すぐに探して写真におさめましたが、それはまた次回という事で。

 

《追記》後日、関連記事をアップしました〜   

幾島君招魂墓(鹿児島市)』(2018-03-24)カテゴリー| 幾島君招魂墓


 

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關山糺の名があちらこちらに

2018-03-01 23:07:10 | 名越時敏史料

いつもお読みいただきありがとうございます

今日は「關山 糺」という人物について記しておこうと思います。

実は先月、以前デジカメで撮った写真を探していたのですが、PCを変える前、10年くらい前の分を焼いたCDがどうしても見つからず、仕方ないのでmixiアルバムに上げていた写真をチェックしていたところ、今和泉島津家墓地の献灯の一つに刻まれた「關山 糺」の文字に目が止まりました。

何となく気になって、藤民 央 さんの『道之島遠島記』をめくってみたら、第1章の2ページ目にその名前が出ているのです!(同著のp.6)

そこには「‥‥先頭の馬に叔母婿の関山 糺(せきやま ただし)が乗っている。」とあります。

そこで今度は『鹿児島県史料 名越時敏史料 七』をパラパラめくってみたところ、p.297にも名前を見つけました。
永井亀彦先生が昭和9年に出された『高崎崩の志士 名越左源太翁』を見ると
「去りし嘉永の今は昔 戌の年三月四日予の親類御用にて 關山糺(筆者註、翁の叔母婿)なる人……」とあるので、藤民氏もこれをもとに小説に著されたのだと思われます。
実のところはまだ確かめる事が出来ていませんが、これから『名越時敏史料』一〜七をじっくり追ってみたいと思っています。

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