皆さま、お久しぶりでございます。
白い水仙
こちらは💁🏻♀️鈴蘭水仙
皆さま、お久しぶりでございます。
前回『14年間の軌跡(2)』からの続きです
高祖父・名越左源太のことが分かればそれで済む、と思っていたのは大きな間違いで、名越氏を初代が名乗ったのが島津吉貴公の時代で、その吉貴公の世継ぎを産んだのが、名越家始祖の妹・須磨(月桂院殿)ということで、島津氏のことを知っておかなくては分からないと、『島津歴代略記』を読んだはいいのだけど、分家のことまでは詳しく知ることもなく、そのうち新聞の連載記事やツイッターなどで歴史に関するものを読んだり、黎明館の「分家のチカラ」などの展示を見に行ったりして少しずつ理解できるようになりました。
黎明館企画展「分家のチカラ・弟たちの役割」を観に行ったのは2017年2月でした。
『ブログ「おじゃったもんせ」ご紹介』 2017-05-08 11:06:37 | 歴史探索
また一方で、祖父母から、曾祖父母へと遡り先祖のことを知ろうとしても、曽祖父の戸籍謄本を見る限りのことしか分からなかったので、曽祖父の養父母についてのことがさっぱりわかりませんでした。
というのも、明治時代に曾祖父母、祖父母が台湾に移り住み、しかも昭和期には戦争があり、敗戦で台湾から引き揚げる際に家族に関するものなど一切を現地の知人に預けて来たらしく、養父家についてはさっぱり分からない状態で過ごして来たのです。
因みに、私の父は兄弟の末っ子、父方の祖父母は私が生まれる前に他界しておりましたし、父の兄二人・姉二人もすでに亡くなり、遠方に住んでいたので曾祖父母や祖父母について知りたいことも知る術もなしでした。
養父母の墓も家系についても手がかりも繋がりもないまま、曽祖父の姉・兄家族についても何の情報もありませんでした。
唯一わかることといえば、曽祖父の兄・時成子孫の方がまとめられた綴りからの情報でした。
この時成兄といえば、「薩摩藩英国留学生」のことも知っておかなくては、と思っていると、いちき串木野市に新たに記念館ができたりして、関連する事柄も増えて行きました。
そういえば、「町田久成」や「西村天囚(時彦)」とも繋がりがわかった時には
本当に、「我が家の家系って‥‥一体‥‥。」と、戸惑ったものです。
その上、曽祖父がどういうわけか西南戦争に参加していた、ということもあり、またそちら方面のことも知らなくてはならなくなり、「もうこれだけでも手一杯だ〜!」と思ったものです。
ところが周りの状況といえばそんなこと御構い無しで、『篤姫』の実家・今和泉島津家のことや、玉里島津家、さらには時代をうんと遡って、島津氏初代からの流れや宗家・分家の動向、地元の歴史もと、次から次に関連する事柄が容赦なく増えて行きました。
「名越氏」だけの話ではないことがだんだんとわかってきたのはこの数年のことでした。
養父の家系のことや、高祖父・名越左源太の弟が継いだ町田家のこと、薩州家のこと、
そこからさらに膨大に広がる家、家、家、‥‥。
そういうことですので、この辺りでそろそろ手を打とうかな、と思っているところです(笑)
いつもお読みいただきありがとうございます
前回『14年間の軌跡(1)』に続き、これまでを振り返り、総括してみようと思います。
とっかかりは「名越左源太」という人物を(高祖父ながら何も知りませんでしたので)知るところから始まりました。
何しろ地元の歴史も、関わりがあるらしい島津家などについてもさっぱり頓着ない歴史オンチでしたので、母が買い集めたらしき歴史資料(主に書店で入手できる程度の出版物)の中から、『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄 / 高城書房)を見てみたのです。
名越氏や我が家の名字などを目にし、島津氏の項目でたくさんの「〇〇島津家」「△△島津家」に戸惑いつつ、とりあえずは母がメモしていた「島津吉貴」「島津継豊」「須磨」のあたりから「探って」行くことにしました。
また、『島津歴代略記』でも、初めは「吉貴」「継豊」のあたりだけ読んでみましたが、一方では大河ドラマ『篤姫』を追って行くのに明け暮れていたようにも思います。
2002年に、地元紙の南日本新聞で連載されていた名越(なごし)護氏の『南島雑話の世界』が1冊の本として出版されていたのですが、新聞連載時は読むことはありませんでした。
※あとがきによると「2001(平成13)年 6月5日から9月20日まで35回にわたって連載され」たようです。
本が出たのは2002年5月25日でしたが、新聞連載の2年前に母が亡くなっており、父ももちろんのこと、私にしてもそれまでとは違う、母の存在しない生活を送ることに懸命だったためか、その頃のことはあまり記憶に残っていないのです。
実際にその本を読むようになったのは、mixiを始めた2006年頃からだったように思います。
それからです、そこからが苦悩の始まりでもあり、迷宮に嵌って行くことになるとは、思ってもいなかったのです。
何しろ「名越左源太」さえ分かればいいと思っていたのですから‥‥。
( →『14年間の軌跡(3)』へ続きます)
前回、タイトルを「軌跡」と書いたつもりが、「奇跡」と書き間違えました〜
修正しておきました
いつもお読みいただき、ありがとうございます
気付けば今日は、曽祖父が家族4人で今の家を継いだ日でありました。
『曾祖父が養子となった先は‥‥』 2018-03-18 23:57:00 | 曾祖父・轟のこと
明治15年、西暦では1882年ということで、なんとちょうど140年前のことでした
祖父は明治14年生まれ、生まれた時は名越家の人でした
曽祖父以下、今の姓になって140年‥‥なんとも感慨深いものです。
さて、このブログを始めて14年が経とうとしています。
この間にはいろんなことがありました。
近いところでは、昨年6月に95歳の誕生日目前だった父を送ることとなりました。
そもそもこのブログを書き始めたきっかけは、以前にも書いていますが、
なんとなく、ただ何となく書いてみたくなった、それだけなのです。
『 春分の日に、ブログを始めてみた。』 2008-03-20 16:45:19 | このブログのこと
また、2008年は大河ドラマで『篤姫』が放映される年でもあり、そんなタイミングも一因となったかもしれません。
『「篤姫」を観ながら左源太さんを思う(mixi日記より)』 2008-02-26 14:36:18 | 都見物日記プロローグ
『篤姫館へ(2008.1.12 mixi日記より)』 2008-01-12 13:09:53 | 篤姫館
おや?2008年3月20日以前の記事?とお思いでしょうが、これは過去にmixiで書いていたものを改めて当時の日付で記事にしてみたもので、「バックナンバー」欄で一番古くは2007年5月の記事になっていたりします。
ただ、このブログを書いているうちに、23年前に亡くなった母が追い求めていたことが、一体どういったものなのか、またその後、先祖について分かったことなどを一人で抱えていられなくなった、とでも言いましょうか、そのようなことが少しずつ積み重なって今に至ります。
次回は、我が家の先祖について調べるうちに、大変な難事業となっていった事などを書いてみようと思います。
では
→ 『14年間の軌跡(2)』へ続きます。
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>元々は歴史好きではなかったのです。子供の頃は父と兄がテレビで大河ドラマを観ながら語っているのを聞いても訳分からず興味ももてなかった。歴史に関心持つに至った経緯はこちらに→そもそもの始まりは https://t.co/QM2DTlPRuz @yukie_nagoyaさんから
— Kuro-Mama (@yukie_nagoya) 2017年5月19日
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>ブログを始めた理由、左源太をもっと知ってほしいとか書いてるけど、資料などからいろいろ分かった事や父からのこぼれ話を私1人じゃなく県外の兄・弟とも共有したかったからなんです→あらためて当ブログのこと https://t.co/NCwyQGjZsU @yukie_nagoyaさんから
— Kuro-Mama (@yukie_nagoya) 2017年5月19日
長くなりましたが、この回辺りで締めようと思います。
◇◇なお24日朝、一部追記したものがあります~◇◇
☆こちら→「ブログに込めた想い-4」からの続きです。
さて、さかのぼって
「あらためて当ブログのこと」に書いたように、
ブログに左源太のことを書こうと思った動機は
簡単に言ってしまえば、
「左源太についてもっと知って欲しい~」という気持ちと
「ここにも左源太の子孫がいるのにな~」という想いと
更には
「私のブログが、まだ会ったことのない
左源太の子孫の方の目に留れば嬉しいな~」
というものだったわけです。
でも、一番大きな理由は、
母が調べてきたものをどうにかまとめて
何らかの形として残せたらなぁ、と
そう思ったことにある気がします。
そして、母とのこと、
母と交わした言葉も
一緒に残すことが出来たら嬉しいなと。
◇◇ここから追記(24日 AM 6:30)
よくよく考えたら、ここに書くことで
離れて暮らしている兄と弟にも
母とのことや母が遺していったものを
ちゃんと知っていて欲しいと思ったのと、
母が亡くなったあとの日頃の父とのやり取りや
ちょっとした切っ掛けで聴いた昔の話・先祖の話を
私ひとりだけじゃなく
共有したいという気持ちから
書き記してきたのかもしれない。
日頃あらたまってこんなことは滅多に話しないから。
兄弟そろってmixiやってるけど、
あまり熱心じゃないし
ここに書いておけばいつでも読めるからね。
以上、ここまでは追記でした◇◇
そんなわけで、これからも家族のことなども書くことがあると思いますが、左源太については特に新しい情報を提供することはおそらくないと思いますので、ご期待に添えないかもしれません。
長々と書きましたが、
読んでくださって有り難うございました。
ブログは、不定期に続けますので
また読んでくださいね~
時々のち夜はです。
☆こちら→「ブログに込めた想い-3」からの続きです。
☆☆画像は島津山城邸と名越邸の書き込まれた古地図
(写真中央部分)
画像拡大できませんのでわかりにくくてごめんなさい。。
mixi以外に自分のブログを持つことなど当時は考えもしませんでしたが、「名越左源太」をネットで検索してもヒットするのは書物に関するものぐらいで、一般に左源太に関する認知度はかなり低いのだろうなぁ‥‥と少々寂しい想いをしていたのです。
(ただ、思うように検索結果が出なかったのは
当時の私の検索方法が未熟だったのが原因かも~)
とはいえ、私自身もそれまでは左源太にまつわることを初め、お由羅騒動や郷土史すらろくに知りもしなかったのではありますが。
*その後、bizaさんのような方もいらっしゃることを知るのですが、bizaさんのブログ「::幕末奄美遠島生活::」と出会うことが出来たことは、私にとってとても幸運なことでした。
それにしても、地元の方たちや私自身の身近なところでもあまり知られていない左源太のことを「どうにか少しでも多くの人に知ってもらいたいなぁ」と、更には「左源太の子孫がここにもいることを知らせたいなぁ」という想いを抱えていたのです。
そこへもってきて、去年の大河ドラマ「篤姫」です。
郷土の歴史もろくに知らない私にとって、まさにうってつけのイベントばかりが目白押しで、昨年はすっかり「歴史探訪」の一年となりました。
*この辺り→「追いつけない。。。」から読んでいただけるとお分かりかと思います。
次回の『ブログに込めた想い-5(一部追記あり)』でこのシリーズは終わりです
☆こちら→「ブログに込めた想い-2」からの続きです。
☆☆画像は、左源太が晩年暮らしたという野屋敷跡へ続く
「名越どん(殿)坂」と案内板
そしてこの頃から、
「ここにも、左源太の子孫がいるのになぁ。。。」という想いが浮かぶようになったのでした。
「せめて一目、納められる前にその寄贈された史料を見てみたかったなぁ。。」と。
*この寄贈された史料に関しては、つい最近こんな記事を見つけました。
『奄美情報誌ホライゾン』という雑誌の編集長日記だそうです。
2001年4月10日「南島雑話の下書原稿、名瀬市に戻る」のところに写真付きで紹介されていました。
(画面を下方にスクロールして4月10日の記事にあります)
4年ほど前まではPCではほんの数人の身内とメールでやり取りしているだけで、ほとんどインターネットの活用をしていない状態だったのですが、そんな私がひょんなことからmixiを始めることになり、この頃からインターネットの利用頻度が高まり、思いつくままに検索サイトで調べてみたり、mixiの日記でも左源太に関することや家族のこと、遡って祖先のこと(お須磨さん)や島津吉貴・継豊親子のことなども書いてみたりしました。
(一度mixiをやめたので、現在日記は残っていません。)
*島津吉貴・継豊親子とお須磨さんについてはこちらに→「これまでの経緯-1」
☆「ブログに込めた想い-4」へ続きます。
☆こちら→「あらためて当ブログのこと」からの続きです。
去年の4月23日の日記にも少し触れていますが、母から聞かされていた「高祖父=曾曾祖父(ひいひいおじいちゃん)」の名越左源太(時敏あるいは時行)のことを自分から「もっと知りたい」と思ったのは、皮肉なもので母が亡くなって5年以上たってからのことでした。
(*母は'99年7月に68歳で亡くなりました。)
母の遺品の整理は、父が気の済むようにと数年の間は任せていたのですが、その中でもウチの家系や祖先について調べて書き溜めたメモやノートを手にしては、父は「よくこれだけ調べたものだなぁ。」と私にも見せながら感心していました。
最初のうちは、「へぇ、凄いね。」と軽く相づちを打つ程度でじっくり目を通すこともなく過ごしていたのですが、何度となく見せられるうちに、「母がここまで熱心に調べたものなのだし、私もちゃんと読んでこれらの資料が一体どんなものなのか知っておかなくては母に悪いかな。」と思うようになったのです。
実は母は歴史が好きだったんだなんて、知りもしなかったのですが、残されたものを読むうちに、私も自分の祖先のことや左源太の生きていた時代の背景などにも興味を持つようになりました。
そうして調べていくと、「これについてはどうなってるんだろう?」と疑問に思えばそれに見合った資料や書物が母の残したものの中にちゃんと準備されていて、なんとも感心することばかりでした。
母は元々病気がちでずっと心臓病も患っていましたので、それを考えると尚更そう思えるのです。
母が生前、父を誘って指宿の今和泉島津家の墓地に行ったのも、我が家の名字が島津忠剛・忠冬さんのお墓にある対の燈籠(献灯)に刻まれていることを発見したのも、こうした調べものの中からだったのでしょう。
父はそうしたことにはとんと無頓着なので、母の探究心とその行動力に改めて感心しているのでした。
(*ウチでは島津家の方々にはいつからともなく「さん」付けで呼ぶ習慣がついてしまっているので、ここでも「さん」付けでと呼ばせていただいてます。)
そのうち、私は自分でも歴史に関する記事などにも目を止めるようになり、気になる新聞記事などを切り取っておくようになりました。
ふと思いついては父を誘って左源太に関するものを訪ね歩き、書物を読み、資料をまとめたりしていたのですが、そんな中、いつの間に切り取っていたのか、2001年4月11日の南日本新聞朝刊に載った「南島雑話 史料 名瀬に里帰り 名越左源太の子孫が寄贈」という見出しの切り抜きが出てきたのです。
*長くなるので、ここから「ブログに込めた想い-2」へ