いつもお読みいただきありがとうございます
さて、今日は久しぶりに黎明館のHPを覗いてみました。
その中に「黎明館調査研究報告」というページがありまして、一覧の中のいくつかはPDFで読めるようになっています。
以前、調査史料室の前・室長さんが送って下さったもので、名越左源太の出生地に関して書かれたものを見られるかと探したところ、残念ながら目当ての年度のものはありませんでしたが、これまで見落としていたとても興味深いものがあったのでご紹介します。
それは、『鹿児島県史料 名越時敏史料 三』に関するもので、
『「古の遺愛」小考 ー 名越時敏(左源太)著「常不止集(とことわしゅう)」をめぐって ー 』
というタイトルの研究報告書です。
私自身は「古の遺愛(いにしえの いあい)」については全く知りませんでしたが、この研究報告を読むと、『名越時敏史料 三』に収められた「常不止集」のうちの「古の遺愛」についての論考も興味深い上に、名越時敏(左源太)の血筋や、時敏の家族と町田家や西村天囚などとの繋がりがよくわかります。
今日はとりあえずご紹介だけさせて頂きました。
ご興味ある方はどうぞご覧下さい
いつもお読み頂きありがとうございます
2007年8月20日のmixi日記より
『高橋ちえこ著「ゆきえ」を読んだ。』を
過去日記にアップしました。
鹿児島県の隼人および姶良加治木方面が舞台の「隠れ念仏」を題材にした物語の本。タイトルと著者名に不思議な縁を感じた、というエピソードも
では、どうぞご覧下さい
☆いつもお読み頂きありがとうございます♪
さて、このブログを立ち上げて10年目になります。
☆最初の記事はこちら→2008年3月20日「春分の日にブログを始めてみた。」
最初の頃は、地元の歴史はもとより、それに関わっていた自分の祖先の事すら詳しく知らない状態で
その都度その時点で気付いた事や疑問に思った事などを書いてきました。
また、このブログを立ち上げる前に登録制のSNS「mixi(ミクシィ)」に書いていた記事も
当時を振り返り自分でも確認する意味もあって、ここに転載することを少し前から始めています。
以来、今日までに新たに詳細が分かって来た事もあり、以前の記事を見返してみると訂正を加えるべき事なども散見されます。
最近では、以前の記事を見直し、気付いた時に修正や追記を記事に加える作業をしています。
そんな中で、これまでコメントを頂きながらも自分でも分からない事・捉えきれていない事については
コメント返しもせずに失礼とは思いつつもそのままにしておりました。
※ここまでの下書きは「2017-10-12 00:15:26」草稿。
☆☆☆
※以下、本日 2018年2月10日書き込みました。
2011年1月20日の『名越左源太泰藏の子供たち』などへは
公開にしているコメントの他にも数通のコメントを頂いていましたが、何しろ当方の知識も乏しく、またお寄せいただいた内容についての確認も出来ない状態でしたので公表は控えさせて頂きました。
いくつか例を挙げますと、「名越姓を"もらった"家系の子孫」であるとか、「左源太の"側室"の子孫」であると仰有る方もおられ、ただただ困惑するだけでした。
当方としては、私自身の祖父、曾祖父から遡ったことしか分からない上に、除籍謄本などは役所では曾祖父以降(昭和24年以降だったか?)の書類しか残っていないので、それ以前は辿れないそうでお手上げ状態のまま、それ以上はわかりません。
曾祖父の兄・名越時成さんについても、そのご子孫であり最初に我が家に曾祖父・轟について訪ねてこられた内村八紘氏から頂いたレポートからしか分かりませんので、今後ご質問頂いてもお答え出来ることは特にございませんので、ご了承ください。
もし、それぞれに詳しい情報をお持ちでしたら、是非、「鹿児島県歴史資料センター黎明館」の方へ情報なりお問い合わせなり頂けると有り難く存じます。
例えば、前述の『名越左源太泰藏の子供たち』の記事の最後に追記した通り、『鹿児島県史料 名越時敏史料ー1』によると、「三男・吉次郎、四男・徳熊」とあり、4男2女がいたと、文久2年の正月の日記に左源太時敏本人が書いていますので、こちらの線で調べてみられると何か手がかりがあるかもしれませんよ、舩田クラーセンさやか様。
それでは、ご希望のような答えになっていないかもしれませんが、勝手ながらこれをもって「数年越しの返信」とさせて頂きたいと思います。
また、コメントをお寄せ下さる場合、公開を希望されない場合はそのように一言お書き添え下さるようお願い致します。
特に断りない場合は公開にさせて頂くこともありますのでご注意くださいませ。
☆ちなみに、「側室」とは領主・殿様が持つものと思っていましたが、左源太のようなものが仮に「第二夫人」があったとして「側室」というのでしょうか?
素朴な疑問ですが、どなたかご存知の方、お答えいただけると幸甚に存じます。
10日ほど前にタブレット(iPad)で自分のブログ記事を見てみたところ、画面の一番下の部分に「このブログの人気記事ランキング」が表示されていました。
で、数日後にはガラッと変わっていたので「数日でこんなに変わるなんて、珍しい‥‥」と思い、「そうだ!前回のと見比べてみよう!」ということで、前回の表示が残っているタブと合わせてデジカメで撮ってみました。
↓2月2日にアップした『田代安定氏と曾祖父・轟の接点?』がトップになっていました。※撮影は2月3日
最近、特に去年辺りからアクセス数が以前と比べて随分増えて来たのでビックリしています!
去年の6月に始めたFBでのFBフレンドの方々やツイッターからこのブログを見て下さったのかもしれませんね。
有り難いことです。御礼申し上げます。
不思議なのですが、タブレット表示でしかこのランキングを見ることが出来ません。
PCでも見られるといいのだけど。
あと、記事の投稿年月日も表示があるといいなぁ。
あ!そうだ!
このランキングを基にリンク貼っちゃおうか?!‥‥いや、面倒だからやめとこう(^^;)
気になる記事がありましたら、画面右上(注:PC版)の「検索」に
タイトルやキーワードを入れて探してみて下さいね♪
※スマートフォン版でご覧の方は「このブログの人気記事ランキング」の下にある「検索」欄でどうぞ☆
今日もご覧下さってありがとうございます♡
いつもご覧頂きありがとうございます
2月になり寒さが続いております。鹿児島もこの先の天気予報では雪のマークが3日ほど付いているようです。
さて、今回は2016年の9月12日の『曾祖父・轟の名を台湾のサイトに見つける』に続くお話です。
台湾総督府のHPで、明治時代の職員の名前と所属・役職名などを閲覧することが出来るのですが、
こちらの上部の「«」で巻末へ行き1ページ前にめくると616ページ下段に曾祖父・轟の名前を見る事が出来ます。
『台湾総督府職員録系統」の『明治二十九年 職員録(甲)』
※ちなみに、轟の生没年:1850−1922(嘉永3年1月26日生まれ 大正11年2月6日没 享年72)
改めてこうして比べてみると、田代安定氏より7年早い生まれでほぼ同年代なんですね。
また同じ記事に書いたように、国立台湾師範大学のサイトにも「栗川轟(陳春暉 譯)(1939)
1999〈一百零二年前澎湖之水產業概況(原名:〈四十二年前の澎湖の水產業〉),《硓咕石:澎湖縣立文化中心季刊》16:2-12。」の表示があり(リンクページの下から3分の1程の所)、この論文が明治30年に曾祖父・轟が書いたものを紹介してあることから、先ほどの台湾総督府のHPの明治30年の職員録にも名前が載っているのか見てみたところ、面白い発見があったのです
『台湾総督府職員録系統」の『明治三十年 職員録(甲)』の表紙から3枚めくった右側のページ(偶然にもこちらもp.616)、中段の左から3人目に「田代安定」の名前が載っていました「殖産課 事務官」の一員として並んでいます。
もしかしたら、轟との接点がありはしないかと、ふと思いました。
これが『田代安定文庫@國立臺湾大學圖書館』に「名越時行」の自署のある「雑記下書」が58枚見つかったことと関係あったりするのではないか、と。
仮にですが、曾祖父・轟と田代安定氏がどこかで接点があって、父である名越(左源太)時行の書いた(描いた)ものを見たり手に取ったことがあった、とか。
ただ、それ以降の田代安定氏の調査・収集活動の中で集められたものかもしれないのですが‥‥。
これについては氏の活動の細かい経緯と年代を追って照合してみないとわかりませんね。
とにかく、曾祖父・轟と同時期に台湾総督府に田代安定氏も従事していたというのが今回の発見でした。
改めて、田代安定について興味ある方はこちらをどうぞ
『田代安定について考える【追記あり】』