☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

電信の・・・。

2019-06-28 22:58:59 | 曾祖父・轟のこと

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

きょうは、曾祖父の姉、イサさんが書いた『都見物日記』をそろそろちゃんとご紹介しなくては、と思い

改めて読み直していました。

 

以前、「電信」の仕事? という記事で、

「曾祖父が明治23年時点、東京市に出向いた際に何らかの形で「電信」の仕事に携わっていたらしい」

などと書きましたが、

よくよく読んでみると、「電信の事」で出掛けたとありました。

 しかも、東京滞在中だけでなく、帰路大阪に寄った時にも「電信の事で出掛けた」と書かれていました。

 

単に、電信の事で用事があったのかも・・・。

ところで「電信の事」って、何でしょうね?

 

次回からいよいよ『都見物日記』について書いていきます♪

 

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曾祖父・寺山用之の命日と曾祖母の名前

2019-06-25 23:54:07 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

前回、父方祖母・「ふく」(Top写真、左端)の実父は「寺山氏」

と書きましたが、

今日はその、曾祖父・寺山用之の命日でした。

昭和16年に台湾・佳里で亡くなりました。

その時に父も一緒に暮らしていたのですが、

最初に異変に気付いたのが父だったそうです。

気が付いた時には、もう亡くなっていて、

その時のことが記憶にハッキリ残っているようです。

 

我が家の神棚に位牌があるのですが、

曾祖父と一緒にあるのは、後添いの女性で、

そういえば父方祖母の母親の名前、ちゃんと覚えていなかったことに気付き‥‥

昨夜寝る時に気になってたので朝一番に戸籍謄本(写し)で確認したのです。

 

「スキ」さん、でした

 

残念ながら旧姓も生没年すらも分かりませんでしたが、名前だけでも確認出来てよかった

後添いさんは籍入れはしていないのだけど、「平山チカ」さんといってお酒が好きな人だったそうです(父談)

そのチカさんは同年4月に台南・麻豆で亡くなりました。75才でした。

 

祖父・篤彦の仕事の関係で祖母の父・寺山用之と祖父母と、父の下の兄と父の5人で佳里に移り、

チカさんが亡くなって2ヶ月あまり後に亡くなったのでした。

 

寺山用之 昭和16年(1941年)歿。 享年80。

 

☆以前上げた記事に、大正4年くらいに台湾で撮った家族写真がありますが、

家族写真を掲げる 

ここには写っていませんね。左端が父方祖母の「ふく」ばあちゃんです♪

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「島津家家臣団系図集」で曾祖父・轟の新事実??

2019-06-22 18:50:02 | 曾祖父・轟のこと

昨年南方新社さんから案内があり予約注文していた「島津家家臣団系図集 上下巻」が、5月に届きました。

 

実は編者である野田さんが昨年暮れに我が家を訪ねて来られ、少しだけ参考資料などのコピーを提供しました。

今年に入り、曾祖父・轟についての確認などと併せて、新情報も頂きました。

当家には伝わっていないこともあるのか、初耳な内容だったので驚きましたが、

父方祖母の実家「寺山家」について発行前の家系図を見せて頂いたりして、こちらも驚きの情報がありました。

 

寺山家は「薩州家六男家」であることが分かったのですが、同じ流れの「二男家別立」を辿ると

あの寺山修司氏の名前が

 

この家臣団家系図、ちょっとお値段張りますが、面白いです!

 

あ、肝心の曾祖父・轟に関する新事実ですが、まだわたくし的には確認取れていないのでハッキリとは言えませんが、

やはり「栗川久澄」との繋がりがあるようだ、とだけ申し上げておきます。

またハッキリ分かりましたら、こちらに書いてみようと思います。

 
☆↓↓↓南洲墓地にある「栗川久澄 墓」 
 

☆関連記事 ↓↓↓

今和泉島津家と永吉島津家と

 

 

コメント (3)
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6月の左源太時敏もしくは泰藏

2019-06-19 00:46:55 | 奄美大島と名越左源太

いつもお読みいただきありがとうございます。

さて、6月になって書きたいことが色々あったのですが、FaceBookやツイッターで書くのとブログにまとめるのとでは勝手が違い、ついつい先延ばしにしてしまいました。

   ☆☆☆

 

まずは、6月10日。

思いつくのは「時の記念日」ですが、それ以外の何かの日だったような、と思って名越護(なごし まもる)さんの『南島雑話の世界』をめくって調べてみたら、嘉永三年(1850年)に遠島になった名越左源太時敏が、5年間過ごした奄美大島を離れた日だったのです。

以下、『南島雑話の世界』(p.258〜)「うれしい赦免」「左源太その後」を参照し書いてみます。

 

安政元年(1854年)旧暦八月十三日に、蟄居中の小宿村で待ちわびていた藩主・島津斉彬の「赦免通知」を受け取った左源太は、どれほど嬉しく喜んだことかと思います。

ただ、「ミーニシ(新北風)」が吹くのも近く、もう上国の船便も無いので翌年春を待つしかなく、翌安政二年(1855年)旧暦四月に笠利間切赤木名の対岸・前肥田に停泊中の「永徳丸」で上国することに決めます。

 

翌年、小宿村を四月二日に引き払い前肥田に移るのですが、「風待ち」が続き、四月末には小宿から村の子供たち7人がやって来て、「風待ちの間、小宿においで下さい」と何度も誘われるので、左源太はやむなく承知。結局五月三日まで再訪した小宿村に滞在したようです。

「風待ち」の間には、笠利間切の手花部村で偶然、「銀松」という「島には稀なる容顔」の美人さんと出会い、度々お茶をごちそうになったり手みやげをもらったり、といったこともあったそうで‥‥。

ちなみにこの「銀松」さんの姿も描いて残しています。

島妻もとらず謹慎していた左源太ですが、赦免になり故郷に帰れることになり、心も晴れて、美人さんとお茶したりする気持ちにもなったのでしょうね(笑)

そして六月十日です。

ようやく前肥田を出帆した「永徳丸」は、その後、風向きの関係で山川へは入れず、6月19日に志布志湾北岸、日向国諏訪(今の串間市本城)に着き、それからは陸路で、安政二年六月二十一日にやっと鹿児島の家に戻って来たそうです。

   ☆☆☆

 

それから、もう一つ大事な日があるのです。

それは、名越(なごや)左源太 時敏の命日です!

亡くなったのは、明治14年6月16日です。

左源太の孫である私の祖父が生まれてちょうど1ヶ月後のことです。

明治の世になり、左源太時敏は名を「名越泰藏(なごや たいぞう)」と改めております。

 

以前どこかに書いているはず‥‥とこのブログ内を検索するのですが、そのものズバリの「名越左源太時敏の命日」といったタイトルが見つからず、ようやく見つけたのは8年も前、2011年の記事でした! 

没後130年

 それと3年前(2016年)が↓

名越左源太没後135年

2年前(2017年)がこれ↓

名越左源太のお墓は?

 

今年は没後138年ということになりますが、結局タイトルに命日って入れてないし、

来年は没後139年、って中途半端なので来年は飛ばして

再来年2021年6月16日には「名越左源太の命日、没後140年」と銘打ってみますか(笑)

 

では、今日はこの辺で。

 

 

 

 

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