☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

川上忠堅(ただかた)は武之橋の方?

2020-10-31 23:02:58 | 『都見物日記』

 いつもお読み下さり、ありがとうございます 

 

前々回、川田義朗に関する記事を書きました。

川田義朗、沖田畷、龍造寺隆信からの田中裕二さんのご先祖へ』(2020.10.27)

 

島津義久の側近であった川田義朗が「沖田畷の戦い」でも義久の陣代である家久の側で軍配者として託宣し、それに勇気付けられた島津軍は龍造寺勢を撃破、そして、隆信を打ち取ったのが川上忠堅だったということです。

(『さつま人国誌』戦国・近世編 p.60~p.67「神変奇特」の軍配者 川田義朗 (上)(下) を参照)

 

ここで、川上イサさんの『都見物日記』の冒頭部分の話になるのですが、

→『「4月17日 鹿児島を出帆」』(都見物日記)

 

『都見物日記』の紹介文で、寺師若法師さんの説明によると、

「川上ドンは新屋敷と武之橋にあり、新屋敷の方は関ヶ原で勇名をとどろかした川上四郎兵衛忠兄、いわゆる川上シロンペロンの方で、当主は谷山市山田町谷におられる矢吉氏。武之橋の方は四郎兵衛の兄、左京亮忠堅の方で、天正十二年春に竜造寺隆信を討った智勇の士。筆者いさ刀自の夫君は久達氏、その子息が兄 久良氏、弟 橋口精一氏、丹下さんはその久良さんの娘さん。こういうことになっている。」そうなのです。

 

川上式部の屋敷は「武之橋」にあることも以前書きました。→『川上式部邸跡と「授産社跡」

川上四郎兵衛忠兄(ただえ)と、その兄・川上左京亮忠堅の住まいは確認しようがありませんが、

例によって『島津家家臣団系図集』を読んでいて気づいたのです。

 

名越左源太の長女・イサは式部家・川上(勘解由)久達の妻であり、

その婚家・川上式部家川上氏「二男家筋」(家格寄合 本領串木野)で、

川上氏五代上野介兼久三男・忠塞 ー 栄久 ー 久朗 ー 久辰 ー 久国(式部 将監 因幡守 家老) ー 久将 ー 久孝 ー 久量(初,久重 伊織 式部 家老) ー ---- 久達(ひさゆき)と続いています。

 

一方、忠堅・忠兄の兄弟は、川上氏庶流「二男家分家忠興流」(左太夫家)小番

忠塞の三男・忠興(信濃守)から始まり、その子・忠智(三河守 家老)の嫡男・忠堅(左京亮)、二男・忠兄(四郎兵衛)、三男・久智(叔父忠里嗣)となっています。二男・忠兄(四郎兵衛)はさらに系別の「庶流忠兄流(四郎兵衛家)」(小番)とされています。 

 

なので、寺師若法師さんの説明では、少しばかり足りない気もします。

武之橋にはもともと忠堅の家系が住んでいて、その後時代が下って川上式部家がその敷地に住んだ‥‥ということでしょうか??

はてさて、私程度の頭では、、、さっぱり分かりません が、

ちょっと気になったのでここに記しておきます。

 

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市田長門〇〇?

2020-10-29 13:42:48 | 福昌寺墓地探訪その後 '20~'21

6月に本立寺と福昌寺に行ったことを記事にしました。

本立寺跡へ、ちょこっと福昌寺へ

6月23日に訪ねた福昌寺で撮った写真も複数枚掲載しました。

その中に「市田長門〇〇」という名前がありましたが、名前が地中に埋もれてわかりませんでした。

 

何となく気になって写していたのですが、最近「島津家家臣団系図集」で調べてみたところ、

「市田長門」とあるのは、「市田義宣」でした。「壬生長門美作城代家老」とありました。 

「壬生 長門 美作(みまさか)  城代家老」ですよね?

(間隔を空けずに書かれているものは、時々どこで区切るのか戸惑うことも多いです

 

「市田氏」は「近江佐々木氏庶流」で右近家・一所持格

初代・貞行 ー 盛常 ー 義宣 と続きます。

 

そして、義宣の末妹は、「関山軍兵衛金言 室」とあります。

また、先代・盛常の姉、登勢は、島津重豪公 夫人(茂姫の母)とも記載あり。

 

 なるほど、画像は重豪公墓所で撮影したものです。

 

最近わかったことをとりあえずメモとして記しておきます。

お詳しい方もありましょうが、私個人のレベルでわかったことを書いておりますので

悪しからず

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川田義朗、沖田畷の戦い、龍造寺隆信からの田中裕二さんのご先祖へ

2020-10-27 14:37:24 | Books

FBに上げた話です。ほぼそのままコピペしますね

 

「川田義朗(よしあき)」についてFBFの桐野作人さんが書いておられたので、ご著書で確認したところ。
 
(『さつま人国誌』戦国・近世編 p.60~p.67
「神変奇特」の軍配者 川田義朗 (上)(下))
 
 
馴染みがないところはじっくり読んでみないとわからないので、今回も初めて読んだようなもの。
 
川田義朗は島津義久の側近で不思議な力(託宣・予言)を持つとの逸話があるという。
 
島津日新斎(忠良)の重臣で軍配者・伊集院忠朗の弟子として修行ののち、義久の陣代で肥後に攻め入った島津義弘にも軍配者として託宣し、結果を残す。
 
沖田畷の戦いでも逸話を残しているそうですが、この沖田畷(現・長崎県島原市)で、地元大名・有馬晴信を支援して島津家久(義久・義弘の末弟)が激突するのが、肥前佐賀の大名、「龍造寺隆信」
 
 
と、ここで、昨夜の「ファミリー・ヒストリー」をご覧になりましたか?
爆笑問題の田中裕二さんの御先祖を辿っていくと、龍造寺氏の家臣だった‼️とありました。
 
 
 
ということで、ここで繋がっちゃったって話でした チャンチャン
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薩州島津家と寺山源右衛門家

2020-10-18 18:18:15 | 薩州島津家と我が家の先祖

 皆さま今晩は 最近は鹿児島でも朝夕涼しくなって徐々に秋めいてきました

いつもご覧いただきありがとうございます

 

さて、6月に『寺山源右衛門家』と題して記事を書きましたが、そもそも「寺山源右衛門家」がどういったものなのかを書いていませんでしたので、改めて記しておこうと思います。

それには「薩州島津家」についても知っておいたほうがいいのですが、

薩州島津家については島津用久が祖である事くらいはわかりますが、

正直自分でも把握しきれていないので、ここに書くのは自分のためでもあるのです。

 

前述の6月の記事にも書いたように、

「 昨年7月には除籍謄本を取り、曽祖父・寺山用之の兄が「寺山用信」であり、「寺山源右衛門」を継いでいること、明治20年9月7日に兄から戸籍を相続している事」

また、曽祖父・寺山用之は

「 同じ稲荷馬場町の町田藤蔵の長女・スキと結婚したこと、子供は3人だったこと、長男・用麿は明治21年に生まれ、大正9年に小倉市で亡くなっていること、長女・節は明治25年に生まれ、妹より3年後に清水町の肥田木氏と結婚していること」

などもわかりました。

 

で、この「寺山源右衛門家」ですが、「島津家家臣団系図集」に「寺山氏」が載っており、

『「薩州家六男家」(源右衛門家)小番』とありまして、

「寺山源右衛門」が別立てで出ています。これが父の母方の実家、ということです。

  ←『さつま歴史人名集』より

 

薩州島津家というのは、一度改易されているのですよね。(←詳しくはリンクのページをご覧下さい)

これまではなかなか把握出来ずにいましたが、そういうこともこの1年くらいの間にようやく理解出来るようになりました。

 

でも、悲しい哉、寺山源右衛門家を継いだ用之(曽祖父)は昭和16年に台湾で亡くなり、その長男は親よりも先に大正9年に亡くなっていました。

 

 父から今年になって聞いた(もしかしたら以前一度は聞いていたかも知れない)のですが、

台南一中に入った頃(昭和14〜15年か?)に、母親(私の祖母)から「寺山家を継がないか?」と言われたそうなのです!

でもその時は父もそんなの何だか訳がわからないから「いや!」といったそうで、その話は無くなったようです(苦笑)

もし寺山を継いでいれば、父が「寺山源右衛門」となっていたのかも知れませんが、そうすると今の私はいないかも??

結局「寺山源右衛門家」は曽祖父・寺山用之が台湾で亡くなった時点で潰えてしまった、ということになります。

 

思うに、我が家の(現在の)家系は父方も母方も子孫が残らない家系のようです。それはそれで仕方ありませんね

 

『鹿児島城下絵図』を見ると、「寺山」は「寺山源右衛門」の1件だけで、家は上竜尾町、今の南洲墓地・南洲神社の階段下の付近のようです。今の区画との違いもありますが、安政年間の地図にも麓の一番端の三角形のような土地で表示されています。

 

ただ、戸籍には「稲荷馬場町六番戸」とあるので、用信兄の頃には別の場所に移っていたのでしょうね。

稲荷馬場は稲荷川沿いで大乗院橋を北に渡った清水中学校の前の通りのようです。

 

これは以前『寺山源右衛門家』で、「坊中馬場」の「大乗院坊中 善聚院」と書いていますが、

現在の「稲荷町6」で探した結果の間違いでした。ごめんなさい。

 

では、おやすみなさい。

 

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初めての南方神社参詣('11.1.8)

2020-10-12 10:27:49 | 歴史探索

古い画像ファイルを見ていて、いつか上げようと思いつつそのままになっていたものを拾ってみました。

2011年1月8日、父と連れ立って鹿児島市上町五社の南方神社に行きました。

ここを訪ねたのは初めてだったと思いますが、その際に撮っていたのが

「島津山城 忠教(ただゆき)」の名が刻まれた石塔でした。

撮った当時は何となく「島津久光のことじゃないかなぁ‥‥?」と思った程度でしたが。

左に並んだ「島津〇〇」については読めませんし、わかりません。。

  

案内板に書かれているものを以下に書き起こしてみます。

『ー 最も古い島津氏の城下町 ー』

 島津氏が本拠を鹿児島に移したのは南北朝時代のことです。島津家第5代貞久は、東福寺城を攻め、鹿児島郡司 矢上一族を追い、鹿児島へ入りました。島津氏の城下町はこの城を中心に南へ南へと広がっていったのです。また、この時、出水山門院から移され、この地に建立されたのが南方(みなかた)神社です。南方神社は諏訪神社ともいい、建御名方命(たてみなかたのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)を祭り、上町五社の第一社として歴代藩主の信仰が特に厚く、諏訪市(8月28日)と呼ばれた市は、西田市(にしだいち)と並んで最近まで盛んでした。

 五社には他に、オギオンサァの八坂神社や流鏑馬(やぶさめ)の奉納で賑わった稲荷神社、藤原氏の氏神 春日神社、大隅正八幡の分社 若宮神社があり、いずれも島津氏に縁故が深く、正月、5月、9月は五社詣(もうで)と称して多くの人々がお参りして賑わいました。

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三原氏について知りたい

2020-10-12 09:32:23 | 三原藤五郎と倉山藤五郎

おはようございます。ゆきです

 

さて、「三原経○」という名前を見かけるとつい気になってしまう私ですが、

(何故かというのはこちらを読んでみてください→『西村天囚と三原家の繋がり』)

先日読んでいた『島津歳久の自害 増補改訂版』、p.51の「殉死者について」の項で

27名の殉死者の中に「三原源六経用」という名前があったのです

 

そこで、「三原経用 島津歳久」でネット検索かけたところ、

「鹿児島県史料『旧記雑録』未収載文書補遺」が上がっていたのでザッと見てみると、

p.95下段に「伊作島津氏 家老になった三原氏」というのがあったことを知りました。

(お詫び&追記:上記リンク貼るのを忘れていましたので編集しました('20.10.12 12:55))

 

三原氏についてはまだよくわかっていないのですが、「旧記雑録」もこうやって読めることに改めて(今頃?ですが)気付きました。

 

ということで、大した中身のない記事ですみません。。

 

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「地神」石碑と黎明館企画特別展「鹿児島の城館」へ

2020-10-11 23:18:47 | 日記

今月6日午後遅く、黎明館の「鹿児島の城館」企画特別展を見に父と共に出かけました。

黎明館に向かう手前で、平之町の「調所広郷邸跡」道路脇にある「地神」の石碑を確認に。

  

「地神」の読みが分からず検索したら、面白い記事を見つけましたのでご紹介します。

八ヶ岳原人さんのHPより→「南の地神・北の地神」

 

さて、黎明館へと向かいます。

御楼門を裏から眺めてみました。 

 

復元協力寄附者の名簿がありました。父の名前があるかな〜と思いつつ見ると、、、ありません。

やはりそうだ、確か寄附の際に、名前を「公開しない」ことにしていたのでした

ただこの中に、中学の頃の同級生の名前を見つけました。(ガラホで撮ったのと夕刻だったせいか写り悪いです

  

建造途中に見学したことはありましたが、公開後にじかに見るのは初めてでした。

でも、この日は館内の展示を見るのが目的だったので、また次回、表からもじっくり見てみることにして、

館の入り口に向かうと、屋外展示がありました。

 

鹿児島城下絵図です♪

 

 

 

「島津登」の屋敷もあったので帰りに撮ったら、夕方で暗くなってたせいかピンボケ・・・ちゃんと撮れませんでした‥‥

ちなみに画像中央、演武館の道路向かいの一角です

 

展示入れ替えになるかもしれないので、また近いうちに行ってみたいです

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