☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

興国寺墓地の和泉家の墓

2022-02-17 18:49:22 | 興国寺墓地
 今日は一段とお寒うございます。いつもお読みいただき、ありがとうございます
 
さて、バレンタインの日に再訪した興国寺墓地に和泉家の墓があり、
気になって撮った写真が、
2018年にブログにいただいたコメントと繫がりました!
   ↓
 
これは、2018年11月の「知覧のぼっけもん」さんのコメントから、曽祖父の養母・「於須賀」の最初の夫、「島津(務)久命」の墓ではないかと! 
 
「久命」(ひさ…のり?)という名前、例によっていろんな家に同じ名前があるのですが、この「和泉家」は「今和泉島津家」に繋がる家だし、ということで撮っておいてよかった♪
でも、久命の隣の「和泉イマ子」様って、もしかしたら於須賀様と離縁した後の奥様なのか知らん?
 
 手前の「篠崎」という姓にも興味を惹かれる。
名越彦太夫高房(名越氏初代・恒渡(つねただ)の弟の5代目子孫)の次男・が、母方の実家の養子に入り「篠崎仲苗(通称:彦十郎)」となっているらしいのです。
   ↓
 
篠崎仲苗(彦十郎)との関係はわかりませんが、鹿児島でというか私の周りでは「篠崎」という姓は珍しいと感じるので、何か繋がりがあるかな?と思った次第。
 
 
 
 ↓画像中央より右寄り、「和泉家祖先累代之墓」と暮石台座側面には丸十文字の家紋
  画面左の暮石には「日下部朝臣昌祥大人之墓」とありますが、関連がわかりません。
 
 
 
 ↓「島津蔵人久名 [性善院殿忠山義光大居士] (明治10年7月8日卒)」の墓もありました。
    「明治十年七月八日」と言うことは、西南戦争に関連する?
 
「島津蔵人久名」‥‥調べたら「忠喬」の弟で「島津蔵人家」(今和泉島津家二男家)樹家の方のようだけど、「安政三年九月十六日卒」とあった。この辺りのことはよくわかりませんが、まぁいいか。(「島津家家臣団系図集」下巻参照)
 
 
 
「和泉久命之墓」の隣の墓石の
水入れにある家紋?がお花のようで可愛かったので撮影♪ 十字を模した感じではある。
寛政年間(1789~1801年)の方のもので「寛政四年壬子」「法◯院殿仙譽◯快(?)庵主」とあります。
寛政四年は1792年ですね。
 
 
 以上、FBにアップしたものを再構成して書きました
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興国寺墓地を再訪ー②(2022年)

2022-02-14 23:03:29 | 興国寺墓地

お天気が回復して気温も上がり、今日こそ行ってみようと興国寺墓地再訪を決行!

今回は一人で思う存分廻って来ました♪

ですが、2年近く前にブログに情報を頂いていた「町田家」(もしかしたら左源太の実母?)の墓石は見つけられず残念でした。。

☆2020年4月29日にshinshinさんから頂いたコメントは→コチラです

 

  

 左:「茶碗屋馬場(ちゃわんやんばあ)」の石碑

 右:奥に登ると多分、長田神社がある

 

車を近くの駐車場にとめて、墓地まで歩き、13時到着。

階段を登り切った右手から手始めに、それこそ虱潰しにチェックしました。

  

 

・まず右手奥には「汾陽(かわみなみ)家」の一群(↓画像奥)

 

 

・「三原家」の墓も入り口近くと中腹にも見つけましたが、「経」の文字が入ったお名前も気になりつつ曾祖母の家との関わりまでは分からず

 ☆関連記事 → 『三原氏について知りたい 』  2020-10-12 | 三原藤五郎と倉山藤五郎

 

・それから右手端をず〜っと見て回り、思いがけないところで「九良賀野家」の墓を見つけ、曽祖父の従兄弟にあたる「辰彦」さんの名前も確認できました!今日一番の収穫、かも♪

☆関連記事 ↓

向島、増上寺、辰様と銀座の千歳へ(明治の旅日記)』 2021-05-15 | 「都見物日記」と令和3年日記

島津久敬と永吉島津家』 2020-11-06 | 永吉島津家

水上の野元彦十郎様も』 2020-06-23 | 永吉島津家

 

 

 

 

  

「九良賀野家之墓」は中程にある「田代家」の墓近くに以前見つけていたのですが、

【第1話】永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様 』 2019-07-22 | 都見物日記プロローグ

その当時は我が家との関係性も知らない頃でしたので、今回はしっかり碑銘なども確認できて良かったです。

 

☆近くには「水神」「地神」の石碑 

 

 

・また、以前近くに見つけていた「高崎家」の墓に今回はしっかり手を合わせて拝んできました。

・高崎五郎右衛門様(島津家後継問題の朋党事件の処罰で切腹なされた方)の墓はガイド本「かんまち本 2」で確認できました♪

  

高崎正風の墓碑↓

 

  

  

 

その後も「町田」の文字を見逃さないようチェックしつつ、だいぶ歩き回った感じだったのですが、今日こそは一番上まで回ってみようと、右手から回り込んで「平田家」の所まで行きました。(↓一段上の墓石群も「平田家」)

  

  

  

 

そこから墓地の左手を下って行き「侏儒どんの墓」も今回は見ることが出来ましたが、

 

終わってみれば、前に来た時にも気にはなっていた「島津(嶋津)家」の墓石群を見る時間がありませんでした💦 こちらは次回じっくり見てみたいと思います。

(ここの「島津家」の家紋は丸十の丸の外側のラインが花弁のように装飾されていました)

この時点で午後2時を回っていました。

 

最後の最後にもう一度「町田」の墓石を探したのですが見つからず、結局ほぼ全て(中程の墓は家の名前を確認する程度で)廻り終わったのは午後3時間過ぎ。

 

車に戻って携帯の歩数計を見ると、「5823歩」😲‼️

2時間余りの間にこんなに歩いたのは初めてに近いかも〜🙀

 

※ 2018年に再訪して『興国寺墓地を再訪(2018. 5.18)』(2020-06-21  | 興国寺墓地)を書いていたのをうっかり忘れて同じタイトルをつけていたので、少しだけ変更しました

 

 

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名越時敏が名越右源太篤烈だった頃

2022-02-02 17:32:46 | 名越左源太と家族

 

いつもお読みいただきありがとうございます

 

さて、前稿で「惠祥院殿菩提」の石塔について書きましたが、「名越右源太篤烈夫婦」ということはいったいいつ頃のことなのかを、はっきり認識しておいた方が良いだろうと思いつき、長女・イサさんの誕生日の1年前くらいを計算すれば、1839年(=天保10年)初めには夫婦だったのだろうと思うわけです。

関連記事:『イサさん生誕170年! 』  2010-01-07   カテゴリー: 名越左源太と家族

    :『いささん、51歳 』   2008-04-10  カテゴリー: 都見物日記プロローグ

 

実は最近、島津登久包について新しい情報が届いたのです。

それで思ったのですが、島津登久包は、高祖父・名越時敏の妻・タネの実父であり、高祖父の舅となったのが天保10年頃として、その頃以降に建立された石塔であろうと思われるわけです。

また、高祖父は奄美・小宿に遠島時代(1850~1855年)の「南島雑話」の下書きにある署名の「名越時行」→ 小林居地頭の頃には「名越時敏」、明治に入って「名越泰藏」と順に改称します。

なので、「名越右源太篤烈(夫婦)」だったのは1839年〜1849年の間の何年間かだと思われます。

 

その頃に亡くなった「惠祥院殿」とはどなただったのか、今後も少しでも情報を掴めればと思います。

 

  画像は季節外れに咲いたナスタチウム

 

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