☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

五代友厚公の命日に誕生地を訪ねる

2019-09-25 22:38:47 | 五代友厚公

以前このブログにも書きましたが、今日は五代友厚公の命日でもありました。

明治18年(1885年)、五十一歳(満49歳)東京・築地の別邸にて病没

(2016年9月の記事 →「五代友厚誕生地、憩いの公園に」)

 

という事で、久しぶりに五代様の誕生地を訪ねてみました。

近所の方でしょうか、可愛いワンちゃんを連れてお散歩にいらしてました

 

夕方急遽行って見たくなりカメラは持って行かなかったので、以前撮った画像をアップしておきます。

2017年1月29日撮影

 

今日行って見たところ、画像右側にも左の物と同様の説明板があり、こちらには1839年に斉彬の命により、五代家の家族ぐるみで模写された世界地図が説明文と共に展示されていました。

 

  

  

 

画質が悪いですが、この↑足元には大阪商工会議所の方角が記されているようです。

ここから少し離れたところにある、五代友厚像もアップしておきます
 
泉公園の五代友厚像
   
 
以前は長田陸橋にあったものを1981年に現在建っている泉公園に移設されたそうです。
 
  
 
 
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祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)

2019-09-25 11:35:32 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

今年6月、父方祖母・フク(婦久)の実父・寺山用之の命日25日に書いた「曾祖父・寺山用之の命日と曾祖母の名前」で、祖母の実母の名前が「スキ」であることを確認できたものの「旧姓」も「生没年」すらも分からない、と書きました。

 

その後も気になって、翌7月10日に市役所支所に行き、「寺山用之」の戸籍謄本・除籍謄本等を確認したのです

父が「もう残ってないだろう」というのですが、「轟の戸籍謄本等があるんだから、まだあるはず!!」と出掛けました

 

思った通り、3種類の書類が残っていたので新たな事がいくつも分かりました〜

 

 

まず、曾祖母「スキ」の生没年は、

慶應三年(1867年)十二月十八日生まれ でした

※ ↑補足(2019.10.20)

旧暦から新暦に変換するサイトによると、1868年1月12日になるようです

 

で、旧姓ですが、

「明治十九年五月十日に鹿児島郡稲荷馬場町 町田藤蔵 長女に入籍ス」とありました

これについては未だ良く分かりませんので、のちの課題。

 

 

没年については、「明治三十二年九月二十五日 午前十一時 臺北縣 臺北北門街二丁目三拾八番戸ニ於テ死亡

 同 十月三日届出     同 十一月二十日受付」

となっておりました。

奇しくも、今日が曽祖母・スキの命日です。

(明治32年って‥‥1899年? 今年は没後120年ということか〜?! 知らなかったとは言え、申し訳ない…) 

 

一方、寺山の爺さんの後添い・平山チカさんの生年月日については手元に「位牌」しかなく、分かりません

ただ、位牌に書いてある没年・命日が「昭和十六年 四月 十二日 帰趨  於 (台南)麻豆」とあり七十五才で亡くなっていますので、逆算すると、、、

 

西暦で1867年生まれ‥‥ ということは慶應三年生まれで「スキ」さんと同年ということが分かりました〜

 

 

また、祖母・ふく(婦久の草書表記)には 兄・用麿、姉・節 の二人がいた事も分かりました。

兄・用麿さんは、明治21年8月27日生まれ、残念ながら大正9年に32才になって間も無く小倉市で亡くなったようです。

姉・節さんは、明治25年5月17日生まれ、大正5年7月に清水町151番地の肥田木健介さんと結婚し、除籍。

ふくばあちゃんは、明治27年(1894年)11月27日生まれで、大正2年(1913年)4月15日 18歳の時に篤彦(31才)と結婚。

節お姉さんより先にお嫁に行ったようですね。

 

これからわかる事は、実母・スキ(旧姓:町田?)が亡くなったのは、ふくばあちゃんが5歳になる前のことで、上の二人もまだ子供だったということです。(兄・用麿が11歳、姉・節が7歳)

 

それで、寺山用之じい様は後添いに平山チカさんを迎えたのではないでしょうか。

だから、ふくばあちゃんは平山チカさんが実母のように育てられたのでしょう。

 

で、台湾でもふくばあちゃんとも一緒に暮らし、前に書いたように寺山の爺様と最後まで添い遂げたんだと思います

ありがとう、チカさん

‥‥にしても、なんで籍を入れなかったんだろう??

先妻・スキさんへの配慮?

  

いずれにしても、ボヤけていた姿が少しだけ鮮明になって来たように感じます

 

 

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【第5話】麻布永坂島津氏のお染様

2019-09-13 18:21:43 | 都見物日記プロローグ

昨日(12日)、新たに分かった事がありました!


『都見物日記』五月二日に東京で「麻布永坂島津氏お染様」のところへ3人で訪ねていくのですが、

ここは佐土原島津家の屋敷だったのですね。

「麻布永坂町」で検索かけて、初めて知りました!

 

その中で、金沢正脩という方のオフィシャルブログを拝読しました。とても参考になります♪

『麻布に開かれた「ジョン・ビショップ孤児院」とイザベラ・バード』というタイトルです。

 ➡️ http://seishyu.blog136.fc2.com/blog-entry-188.html

 

「麻布永坂町」は町名改正による消滅の危機を救った方々があり今に残っていることや、香蘭女学校が佐土原島津家からの借地に建てられたことなど、詳しく紹介されていました。(参考までに、香蘭女学校HPの『香蘭の歩み』

また、世界的な旅行家として『日本奥地紀行』でも有名なイザベラ・バードの名前にも目が止まり、明治24年に発生した濃尾地震による被災がきっかけで開設された「聖ヒルダ孤女院」の資金不足問題に手を差し伸べたのが彼女だった、といったことなども初めて知りましたし、とても勉強になりました。

 

 

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豊玉媛神社(旧今和泉郷社)@ 指宿市岩本

2019-09-10 17:41:31 | 豊玉媛神社

 いつもお読みいただきありがとうございます

今日は『都見物日記』をお休みして、2009年9月18日に今和泉島津家墓地を訪ねた帰りに、カーナビ画面に偶然見つけた指宿市岩本の『豊玉媛神社』で撮った写真でフォトチャンネルを作りました♪

どうぞご覧下さい

豊玉媛神社(旧今和泉郷社)@ 指宿市岩本

 

※ 追記  (2019. 9. 10)

今日、FBフレンドさんとのやり取りから「CoCCoはしむれ」のHPを見てみたら、豊玉媛神社⛩についての項目がありました。(以下、HPより)


『 昭和56年、今和泉島津家の菩提寺である「光台寺」の山門にあったと思われる仁王像が岩本地区の畑から見つかり、長い間、橋牟礼川遺跡公園に仮置きされていましたが、平成19年6月、豊玉媛神社の境内入り口に移設され、およそ140年ぶりに地元に里帰りしました。』

このお陰で仁王像を目にすることが出来たという事ですね。有難い♪


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【第4話】紹介者は、寺師若法師さん

2019-09-06 23:59:38 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

さて、今日は川上イサさんの『都見物日記』について、誰が纏めて誰が公に紹介したのかを改めて記したいと思います。

 

2008年4月10日の「いささん、51歳」で書いていますが、明治23年に書かれた日記を、

二男の橋口精一さんが整理されたものを、丹下幸代(=イサさんの長男・久良さんの娘)さんが『さんぎし』の寺師若法師さんに託されたものなのです。

 

 「さんぎし」とは‥‥薩摩狂句の月刊誌

 ※月刊誌「さんぎし(竹馬)」は昭和32年に創刊され、昭和57年に復刊し、平成19年3月で300号が復刊継続

 

その「さんぎし」に連載された『都見物日記』の、冒頭部分をそのまま紹介します。

 

「 都見物日記(一)   川上いさ(記)

 母の鑑(かがみ)の丹下幸代おばさんといえば人よく知るところ。もう(※)昨年のこと、若法師庵をお訪ね下さつて、赤表紙の和綴ものをお見せになつた。祖母にあたる川上いさ刀自の「都見物日記」である。 」

 

(※)昨年のこと、とありますが、この掲載年月日は記載されていません。

ただ、この第一回の最後、四月二十日の末尾にこう書かれています。

 

「 以上の四日分は一つも省略していない。七十年前、若法師生れる前年の旅日記で興味津々である(若)」

 

この寺師さんのコメントから、昭和35年の掲載ではないかと推測できます。

明治23年=1890年 → 70年後=1960年   若法師さんは明治24年生まれで当時69歳という事ですね。

 

ですから、「母の鑑の丹下幸代おばさん」が持ち込んだのは、昭和34年という事になるかと思います。

 丹下幸代さんについてはこちらにも書いています。→ 「曾祖父が養子となった先は‥‥」(2008.3.18)

 

それにしても、、「母の鑑の〜」とは?当時知られていたという事なのでしょうか??

今となってはご存知の方もいらっしゃらないかもしれませんが‥‥‥、

ご存知の方がありましたら、コメントなどお寄せください

 

 

 おっと

『都見物日記』は「さんぎし」に(一)から(八)まで 掲載され、最終回のみ未掲載となっているそうですが、

ブログ記事のタイトル、ナンバリングを合わせればよかった〜。。

 ……って、時既に遅し、、、まぁいっか

 

 各章に納められてる日記の日付けを以下にまとめて表記しておきます。

 

(一)4月17日 鹿児島出帆(チリン島 山川眺めつつ 〜 19日 讃州多度津、金比羅様参り)〜20日まで

(二)4月21日 淡路島を眺めつつ兵庫着(名越氏の知人・鈴木信弥(※)、来訪 〜 22日 大坂入り)〜24日西京入りまで

       (※「鈴木信弥」という方は、鹿児島へ帰りの直前5月26日にも再登場)

(三)4月25日 西京見物(西京博覧会見物等々)27日 嵐山葉桜見物等の後、近江の湖水、むかで山、勢田の唐橋など眺め柘植へ

       28日 鈴鹿山など感嘆と共に眺め、29日 伊勢参詣 30日 豊橋 5月1日 豊橋より汽車で天竜川、大井川などの鉄橋を渡り東へ移動

(四)5月 1日  東京新橋着 〜 5月4日

(五)5月 5日  〜 10日

(六)5月11日 〜 16日

(七)5月16日(続き)〜 22日

(八)5月23日 〜 27日 美濃丸に乗船 29日(船中)

 

 未掲載分は(八)の続きで桜島らしき絵と共に、いよいよ鹿児島湾(錦江湾)に入り、天保山の前を通り前の浜に着船、端舟(はしけ)にて上陸、出迎えを受け喜ぶ様子や、無事に帰り着き「お君さん」を呼び三味線や地歌を頼んで踊ったり笑ったりして「皆々よろこび嬉しさ おめでたさ おかしきなり実に実にすぐれた初のぼりの新下り妙々」と記されて終わっています。

 

 

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石井手取水堰跡(甲突川)

2019-09-06 12:48:02 | 歴史探索

石井手取水堰跡(甲突川)

 

こんにちは

本日も当ブログをお読み下さって、ありがとうございます

 

さて、7月下旬に投稿した後、8月にはブログをお休みしておりました。

実は身体に変調(手指の震え、息切れ、動悸、体重減少)を来たし、8月19日にかかりつけ医で血液検査してもらった結果、バセドウ病とのことで、長期服薬治療と相成りました。

 

以前、13年前にも同様の症状で「甲状腺機能亢進症」になりましたが、その時は数ヶ月の服薬で治ったのです。

ただ今回はどうなりますか。。長期戦のつもりでじっくりしっかり治したいと思っております。

 

 

自分の身体がそんなことになってるとはまだ知らなかった私、8月1日に元気一杯出かけたのは、

鹿児島市内の甲突川河畔にある「石井手取水堰跡」です。

  

市内から国道3号線沿いに辿ると、梅ヶ渕橋を山手に渡り梅ヶ渕観音を通り過ぎて、しばらく上流に向かって辿ったところにあります。

 

FaceBookで友達になった方が投稿されてたこの史跡の記事を読んで、行ってみたくなったわけです。

事前に画像を見てシミュレーションしている上、以前の勤め先が途中にあったりするので、一度地図を確かめる程度で、すんなり辿り着く事が出来ました

 説明文をどうぞお読み下さいませ。

 

ではまた、次回から『都見物日記』を書いていこうと思います〜♪

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【第3話】和田屋のすみばばと相良酒屋のばば

2019-09-05 16:09:18 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただき、ありがとうございます

今日は『都見物日記』の続きを書こうと思います。

 

 【第1話】でも少し書きましたが、

四月十九日に「和田屋のすみばば、相良酒屋のばば、‥‥云々」とあり、四月二十二日にも同様にこの「ふたりのばば」さまが登場します。

 

四月二十二日

「今日は天気よし。七時過に目覚め 茶のみ 其より飯すぐとしまり 神戸乃停車場へ行き 少し遅くなりしより 二時間程待、九時過十時前 汽車に乗り 十一時過には大坂の増元という宿屋へ付、直に昼飯さし出し候。」

「これより御母上様、轟殿は 三原御母様 おたか様方へ御越しになり 私お留守致し候。」

などとあり、

「此宿は石燈籠(いづろ)和田屋母おすみ殿の知人にて此宿をおしえくれられ候故ここへ参り候也。」

「おすみ殿連れの人数は 上町柳町の相良の母殿、外に下町のばばどの三人 次の間におられ 幸いの事に候」

(中略)

「お留守におすみ殿 私方に参り 二人にて茶など飲みおりし所、外のばばどのたちもここへ参り茶などのみ、色々話などいたし居り候処に 御母様、轟殿 帰り来られ候」

 

「昼過より大坂市中見物に行き掛、私の蝙蝠傘一本買入 一円にて取入。雨ちんと降り出し 急ぎ買いに余り宜敷もなく候得共 詮方なく買入候。」

 ここからが個人的には微笑ましい場面なのですが、

「夕方になり候得ば何か食べに行き度(たき)ゆえ、一寸一膳飯屋のような処へ行き、カシワなどたべ 酒飲み、これも何か話の種にならんとて行き候処 此内も電気燈を明し(設備の意か)暮々(くらぐら)と成りて 折角折角とたべる処に はたはたと明りが付、にわかに明るくなりたるとき 御母上様アラヨーと仰せにて、夫から轟殿が笑い出し それそれでました と申され、脇辺にあまり人がなく幸にて只々三人にて大笑いの事。」

 

要するに、薩摩ことばが出てしまい、周りに人がいなくて良かったね〜って三人で笑い合った、ということですね

 

この日の夜には、三原氏母様と西村時彦様(天囚)とが宿に出向いて来たようです。

「夜に入るとすぐ 内へ帰り候得ば、三原氏母様と西村時彦様(天囚)と此方へお出にて、今晩はぜひぜひ大坂道頓堀の芝居へ御出あれとの事にて、又直ぐと芝居へかけ出し車にて急ぎ行き候得ば、御両人ともにお待ち 色々よき馳走有之候。芝居は三桝大夫と申物にてあわれなる外題に候、何(いづれ)も何も面白き事也、帰りは十二時過し事。」

 

 ところで、和田屋のすみ婆殿はその後、五月二十二日、帰りの大坂泊の日記に再登場します。

 

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平松城跡〜越前(重富)島津家墓地へ(2008. 6.8)

2019-09-05 14:39:30 | 歴史探索

平松城跡〜越前(重富)島津家墓地へ(2008. 6.8)

 続いて ↑↑フォトチャンネル↑↑ を作りましたのでご覧ください。

 前回投稿の平松城跡を離れ、越前島津家の墓地へ案内して頂きました。

  

 

まるで、彼方と此方を繋ぐような石橋を渡って‥‥

  

  

 

 

 

 

 

帰り道、とうもろこし畑を眺めつつ駅へ戻りました。

 

 

 

 

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重富=越前島津家領地(平松城跡)(2008. 6.8訪問)

2019-09-05 00:37:27 | 歴史探索

重富=越前島津家領地(平松城跡)

 

島津義弘はじめ、のちには島津久光も住んだという平松城の跡地です。

‥‥です、が、2008年のこの当時はほとんど初めて聞く話でした〜(^-^;

 ちなみに、こちら↓は連続テレビ小説「おはなはん」の撮影で使われた建物(門?)だそうです。

  

樫山文枝さんの「おはなはん」、私もおぼろげながら覚えています。

  

 

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かめまる館と南薩鉄道跡の橋脚(2008. 6.1)

2019-09-04 23:12:03 | 吉利探訪・せっぺとべなど

2008年6月1日、「かごしま探検の会」で探訪した際に写したものです。

かめまる館と南薩鉄道跡の橋脚

2008年6月1日の散策最後は、吹上の物産館「かめまる館」で、旧・南薩鉄道跡の橋脚を眺めつつ、参加者の皆さんとお昼を食べました。

※南薩鉄道の橋脚についてはこちらをご覧下さい → 鹿児島県観光サイト

食事の後は、猫としばし戯れ、帰路に付きました。

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吉利街道、深固院跡

2019-09-04 22:28:29 | 吉利探訪・せっぺとべなど

2008年6月1日、「かごしま探検の会」で吉利地方を探訪した際に写したものです。

 

吉利街道、深固院跡

深固院跡には石屋真梁和尚の墓があります。

石屋和尚は島津家の菩提寺「福昌寺」を開山した人物です。

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小松帯刀仮屋跡(吉利小学校)〜 清浄山園林寺

2019-09-04 14:37:35 | 吉利探訪・せっぺとべなど

小松帯刀仮屋跡(吉利小学校)〜 清浄山園林寺

 2008年6月1日、「かごしま探検の会」で吉利地方を探訪。

小松帯刀の仮屋跡であった吉利小学校(2018年4月閉校)と、清浄山園林寺を訪ねました。

小松帯刀像がありました。また、小学校によく見られる「二宮金次郎像」もありました。

   

 

   

 

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小松帯刀の墓(園林寺跡)

2019-09-04 14:18:10 | 吉利探訪・せっぺとべなど

小松帯刀の墓(園林寺跡)

 前回の投稿同様、2008年6月1日に訪ねた時のものです。

2008年といえば、大河ドラマ『篤姫』放映の真っ最中でした。

地元の歴史を知るには良い機会でした。

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鬼丸神社 せっぺとべ(2008. 6.1)

2019-09-04 13:54:43 | 吉利探訪・せっぺとべなど

鬼丸神社 せっぺとべ(2008. 6.1)

 2008年6月に訪ねた日置市吉利の年中行事「せっぺとべ」の模様をフォトチャンネルにまとめてみました。

これ以降行けていませんが、いい思い出になっています。

この他、小松帯刀の御仮屋跡である吉利小学校や、小松帯刀の墓なども訪ねましたので、別途にフォトチャンネルにしてみようと思っています。

どうぞお楽しみくださいませ〜♪

 「せっぺとべ 」とは「精一杯跳べ」の意味。

鹿児島県観光サイトより→  『せっぺとべ 』

 

※なお、投稿当初間違えて「黒丸神社」 となっておりました。正しくは「鬼丸神社」ですので訂正いたしました。

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