左源太の墓が、移設されたのかそれとも無縁墓として合葬されてしまったのか
確認出来ないままではどうにも収まらない私は、
何とか手がかりがないものかと、無い知恵を絞る日々でした。
3/13(木)
鹿児島市役所へ行き、福昌寺跡近くにある発照寺(ほっしょうじ)に
加治木島津家の墓とその他に少しばかり墓が残っていると聞き訪ねるが、
本当に僅かばかりで、何の手がかりも見つからなかった。
ほとんどは薮に埋もれ崩れた墓石がそのままになっていた。
やはり、左源太の墓はもう存在しないのだろうか?
永井氏が昭和24年に編纂された「高崎くづれ 大島遠島録」の
「名越左源太翁小伝」にかかれていた言葉が気に懸かる。
『…(前略)… 墓は現に鼓川町長谷(註:長谷場)墓地にある。
文化五年に起つた近思録崩(秩父騒動)で有名な秩父太郎一家の墓も
相並んで其東方にある。此の墓地は遠からず全部他に移転すべき運命に
あるそうだが、かかる由緒墓は何らかの方法で保存さるるであろう。』
* 前のページより続き
我が家の祖先のことをいろいろ調べ、家系・繋がりなどをまとめているうちに、
名越左源太の墓を未だに拝めていないのは申し訳ないこと、是非とも探し出して
お参りしなくては、という想いが募っていました。
左源太の子供・子孫がどれだけ残っているのか、お参りをするひとが果たして
いるのだろうか?と考えると、おそらく鹿児島に残っているのは
ウチと内村さんと、おそらくイサさんの子孫の方くらいではないかと思われるのでした。
3/6(木)
タンタドの名越左源太別邸跡へ。
これまでにも2~3度探したのだが、今回ようやく初めて訪ね当たる。
屋敷跡地前の坂道入り口に表示板があるが、車で行くと少々見つけにくい感あり。
3/11(火)
福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。
* ネットで探して移設のことを知ったのは↓このHPでした。
名越左源太公の墓
墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。
昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。
*ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。
この日はこのあと県立図書館へ行き、永井亀彦氏の
「高崎崩の志士 名越左源太翁
(嘉永年間著わされた郷土誌料 南島雑話の解説)」と
「高崎くづれ 大島遠島録 (名越左源太翁日記)」の
2冊を借りて帰った。
私は新聞で連載されていた「南島雑話の世界」と後に出版された書籍以外、
この時初めて見にしたが、父は台湾で暮らしていた頃に
左源太の描いた絵と解説の原稿を目にしている。
左源太の次男・轟は父の祖父。台湾南部で大正11年2月に亡くなっている。
父は大正15年生まれだから、轟さんとはお目文字叶わなかったわけですが、
左源太の描いたものは父親(轟の長男)から見せてもらったそうです。
その後もまだまだ史跡巡りは続きます。
一度ここで現在までの経緯を整理してみようと思います。
1/23(水)
若宮神社~今和泉島津家屋敷跡~大龍寺跡(現・大竜小学校)
~上町の名越家屋敷跡~春日神社 途中、森有礼の生誕地跡碑など
1/27(日)
鶴丸城跡(現・鹿児島県歴史史料センター黎明館)散策
1/29(火)
小松帯刀別邸跡を見に車で出かけ、ついでに昔住んでいた地域を散策
2/2(土)
黎明館「島津氏一門の雅と由緒― 重富(越前)島津家資料展 ―」
2/15(金)
1年半ぶりに、指宿岩本の今和泉島津家墓地へ。
2/18(月)
磯・仙巌園へ。庭園散策。尚古集成館も見学。
2/29(金)
福昌寺跡(長谷場墓地?)で名越左源太の墓を探すも見つからず。。
* 後に、移転されたらしいという情報をネットで目にする。
第21代藩主吉貴夫人で第22代藩主継豊の実母である、
お須磨(名越家の女性)の墓に初めてお参りした。
* 3月もまだまだ続きます。
私が、後追いで調べ始めたのが今年に入ってから。
大河ドラマで『篤姫』が始まるのを機会に
島津家との関わりや、我が家の家系の事をもっと把握しておきたいと
郷土史にも疎かった私は、まず手始めに家にある資料を読む事にしたのでした。
そんな折、ちょうど1月6日から1月12日まで
鹿児島市の篤姫館で開催されていた「篤姫展」を見に行ったのが
1月の10日。
一通り展示物を見てまわり、出口に向かうとそこに
篤姫が暮らしていた頃の鹿児島城下の絵地図があり、
ウチの先祖の名前が書かれた屋敷跡の場所を発見したのです。
それで、俄然興味を持ったのでした。
それからはほぼ毎週、郷土の史跡巡りの日々で
まずは一度も行った事の無かった南洲墓地・南州神社へ。
『郷土史探訪の日々<1. 西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)』
『郷土史探訪の日々<2. 南洲墓地~南洲神社(mixiアルバムより)』
「ほ~ぅ、これが南洲墓地かぁ。」とぐるぐる歩き廻り、
ウチと関わりのあるお墓があるかと探してみたり、
歴史上名の知れた方々のお墓を拝見して回ったりしました。
この時点では、西郷南洲翁についても明治維新に関わる「郷土の偉人さん」で
西南の役の主役、城山で自害した人、くらいの認識しかありませんでした。
西郷南洲顕彰館も初めて行きました。
家に帰れば帰ったで、母の残した資料から興味のあるものを引っ張り出しては
あれこれと読みあさり、『「さつま」歴史人名集』で自分ちの名前の由来や
島津家歴代の名前や繋がりを調べまくり、脳内の日頃と違う分野を使い過ぎたために
頭痛をおこしたりしてぐったり疲れてしまうような事もありました。(笑)
ちなみに、現在の姓は今和泉島津家の家臣の家の名。
ドラマ『篤姫』にも出てきました。
母は以前から「今和泉島津の家来だった家なんだよ。」と言っていたので(*↓に☆☆☆《補足》☆☆☆あり)
「はぁ~、お母さんの言ってた事はこれだったのかぁー」と
ちょっとした感動を覚えました。
まだ大河ドラマの話題も無い頃、2年程前に今和泉島津家の領地だった指宿岩本にあるお墓も見に行き、
忠剛・忠冬両領主の墓にある献燈に名前が残っているのを目にしてはいましたが、やはりこういう形で名前が出てくると、また違った感慨があるものです。
実は、この燈籠に名前を見つけたのは、
随分前にこのお墓を見に行った母だったのです。
母の残したメモや集めた資料を眺めては関連づけて読むのですが、
めぼしいところは既に目を通した跡があり、
赤鉛筆で傍線を引いてあったりします。
もう、どこまで先を行っているのか、「もうコレはチェック済みなのか~!」
「これもすでに知っていたのねー!」などと父と二人驚くばかりで
なかなか追いつけそうになく、ただただ脱帽です。
☆☆☆《補足》☆☆☆2017年3月9日
(*)我が家が「今和泉島津家の家来だった家」というのはちょっと違っていて、同じ姓ではあっても繋がりまでは未だに分かっていません。
この件は、当時の母にはまだ解明できていなかった懸案でした。
そのため、父をお供に指宿市役所に戸籍を調べに行ったりしたようです。
なぜそう思い込んでいたのかというと、指宿岩本の今和泉島津家の墓地で見つけた献灯石に刻まれていた名前は「栗川用邦」「栗川用郡」で、
曾祖父・轟が妻ツタ(旧姓:三原)と長女・長男とを従え養子に入った先の養父の名前が「栗川用行」なのです。
(これについては2016年5月25日の「我が家のファミリーヒストリーを思う」にも書きました。)
また、上記本文にもあるように『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄/高城書房出版)で見てみると、
「薩州島津仲正徳年間、二男以下の苗字栗川氏、諱字は嫡男 久、二男以下は 用 と命名するよう命ぜられた。」とありました。
「栗川用次 島津帯刀久元二男、今和泉島津家臣。」とも書かれています。
それですっかり「間違いない!」と思ったのかもしれません。
私が名越左源太の名前を初めて聞いたのは、20年程前の事でしょうか、
母が先祖の事をいろいろ調べ始めた頃だったと思います。
「お父さんのひいおじいさんは『南島雑話』を書いた人で
名越左源太っていうんだよ。」とか
「ウチは元々は北条家の流れ(*)で、
島津継豊の母親は名越家の人で(「これまでの経緯-1」)
もとは江戸高輪のお豆腐屋さんの娘だったんだって。」などと話すのですが、
「…なごや…さげんた?……なんとうざつわ?」と、当時は全くワケが解らず、
ただ、「ふ~ん…。でもそれが、今のウチとどう関係あるの?」といった感じでした。
(*後に、北条家の流れを汲むのは別の名越氏であることが判明しました)
↓
下部に☆☆☆《補足》☆☆☆
母はその頃、自分たちのお墓を建てようとしていて、
ちょうど父方の(私から見た)祖父の50年祭も近い事もあったりで
銘碑に刻む先祖の名前や没年・系譜を調べたのが始まりなのではないかと、
9年前になくなった母の遺品を整理する中で思い至ったのでした。
その中で、父方の祖先に名越左源太と言う郷土史にも名の知れた人物がいて、
更にその祖先を調べると島津の殿様に嫁いだ女性の兄が
島津家に仕えるようになったのがそもそもの始まりだとわかり、
(父は左源太については自分の先祖の事なので当然知っていたのですが、
極々身内のこと故にそれまで別段話をすることも無かったんじゃないかと思いますが、)
そこから今度は島津家の事を調べ始めたらしいことが
残された数々の資料から推測されます。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
…と、ここまで書いたところで
念のため父に訊いてみたら、それより以前に母は既に知っていたそうです。(^^;)
母はもともと歴史が好きだったらしい事も初めて知りました。あはは。。
☆☆☆《補足》☆☆☆2017年3月9日
(*)この「北条家」かどうかに関しては、
時成の子孫の内村氏からのお話があり、(*)内の文章を書き足したのですが、
左源太の家も北条家の流れを継いでいるのではないか、との話もあります。
ちなみに、家紋は三笠(開いた三本傘)。
曾祖父・轟の兄、名越時成の変名「三笠政之介」の三笠はこの家紋から付けたとのことです。
きょうの南日本新聞読んでたら、大円寺にもいろいろあって
杉並区の永福町にある曹洞宗のお寺、泉谷山大円寺が
島津家の菩提寺であるらしいことが書かれていました。
*桐野作人さんの「さつま人国誌」No.54
『島津ゆかりの大円寺』
記事によると、当時鹿児島にあった島津家の菩提寺の
福昌寺と同じ宗派という事。
前の日記にあった大円寺のリンク先を見てみると、確かに宗派が違い、
天台宗延暦寺派で「松林山大円寺」というらしい。
で、明治になり薩摩藩がなくなると、
島津家も神道に宗旨替えをしたそうです。
左源太の長女のイサさんが大円寺に行ったのは明治23年。
大円寺は現在地に移転する前で、
芝・伊皿子(イサラゴ)町(現・港区三田)にあった頃に
名越家の先祖の墓をお参りした事になるようです。
歴史をたどる事はなかなか骨の折れる事です。
地道な調査・検証が必要なのですね、やはり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*泉谷山大円寺については
↑このページの下から3番目にも書いてあります。
こんなのが出てきた。
島津家関連スレッド
2006年のものらしい。
歴史家への道は遠い。。(←いや、そんなん全然目指してないからw!)
「玄孫」という言葉は知っていても、その玄孫から見た左源太の事を
一体、何と呼ぶのか?
恥ずかしながら、つい最近まで知りませんでした。
「高祖父」って言うんですね。
しかし、昔は大家族のお宅などは3代~4代に渡って暮らし
世帯が別でも、節目節目に親族が集まったりしたのでしょうけど、
今ではそういう暮らしぶりは少なくなっていて、
なかなか「高祖父母」と呼ぶ機会も無いんじゃないか知らん?
だから呼び方を知らなくても無理は無いですよね。
な~んて自己弁護してみる。(^^;)
今日はとてもいいお天気でした。
気付けばこの3月で
mixiも再登録して1年。
ちょっと違った使い方が出来ないものかと工夫してきたけど、
やっぱり別にブログを作った方がいいと思い至り
とうとう決行したのでした。
それぞれ分野を違えて使っていこうと思っています。
1冊目、3月20日に立ち上げました。
『ゆきのおと Yuki's Note ♪』
bizaさん、どうやってブログ見つけてくれたんだろう??
試しに「ゆきのおと」で検索しても
最初の頃はなかなかヒットしなかったけど
その後「名越左源太」を足して検索したらちゃんと出てきました。
2冊目、これは4月2日だったかな?
『Yuki's Note - 2』
試しに1冊目と同じ無料ブログサービスでやってみたら、
もう1冊出来ました。
ログインがいちいち面倒だけど、
気分を切り替えるのにいいかも、ノートを取り替える感じで。
3冊目、2冊目と同じ日、4月に入ってから作ったもの。
『ゆきのおと♪ Part3』
コレは気楽なメモとして。
わざわざ公開するようなものでもないけど
このテンプレートを使いたかっただけ(笑)
コメントもらえたら、嬉しいです。
きのう、川上いささんの「都見物日記」の事を書きましたが、
天保11年(1840年)1月生まれのいささんは
この時51歳、満で50歳になって間もなくの江戸上りだったのですね。
さぞかし好奇心旺盛な方だったんだろうなと思います。
実は母が亡くなってから、この7月で9年になるのですが、
母が残した書き付けや先祖に関する史料など、少しずつ整理してきて
最近になってようやく片付きそうなのです。
(長い。。いや、ものが多過ぎて‥‥。)
そんな中、いささんの日記の最後の部分のコピー用紙が
先月の末にひょこっと出てきました。
それまでは、この日記を紹介している「若法師」って誰なのか、
何に掲載されていたのかがわからないまま、
たまたま先月県立図書館へ行ったときに、司書の方から
「'若法師'と言えば、『さんぎし』という地元の文芸誌にいろいろ書いてらっしゃる
寺師若法師という方じゃないでしょうか。随分前の方ですけど。」
と聞いたばかりでした。
昨日アップした時点では、5月22日までの日記しか読んでなかったので
その点がハッキリしなかったのですが、
この最後の1枚にしっかり載っていました。
やはり、寺師若法師さんが『さんぎし』に掲載していたもののようです。
そしてどういういきさつかはわかりませんが、最後の部分は「未完の項」であったと
書いてあり、いさ日記原本から猶野耕一郎・芳 即正両氏のご協力を頂き、
いさの孫(川上某氏)が完結し、関係者と子孫の数名に贈った、とありました。
(日付は「平成6年3月27日」)
大河ドラマ「篤姫」、前々回は船旅の様子が見られましたが、
左源太の長女、いささんが書いた「都見物日記」を思い出していました。
といっても何だかわからないかも知れませんね。^^;
国会開設の年(明治23年)、全国から大勢の人が東京見物に出かけたそうで、
川上家に嫁いだ名越左源太の長女、いささんも、この年の4月に
お姑さんと弟の轟さんの3人連れでお江戸上りをされました。
(↑これが、私の曾祖父です。^^ ♪)
その時の旅日記をいささんの二男の方が整理され、
のちに若法師さん(おそらく寺師若法師さんか?)が
雑誌(おそらく「さんぎし」か?)に連載されたものを
左源太の子孫である内村さんからコピーで頂いていました。
今年に入って、ようやくじっくりと読む事ができたのですが、
船旅の大変さを垣間見ることが出来、そこから、
篤姫さんの船旅の様子とシンクロした、というワケです。
明治23年(=1890年、というと、今から118年前のことなのですね~)、
4月17日午前中に船に乗り付け、2時前に出帆。
チリン島、山川を眺め、四国は金比羅参詣、それから大坂、西京、
そして東京まで旅の記録が、日々楽しい筆致で綴られています。
マメな日記は父親譲りなんですかねぇ?(笑)
それとも、日々日記を書き付ける事が当時は当たり前なのか知らん?
日記によると、初日、「昼飯はおいしく夕飯はトントトントいけず残念に候」
と書かれており
「夕方より少々気分悪敷候得共吐き方これなく」済んだようですが、
翌18日は朝食は「食べる事はいかず、矢張矢張ごろごろ休み」、
九時過初めて用足しに出、顔を洗い、お茶を飲んだら少しは気分宜しく、
お昼はお粥を食べた、等々、船旅での様子が詳しく書かれていました。
川上のお姑様も「少し昨夜御はき遊ばされ御気分あしく、
今日はよろしく私と同敷(おなじく)昼飯より御召し上りなされ、‥‥」と
船旅は難儀なようでしたが、
3日目の19日には、雨が降り天気も船から見る景色も悪いものの、
「朝より飯食べ皆々元気にて気分宜敷実に嬉敷事。
一時頃には昼飯食べ程無く讃岐近くに砂の瀬に乗りかかり、云々」
と、早速立ち寄り先の事を綴り始めます。
ここから途中伊勢参詣も果たし、泊まった宿屋の名前や、
車や汽車の乗り継ぎも書き付けつつ東京滞在は5月1日から18日まで、
横浜から神戸・大坂に数日泊まり、
5月下旬、鹿児島に帰り着くまで日記は続きます。
「万愚節」とも言うらしい。
毎年4月1日になると、何か気の利いた
憎めないウソは無いかなーと考えてはみるものの
結局思いつかずに過ぎてしまう。
まぁ、西洋の慣習ですからね。
無理に取り入れる必要も無いわけで。
で、そもそも「えいぷりるふーる」とは何なのか、と
電子辞書を引いてみた。
広辞苑 第五版/岩波書店 によると、
「エープリルフール」【April fool】
(う~ん、、どうも「エー」と延ばす表記が気持ち悪い。。)
4月1日の午前中に軽いうそをついて人をかついでも許されるという風習。
また、かつがれた人。もと欧米の習慣。
四月馬鹿。万愚節〈ばんぐせつ〉〈All Fool's Day〉。
これだけだとよくわからないので、
英和辞典(ジーニアス英和大辞典/大修館書店)を見てみた
April Fool's [Fools'] Day
(1)[フランスのLouis 14世が1564年に新暦に代えたが
旧暦では4月1日が元旦であった. この旧暦に固執した人を
April fool' と言ったことから]エイプリル=フール, 万愚節
《4月1日 ; All Fools' Day ともいう;かつぐのは正午まで》.
(2)《英俗》道具《◆tools の押韻俗語》.
>この旧暦に固執した人をApril fool' と言った
なるほど~!
これまで意味を調べたことが無かったけどこれで納得。
で、あと10分足らずで今年の「えいぷりるふーる」も
何事も無く終わるわけですね。(笑)