3月になりましたね
いつも読みいただき、ありがとうございます
さて、最近はFBでの投稿・活動が多いのですが、先日、鹿児島神宮の宝物の刀が見つかったというニュースから、刀剣のことを話題にしていたのです。
それに関連して、日置市の青劔神社の刀は「三条小鍛冶宗近」の作だという話も知りました。
刀剣には詳しくないのですが、たまたま刀剣・刀工の特集が載っている、父が以前購入していた雑誌を目にしたばかりだったので、それをパラパラめくって読んでいくうちに、刀はいつ頃から盛んに作られ出したのかとか、どのように変遷していったのかとかも気になったり、刀だけではなく、薙刀や槍はどうなのか?など興味が広がりました。
そこから、そういえば左源太じい様についての説明書きにも「槍術」とあったなぁ、と、
昨日は左源太じい様の槍術の流派を確認しようと、『鹿児島県史料 名越時敏史料』の 一巻 〜 三巻 を調べていたのです。
槍術は「鏡智流」という流派だったようです(梅田九之丞に師事)
安藤 保 氏の「解題」を読むと、「名越の得意とする武術は弓術」だそうで、弓術は日置流(平田平七郎に師事)との事
で、その「解題」を改めて読んでいて気が付きました
「三男・吉次郎、四男・徳熊」についても左源太じい様が素読など自ら指導していたことなども、安藤氏によって丁寧にきちんと書かれているではないですか
これまでは拾い読みばかりして名前の記述を見つけては喜んでいたことを反省した次第
言い訳になりますが、手引きとなる冊子「黎明館調査研究報告」があったため、そちら頼みで、各巻の解題をじっくり読んでいなかったのと、気になる「身内」に関することにばかり着目していたので、気付かなかったのです
そんなこんなで、『鹿児島県史料 名越時敏史料』各巻のインデックス代わりのノートを作ってみたのです。
まだ第一巻から第四巻までですが、
(一)
・p.3~70 文久元年(1861)九月〜十二月
・p.71~317 文久二年戌(1862)正月〜十二月
・p.318~467 文久三年 癸亥(1862)正月〜十二月
(二)
・p.1~71 文久四年 甲子(1864)正月〜七月
・p.72~169 元治元年 甲子(1864)八月〜十二月
・p.170~244 元治二年 乙丑(1865)正月〜七月
・p.245~302 慶応元年 乙丑(1865)八月〜十二月
・p.303~358 慶応二年 丙寅(1866)二月〜七月 嫡男・平馬は英国へ留学中
・
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といった感じ
で、第三巻に収録されている「常不止集(とことわしゅう)」は日記と書写が入り混じっていて、初め目を通した時にはいささか戸惑いました。で、こちらはほぼそれっきり‥‥
ただ、今回「解題」を読んでいて気が付いたのですが、この「常不止集」は、左源太じい様がまだ23歳〜26歳(数え年)の若い頃の日記で、「名越篤烈」と称していた頃のものなのですね。
(第三巻 → 天保十二年二月〜同十三年八月、第四巻 → 天保十三年九月〜天保十五(弘化元)年十二月)
☆ 参考までに、天保十二〜十三年は1841〜1842年、天保十五年(弘化元年)は1844年
左源太は西暦だと文政二年十二月(1820年初め)の生まれだから実際には満21〜24歳かな?(2022.7.23 追記)
そして「篤烈はこの時すでに結婚しており、長女の藤(天保十三年四月には三歳)がいる。」とありました。
「お藤」は曽祖父の長姉で、のちに『都見物日記』を書くことになる川上いさ様
左源太じい様も先祖のことや島津氏の歴史を勉強するのにひたすら書写をしていたことを改めて知ったのだけど、「‥‥私も同じことしてるような‥‥。」と思わず笑ってしまいました〜
左源太じい様もその父親も、更に2代上まで町田家から養子入りしているので、左源太じい様も名越氏の先祖や島津吉貴、継豊親子などのことも勉強していたのだろうな〜と思います。→『鹿児島県史料 名越時敏史料 三』に収録の「常不止集(とことわしゅう)」参照